想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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4.quattro

quattro-3

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「うちで話をしませんか? すぐそこなんです」

 その場で立ち尽くしていた薫さんに声をかけると、少し安堵した表情を見せる。彼は頷くと、先に歩きだした私のあとに続いた。

「狭い……ですけど、どうぞ」

 黙ったまま家まで辿り着き、玄関を開けると薫さんを促す。
 最初は少し無理をして借りた1LDK。けれど今となっては、風香が生まれたときに引っ越しすることにならなくて正解だった。玄関を入るとすぐにダイニングがある。散らかっているわけではないけれど、ところどころ風香の玩具が落ちていて生活感で溢れていた。

「上着、脱いで下さい。汚れを拭きますから」

 背中越しに気配を感じながら、淡々とした口調で切り出す。そのままタオルを取りに行こうと足を踏み出すと、「待ってくれ」とその手を取られた。

「やめて……ください……」

 薫さんは私の手を握ったまま、祈るようにそこにひざまずいていた。

「許して欲しいとは言いません。ただ……謝らせて欲しい」

 かしづくように項垂れたその手は心なしか震えていて、その手を引くことも忘れ呆然とその姿を見下ろしていた。

「謝って……くださらなくても……いいです……」

 喉の奥に張り付いた言葉をなんとか口にする。唇は震え、それに合わせて私の声も震えている。胸がギュッと締め付けられて、息もできないほど苦しかった。

「謝ることも、許してもらえないのも、わかっている。憎まれていても……仕方がないことをしたのだから……」

 くぐもった薫さんの声も、同じように震えていた。そして、その広い肩も。

(こんなことを、望んでいたわけじゃない……)

 薫さんの言葉を否定するように頭を振る。
 風香を産んだことを一度たりとも後悔していない。こんなにも愛おしい存在を授けてくれたことに、感謝することはあっても。

「違う……。違います! 薫さんを憎んだことなどありません!」

 悲鳴のように叫ぶと、薫さんは肩をビクリと揺らす。そして、握った手に力が入った。
 今、薫さんは何を思っているのだろう。少なくとも、何も知らせず風香を生んだことを責めるつもりはないはずだ。そう願いたい。
 
(風香が……幸せだと思える道……)

 井上さんが言ったその言葉を、不意に思いだした。
 ただ一つ後悔するとすれば、それは風香を父親に会わせてあげられないことだった。でもそれは自分の勝手な都合だ。大きくなった風香に、貴女は望まれて生まれてきたんだと、父親からも言ってもらいたい。それは叶わない願いだと思っていた。

「顔を……上げてください」

 その場にしゃがむと、その顔が緩やかに上がる。そこにそっと触れるとローマでの夜を想い出す。あのとき拭ったのは唇についた泡。そして今拭うのは、頰を伝う一筋の涙。

「薫……さん……」

 その涙に誘われるように、瞳からも雫が零れ落ちていく。困惑したように眉を下げた彼は、恐る恐る私の涙を拭った。

「亜夜。本当にすまなかった。何度謝っても許されることではないが……それでも謝らせてくれ」

 涙の跡が残る美しい顔は哀しげに歪んでいた。その顔を見つめたまま、首を振り返す。

「謝らなきゃいけないのは……私のほうです。薫さんに父親としての権利も与えず、なにより風香に、その存在を教えないでおこうって……考えてましたから」
「そう思わせてしまったのは、私の責任だ」

 優しく頰を撫でる薫さんに安らかな気持ちになっていく。それは薫さんも同じだったのだろうか。落ち着きを取り戻した表情で私を見つめていた。

(このまま……この腕に飛び込んでしまいたい……)

 けれど私たちの間には、さまざまな障壁が存在している。それを見ないふりすることはできない。

「私は……」

 そう切り出すと顔を背けた。これを言葉にする決心が鈍りそうだったから。

「薫さんの邪魔はしたくないんです。貴方には婚約者もいる。それに私とは住む世界も違う。私たちの存在が、これからの未来を妨げるようなことが……あってはいけないんです」

 今まで重くのしかかっていた本当の婚約者の存在。私は単なる身代わりだ。きっと、とうの昔に結婚して幸せに暮らしているはず。今まで何度もそう言い聞かせてきた。
 薫さんから、大きく吐き出す息遣いが聞こえる。現実を思い出し、我に返っているのかも知れない。私はギュッと手を握り締めた。

「婚約者は……いない……」

 ポツリ、と小さく声が聞こえた。

「でも……。この前一緒にいらっしゃったじゃないですか」

 『お嬢様』と呼ぶに相応しい、気遣いのできる品のある女性。その彼女の姿を思い出す。

「確かに、彼女は婚約者……でした。今は違います。もう一年以上前に解消しています」
「そんな! 私のせいで……」

 驚いて顔を上げた私に向かい、薫さんはゆっくりと首を振った。

「違います。彼女は、自身の幸せのためにそうしたんです」

 私に向けられた温かく穏やかな視線は、ローマでのパーティーを思い出す。自分が本当の婚約者だと、錯覚してしまいそうだったあの日の彼を。
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