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(嘘…………。でしょう?)
その姿を見た途端声を漏らしてしまいそうになり、慌てて自分で自分の口を塞ぎ俯いた。
「お待たせして申し訳ありません、乃々花さん。……どうかされましたか?」
「薫さま。こちらのかたに、具合がお悪いのかとお声をかけたのですが……」
(お願い。気づかないで……)
一瞬目に入っただけの涼しげな美しい容姿はあのときのまま。そして記憶に残っていた通りの、低い艶やかな声。何もかも変わっていなかった。
それに対して、自分は何もかも変わってしまった。背中まであった髪は、今では肩にかからないほど短く切っている。動きやすさを重視した、シンプルな服装はおしゃれというには程遠い。だから、ほんの一晩遊んだ相手のことなど、覚えているはずがない。
なのに、どうして……。
「……亜夜……?」
驚いたように薫さんが口にしたのは、間違いなく自分の名だった。
「薫さまのお知り合いでしたのですね?」
なんの疑いもなく、屈託のない声で彼女は薫さんに尋ねている。けれど薫さんは黙ったままだった。
(そうか……。この女性が薫さんの本物の婚約者……)
『お嬢様』と言われていたのは揶揄じゃなく、本当のことのようだ。ここにいるのは、住む世界がまるで違う人たち。そんな人たちの前に、私の出る幕などあるはずもない。
「すみません。お騒がせして。私はもう大丈夫です」
俯いたまま、なんとか彼女に届くくらいの小さな声で言うと、そのまま目の前にあった化粧室に駆け込む。
『亜夜っ!』
薫さんの、叫ぶような声が聞こえたのはきっと気のせいだ。私の記憶にある彼は、そんな感情を露わにするような人ではなかったはずだ。
そのまま個室に飛び込み鍵を閉めると、その場で肩から息を吐き出していた。
(こんな偶然があるなんて……)
薫さんの経営する会社の所在地は覚えている。それはこの近くではなかった。よほどのことがない限り、会うことなどないと思っていた。
(ふうを連れてなくてよかった……)
万が一でも、余計な火種を持ち込みたくない。薫さんが風香を誰の子か、疑うようなことはあってはならないのだから。
立ったまま溜め息を繰り返していると、バッグの中からメッセージの通知音が聞こえた。
『亜夜大丈夫? 体調悪い?』
真砂子からの短いメッセージ。私はそれに『大丈夫。目にゴミが入って痛かっただけだから。今から戻るね』と返した。
気持ちを落ち着け、辺りを伺うように化粧室を出る。幸い二人の姿はなかった。それでも気を抜けず、隠れるように歩いた。
(あれは……?)
ラウンジに入るとテラス席が目に入る。遠くでよく見えないが、真砂子のそばに立っている男性がいた。まさか、と目を凝らして見ると、薫さんが着ていたダークな色のスーツとは違い、その人はライトグレーのスーツを着ていた。
自分が席に戻る前にその人は去り、真砂子は席を立ち上がる。
(ふう、起きちゃったんだ!)
風香を抱き上げあやすように揺れている真砂子を見て、慌てて席に戻った。
「ごめん! 真砂子。ふうの面倒まで」
「あっ、亜夜。大丈夫?」
真砂子は自分の子どものように、慣れた様子で風香をあやしている。起きたばかりの風香は、まだ眠そうな顔をしていた。
「うん。ごめんね、驚かせて。ふう、ありがとう。代わるから」
「いいって。亜夜はゆっくり飲みなよ」
「助かる。すぐ飲んじゃうね」
冷め切ったマキアート。せっかく淹れてくれた人に申し訳ない気持ちになりながら、味わうことなく流し込む。それは、今の自分の気持ちくらい苦々しいものに変わっていた。
「そういえば、さっき誰かと話してなかった?」
立ったままの真砂子に尋ねると、少しだけ動揺したように瞳が揺れる。
「えっと、店のお客さん。私を見つけて声かけてくれたみたい」
なんとなく様子はおかしいように見えたが、それ以上は言いたくないようだ。私は「そう」とだけ答えた。
その姿を見た途端声を漏らしてしまいそうになり、慌てて自分で自分の口を塞ぎ俯いた。
「お待たせして申し訳ありません、乃々花さん。……どうかされましたか?」
「薫さま。こちらのかたに、具合がお悪いのかとお声をかけたのですが……」
(お願い。気づかないで……)
一瞬目に入っただけの涼しげな美しい容姿はあのときのまま。そして記憶に残っていた通りの、低い艶やかな声。何もかも変わっていなかった。
それに対して、自分は何もかも変わってしまった。背中まであった髪は、今では肩にかからないほど短く切っている。動きやすさを重視した、シンプルな服装はおしゃれというには程遠い。だから、ほんの一晩遊んだ相手のことなど、覚えているはずがない。
なのに、どうして……。
「……亜夜……?」
驚いたように薫さんが口にしたのは、間違いなく自分の名だった。
「薫さまのお知り合いでしたのですね?」
なんの疑いもなく、屈託のない声で彼女は薫さんに尋ねている。けれど薫さんは黙ったままだった。
(そうか……。この女性が薫さんの本物の婚約者……)
『お嬢様』と言われていたのは揶揄じゃなく、本当のことのようだ。ここにいるのは、住む世界がまるで違う人たち。そんな人たちの前に、私の出る幕などあるはずもない。
「すみません。お騒がせして。私はもう大丈夫です」
俯いたまま、なんとか彼女に届くくらいの小さな声で言うと、そのまま目の前にあった化粧室に駆け込む。
『亜夜っ!』
薫さんの、叫ぶような声が聞こえたのはきっと気のせいだ。私の記憶にある彼は、そんな感情を露わにするような人ではなかったはずだ。
そのまま個室に飛び込み鍵を閉めると、その場で肩から息を吐き出していた。
(こんな偶然があるなんて……)
薫さんの経営する会社の所在地は覚えている。それはこの近くではなかった。よほどのことがない限り、会うことなどないと思っていた。
(ふうを連れてなくてよかった……)
万が一でも、余計な火種を持ち込みたくない。薫さんが風香を誰の子か、疑うようなことはあってはならないのだから。
立ったまま溜め息を繰り返していると、バッグの中からメッセージの通知音が聞こえた。
『亜夜大丈夫? 体調悪い?』
真砂子からの短いメッセージ。私はそれに『大丈夫。目にゴミが入って痛かっただけだから。今から戻るね』と返した。
気持ちを落ち着け、辺りを伺うように化粧室を出る。幸い二人の姿はなかった。それでも気を抜けず、隠れるように歩いた。
(あれは……?)
ラウンジに入るとテラス席が目に入る。遠くでよく見えないが、真砂子のそばに立っている男性がいた。まさか、と目を凝らして見ると、薫さんが着ていたダークな色のスーツとは違い、その人はライトグレーのスーツを着ていた。
自分が席に戻る前にその人は去り、真砂子は席を立ち上がる。
(ふう、起きちゃったんだ!)
風香を抱き上げあやすように揺れている真砂子を見て、慌てて席に戻った。
「ごめん! 真砂子。ふうの面倒まで」
「あっ、亜夜。大丈夫?」
真砂子は自分の子どものように、慣れた様子で風香をあやしている。起きたばかりの風香は、まだ眠そうな顔をしていた。
「うん。ごめんね、驚かせて。ふう、ありがとう。代わるから」
「いいって。亜夜はゆっくり飲みなよ」
「助かる。すぐ飲んじゃうね」
冷め切ったマキアート。せっかく淹れてくれた人に申し訳ない気持ちになりながら、味わうことなく流し込む。それは、今の自分の気持ちくらい苦々しいものに変わっていた。
「そういえば、さっき誰かと話してなかった?」
立ったままの真砂子に尋ねると、少しだけ動揺したように瞳が揺れる。
「えっと、店のお客さん。私を見つけて声かけてくれたみたい」
なんとなく様子はおかしいように見えたが、それ以上は言いたくないようだ。私は「そう」とだけ答えた。
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