想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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3.tre ー薫sideー

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 煩わしい法事も終わり、本家で夕食でも、という誘いを『まだ仕事がありますので』とにべもなく断るとその場を離れた。
 陽が沈みゆく、これから夜に向かっていく街に車を走らせる。土曜日の夜の街はなんとなく浮き足だったような、落ち着かない気持ちになるのは何故だろうか。

(この時間なら……もう空いているか)
 
 一度は帰宅しようと思ったが、気を取り直し足を向けたのは、すでに数え切れないほど訪れている場所だった。

「いらっしゃいませ」

 ロビーこそ行き交うものは多いが、ラウンジに向かうものは少ない。アルテミスに食事になるようなものはほぼ置いておらず、夜七時を回ったこの時間、食後の一杯を楽しむ客はまだそれほど多くない。店内は落ち着きを払っていた。
 出迎えたウェイターが会釈し、小声で話しかけてくる。

「社長、ご視察ですか?」
「いや。プライベートで寄っただけだ。テラスは空いているかい?」
「はい。空いております」
「勝手に行くから案内はいい。エスプレッソダブルで頼む」
「かしこまりました」

 このホテル自慢の中庭は、今は部屋からの明かりと、噴水を照らすスポットライトの光だけが辺りをほんのりと照らしている。昼間は明るく賑わうテラスも、夜は静謐とした空間に変わっていた。

「お待たせいたしました」

 デミタスカップを置いたのは、この店で一番若手のバリスタ。まだ経験こそ浅いが、その情熱と将来性を買って採用した男だ。それにしても、バリスタ自らがここまでやって来て給仕することは本来ないはずだ。ということは、私に何かしらの用があるのだろう。

「では、いただこうか」

 一緒に置かれたシュガーポットから砂糖を掬いカップに入れる。溶かすのが目的ではない。本場では底に残ったエスプレッソの風味の残る砂糖を掬って食べるのだと言う。スプーンで軽く混ぜ、カップをすぐに口に運ぶ。ゆっくりしているとせっかくのクレマが消えてしまうからだ。

「いかが……でしょう?」

 カップから口を離すと、恐る恐るバリスタは尋ねてきた。
 どのバリスタの淹れるものも何度となく試飲してきている。同じ豆、同じマシンを使っても、そこには少しずつ個性が現れる。今目の前にいるバリスタは、もちろん一定以上のレベルには達しているものの、ほんの少し雑味が混ざっている気がしていた。だが、今日はそれが消えていた。

「以前より格段に良くなっている。腕を上げたようだな」
「ありがとうございます。実は今日の昼間、井上さんがお越しになったのですが……」
「井上が?」
「ええ。その、お連れの女性が凄いかたで。僕とそう歳も変わらないかと思うのですが、アドバイスしてくださったんです」

 少し興奮気味に彼は言うと、その内容を話し出した。
 自分でも気づいていなかったという彼の癖。数ある工程の中にある、ホルダーに挽いた粉を入れ、押し固める作業。その工程に少し傾きがあることと、圧力が少し足りないと指摘され、意識したところ自分でもわかるくらい変化があったらしい。

「そのかたは、どこかのお店でバリスタをされているようなんです。社長がご存じのかたではないですか?」

 期待した眼差しで彼は尋ねる。
 取引のある店にバリスタはいるが、彼と同じくらいの年齢の女性のバリスタに心当たりはない。それに井上が、そんな有能なバリスタと知り合ったなら、私にも紹介しそうなものだが、そんな話は耳にしていない。

「いや……。その連れの女性の名前はわからないのかい?」
「はい。せめて店の名前をお聞きしようと思ったのですが、連れていらしたお子さんが泣き出して、すぐに庭に出られてしまったもので」

 残念そうに言うバリスタの答えを、釈然としない気持ちで聞いていた。

(子ども連れの……女性?)

 井上の身近にそんな女性がいただろうか。いや、いるのかも知れないが、プライベートをそう話す男ではない。

「もし井上さんに聞けるなら、そのかたのいらっしゃる店を聞いてくださいませんか?」
「あぁ。……聞いておこう」

 礼を述べて去るバリスタを見送り、またカップを口に運ぶ。

(……まさか。……そんなことは、ない……はずだ)

 どうしてもその相手のことが引っかかり、それを振り払うようにカップを傾ける。喉を通るエスプレッソの苦味が、胸の中に染みとなって広がっていくようだった。
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