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4.quattro
quattro-2
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帰宅途中、散歩代わりに公園の中をゆっくり散策していた。花壇には、少し前はまだ蕾だった紫陽花が、すっかり美しい花を開かせている。
「見て、ふう。綺麗だね」
抱っこひもに入る風香に見せるように体を傾けると、それが楽しいのか、キャッキャと声をあげ喜んでいた。
「もうそろそろ日傘も必要かなぁ……」
春だった日差しはだんだんと夏へ向かっている。夕方のこの時間、まだそれほどきつくはない日差しも、そのうち強いものに変わるだろう。
(そのうち遊んで帰るって、駄々を捏ねたりするのかな?)
遠くに見える遊具で遊ぶ親子の姿に足を止め、少し先の未来を想像する。自分の胸に収まる風香も、あっという間にここから飛び出して自分の足で歩き、走り出すようになるのだと思うと、少しだけ寂しい。
しばらく遠くを見つめた後、また歩き出す。不意に後ろからこちらに向かってくる足音が聞こえた。この広い公園は、朝も夕方もランニングをする人が多く、気にも留めなかった。
「亜夜っ!」
反射的に肩を揺らし、足を止める。
(そんなはず……)
記憶の中のこの声が、こんなにも余裕もない声を出すなんて想像もできない。足を動かせず立ち止まった私に、砂を蹴る足音が近づくと、その気配は少し後ろで止まった。見なくても、走っていたことが分かる荒い息遣い。そこから絞り出すような声が聞こえてきた。
「亜夜……。やっと……見つけた……」
艶やかな低い声は何一つ変わっていない。切なげに私を呼ぶ表情を思い出し、胸がギュッとなった。けれど私は、風香を守るように抱えると振り返ることなく言い放った。
「帰ってください」
「亜夜。言い訳はしない。だが、話を聞いて欲しい」
背を向けたままの私に、彼が一歩近づいた気配がし、それを振り払うように振り返った。
目に飛び込んできたその姿は、らしくないほど憔悴していた。整えられているはずの黒髪は乱れ、額に無造作に垂れ下がっている。着ている濃紺のスーツも、ところどころ砂埃で白く汚れていた。そして、その美しい顔には苦悶の色が浮かんでいた。
「井上さんに聞いたんですか? 言わないって……。信じてたのに!」
泣きそうになりながら声を荒げると、代わりに泣き出したのは風香だった。
「ごめん、ふう。びっくりしたよね」
宥めるように揺すり、抱っこひもの背当て越しに背中をトントンと叩く。私が突然大きな声を出したのだから、驚いても仕方がない。
「その子は……」
しばらく呆然とした表情で私たちを見ていた薫さんは、小さく呟くとまたこちらに一歩歩みを寄せる。
「来ないでください」
風香を抱え後退りながら、はっきりと拒絶する。本当はそんなことしたくない。けれど、こうするしかない。風香の顔を見せないように体を反らしながら、まだ泣いている彼女をあやす。心の内が伝わるのか、風香は火がついたように泣き叫んでいた。
「亜夜っ! 大丈夫⁈ なんですか? 警察呼びますよ?」
突然そんな声とともに、自分とそう変わらない大きさの背中が現れた。威嚇するように、薫さんの前に立ちはだかったのは真砂子だった。きっと怖かったはずだ。触れた肩は震えていた。
「違う……。違うの、真砂子……」
「えっ?」
真砂子は驚いたようにそのまま顔だけ振り返り、そしてまた前を向いて相手の顔を見つめた。
「あなた……。まさか……」
真砂子なら、それが誰なのかすぐに分かるだろう。生まれたときから風香を見ていたのだから。そして改めて、風香はこんなにも父に似ていたのかと実感する。
「……驚かせてすみません。私は穂積といいます。亜夜さんと……どうしても話がしたいんです」
真砂子の向こう側から、焦っているような薫さんの声がする。自分の知る、落ち着いた穏やかな口調とは全く違っていて、それだけで切羽詰まっているのが伝わってきた。
緊迫した空気のなか、しばらく無言だった真砂子は、突然クルリと体を翻した。
「亜夜。ふう、預かる」
「えっ?」
「いいから! 後ろ外すよ?」
戸惑っている私をよそに、背中に回った真砂子は抱っこひものバックルを緩める。
「真砂子!」
「ほら。ふうをちゃんと支えててよ?」
真砂子は緩んだ肩のベルトに手をかけずらすと、風香を抱き上げた。泣き止みはしたものの、まだ不安そうな顔を見せていた風香は、大好きな真砂子に抱っこされ機嫌を直したようだ。
「ふう? ママ、パパと大事なお話しするんだって。今日はうちでゆっくりしよっか。お泊まりしちゃう?」
戯けたように真砂子が話しかけると、風香は答えるように手足をバタバタさせて喜んでいた。
「真砂子……」
「亜夜? ちゃんと話してきなよ。ふうのことは心配いらないから」
「でも……」
「でもじゃない! ほら、荷物も預かるし。なんかあったら駆けつけるから、連絡ちょうだい?」
有無を言わさず風香の荷物を奪うと、真砂子は私を安心させるように明るく笑った。
「じゃ、先帰るね!」
抱いていた風香の手を取ると、真砂子はそれを振ってみせる。遊んでもらっていると思ったのか、風香はケラケラと笑っていた。
(……ありがとう)
その背中をしばらく見送り、決心して薫さんに向き直る。ここまできてしまったら、もう言い逃れはできない。でも、私の想いを知って欲しい。そして、薫さんの想いを……知りたい、と思った。
「見て、ふう。綺麗だね」
抱っこひもに入る風香に見せるように体を傾けると、それが楽しいのか、キャッキャと声をあげ喜んでいた。
「もうそろそろ日傘も必要かなぁ……」
春だった日差しはだんだんと夏へ向かっている。夕方のこの時間、まだそれほどきつくはない日差しも、そのうち強いものに変わるだろう。
(そのうち遊んで帰るって、駄々を捏ねたりするのかな?)
遠くに見える遊具で遊ぶ親子の姿に足を止め、少し先の未来を想像する。自分の胸に収まる風香も、あっという間にここから飛び出して自分の足で歩き、走り出すようになるのだと思うと、少しだけ寂しい。
しばらく遠くを見つめた後、また歩き出す。不意に後ろからこちらに向かってくる足音が聞こえた。この広い公園は、朝も夕方もランニングをする人が多く、気にも留めなかった。
「亜夜っ!」
反射的に肩を揺らし、足を止める。
(そんなはず……)
記憶の中のこの声が、こんなにも余裕もない声を出すなんて想像もできない。足を動かせず立ち止まった私に、砂を蹴る足音が近づくと、その気配は少し後ろで止まった。見なくても、走っていたことが分かる荒い息遣い。そこから絞り出すような声が聞こえてきた。
「亜夜……。やっと……見つけた……」
艶やかな低い声は何一つ変わっていない。切なげに私を呼ぶ表情を思い出し、胸がギュッとなった。けれど私は、風香を守るように抱えると振り返ることなく言い放った。
「帰ってください」
「亜夜。言い訳はしない。だが、話を聞いて欲しい」
背を向けたままの私に、彼が一歩近づいた気配がし、それを振り払うように振り返った。
目に飛び込んできたその姿は、らしくないほど憔悴していた。整えられているはずの黒髪は乱れ、額に無造作に垂れ下がっている。着ている濃紺のスーツも、ところどころ砂埃で白く汚れていた。そして、その美しい顔には苦悶の色が浮かんでいた。
「井上さんに聞いたんですか? 言わないって……。信じてたのに!」
泣きそうになりながら声を荒げると、代わりに泣き出したのは風香だった。
「ごめん、ふう。びっくりしたよね」
宥めるように揺すり、抱っこひもの背当て越しに背中をトントンと叩く。私が突然大きな声を出したのだから、驚いても仕方がない。
「その子は……」
しばらく呆然とした表情で私たちを見ていた薫さんは、小さく呟くとまたこちらに一歩歩みを寄せる。
「来ないでください」
風香を抱え後退りながら、はっきりと拒絶する。本当はそんなことしたくない。けれど、こうするしかない。風香の顔を見せないように体を反らしながら、まだ泣いている彼女をあやす。心の内が伝わるのか、風香は火がついたように泣き叫んでいた。
「亜夜っ! 大丈夫⁈ なんですか? 警察呼びますよ?」
突然そんな声とともに、自分とそう変わらない大きさの背中が現れた。威嚇するように、薫さんの前に立ちはだかったのは真砂子だった。きっと怖かったはずだ。触れた肩は震えていた。
「違う……。違うの、真砂子……」
「えっ?」
真砂子は驚いたようにそのまま顔だけ振り返り、そしてまた前を向いて相手の顔を見つめた。
「あなた……。まさか……」
真砂子なら、それが誰なのかすぐに分かるだろう。生まれたときから風香を見ていたのだから。そして改めて、風香はこんなにも父に似ていたのかと実感する。
「……驚かせてすみません。私は穂積といいます。亜夜さんと……どうしても話がしたいんです」
真砂子の向こう側から、焦っているような薫さんの声がする。自分の知る、落ち着いた穏やかな口調とは全く違っていて、それだけで切羽詰まっているのが伝わってきた。
緊迫した空気のなか、しばらく無言だった真砂子は、突然クルリと体を翻した。
「亜夜。ふう、預かる」
「えっ?」
「いいから! 後ろ外すよ?」
戸惑っている私をよそに、背中に回った真砂子は抱っこひものバックルを緩める。
「真砂子!」
「ほら。ふうをちゃんと支えててよ?」
真砂子は緩んだ肩のベルトに手をかけずらすと、風香を抱き上げた。泣き止みはしたものの、まだ不安そうな顔を見せていた風香は、大好きな真砂子に抱っこされ機嫌を直したようだ。
「ふう? ママ、パパと大事なお話しするんだって。今日はうちでゆっくりしよっか。お泊まりしちゃう?」
戯けたように真砂子が話しかけると、風香は答えるように手足をバタバタさせて喜んでいた。
「真砂子……」
「亜夜? ちゃんと話してきなよ。ふうのことは心配いらないから」
「でも……」
「でもじゃない! ほら、荷物も預かるし。なんかあったら駆けつけるから、連絡ちょうだい?」
有無を言わさず風香の荷物を奪うと、真砂子は私を安心させるように明るく笑った。
「じゃ、先帰るね!」
抱いていた風香の手を取ると、真砂子はそれを振ってみせる。遊んでもらっていると思ったのか、風香はケラケラと笑っていた。
(……ありがとう)
その背中をしばらく見送り、決心して薫さんに向き直る。ここまできてしまったら、もう言い逃れはできない。でも、私の想いを知って欲しい。そして、薫さんの想いを……知りたい、と思った。
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