想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

文字の大きさ
上 下
16 / 81
2.due

due-5

しおりを挟む
 散々悩んだ挙句、真砂子はオリジナルブレンドコーヒーを選んだ。そして私は……。

「お店でも飲めるのにほんとにこれにするの? って言ってもうちでは一ヶ月に一回しか出せないものが、ここじゃレギュラーメニューに載ってるって凄いけど」

 真砂子が言うのも無理はない。店でスペシャリティとしているものが、ここに当然のように載っている。けれどさすがに、ほかのものより希少なぶん値段はそれなりだ。

「私もしばらく飲んでないし……。人に淹れてもらったのが飲みたいなって」

 私がこれを飲むのは謝礼として貰った豆を店で飲んだとき以来だ。今日それを飲みたくなってしまったのは、懐かしい雰囲気の場所にいるからだろうか。

「――ご注文は以上でしょうか。では、しばらくお待ちくださいませ」

 オーダーを確認しウェイターが去ると、真砂子は一息吐き椅子に凭れかかった。

「この庭、ガーデンウェディングできるんだって。あっちに見えるのはチャペルかな? 素敵だねぇ」

 庭の中心にある噴水の向こう側には、今は閉まっているが木製の扉がみえる。庭はホテルの中だと思えないほど広く、植物を愛でながら散策しているゲストもいるようだ。

「ほんと素敵。お庭だけでも楽しめるっていいね」
「うん。癒されるわぁ。うちの店にももっと緑増やしたほうがいいかな? オーナーに相談してみよう!」
「いいね。どんな植物にする?」

 そんな話に花を咲かせていると、トレーにオーダーした品を乗せたウェイターがやってきた。それが目の前に置かれるだけで、真砂子は目を輝かせてた。

「おぉっ! いい香り!」

 真砂子はさっそくカップを手で覆いその香りを確認している。それから水を飲み、コーヒーをスプーンで掬うとそれを啜る。

「真砂子? 職業病が出てるわよ?」

 クスクスと笑いながら指摘すると、真砂子は「つい……」と恥ずかしそうににスプーンを置いた。
 店ではドリップコーヒーの担当をしている真砂子は、ここのブレンドが気になったのだろう。周りから見れば謎な行動でも、同業者から見ればテイスティングそのものだ。
 そして私は自分の選んだ、美しい黄金色の泡が浮かぶマキアートに視線を落とした。香りが記憶を刺激する。恐る恐るカップを口に運び一口含むと、否が応でもその光景が蘇った。

『とても……美味い』

 薫さんの、艶のあるその声が脳裏に響く。
 あれからもう一年半も経つのに、こんなにもはっきりとその声を想い出してしまうなんて。時が経てば自然に忘れてしまうだろう。そう思っていたのに。けれど、違った。心の奥に閉じ込めていたはずの想いは、その懐かしさとともに溢れ出ていた。

「……亜夜?」

 カップを見つめたまま動けなくなっていた私に、真砂子が訝しげな声を出す。

「ごっ、ごめんっ。ちょっとお手洗いに行ってくるね」

 とめどなく溢れる涙を見せないように立ち上がると、カップを置いてその場を走るように去る。
 慌ててラウンジを出て、中庭に面したガラスの壁を伝うように奥へ向かう。風香のオムツを替えるときに必要だろうと、先にお手洗いの場所を確認していて正解だった。突き当たりにあるその場所の前には、長椅子がいくつか並んでいて、空いた場所を見つけるとそこへ腰をかけた。

(ほんと……馬鹿だな)

 こんなにも恋しくなるなんて、思ってなかった。でも、これはただの想い出だ。美しい想い出。だからこそ、ときおり心の隙間につけ込むように現れるのだ。
 まだ冷静になりきれず、俯いたまま鼻を啜る。慌てて席を立ったから、涙を拭うものなど持ち合わせいなかった。

「……あの。大丈夫、ですか?」

 隣から心配そうな若い女性の声がした。俯いたままみっともなく指で涙を拭うと、少しだけ顔を上げる。そこには、可愛らしい声を裏切らない、とても愛らしい女性が、綺麗にプレスされたハンカチを差し出していた。
 背中まで届く綺麗に切り揃えられた黒髪は、白い肌と細い手足が相まって儚げな雰囲気を醸し出している。そしてその顔は、大きな瞳が印象的で、品の良い所作に育ちの良さを伺わせた。

「お体のお加減でも悪いのですか? どなたかお呼びいたしましょうか?」

 彼女に丁寧な口調で尋ねられ、私は小さく首を振る。

「だ……いじょうぶ、です。お気遣いありがとうございます……」
「それならよろしいのですが……」

 まだ心配そうにしている彼女は、持っていたハンカチをバッグにしまう。
 そのときだ。こちらに向かってくる男性の影が見えたのは。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ウブな政略妻は、ケダモノ御曹司の執愛に堕とされる

Adria
恋愛
旧題:紳士だと思っていた初恋の人は私への恋心を拗らせた執着系ドSなケダモノでした ある日、父から持ちかけられた政略結婚の相手は、学生時代からずっと好きだった初恋の人だった。 でも彼は来る縁談の全てを断っている。初恋を実らせたい私は副社長である彼の秘書として働くことを決めた。けれど、何の進展もない日々が過ぎていく。だが、ある日会社に忘れ物をして、それを取りに会社に戻ったことから私たちの関係は急速に変わっていった。 彼を知れば知るほどに、彼が私への恋心を拗らせていることを知って戸惑う反面嬉しさもあり、私への執着を隠さない彼のペースに翻弄されていく……。

月城副社長うっかり結婚する 〜仮面夫婦は背中で泣く〜

白亜凛
恋愛
佐藤弥衣 25歳 yayoi × 月城尊 29歳 takeru 母が亡くなり、失意の中現れた謎の御曹司 彼は、母が持っていた指輪を探しているという。 指輪を巡る秘密を探し、 私、弥衣は、愛のない結婚をしようと思います。

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

地味系秘書と氷の副社長は今日も仲良くバトルしてます!

めーぷる
恋愛
 見た目はどこにでもいそうな地味系女子の小鳥風音(おどりかざね)が、ようやく就職した会社で何故か社長秘書に大抜擢されてしまう。  秘書検定も持っていない自分がどうしてそんなことに……。  呼び出された社長室では、明るいイケメンチャラ男な御曹司の社長と、ニコリともしない銀縁眼鏡の副社長が風音を待ち構えていた――  地味系女子が色々巻き込まれながら、イケメンと美形とぶつかって仲良くなっていく王道ラブコメなお話になっていく予定です。  ちょっとだけ三角関係もあるかも? ・表紙はかんたん表紙メーカーで作成しています。 ・毎日11時に投稿予定です。 ・勢いで書いてます。誤字脱字等チェックしてますが、不備があるかもしれません。 ・公開済のお話も加筆訂正する場合があります。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

貧乏大家族の私が御曹司と偽装結婚⁈

玖羽 望月
恋愛
朝木 与織子(あさぎ よりこ) 22歳 大学を卒業し、やっと憧れの都会での生活が始まった!と思いきや、突然降って湧いたお見合い話。 でも、これはただのお見合いではないらしい。 初出はエブリスタ様にて。 また番外編を追加する予定です。 シリーズ作品「恋をするのに理由はいらない」公開中です。 表紙は、「かんたん表紙メーカー」様https://sscard.monokakitools.net/covermaker.htmlで作成しました。

アラフォー×バツ1×IT社長と週末婚

日下奈緒
恋愛
仕事の契約を打ち切られ、年末をあと1か月残して就職活動に入ったつむぎ。ある日街で車に轢かれそうになるところを助けて貰ったのだが、突然週末婚を持ち出され……

処理中です...