想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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 ローマ留学から帰ってしばらくして、私は自分の体調の異変に気がついた。
 留学時には生理をコントロールするためピルを使用していた。だから、そんなはずはないと自分に言い聞かせて、恐る恐る検査キットを使った。そこに表示されたラインに愕然としながら、今度は病院を受診した。結果は妊娠7週目。医者の見立てでは、ピルがなんらかの事情でうまく作用しなかったのでは、ということだった。

『手術するなら早めに……』

 未婚なうえ、明らかな避妊の失敗。医者が事務的に言うのを、私は強い口調で遮った。

『産みます。誰がなんと言おうと、絶対に』

 けれど、現実は厳しい。
 留学で貯金のほとんどを使い果たしていた私に押し寄せる不安。そのうえホルモンのバランスが崩れ、ナーバスになっていた。そんな私の変化に真っ先に気がついたのは真砂子だった。

『私、妊娠したの。相手には言えないけど、でも産みたい……』

 泣きながら真砂子に告白したのは、あと数分で年も明けるという大晦日だった。

 『亜夜の子どもなら、私の子どもも同然!』

 明るく冗談めかして言う真砂子に、私は救われていた。

 次に、オーナーに話をした。
 体調を崩して店に迷惑をかけてしまうかも知れない。だから、話さないわけにはいかなかった。
 オーナーは驚きながらも、『できる限りのサポートをするよ』と言ってくれた。色々と制度を調べて支援してくれて、育児休業も気兼ねなく取らせてもらえることになった。
 それから、真砂子のお母さんにも支えてもらった。
 真砂子が小さいころにご主人と死別したおばさんは、小児科で看護師をしている。片親の苦労を知ったうえで、『頼れるものには頼ったらいいの。だから私に甘えなさい』と言ってくれた。涙が出た。この人が自分の母親だったらどんなに幸せだっただろう。私は何度もそう思った。実家にも母にも、頼ることはできなかったから。
 実家には、安定期に入ってから電話をした。元々母しか電話を取ることはないが、それでも母しかいないだろう時間を狙って。

『結婚はしていないけど、子どもができたの。予定日は八月』

 久しぶりの会話が弾むこともなく、淡々と告げる私に返ってきたのは『勝手にしなさい』の一言だけ。そう言われるのも、無理はない。渋々入学させてもらった専門学校を卒業後、当然田舎に帰るはずの私が、両親の反対を押し切ってそのまま東京に残ったのだから。
 はなから良いとは言えなかった両親との関係は、途絶えまま今も何の連絡もない。けれど、娘には可愛がってくれる人がたくさんいる。たとえ血がつながっていなくとも。

 (父親に会わせてあげることができなくても、そのぶん私がたくさん愛情を注ぐから……)

 私を見上げるその愛らしい顔は、だんだんと父親に似てきていた。

「ねぇねえ、亜夜ぁ」

 復帰して数日。今日は初めて真砂子と同じシフトだ。保育園の前で待ち合わせして一緒に通勤する途中、真砂子が思い出したように私に話しかけてきた。

「なぁに? どうしたの?」
「ほら、店の近くにホテルできたでしょ?」
「うん。テレビで見たけど、すごいねぇ」

 私たちが使う路線とは違う駅の前。そこに今年の二月の終わりにできたのは、外資系ラグジュアリーホテル。
 休みのあいだ、お昼の情報系バラエティー番組で何度か見かけたが、内装から調度品、レストランなど、全てがゴージャスで、庶民が気軽に足を踏み入れる場所じゃないなと眺めていた。

「私も一回だけ見に行ってみたんだけど、もう、ザ高級! って感じ」
「だよね。テレビの画面見てても思ったもん。で、そこがどうしたの?」
「それが、ロビーラウンジのコーヒー! すっごく美味しいんだって。もちろん値段もそれなりに……だけど。だから亜夜。来週の休み、ちょうど同じ日じゃない? 行ってみようよ!」

 地下鉄から地上に上がり、店まで歩きながら真砂子は言う。

「うーん……。興味はあるけど、ふうを連れて行くのは……」

 仕事が休みの日は、保育園には預けられない決まりだ。こんな街中まで風香を連れて来たことがなく心配だった。

「私もついてるし、暖かくなってきたから、ふうもたまにはお出かけしようよ! ね?」

 期待に満ちた眼差しの真砂子に、大人が二人いればなんとかなるかと「分かった」と頷いた。
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