29 / 81
3.tre ー薫sideー
tre-6
しおりを挟む
父の経営する会社は同じ商社だが、どちらかと言えば総合商社に近い。その規模は、私の会社など遠く足元にも及ばない。
そびえ立つその自社ビルを見上げ、自分は次男でよかった、なんて思う。自虐ではなく本心だ。これだけの重いものを背負う自信などない。自分は与えられたものをただ淡々とこなすだけで、強請ったわけでも勝ち取ったわけでもない。今まで生きてきて、自分の力だけで手に入れたものなどなかったはずだ。
(我ながら……つまらない生き方だ……)
視線を下ろすと軽く息を漏らし、ビルのエントランスに向かう。井上から事前に連絡を入れておくと聞いていた。今日父は不在で挨拶は不要、経理部にだけ顔を出せばいいと。
「初めまして。穂積薫です」
「山下です。お噂はかねがね伺っております」
握手を交わした相手は現在の経理部長。私がこの会社を去ったあと兄がヘッドハンティングしてきたらしい。私より年上で経験も豊富。なかなかのやり手だと耳にしていた。そんな挨拶をしていると、向こうから大きく手を振る女性の姿が見えた。
「わぁっ。社長! 本当に来てくれたんだ!」
変わらないその態度に安らぎを覚えるが、私と彼女の仲を知らない山下部長はその軽々しさにギョッとしているようだ。
「久しぶりだな、唐橋。これ。良かったら。経理部の人数ほどしかないが」
「アルテミスのドリップバッグじゃない! さすが社長。これ、なかなかに品薄でしょ?」
「ありがたいことにそのようだな」
「ありがとうございます。いただきます!」
手土産を受け取り、ニコニコと私を見るその姿は以前となんら変わらない。
「積もる話もあるし……、場所変えません? 部長。社長、お借りしますね?」
悪気のない押しの強さに圧倒され頷く部長とのやりとりに、ほんの少し笑みが溢れた。
「――にしても……変わらないね。穂積君は」
人前では役職で呼ぶが、二人きりになると昔のように私をそう呼ぶ。この会社にいる頃からそうだった。最初に机を並べて一緒に仕事をしていた相手が部長になり、『部長』と呼びながらも変わらずとして接してくれた。それに眉を顰めるものもいたが、それが嫌ではなかった。
「そう言う唐橋も変わらない。昔を思い出す」
この会社にある休憩スペースの隅。唐橋は「こんなのでごめん」と言いながら自動販売機で買った缶コーヒーを差し出した。
「それにしても。井上さん、さすが! 仕事早いわぁ。たった二週間で穂積君が現れるとは思ってなかった」
景色の良い窓際に面したカウンターに並んで座り、彼女は同じ缶コーヒーを開けながら明るい笑い声を上げる。
「偶然会ったと聞いたが……」
「そうなのよ。保育園帰りの公園で。ふうちゃんママと歩いてたから、ふうちゃんのパパだったんですか! なんて言っちゃって」
「ふうちゃんママ? 井上は子ども連れの女性といたのか?」
見え隠れするその女性の影。保育園から帰る時間帯に一緒に歩くほど親しいようだ。
「そう。でもあとで考えたら、私も馬鹿なこと言っちゃったなって」
唐橋は笑いながら缶を口に持って行く。そして、黙ったままの私に構うことなく続けた。
「ふうちゃんの名前、ますだふうか、なのに」
心臓がドクンと音を立てたような気がした。缶を握ったままの手は、自分の意に反して震えていた。
「その子の……母親の名は?」
視線を落とし、震えた右手を押さえるように左手を重ねて尋ねる。
「ママの名前知るほど、まだ仲良くないのよねえ……」
窓に向かったまま唐橋は言うと、缶コーヒーを傾ける。そして、不意に「あっ」と声を出した。
「そういえば、うちの息子が前言ってたな。ふうちゃんママ、僕に名前似てるんだよって」
「君の子は確か……」
遠い記憶を手繰り寄せる。
昔出産祝いを渡し、その時にその名前を聞いたはずだ。名前は、『あやと』だと。
何故、という思いだけが頭の中を渦巻いていた。
どう歩いたか記憶にないほど動揺していたのだろう。いつのまにか駐車場に辿り着き、車に乗り込むとシートに身を預けていた。
(何故……井上は何も言わない……)
恨みがましく醜いことを考えてしまう自分がいる。だが頭が冷えてくると、その理由がわかる気がした。自分が亜夜を探さなかったのと同じだ。
ローマから帰り、連絡を取ろうと思えばすぐ取れた。だが、そうしなかったのは、彼女を穂積の家に近づけたくなかったからだ。
ただ交際するだけなら祖父も目を瞑っただろう。けれど、それ以上となるとそうはいかない。周囲の反対を押し切ったところで、幸せな未来が待ち受けているとは思えなかった。
(だから……。求めなかった。……探さなかったんだ)
それは自分勝手な言い訳に過ぎない。その選択が今、亜夜を苦しめているとも知らず、のうのうと過ごしていた自分が腹立たしい。
二人で撮った、たった一枚の写真を未練がましく見ていたことに、井上はおそらく気づいている。それでも、井上は何も言わなかった。
スマートフォンを取り出すと、地図アプリを起動する。元々部下だった唐橋がどの辺りに家を構えたかは覚えている。家の近くには大きな公園があると言っていた。そして……。
「ここ、か……」
私はその場所を頭に入れスマートフォンをしまった。
(……求めてもいいのだろうか)
いや、彼女に拒絶されようともう諦めたりしない。諦められるわけはない。
子どもの名前は『ふうか』。
漢字などわからない。だが、自分には浮かぶ字がある。
薫風。そして私と同じ、かおる。
彼女の想いを知るのは、それだけで充分だった。
そびえ立つその自社ビルを見上げ、自分は次男でよかった、なんて思う。自虐ではなく本心だ。これだけの重いものを背負う自信などない。自分は与えられたものをただ淡々とこなすだけで、強請ったわけでも勝ち取ったわけでもない。今まで生きてきて、自分の力だけで手に入れたものなどなかったはずだ。
(我ながら……つまらない生き方だ……)
視線を下ろすと軽く息を漏らし、ビルのエントランスに向かう。井上から事前に連絡を入れておくと聞いていた。今日父は不在で挨拶は不要、経理部にだけ顔を出せばいいと。
「初めまして。穂積薫です」
「山下です。お噂はかねがね伺っております」
握手を交わした相手は現在の経理部長。私がこの会社を去ったあと兄がヘッドハンティングしてきたらしい。私より年上で経験も豊富。なかなかのやり手だと耳にしていた。そんな挨拶をしていると、向こうから大きく手を振る女性の姿が見えた。
「わぁっ。社長! 本当に来てくれたんだ!」
変わらないその態度に安らぎを覚えるが、私と彼女の仲を知らない山下部長はその軽々しさにギョッとしているようだ。
「久しぶりだな、唐橋。これ。良かったら。経理部の人数ほどしかないが」
「アルテミスのドリップバッグじゃない! さすが社長。これ、なかなかに品薄でしょ?」
「ありがたいことにそのようだな」
「ありがとうございます。いただきます!」
手土産を受け取り、ニコニコと私を見るその姿は以前となんら変わらない。
「積もる話もあるし……、場所変えません? 部長。社長、お借りしますね?」
悪気のない押しの強さに圧倒され頷く部長とのやりとりに、ほんの少し笑みが溢れた。
「――にしても……変わらないね。穂積君は」
人前では役職で呼ぶが、二人きりになると昔のように私をそう呼ぶ。この会社にいる頃からそうだった。最初に机を並べて一緒に仕事をしていた相手が部長になり、『部長』と呼びながらも変わらずとして接してくれた。それに眉を顰めるものもいたが、それが嫌ではなかった。
「そう言う唐橋も変わらない。昔を思い出す」
この会社にある休憩スペースの隅。唐橋は「こんなのでごめん」と言いながら自動販売機で買った缶コーヒーを差し出した。
「それにしても。井上さん、さすが! 仕事早いわぁ。たった二週間で穂積君が現れるとは思ってなかった」
景色の良い窓際に面したカウンターに並んで座り、彼女は同じ缶コーヒーを開けながら明るい笑い声を上げる。
「偶然会ったと聞いたが……」
「そうなのよ。保育園帰りの公園で。ふうちゃんママと歩いてたから、ふうちゃんのパパだったんですか! なんて言っちゃって」
「ふうちゃんママ? 井上は子ども連れの女性といたのか?」
見え隠れするその女性の影。保育園から帰る時間帯に一緒に歩くほど親しいようだ。
「そう。でもあとで考えたら、私も馬鹿なこと言っちゃったなって」
唐橋は笑いながら缶を口に持って行く。そして、黙ったままの私に構うことなく続けた。
「ふうちゃんの名前、ますだふうか、なのに」
心臓がドクンと音を立てたような気がした。缶を握ったままの手は、自分の意に反して震えていた。
「その子の……母親の名は?」
視線を落とし、震えた右手を押さえるように左手を重ねて尋ねる。
「ママの名前知るほど、まだ仲良くないのよねえ……」
窓に向かったまま唐橋は言うと、缶コーヒーを傾ける。そして、不意に「あっ」と声を出した。
「そういえば、うちの息子が前言ってたな。ふうちゃんママ、僕に名前似てるんだよって」
「君の子は確か……」
遠い記憶を手繰り寄せる。
昔出産祝いを渡し、その時にその名前を聞いたはずだ。名前は、『あやと』だと。
何故、という思いだけが頭の中を渦巻いていた。
どう歩いたか記憶にないほど動揺していたのだろう。いつのまにか駐車場に辿り着き、車に乗り込むとシートに身を預けていた。
(何故……井上は何も言わない……)
恨みがましく醜いことを考えてしまう自分がいる。だが頭が冷えてくると、その理由がわかる気がした。自分が亜夜を探さなかったのと同じだ。
ローマから帰り、連絡を取ろうと思えばすぐ取れた。だが、そうしなかったのは、彼女を穂積の家に近づけたくなかったからだ。
ただ交際するだけなら祖父も目を瞑っただろう。けれど、それ以上となるとそうはいかない。周囲の反対を押し切ったところで、幸せな未来が待ち受けているとは思えなかった。
(だから……。求めなかった。……探さなかったんだ)
それは自分勝手な言い訳に過ぎない。その選択が今、亜夜を苦しめているとも知らず、のうのうと過ごしていた自分が腹立たしい。
二人で撮った、たった一枚の写真を未練がましく見ていたことに、井上はおそらく気づいている。それでも、井上は何も言わなかった。
スマートフォンを取り出すと、地図アプリを起動する。元々部下だった唐橋がどの辺りに家を構えたかは覚えている。家の近くには大きな公園があると言っていた。そして……。
「ここ、か……」
私はその場所を頭に入れスマートフォンをしまった。
(……求めてもいいのだろうか)
いや、彼女に拒絶されようともう諦めたりしない。諦められるわけはない。
子どもの名前は『ふうか』。
漢字などわからない。だが、自分には浮かぶ字がある。
薫風。そして私と同じ、かおる。
彼女の想いを知るのは、それだけで充分だった。
15
お気に入りに追加
91
あなたにおすすめの小説
出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
玖羽 望月
恋愛
親族に代々議員を輩出するような家に生まれ育った鷹柳実乃莉は、意に沿わぬお見合いをさせられる。
なんとか相手から断ってもらおうとイメージチェンジをし待ち合わせのレストランに向かった。
そこで案内された席にいたのは皆上龍だった。
が、それがすでに間違いの始まりだった。
鷹柳 実乃莉【たかやなぎ みのり】22才
何事も控えめにと育てられてきたお嬢様。
皆上 龍【みなかみ りょう】 33才
自分で一から始めた会社の社長。
作中に登場する職業や内容はまったくの想像です。実際とはかけ離れているかと思います。ご了承ください。
初出はエブリスタにて。
2023.4.24〜2023.8.9
月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜
白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳
yayoi
×
月城尊 29歳
takeru
母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司
彼は、母が持っていた指輪を探しているという。
指輪を巡る秘密を探し、
私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜
ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。
そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、
理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。
しかも理樹には婚約者がいたのである。
全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。
二人は結婚出来るのであろうか。
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
契約書は婚姻届
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「契約続行はお嬢さんと私の結婚が、条件です」
突然、降って湧いた結婚の話。
しかも、父親の工場と引き替えに。
「この条件がのめない場合は当初の予定通り、契約は打ち切りということで」
突きつけられる契約書という名の婚姻届。
父親の工場を救えるのは自分ひとり。
「わかりました。
あなたと結婚します」
はじまった契約結婚生活があまー……いはずがない!?
若園朋香、26歳
ごくごく普通の、町工場の社長の娘
×
押部尚一郎、36歳
日本屈指の医療グループ、オシベの御曹司
さらに
自分もグループ会社のひとつの社長
さらに
ドイツ人ハーフの金髪碧眼銀縁眼鏡
そして
極度の溺愛体質??
******
表紙は瀬木尚史@相沢蒼依さん(Twitter@tonaoto4)から。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~
吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。
結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。
何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

あなたが居なくなった後
瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの専業主婦。
まだ生後1か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。
朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。
乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。
会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。
「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願う宏樹。
夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる