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4.quattro

quattro-5

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「どうぞ。デカフェなので、安心して飲んでください」

 食事も終わり、一息ついてもらおうと淹れたコーヒー。時間はもう十時前になっていて、私はデカフェ……所謂カフェインレスを選んだ。それをリビングある小さなソファに座る薫さんの前に置いた。

「ありがとう。手間をかけさせてしまったね」
「そんなことないです。ドリップバッグですし……」

 こうしていると、初めて薫さんに会った日を思い出す。こんなごく普通の家の中ではなかったし、ソファだってこんな安物ではなかった。けれど、薫さんの醸し出す佇まいの美しさは変わらない。今こうしていても、写真でも眺めているような気持ちになる。
 でも、一つ違うことがあった。

「亜夜も座って」

 そう促すその顔は、あのとき冷たく思えた顔とは違う。物柔らかに私に微笑みかけてくれていた。

「その……」

 この狭い場所に並ぶのかと思うと戸惑いを隠せない。いまさらのように気恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。そんな私を見て、薫さんは笑みを浮かべたまま腰を上げると、私の腕を引いた。

「いいから。おいで?」
「……はい」

 薫さんの隣にストンと腰を下ろすと、風香となら余裕のあるソファも隙間がなくなる。ほんのりと伝わってくる熱を感じて、身を小さくしていた。

「では、いただこう」

 薫さんはカップを口元へ運んでいる。それを見届けると自分もカップを持ち上げた。

 うちの店で出しているデカフェ。豆の風味を損なわないようにカフェインを抽出したものだ。
 風香を妊娠中はカフェインが気になり、コーヒーはティスティング程度しか飲まなかった。でも出産後、やっぱり飲みたくなることがあり、家にストックしたのはこのコーヒーだった。

「デカフェとは思えないほど風味がいい。優しい味だ」

 唸るように呟くその声は、自分が褒められたようにとても嬉しかった。

「そうなんです。こんな時間でも安心して飲めて、ホッとする味なんです」

 顔を綻ばせながら隣を見上げると、薫さんは目を細めていた。

「亜夜は、相変わらずコーヒーのこととなると熱くなる」

 優しく響く低い声。元々表情の動きは少ない人だったはずだ。なのに、今はその感情を心のままに表現していた。一目で何を思っているのか勘付いてしまうほどの甘い表情に、私の頰は火照っていた。

「……す……みません」

 つい謝ると、薫さんはカップを置き両手で私の頬を包み込んだ。

「褒めているんだよ。誇りに思うといい。君はエドさえも唸らせた。そんな人間は、そうそういないのだから」
 
 その長い指がつうっと頬を撫でる。その仕草に背中が粟立つ。ぞわりと駆け上がる感覚は嫌なものではない。その感覚に押し流されてはいけない。そう思うのに……。

「……そんな顔をしないでくれ」

 苦笑いしながら薫さんは言う。けれどそう言いながらも撫でる指は止めていない。私の反応を楽しんでいるのかと勘繰ってしまう。

「薫さんが……させてるんです」

 唇を尖らすように答えると、薫さんからフフッと息が漏れた。

「困ったね。そばにいられるだけで充分だと思っていたのに」

 薫さんは自分に言い聞かせるように呟くとそっと手を離す。その温もりが遠ざかる前に、その手を取った。

「私も……。思ってました。会えるだけで充分だって。でも……。自分は欲深いんだって思い知りました。もっと触れて欲しい。もっと触れていたいって思ってしまうんですから」

 もう隠しておくことなどできない自分の気持ち。それを打ち明けると、薫さんは驚いたように瞳を揺らしていた。彼の顔がゆっくり近づき、コツンと額と額がぶつかる。

「……参ったよ。そんなことを言われたら離れられない」
「あっ、あのっ。薫さ……」

 表情の見えないその顔に呼びかけようとすると、リップ音を立てて額に口付けされる。

「どうしたんだい?」

 熱に浮かされたようなフワフワとした感覚は、現実感などまるでなく、まだ夢の中を彷徨っているようだ。けれど、繋いだ手とまだ触れている唇の感触が、自分以外の熱を伝えてくる。

「流されなくていい」

 ドクドクと脈打つ自分の鼓動を感じ押し黙っていると、諭すような声が聞こえた。

「あのときは……流されたのかも知れません。でも、後悔はしてません」

 あのローマでの夜、確かに流されていたのかも知れない。けれど、誰でもよかったわけじゃない。薫さんだから、その人となりに触れたからこそ応じたのだ。

「薫さんは……後悔しませんでしたか?」

 私たちはまだ、心の内を全部曝け出してはいない。冷静になれば、また別の感情も湧いてくるかも知れない。そう考えると怖い。けれど聞いておきたかった。

「……したよ。今でも。後悔ばかりだ」

 薫さんは重々しい口調で言葉を紡ぐ。けれど真っ直ぐに私を見ていた。

「君を離してしまったこと。そばで支えてこられなかったこと。風香の成長を一緒に歓びあえなかったこと。どれも後悔することばかりだ」
「一夜を共にしたことは? 後悔して……ないんですか?」
 
 それに彼は、先に態度で示した。頭から引き寄せられその広い胸に閉じ込められると、その腕に力がこもった。

「するわけないだろう? 言ったじゃないか。愛していると」
 
 一夜の夢じゃない。今、こうしているのは幸せな現実。だから私もそれに答える。

「私も……愛しています」

 顔を上げると視線が絡む。どちらともなくゆっくりと、私たちは唇を重ねていた。
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