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due-12
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井上さんに風香を会わせてから、十日ほど経った土曜日の昼下がり。
待ち合わせた公園の近くには、すでに見覚えのある白い車が停まっていた。フロント部分に見えるエンブレムを見れば、その名前がわかる高級外車のセダン。その落ち着いた雰囲気が井上さんらしい。その車に乗るのはこれで三回目。でもいつもと違うのは、後部座席には風香の乗るチャイルドシートが付けられているということだ。
あの日井上さんから『お誘いしたい場所があるのですが』と切り出されたのは、他でもないアルテミスだった。私に緊張が走ったのを見逃さなかったのだろう。
「安心してください。その日は穂積家の法要があります。薫さんが現れることはありません。実は、亜夜さんにうちのエスプレッソのテイスティングをしていただけないかと。あのエドアルド氏をも唸らせた味覚の持ち主ですし」
「そんな! 私なんかが恐れ多いです!」
微笑みを浮かべる井上さんに、慌てて両手を振ると、彼はなんとも言えない表情で息を吐いた。
「そんなことありません。それに、うちのバリスタもまだまだ経験が浅いものもいます。率直な感想をいただけたほうが店のためになります」
井上さんは、仕事でもこうなんだろうと感じる。出会ったころに感じた印象は今でも変わらない。この、嫌味なくイエスと言わせてしまう話術は。
(また……うまく乗せられちゃったな)
そう思いながら私は頷いていた。
さすがに土曜日とあって、アルテミスのウェイティングチェアは待っているお客様でいっぱいだった。
「いらっしゃいませ」
案内のウェイターはそう言うと、そのあと小さな声で「お疲れ様です」と続けた。さすがに、目の前にいる人が何者なのか知っているのだろう。井上さんはその人に耳打ちするように何か告げると、ウェイターは恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
ウェイターが先に進むと、井上さんとベビーカーを押す私があとに続く。石畳みを模した通路を進み、案内されたのはバンコだった。
「すみません。立ちっぱなしにしてしまいますが。席が空けばそちらにご案内します」
「いえ。ここのほうがなんだか落ち着きます」
バリスタが忙しく動き回る姿がよく見える場所。私の日常と同じ空気感にホッとしながら首を振って答えた。
邪魔にならないよう横に置いたベビーカーでは風香が眠っている。起きてしまうとゆっくりもしていられない。お願いされたことができるのも今のうちだ。
「いらっしゃいませ」
私たちの元に、私とそう年齢も変わらなさそうなバリスタが来るとメニューブックを差し出す。井上さんはそれを制止するよう手をかざした。
「エスプレッソをシングルで二つ、お願いします」
「かしこまりました」
そう返事をしながらも、そのバリスタの男性はチラリと私を見る。うちの店でもエスプレッソを注文するお客様は少ない。それも女性客なら尚更だ。きっと、本当にいいのかと戸惑っているのだろう。
「はい。お願いします」
私の答えに安堵した表情を見せると、バリスタは「少々お待ちくださいませ」と頭を下げたあと背を向けた。
そしてすぐに作業に入るバリスタの動きを、私は言われるまでもなく食い入るように見つめていた。
グラインダーで豆を挽き、ホルダーの中に圧力をかけ固めた粉をセットして抽出する。出来上がりまでの時間はほんの数分。エスプレッソの語源が『急行』と言われているのはその速さだった。
「お待たせいたしました」
差し出されたデミタスカップには、特有のクレマが浮いている。
「いただきます」
私はまず出されていた水を口に含む。グラスを置き、カップを持つと、まず手で覆うようにして香りを確認した。それからカップに口をつけ、一口含んだ。まだお砂糖を入れていないそれは、目の覚めるような苦味。けれど深いコクもある。
(これ……もしかして……)
もう一度確かめようと、シュガーポットからお砂糖を掬うと二匙ほど入れ軽く混ぜる。そして、クレマが消えないうちにそれを流し込んだ。
「……いかがですか?」
真剣になりすぎて周りが見えていなかったかも知れない。その声にハッとして振り返った。
「あ……の。これ、エドも関わってますか?」
一口にエスプレッソと言っても、どの店も同じ豆を使っているわけではないし、煎り方も少しずつ違う。けれど、今飲んだものは、あのローマのホテルで薫さんと一緒に飲んだものになんとなく似ている気がした。
「さすがですね。ここの経営こそ私たちですが、ホテルはエドアルドのもの。もちろんすべて彼に監修していただいています」
「やっぱり……そうですか」
そんな私たちのやりとりを、バリスタはそばで固唾を呑んで見ていたようだ。経営者の右腕が連れて来た客が、ただコーヒーを飲みに来店したわけじゃないのは、私の行動を見ていればわかるはずだから。
「ほかに何かありませんか?」
井上さんに静かに尋ねられ、私は一瞬躊躇った。
(どうしよう。私なんかが意見してもいいのかな……)
少し引き攣ったような顔で立つバリスタの顔を盗み見て思う。けれど、井上さんが欲しいのは率直な意見。私は深呼吸するように息を吸うと、バリスタに向かい切り出した。
待ち合わせた公園の近くには、すでに見覚えのある白い車が停まっていた。フロント部分に見えるエンブレムを見れば、その名前がわかる高級外車のセダン。その落ち着いた雰囲気が井上さんらしい。その車に乗るのはこれで三回目。でもいつもと違うのは、後部座席には風香の乗るチャイルドシートが付けられているということだ。
あの日井上さんから『お誘いしたい場所があるのですが』と切り出されたのは、他でもないアルテミスだった。私に緊張が走ったのを見逃さなかったのだろう。
「安心してください。その日は穂積家の法要があります。薫さんが現れることはありません。実は、亜夜さんにうちのエスプレッソのテイスティングをしていただけないかと。あのエドアルド氏をも唸らせた味覚の持ち主ですし」
「そんな! 私なんかが恐れ多いです!」
微笑みを浮かべる井上さんに、慌てて両手を振ると、彼はなんとも言えない表情で息を吐いた。
「そんなことありません。それに、うちのバリスタもまだまだ経験が浅いものもいます。率直な感想をいただけたほうが店のためになります」
井上さんは、仕事でもこうなんだろうと感じる。出会ったころに感じた印象は今でも変わらない。この、嫌味なくイエスと言わせてしまう話術は。
(また……うまく乗せられちゃったな)
そう思いながら私は頷いていた。
さすがに土曜日とあって、アルテミスのウェイティングチェアは待っているお客様でいっぱいだった。
「いらっしゃいませ」
案内のウェイターはそう言うと、そのあと小さな声で「お疲れ様です」と続けた。さすがに、目の前にいる人が何者なのか知っているのだろう。井上さんはその人に耳打ちするように何か告げると、ウェイターは恭しく頭を下げた。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
ウェイターが先に進むと、井上さんとベビーカーを押す私があとに続く。石畳みを模した通路を進み、案内されたのはバンコだった。
「すみません。立ちっぱなしにしてしまいますが。席が空けばそちらにご案内します」
「いえ。ここのほうがなんだか落ち着きます」
バリスタが忙しく動き回る姿がよく見える場所。私の日常と同じ空気感にホッとしながら首を振って答えた。
邪魔にならないよう横に置いたベビーカーでは風香が眠っている。起きてしまうとゆっくりもしていられない。お願いされたことができるのも今のうちだ。
「いらっしゃいませ」
私たちの元に、私とそう年齢も変わらなさそうなバリスタが来るとメニューブックを差し出す。井上さんはそれを制止するよう手をかざした。
「エスプレッソをシングルで二つ、お願いします」
「かしこまりました」
そう返事をしながらも、そのバリスタの男性はチラリと私を見る。うちの店でもエスプレッソを注文するお客様は少ない。それも女性客なら尚更だ。きっと、本当にいいのかと戸惑っているのだろう。
「はい。お願いします」
私の答えに安堵した表情を見せると、バリスタは「少々お待ちくださいませ」と頭を下げたあと背を向けた。
そしてすぐに作業に入るバリスタの動きを、私は言われるまでもなく食い入るように見つめていた。
グラインダーで豆を挽き、ホルダーの中に圧力をかけ固めた粉をセットして抽出する。出来上がりまでの時間はほんの数分。エスプレッソの語源が『急行』と言われているのはその速さだった。
「お待たせいたしました」
差し出されたデミタスカップには、特有のクレマが浮いている。
「いただきます」
私はまず出されていた水を口に含む。グラスを置き、カップを持つと、まず手で覆うようにして香りを確認した。それからカップに口をつけ、一口含んだ。まだお砂糖を入れていないそれは、目の覚めるような苦味。けれど深いコクもある。
(これ……もしかして……)
もう一度確かめようと、シュガーポットからお砂糖を掬うと二匙ほど入れ軽く混ぜる。そして、クレマが消えないうちにそれを流し込んだ。
「……いかがですか?」
真剣になりすぎて周りが見えていなかったかも知れない。その声にハッとして振り返った。
「あ……の。これ、エドも関わってますか?」
一口にエスプレッソと言っても、どの店も同じ豆を使っているわけではないし、煎り方も少しずつ違う。けれど、今飲んだものは、あのローマのホテルで薫さんと一緒に飲んだものになんとなく似ている気がした。
「さすがですね。ここの経営こそ私たちですが、ホテルはエドアルドのもの。もちろんすべて彼に監修していただいています」
「やっぱり……そうですか」
そんな私たちのやりとりを、バリスタはそばで固唾を呑んで見ていたようだ。経営者の右腕が連れて来た客が、ただコーヒーを飲みに来店したわけじゃないのは、私の行動を見ていればわかるはずだから。
「ほかに何かありませんか?」
井上さんに静かに尋ねられ、私は一瞬躊躇った。
(どうしよう。私なんかが意見してもいいのかな……)
少し引き攣ったような顔で立つバリスタの顔を盗み見て思う。けれど、井上さんが欲しいのは率直な意見。私は深呼吸するように息を吸うと、バリスタに向かい切り出した。
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