21 / 81
2.due
due-10
しおりを挟む
息を呑んだまま黙っていると、井上さんは困ったように眉を下げた。
「すみません。困らせたいわけではないんです。それに、薫さんに会いたくない理由も、なんとなく分かっています」
「はい……。きっと想像されている通りだと思います。……私と薫さんは、生きる世界が違う。私なんかが足を踏み入れていい場所じゃない。……薫さんの障害には、なりたくないんです」
井上さんから逸らしたまま、誰にも言えなかった気持ちを吐露する。
私はずっと自分を戒めてきた。会いたいと願ってはいけない、風香のことを知られてはいけないと。それを想えば想うほど、気持ちは募っていった。けれど、薫さんから何のコンタクトもない時点で諦めもついた。もう二度と、会うことはないだろうと。
(いまさら、そんなことを聞かされても……)
きっと今ここで『薫さんに会いたい』と願えば、その願いは叶うだろう。
(けれど、そのあとは? 会うだけで満足する?)
今まで守ってきたものを守り通すためには、そんなささやかな願いですら口にしてはいけない。
「旅先で見た夢もいつかは醒めます。薫さんも、きっと目を覚ますはずです。だから私は、ほとぼりが冷めるのを待つだけです」
顔を上げ真っ直ぐに井上さんと向き合うと、自分の覚悟をハッキリと伝える。井上さんはそんな私に目を見張り、そして諦めたように一息吐いた。
「わかりました。もう何も言いません。ただ、手助けをしたいと言う気持ちは変わりません。私も、父の顔を知らずに育った身。その苦労はわかっているつもりです」
慈しむような表情に切り替わった井上さんはそのまま続けた。
「私のことを頼ってください。友人の一人として」
「そんな! 友人だなんて」
「私はそう思っていただけると、嬉しいですが」
冷淡にも見える顔立ちなのに、本当はそうじゃない。今はとても穏やかに微笑んでくれていた。
――井上さんが店を訪れてから一週間が経った。
あれからも、今までと変わらない普段通りの生活。ただ一つ変わったことは、井上さんから連絡がくるようになったことだ。
井上さんからメールが届いたのは翌日のこと。突然の訪問を謝罪する内容と、よければコーヒーの話を聞かせてください、と書いてあった。それに返信するとまたメールが届いた。今度は、来週セレーノに行くから、職場用のコーヒー豆を選んでくれないか、という内容だった。
もちろん私は『喜んでお手伝いします』と返し、来店予定日時を聞いておいた。
「桝田さん。お客様が豆を一緒に選んで欲しいとご指名です」
午後の忙しい時間帯が過ぎた頃、カウンターに入っていた私に声がかかる。
「ご対応してきますね」
他のスタッフに告げると、カウンターを出て物販コーナーに向かう。
豆が並ぶ棚の前には、予定通りの時間に現れた井上さんの姿があった。けれどいつもと違うのは、今日はいつものカチッとしたスーツ姿ではなく、ジャケットこそ着ているものの、とてもカジュアルな装いだった。
「お待たせいたしました」
「すみません。こちらこそお呼びたてして」
「とんでもない! ところで、何かお好みのものはありましたか?」
私が向かうまでに豆を吟味しているようだった。その姿が目に入りそう尋ねてみた。
「会社用には、一日中飲めそうな軽めのもので。あとは自宅用に、目覚ましになりそうなものにしようかと」
要望を聞き、さっそく棚からいくつかチョイスすると説明を始める。彼はそれを、興味深そうに聞いてくれていた。
「お仕事は何時までですか? お渡ししたいものもあるので、よければ送らせてください」
買ってくれた豆を挽き、待っていた井上さんに渡すとそう切り出される。知っているのではないかと思うほど絶妙な時間。退勤時間までは三十分を切っていた。もちろん断ったが、「荷物になりますし、ついでです」とさらりと返され、それ以上断ることはできなかった。
「本当にすみません」
店の近くにで落ち合い、井上さんの車に乗ると、隣りに向かい頭を下げた。
「何をおっしゃるんですか。それに、下心もありましたし」
行き先を尋ねることなく車を走らせ、彼は含み笑いで答える。
「下……心……?」
ドキリとして思わず復唱すると、井上さんは笑みを浮かべていた。
「えぇ。お子さんのお顔を見せていただけないかなと。先日は眠っていらしたので」
「あ……。ふうの……」
一瞬こわばった体の緊張を緩めると、私は呟いた。
「ええ。そういえば、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「風香……です。風の香り、と書きます」
私が付けたこの名前。いったいどう思われるだろう。何をイメージしたかなんて、風香の父親を知っていれば、すぐ分かるはずなのだから。
「風香さん……。いい名前です」
井上さんは目を細め、噛み締めるように言った。
「すみません。困らせたいわけではないんです。それに、薫さんに会いたくない理由も、なんとなく分かっています」
「はい……。きっと想像されている通りだと思います。……私と薫さんは、生きる世界が違う。私なんかが足を踏み入れていい場所じゃない。……薫さんの障害には、なりたくないんです」
井上さんから逸らしたまま、誰にも言えなかった気持ちを吐露する。
私はずっと自分を戒めてきた。会いたいと願ってはいけない、風香のことを知られてはいけないと。それを想えば想うほど、気持ちは募っていった。けれど、薫さんから何のコンタクトもない時点で諦めもついた。もう二度と、会うことはないだろうと。
(いまさら、そんなことを聞かされても……)
きっと今ここで『薫さんに会いたい』と願えば、その願いは叶うだろう。
(けれど、そのあとは? 会うだけで満足する?)
今まで守ってきたものを守り通すためには、そんなささやかな願いですら口にしてはいけない。
「旅先で見た夢もいつかは醒めます。薫さんも、きっと目を覚ますはずです。だから私は、ほとぼりが冷めるのを待つだけです」
顔を上げ真っ直ぐに井上さんと向き合うと、自分の覚悟をハッキリと伝える。井上さんはそんな私に目を見張り、そして諦めたように一息吐いた。
「わかりました。もう何も言いません。ただ、手助けをしたいと言う気持ちは変わりません。私も、父の顔を知らずに育った身。その苦労はわかっているつもりです」
慈しむような表情に切り替わった井上さんはそのまま続けた。
「私のことを頼ってください。友人の一人として」
「そんな! 友人だなんて」
「私はそう思っていただけると、嬉しいですが」
冷淡にも見える顔立ちなのに、本当はそうじゃない。今はとても穏やかに微笑んでくれていた。
――井上さんが店を訪れてから一週間が経った。
あれからも、今までと変わらない普段通りの生活。ただ一つ変わったことは、井上さんから連絡がくるようになったことだ。
井上さんからメールが届いたのは翌日のこと。突然の訪問を謝罪する内容と、よければコーヒーの話を聞かせてください、と書いてあった。それに返信するとまたメールが届いた。今度は、来週セレーノに行くから、職場用のコーヒー豆を選んでくれないか、という内容だった。
もちろん私は『喜んでお手伝いします』と返し、来店予定日時を聞いておいた。
「桝田さん。お客様が豆を一緒に選んで欲しいとご指名です」
午後の忙しい時間帯が過ぎた頃、カウンターに入っていた私に声がかかる。
「ご対応してきますね」
他のスタッフに告げると、カウンターを出て物販コーナーに向かう。
豆が並ぶ棚の前には、予定通りの時間に現れた井上さんの姿があった。けれどいつもと違うのは、今日はいつものカチッとしたスーツ姿ではなく、ジャケットこそ着ているものの、とてもカジュアルな装いだった。
「お待たせいたしました」
「すみません。こちらこそお呼びたてして」
「とんでもない! ところで、何かお好みのものはありましたか?」
私が向かうまでに豆を吟味しているようだった。その姿が目に入りそう尋ねてみた。
「会社用には、一日中飲めそうな軽めのもので。あとは自宅用に、目覚ましになりそうなものにしようかと」
要望を聞き、さっそく棚からいくつかチョイスすると説明を始める。彼はそれを、興味深そうに聞いてくれていた。
「お仕事は何時までですか? お渡ししたいものもあるので、よければ送らせてください」
買ってくれた豆を挽き、待っていた井上さんに渡すとそう切り出される。知っているのではないかと思うほど絶妙な時間。退勤時間までは三十分を切っていた。もちろん断ったが、「荷物になりますし、ついでです」とさらりと返され、それ以上断ることはできなかった。
「本当にすみません」
店の近くにで落ち合い、井上さんの車に乗ると、隣りに向かい頭を下げた。
「何をおっしゃるんですか。それに、下心もありましたし」
行き先を尋ねることなく車を走らせ、彼は含み笑いで答える。
「下……心……?」
ドキリとして思わず復唱すると、井上さんは笑みを浮かべていた。
「えぇ。お子さんのお顔を見せていただけないかなと。先日は眠っていらしたので」
「あ……。ふうの……」
一瞬こわばった体の緊張を緩めると、私は呟いた。
「ええ。そういえば、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「風香……です。風の香り、と書きます」
私が付けたこの名前。いったいどう思われるだろう。何をイメージしたかなんて、風香の父親を知っていれば、すぐ分かるはずなのだから。
「風香さん……。いい名前です」
井上さんは目を細め、噛み締めるように言った。
32
お気に入りに追加
84
あなたにおすすめの小説
恋煩いの幸せレシピ ~社長と秘密の恋始めます~
神原オホカミ【書籍発売中】
恋愛
会社に内緒でダブルワークをしている芽生は、アルバイト先の居酒屋で自身が勤める会社の社長に遭遇。
一般社員の顔なんて覚えていないはずと思っていたのが間違いで、気が付けば、クビの代わりに週末に家政婦の仕事をすることに!?
美味しいご飯と家族と仕事と夢。
能天気色気無し女子が、横暴な俺様社長と繰り広げる、お料理恋愛ラブコメ。
※注意※ 2020年執筆作品
◆表紙画像は簡単表紙メーカー様で作成しています。
◆無断転写や内容の模倣はご遠慮ください。
◆大変申し訳ありませんが不定期更新です。また、予告なく非公開にすることがあります。
◆文章をAI学習に使うことは絶対にしないでください。
◆カクヨムさん/エブリスタさん/なろうさんでも掲載してます。
不埒な一級建築士と一夜を過ごしたら、溺愛が待っていました
入海月子
恋愛
有本瑞希
仕事に燃える設計士 27歳
×
黒瀬諒
飄々として軽い一級建築士 35歳
女たらしと嫌厭していた黒瀬と一緒に働くことになった瑞希。
彼の言動は軽いけど、腕は確かで、真摯な仕事ぶりに惹かれていく。
ある日、同僚のミスが発覚して――。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
大嫌いな歯科医は変態ドS眼鏡!
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
……歯が痛い。
でも、歯医者は嫌いで痛み止めを飲んで我慢してた。
けれど虫歯は歯医者に行かなきゃ治らない。
同僚の勧めで痛みの少ない治療をすると評判の歯科医に行ったけれど……。
そこにいたのは変態ドS眼鏡の歯科医だった!?
地味女で喪女でもよく濡れる。~俺様海運王に開発されました~
あこや(亜胡夜カイ)
恋愛
新米学芸員の工藤貴奈(くどうあてな)は、自他ともに認める地味女で喪女だが、素敵な思い出がある。卒業旅行で訪れたギリシャで出会った美麗な男とのワンナイトラブだ。文字通り「ワンナイト」のつもりだったのに、なぜか貴奈に執着した男は日本へやってきた。貴奈が所属する博物館を含むグループ企業を丸ごと買収、CEOとして乗り込んできたのだ。「お前は俺が開発する」と宣言して、貴奈を学芸員兼秘書として側に置くという。彼氏いない歴=年齢、好きな相手は壁画の住人、「だったはず」の貴奈は、昼も夜も彼の執着に翻弄され、やがて体が応えるように……
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる