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散々悩んだ挙句、真砂子はオリジナルブレンドコーヒーを選んだ。そして私は……。
「お店でも飲めるのにほんとにこれにするの? って言ってもうちでは一ヶ月に一回しか出せないものが、ここじゃレギュラーメニューに載ってるって凄いけど」
真砂子が言うのも無理はない。店でスペシャリティとしているものが、ここに当然のように載っている。けれどさすがに、ほかのものより希少なぶん値段はそれなりだ。
「私もしばらく飲んでないし……。人に淹れてもらったのが飲みたいなって」
私がこれを飲むのは謝礼として貰った豆を店で飲んだとき以来だ。今日それを飲みたくなってしまったのは、懐かしい雰囲気の場所にいるからだろうか。
「――ご注文は以上でしょうか。では、しばらくお待ちくださいませ」
オーダーを確認しウェイターが去ると、真砂子は一息吐き椅子に凭れかかった。
「この庭、ガーデンウェディングできるんだって。あっちに見えるのはチャペルかな? 素敵だねぇ」
庭の中心にある噴水の向こう側には、今は閉まっているが木製の扉がみえる。庭はホテルの中だと思えないほど広く、植物を愛でながら散策しているゲストもいるようだ。
「ほんと素敵。お庭だけでも楽しめるっていいね」
「うん。癒されるわぁ。うちの店にももっと緑増やしたほうがいいかな? オーナーに相談してみよう!」
「いいね。どんな植物にする?」
そんな話に花を咲かせていると、トレーにオーダーした品を乗せたウェイターがやってきた。それが目の前に置かれるだけで、真砂子は目を輝かせてた。
「おぉっ! いい香り!」
真砂子はさっそくカップを手で覆いその香りを確認している。それから水を飲み、コーヒーをスプーンで掬うとそれを啜る。
「真砂子? 職業病が出てるわよ?」
クスクスと笑いながら指摘すると、真砂子は「つい……」と恥ずかしそうににスプーンを置いた。
店ではドリップコーヒーの担当をしている真砂子は、ここのブレンドが気になったのだろう。周りから見れば謎な行動でも、同業者から見ればテイスティングそのものだ。
そして私は自分の選んだ、美しい黄金色の泡が浮かぶマキアートに視線を落とした。香りが記憶を刺激する。恐る恐るカップを口に運び一口含むと、否が応でもその光景が蘇った。
『とても……美味い』
薫さんの、艶のあるその声が脳裏に響く。
あれからもう一年半も経つのに、こんなにもはっきりとその声を想い出してしまうなんて。時が経てば自然に忘れてしまうだろう。そう思っていたのに。けれど、違った。心の奥に閉じ込めていたはずの想いは、その懐かしさとともに溢れ出ていた。
「……亜夜?」
カップを見つめたまま動けなくなっていた私に、真砂子が訝しげな声を出す。
「ごっ、ごめんっ。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
とめどなく溢れる涙を見せないように立ち上がると、カップを置いてその場を走るように去る。
慌ててラウンジを出て、中庭に面したガラスの壁を伝うように奥へ向かう。風香のオムツを替えるときに必要だろうと、先にお手洗いの場所を確認していて正解だった。突き当たりにあるその場所の前には、長椅子がいくつか並んでいて、空いた場所を見つけるとそこへ腰をかけた。
(ほんと……馬鹿だな)
こんなにも恋しくなるなんて、思ってなかった。でも、これはただの想い出だ。美しい想い出。だからこそ、ときおり心の隙間につけ込むように現れるのだ。
まだ冷静になりきれず、俯いたまま鼻を啜る。慌てて席を立ったから、涙を拭うものなど持ち合わせいなかった。
「……あの。大丈夫、ですか?」
隣から心配そうな若い女性の声がした。俯いたままみっともなく指で涙を拭うと、少しだけ顔を上げる。そこには、可愛らしい声を裏切らない、とても愛らしい女性が、綺麗にプレスされたハンカチを差し出していた。
背中まで届く綺麗に切り揃えられた黒髪は、白い肌と細い手足が相まって儚げな雰囲気を醸し出している。そしてその顔は、大きな瞳が印象的で、品の良い所作に育ちの良さを伺わせた。
「お体のお加減でも悪いのですか? どなたかお呼びいたしましょうか?」
彼女に丁寧な口調で尋ねられ、私は小さく首を振る。
「だ……いじょうぶ、です。お気遣いありがとうございます……」
「それならよろしいのですが……」
まだ心配そうにしている彼女は、持っていたハンカチをバッグにしまう。
そのときだ。こちらに向かってくる男性の影が見えたのは。
「お店でも飲めるのにほんとにこれにするの? って言ってもうちでは一ヶ月に一回しか出せないものが、ここじゃレギュラーメニューに載ってるって凄いけど」
真砂子が言うのも無理はない。店でスペシャリティとしているものが、ここに当然のように載っている。けれどさすがに、ほかのものより希少なぶん値段はそれなりだ。
「私もしばらく飲んでないし……。人に淹れてもらったのが飲みたいなって」
私がこれを飲むのは謝礼として貰った豆を店で飲んだとき以来だ。今日それを飲みたくなってしまったのは、懐かしい雰囲気の場所にいるからだろうか。
「――ご注文は以上でしょうか。では、しばらくお待ちくださいませ」
オーダーを確認しウェイターが去ると、真砂子は一息吐き椅子に凭れかかった。
「この庭、ガーデンウェディングできるんだって。あっちに見えるのはチャペルかな? 素敵だねぇ」
庭の中心にある噴水の向こう側には、今は閉まっているが木製の扉がみえる。庭はホテルの中だと思えないほど広く、植物を愛でながら散策しているゲストもいるようだ。
「ほんと素敵。お庭だけでも楽しめるっていいね」
「うん。癒されるわぁ。うちの店にももっと緑増やしたほうがいいかな? オーナーに相談してみよう!」
「いいね。どんな植物にする?」
そんな話に花を咲かせていると、トレーにオーダーした品を乗せたウェイターがやってきた。それが目の前に置かれるだけで、真砂子は目を輝かせてた。
「おぉっ! いい香り!」
真砂子はさっそくカップを手で覆いその香りを確認している。それから水を飲み、コーヒーをスプーンで掬うとそれを啜る。
「真砂子? 職業病が出てるわよ?」
クスクスと笑いながら指摘すると、真砂子は「つい……」と恥ずかしそうににスプーンを置いた。
店ではドリップコーヒーの担当をしている真砂子は、ここのブレンドが気になったのだろう。周りから見れば謎な行動でも、同業者から見ればテイスティングそのものだ。
そして私は自分の選んだ、美しい黄金色の泡が浮かぶマキアートに視線を落とした。香りが記憶を刺激する。恐る恐るカップを口に運び一口含むと、否が応でもその光景が蘇った。
『とても……美味い』
薫さんの、艶のあるその声が脳裏に響く。
あれからもう一年半も経つのに、こんなにもはっきりとその声を想い出してしまうなんて。時が経てば自然に忘れてしまうだろう。そう思っていたのに。けれど、違った。心の奥に閉じ込めていたはずの想いは、その懐かしさとともに溢れ出ていた。
「……亜夜?」
カップを見つめたまま動けなくなっていた私に、真砂子が訝しげな声を出す。
「ごっ、ごめんっ。ちょっとお手洗いに行ってくるね」
とめどなく溢れる涙を見せないように立ち上がると、カップを置いてその場を走るように去る。
慌ててラウンジを出て、中庭に面したガラスの壁を伝うように奥へ向かう。風香のオムツを替えるときに必要だろうと、先にお手洗いの場所を確認していて正解だった。突き当たりにあるその場所の前には、長椅子がいくつか並んでいて、空いた場所を見つけるとそこへ腰をかけた。
(ほんと……馬鹿だな)
こんなにも恋しくなるなんて、思ってなかった。でも、これはただの想い出だ。美しい想い出。だからこそ、ときおり心の隙間につけ込むように現れるのだ。
まだ冷静になりきれず、俯いたまま鼻を啜る。慌てて席を立ったから、涙を拭うものなど持ち合わせいなかった。
「……あの。大丈夫、ですか?」
隣から心配そうな若い女性の声がした。俯いたままみっともなく指で涙を拭うと、少しだけ顔を上げる。そこには、可愛らしい声を裏切らない、とても愛らしい女性が、綺麗にプレスされたハンカチを差し出していた。
背中まで届く綺麗に切り揃えられた黒髪は、白い肌と細い手足が相まって儚げな雰囲気を醸し出している。そしてその顔は、大きな瞳が印象的で、品の良い所作に育ちの良さを伺わせた。
「お体のお加減でも悪いのですか? どなたかお呼びいたしましょうか?」
彼女に丁寧な口調で尋ねられ、私は小さく首を振る。
「だ……いじょうぶ、です。お気遣いありがとうございます……」
「それならよろしいのですが……」
まだ心配そうにしている彼女は、持っていたハンカチをバッグにしまう。
そのときだ。こちらに向かってくる男性の影が見えたのは。
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