想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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 薫さんに偶然会ってから、本当は店に出るのが怖かった。自分が勤務する店は井上さんが知っている。知ろうと思えば、すぐ知ることができるはずなのだ。けれど、いまさらなのかも知れない。ローマで出会ったのはもう1年半も前。彼がこの店を訪れた話など聞いてない。そう思うと少し肩の力も抜け、普段通り仕事に勤しんだ。
 
 あっという間に五月に入った。大型連休も乗り切り、また日常が戻ったころそれは起こった。

「えっ! 熱? 大丈夫なの?」

 早出だった真砂子から電話があったのは、勤務時間が終わった直後だった。

『ごめん、亜夜。明日私、遅出なんだけど、都合がつく人がいないらしいの。ふうはお母さんがみるって言ってるし、明日代わってもらえないかな? このとおりっ!』

 鼻声で辛そうな真砂子の声。電話の向こうで手を合わせている様子が目に浮かぶようだ。

「代わるのは問題ないよ。私のほうこそ、ふうを遅くまで見てもらうほうが申し訳ないというか……」

 遅出は閉店作業も含まれる。風香が生まれる前は私もシフトに入っていたが、帰宅が夜9時を回るから今は免除してもらっている。

『こっちこそ、明日休みだったのに無理言ってごめん!』
「ううん? わかった。お大事にね。また明日、連絡する」
『ありがとっ!』

 とりあえず元気そうな真砂子に安心しながら、私は電話を切った。

 遅出となる勤務時間は午後からだ。いつも通りに風香を保育園に預けるといったん帰宅する。そのあと、風香の夕食用の離乳食やおばさんのための夕食を準備した。何度も来てくれていて合鍵も預けてあるが、念のため着替えなどもわかりやすい場所に置いて家を出た。
 今日は一日雨予報。朝はそれほどでもなかった雨は、だんだんとその雨足も強くしていた。

(今日はお客様も少ないかも……)

 急な豪雨の雨宿りで不意に混み合うことはあるが、一日中雨の日はどちらかと言えばお客様は少ない。特に今日は、夜にかけて降る予報で、閉店時間には来客も少ないだろうと予想し、まさにその通りになっていた。

「雨、結構降ってましたよ」

 外にゴミを捨てに行き戻った桃ちゃんの肩口は雨で濡れている。

「やっぱり? さっきのお客様も結構酷い雨だっておっしゃってたから。今日は閉店作業も早く終わりそうだし、桃ちゃんは時間がきたらすぐ上がってね」
「ありがとうございます。亜夜さん。じゃあ私、先に奥片付けときますね」
「うん。お願い」

 時間は夜七時を回ったところだ。この店のラストオーダーはイートインなら七時半、テイクアウトは七時四十五分。さっきから客足は途絶えていて、今日はすんなり帰れそうだ。
 結局そのあとも数人しか来店せず、いよいよ本格的に閉店作業に入ろうかと、備品の補充にかかりきりになっていて、その来客に気づいていなかった。

「すみません。オーダーよろしいでしょうか?」

 カウンターに背を向けていた私はその声に慌てて振り返り、そして硬直した。

「い……のうえ、さん……」
「ご無沙汰しております。亜夜さん」

 ライトグレーのスーツに身を包んだ井上さんは、変わらずのポーカーフェイスだ。

「お久しぶり……です」

 井上さんは店に何度か訪れたことがあるとオーナーから聞いている。それも私が育児休暇を取っているあいだに。
 オーナーには、『もし私の所在を聞かれても、実家の都合でしばらく田舎に帰っていると伝えて欲しい』と念押ししておいた。そして、その通り伝わっているはずだ。

「マキアートをお願いできますか?」

 井上さんは何事もないかのように淡々とオーダーを口にする。構えていた私は拍子抜けして、肩の力を抜くとそれに答えた。

「かしこまりました。店内でお召し上がりですか?」
「はい」
「閉店時間は八時ですがよろしいでしょうか?」
 
 時間はギリギリ七時半になるところだ。店の中に残っているお客様も二人ほどしかいなかった。

「ええ」

 短く返事をした井上さんは会計を済ませると、お渡し用のカウンターに移動する。井上さんが迷うことなくそちらに行くのを見て、ここに訪れたことがあるのを実感した。
 すぐにエスプレッソマシンに向かい準備を始める。日本ではカフェラテのほうがメジャーだから、マキアートにしたのは私がローマで勧めたのを覚えてくれているのかも知れない。

「お待たせしました。マキアートです」

 カウンターにカップを置くと井上さんはそれを受け取りながらまっすぐ私に向いた。

「亜夜さん。お尋ねしたいことがあります。お時間をいただけないでしょうか?」
「私に……ですか?」

 心臓が音を立て、鼓動が早くなる。尋ねられるようなことに心当たりはない。立ち込める暗雲に足がすくみそうになりながら、それでも笑顔を作り言う。

「私で……お役に立てるなら」
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