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 息を呑んだまま黙っていると、井上さんは困ったように眉を下げた。

「すみません。困らせたいわけではないんです。それに、薫さんに会いたくない理由も、なんとなく分かっています」
「はい……。きっと想像されている通りだと思います。……私と薫さんは、生きる世界が違う。私なんかが足を踏み入れていい場所じゃない。……薫さんの障害には、なりたくないんです」

 井上さんから逸らしたまま、誰にも言えなかった気持ちを吐露する。
 私はずっと自分を戒めてきた。会いたいと願ってはいけない、風香のことを知られてはいけないと。それを想えば想うほど、気持ちは募っていった。けれど、薫さんから何のコンタクトもない時点で諦めもついた。もう二度と、会うことはないだろうと。

(いまさら、そんなことを聞かされても……)

 きっと今ここで『薫さんに会いたい』と願えば、その願いは叶うだろう。

(けれど、そのあとは? 会うだけで満足する?)

 今まで守ってきたものを守り通すためには、そんなささやかな願いですら口にしてはいけない。

「旅先で見た夢もいつかは醒めます。薫さんも、きっと目を覚ますはずです。だから私は、ほとぼりが冷めるのを待つだけです」

 顔を上げ真っ直ぐに井上さんと向き合うと、自分の覚悟をハッキリと伝える。井上さんはそんな私に目を見張り、そして諦めたように一息吐いた。

「わかりました。もう何も言いません。ただ、手助けをしたいと言う気持ちは変わりません。私も、父の顔を知らずに育った身。その苦労はわかっているつもりです」

 慈しむような表情に切り替わった井上さんはそのまま続けた。

「私のことを頼ってください。友人の一人として」
「そんな! 友人だなんて」
「私はそう思っていただけると、嬉しいですが」

 冷淡にも見える顔立ちなのに、本当はそうじゃない。今はとても穏やかに微笑んでくれていた。

 
――井上さんが店を訪れてから一週間が経った。

 あれからも、今までと変わらない普段通りの生活。ただ一つ変わったことは、井上さんから連絡がくるようになったことだ。
 井上さんからメールが届いたのは翌日のこと。突然の訪問を謝罪する内容と、よければコーヒーの話を聞かせてください、と書いてあった。それに返信するとまたメールが届いた。今度は、来週セレーノに行くから、職場用のコーヒー豆を選んでくれないか、という内容だった。
 もちろん私は『喜んでお手伝いします』と返し、来店予定日時を聞いておいた。

「桝田さん。お客様が豆を一緒に選んで欲しいとご指名です」
 
 午後の忙しい時間帯が過ぎた頃、カウンターに入っていた私に声がかかる。
 
「ご対応してきますね」

 他のスタッフに告げると、カウンターを出て物販コーナーに向かう。
 豆が並ぶ棚の前には、予定通りの時間に現れた井上さんの姿があった。けれどいつもと違うのは、今日はいつものカチッとしたスーツ姿ではなく、ジャケットこそ着ているものの、とてもカジュアルな装いだった。

「お待たせいたしました」
「すみません。こちらこそお呼びたてして」
「とんでもない! ところで、何かお好みのものはありましたか?」

 私が向かうまでに豆を吟味しているようだった。その姿が目に入りそう尋ねてみた。

「会社用には、一日中飲めそうな軽めのもので。あとは自宅用に、目覚ましになりそうなものにしようかと」

 要望を聞き、さっそく棚からいくつかチョイスすると説明を始める。彼はそれを、興味深そうに聞いてくれていた。

「お仕事は何時までですか? お渡ししたいものもあるので、よければ送らせてください」

 買ってくれた豆を挽き、待っていた井上さんに渡すとそう切り出される。知っているのではないかと思うほど絶妙な時間。退勤時間までは三十分を切っていた。もちろん断ったが、「荷物になりますし、ついでです」とさらりと返され、それ以上断ることはできなかった。

「本当にすみません」

 店の近くにで落ち合い、井上さんの車に乗ると、隣りに向かい頭を下げた。

「何をおっしゃるんですか。それに、下心もありましたし」

 行き先を尋ねることなく車を走らせ、彼は含み笑いで答える。

「下……心……?」

 ドキリとして思わず復唱すると、井上さんは笑みを浮かべていた。

「えぇ。お子さんのお顔を見せていただけないかなと。先日は眠っていらしたので」
「あ……。ふうの……」

 一瞬こわばった体の緊張を緩めると、私は呟いた。

「ええ。そういえば、お名前はなんとおっしゃるんですか?」
「風香……です。風の香り、と書きます」

 私が付けたこの名前。いったいどう思われるだろう。何をイメージしたかなんて、風香の父親を知っていれば、すぐ分かるはずなのだから。

「風香さん……。いい名前です」

 井上さんは目を細め、噛み締めるように言った。
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