想い出は珈琲の薫りとともに

玻璃美月

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「あっ。桝田さん!」

 ほう、と一つ溜め息を吐くと、背後から明るい声が聞こえてきた。ずっとこの店で働いている、アルバイトのももちゃんの声だ。

「わーん! お久しぶりですぅ!」

 泣き真似するように言って、桃ちゃんは私にしがみつく。

「元気そうでよかった。桃ちゃん」
「はい! 私はとっても元気です!」

 私の三つほど年下の彼女は、大学卒業後、自分の夢を叶えるためアルバイトでお金を貯めているのだと言う。明るく元気で、いつも周りを明るくさせてくれる、そんな子だ。

「あ、そうだ。お客様がコーヒー豆の相談したいって。亜夜さん聞いてもらってもいいですか?」

 店では挽く前の豆やドリップコーヒーなどを販売をしている物販コーナーがある。お客様の好みに応じて提案し、店で挽いたものをお渡ししているのだ。

「OK。ご対応してくるね」

 カウンターを出るとぐるりと周り、商品棚に向かう。小柄な年配の女性が棚を見上げているのが見えた。

「高田様! 大変ご無沙汰しております」
「あら、桝田さん。お久しぶり」

 見知った顔にホッとしながら笑顔を向ける。祖母と言っていい年齢のこのお客様は、足のお悪いご主人のため、遠方から定期的に買いに来てくれていた。今もまだ通ってくれていたことが嬉しくなった。

「また桝田さんにお会いできて嬉しいわ」
「はい。私もお元気そうなお顔を拝見できて嬉しいです」

 高田様とお話ししながら、豆を選ぶ。私がいない間に置くようになったものもあるが、オーナーや真砂子が定期的に情報をくれていたおかげで、まるで昨日も店にいたようにスムーズにご提案できた。

「また来るわね」
 
惹き終わった豆の入る袋を渡すと、彼女はふんわりと優しい笑みを浮かべる。

「はい。お待ちしております」

 彼女に感化され、優しい気持ちになりながら、店を出る彼女の姿を目で追っていた。

 久しぶりの勤務も無事終わり、定時になるとすぐに職場を出る。寄り道することなく電車に乗り、三十分ほどで最寄り駅に着くと、その足で家ではない場所に向かった。
 予定通りの時間にその門をくぐり抜け、すれ違う人と挨拶を交わしながらそこに向かう。この時間になったのは今日が初めてで、どうしているだろうかとドキドキする。

「おかえりなさい」

 部屋に入ると、トレーナーにジャージ姿の女性が明るく出迎えてくれる。

風香ふうかちゃん。元気にしていましたよ」

 泣き顔の赤ちゃんを抱っこする彼女は、ニコニコしながら風香の様子を伝えくれた。そして、おもちゃが散らばるベビーフェンスの中には、お迎えを待つ他の子どもたちと一緒にちょこんと座る風香の姿があった。

「ふう。ママ帰ったよ。おうちに帰ろ?」

 理解できるのかわからないけど声を掛けてみると、腹ばいになった風香は器用に回転して、私に向くとニコッと笑った。
 私の大事な一人娘、風香はまもなく八ヶ月を迎える。この四月、無事保育園に入園し、慣らし保育も順調に終わった。そして今日、私は育児休業から復帰し、これから彼女は本格的な保育園生活が始まるのだ。

 持ち帰りの荷物を用意して、抱っこ紐に風香を入れると挨拶して部屋をあとにする。

「亜夜! ふう! おかえりっ!」

 保育園の門を出ると、先に帰った真砂子が、待ち構えていたように元気よく手を振っていた。何かあった時のためにと、彼女は慣らし保育にも付き合ってくれていて、今日も時間を見計らって様子を見に来てくれたようだ。

「真砂子。ここまで来なくってもよかったのに」
「いいでしょ。亜夜の復帰おめでとう会、早くしたくって。ね~?」

 今日は真砂子の家でご飯を食べる約束をしていた。手ぶらで来た彼女は私からさりげなく荷物を奪うと、笑顔で風香に話しかけている。風香も、生まれたときからそばにいる、大好きな真砂子に話しかけられ、嬉しそうに足をバタバタさせていた。

 遠方の田舎から出てきた私は、最初は通っていた専門学校の近くの小さなワンルームマンションに住んでいた。けれど就職し通勤が不便になった私は、真砂子に勧められてこの近くに引っ越した。ファミリー層もたくさん住んでいて治安も良く、近くには大きな公園もある、真砂子自慢の地元だ。
 それから、母と子二人で暮らす真砂子の家には何度もお邪魔した。おばさんも私のことを『もう一人娘ができたみたい』と優しく受け入れてくれた。もちろん、この子のことも。
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