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3.tre ー薫sideー
tre-5
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一つ年上、もちろん私より一年前に入社した彼は、同期の中ではトップクラスのやり手。だが、冷たい物言いと、周りに対して容赦のない態度は敵を多く作ったことだろう。けれど、そんな井上が嫌いではなかった。
入社して五年目。今まで社内の様々な部署を順番に経験し、今回初めて役職についた。まだ二十七にもなっていない若造が付く役職ではないだろう。だが、ここでゆっくりしている暇など無い。再来年には別会社を経営する立場なのだから。
「この度部長秘書を拝命しました、井上泰史です。よろしくお願いいたします」
ライトグレーのスーツを着た井上は、そのトレードマークの銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を寄越した。
(良くは……思われていないか)
握手を交わしながら思う。
自分のたっての希望で井上を秘書にした。それまでは人事部長の秘書だったのだから、年下の経理部長に仕えるなど面白くはないだろう。だが、仕事をしてくれるならそれでいい。井上もきっと割り切ってくれるはずだ。
部長に就任して一年が過ぎた。
この会社にいるのもあと一年。それまでのあいだに、新たに立ち上げる法人を形にしなければならない。部長という立場は変わらないまま、一から準備するのは、それまでで一番困難な道のりだった。
だが、それを一番助けてくれたのは、他でもない、井上だった。
付き合ってみれば、井上は思っていた以上に有能で、自分より何倍も表情豊かな男だった。最初こそ好かれてはいないだろうと思っていたが、それはすぐに誤解だったと知った。
「社内で一番仕事のできる人を間近で見られて勉強になります」
笑みを浮かべてそう言われたのは、二人で飲みに行ったバーでの出来事だ。それはお世辞じゃなく本心だと、自分には伝わってきた。
そして、私にこう言ったのだ。
「私も、薫さんの新事業について行きたいと思っています。お許しくださいますか?」
今の、父の経営する会社はそれなりの規模で、給料も、それ以外のことも、水準でいえば上にあたるはずだ。
いくらこの会社から一部の事業を貰い受けるにしても、それが上手くいくとは限らない。現在その事業に携わるものには、それも含めて新会社へ移るのか、このまま残るのか、よく考えるように伝えてあった。
「今以上に苦労させるが、いいのか?」
「薫さん一人に苦労はさせません。それに、薫さん以上の上司には、きっともう巡り会えないでしょうから」
ウイスキーの入ったグラスを弄ぶように回し、井上は穏やかな表情を浮かべて見せた。
「それは……買い被りすぎだ。だが、心強い」
静かにそう告げると、井上は「光栄です」と笑みを浮かべた。
その年、新会社の新卒採用者を募った。まだ設立していない会社だけあって、エントリーするものはそう多くないなか、私はその名前を見つけた。忙しい合間を縫って、最終面接は私と井上で行った。
そして、数年ぶりに顔を見たその人物は、志望動機としてこう言った。
「薫さんの下で働くのが、自分の夢だったからです」
幼いころから変わらぬ眩しい笑顔を向け、和希は真っ直ぐにそう言った。
大学の成績も、採用試験の内容も申し分はない。これなら他の大手にいくらでも内定をもらえるだろう。和希はそんな人間に成長していた。
「お悩みのようですね」
椅子の背に体を預け、ぼんやりと外を眺めていた私に、井上はコーヒーカップを差し出した。
「ああ……」
「彼、のことですか?」
私が受け取ったのを見計らって井上は尋ねた。
「和希が、将来雇って欲しいと言っていたのは、彼がまだ中学生のときだ。まさか本当にやって来るとは思ってなくてね」
カップに口を近づけると、私のために用意された浅煎りの豆の芳醇な香りが鼻をくすぐった。
「まだやっていけるかわからない事業に和希を巻き込んでいいのか……」
琥珀色をした液体が揺れているのを眺めながら一つ溜め息を吐くと、井上の忍び笑いが耳に届いた。
「そう言いながら、彼と会ったとき、それはそれは嬉しそうでした」
「そう……だったか?」
「そんなふうに見えたのは、私だけ……、いえ。彼もきっとそう感じたはずです」
「そうか……」
翌年四月。
私はほんの三十人ほどの社員とともに、会社を立ち上げた。
これが【Hozumi international foods】の始まりだった。
入社して五年目。今まで社内の様々な部署を順番に経験し、今回初めて役職についた。まだ二十七にもなっていない若造が付く役職ではないだろう。だが、ここでゆっくりしている暇など無い。再来年には別会社を経営する立場なのだから。
「この度部長秘書を拝命しました、井上泰史です。よろしくお願いいたします」
ライトグレーのスーツを着た井上は、そのトレードマークの銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を寄越した。
(良くは……思われていないか)
握手を交わしながら思う。
自分のたっての希望で井上を秘書にした。それまでは人事部長の秘書だったのだから、年下の経理部長に仕えるなど面白くはないだろう。だが、仕事をしてくれるならそれでいい。井上もきっと割り切ってくれるはずだ。
部長に就任して一年が過ぎた。
この会社にいるのもあと一年。それまでのあいだに、新たに立ち上げる法人を形にしなければならない。部長という立場は変わらないまま、一から準備するのは、それまでで一番困難な道のりだった。
だが、それを一番助けてくれたのは、他でもない、井上だった。
付き合ってみれば、井上は思っていた以上に有能で、自分より何倍も表情豊かな男だった。最初こそ好かれてはいないだろうと思っていたが、それはすぐに誤解だったと知った。
「社内で一番仕事のできる人を間近で見られて勉強になります」
笑みを浮かべてそう言われたのは、二人で飲みに行ったバーでの出来事だ。それはお世辞じゃなく本心だと、自分には伝わってきた。
そして、私にこう言ったのだ。
「私も、薫さんの新事業について行きたいと思っています。お許しくださいますか?」
今の、父の経営する会社はそれなりの規模で、給料も、それ以外のことも、水準でいえば上にあたるはずだ。
いくらこの会社から一部の事業を貰い受けるにしても、それが上手くいくとは限らない。現在その事業に携わるものには、それも含めて新会社へ移るのか、このまま残るのか、よく考えるように伝えてあった。
「今以上に苦労させるが、いいのか?」
「薫さん一人に苦労はさせません。それに、薫さん以上の上司には、きっともう巡り会えないでしょうから」
ウイスキーの入ったグラスを弄ぶように回し、井上は穏やかな表情を浮かべて見せた。
「それは……買い被りすぎだ。だが、心強い」
静かにそう告げると、井上は「光栄です」と笑みを浮かべた。
その年、新会社の新卒採用者を募った。まだ設立していない会社だけあって、エントリーするものはそう多くないなか、私はその名前を見つけた。忙しい合間を縫って、最終面接は私と井上で行った。
そして、数年ぶりに顔を見たその人物は、志望動機としてこう言った。
「薫さんの下で働くのが、自分の夢だったからです」
幼いころから変わらぬ眩しい笑顔を向け、和希は真っ直ぐにそう言った。
大学の成績も、採用試験の内容も申し分はない。これなら他の大手にいくらでも内定をもらえるだろう。和希はそんな人間に成長していた。
「お悩みのようですね」
椅子の背に体を預け、ぼんやりと外を眺めていた私に、井上はコーヒーカップを差し出した。
「ああ……」
「彼、のことですか?」
私が受け取ったのを見計らって井上は尋ねた。
「和希が、将来雇って欲しいと言っていたのは、彼がまだ中学生のときだ。まさか本当にやって来るとは思ってなくてね」
カップに口を近づけると、私のために用意された浅煎りの豆の芳醇な香りが鼻をくすぐった。
「まだやっていけるかわからない事業に和希を巻き込んでいいのか……」
琥珀色をした液体が揺れているのを眺めながら一つ溜め息を吐くと、井上の忍び笑いが耳に届いた。
「そう言いながら、彼と会ったとき、それはそれは嬉しそうでした」
「そう……だったか?」
「そんなふうに見えたのは、私だけ……、いえ。彼もきっとそう感じたはずです」
「そうか……」
翌年四月。
私はほんの三十人ほどの社員とともに、会社を立ち上げた。
これが【Hozumi international foods】の始まりだった。
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