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1.uno
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ホテルにあるエグゼクティブラウンジ。グレードの高い宿泊客が使えるこのラウンジに案内された。本来ならこの時間には閉まっているようで、扉にはクローズを表示する案内が掛けられている。薫さんがここまで同行していたスタッフと言葉を交わすと、彼は部屋から出ていく。他にスタッフの姿はなく、ラウンジの中はシンとしていた。
「さっきのエスプレッソなんだが、パーティーで人手が足りず、バリスタではないものが淹れたようなんだ。エドがそのお詫びに、ここにあるものは自由に使ってと言ってくれてね」
そう話す薫さんに促されたのは、ラウンジのカウンターの中。豆の入ったキャニスターからエスプレッソマシンまで、街のバールの雰囲気そのままに並べられていた。
「ありがとうございます」
まず棚にあるキャニスターを眺める。そこには中身が何なのかきちんと書かれていて、もちろん知っているものもあった。そして、その中にあったそのラベルを見て、思わずそれを手にしていた。
「これっ……」
「どうかしたのかい?」
「……私がお願いした豆と同じものです」
さすが、と言うべきなのだろうか。この希少なものが当たり前にここにあるのは。
「これを……使ってみてもいいでしょうか?」
「もちろんだとも」
落ち着いたトーンで返してくれる薫さんに、気持ちが軽くなる。
「じゃあ……。よければカウンターに座ってお待ちください」
街のバールと違い、バーを兼ねているからかカウンターには高さのあるチェアが備わっている。私が促すと、薫さんは口角を上げそれに返す。
「こんな機会は滅多にない。そばで見ていても構わないかい?」
「はい。もちろん」
笑顔で返したあと、せっかくだからと今から淹れるものを提案してみる。
「薫さん。さきほどエスプレッソをいただいたので、今度はマキアートにしようと思うんですが、よろしいですか?」
「まかせるよ」
その言葉に頷き、早速抽出作業に入る。ここからは、時間との勝負だ。
まずエスプレッソグラインダーに向かう。イタリアの有名メーカーのものは店にあるものと同じで、使い方は体が覚えている。慣れた手つきで豆を挽き始めた。
想像していた以上に芳醇な香りのする粉を、今度はマシンにセットする作業に入る。ホルダーに挽いた粉を入れならすと、それを今度はそれを押し固める。この作業一つで味に違いが出る重要な工程だ。今まで数えきれないほどやってきたこの動きは、癖のように自分に染み込んでいた。
デミタスカップをセットし、いよいよエスプレッソを抽出。独特のスチーム音がして、すぐに深い琥珀色の液体がカップに注がれ始めた。そのあいだにフォームドミルクを作り、エスプレッソの抽出が終わったカップにそれを注ぎ入れた。
「見事な手際だ……」
出来立てのマキアートを差し出すと、感心したように薫さんは呟く。
「ありがとうございます。よかったらお先にどうぞ」
「ありがとう。では、いただこう」
柔らかな表情でカップを受け取った薫さんは、早速それを口に運んでいる。私はドキドキしながらそれを見守っていた。
「とても……美味い。こんな深い味わいのマキアートは初めてだ」
目を見開いて言うその顔は、今までで一番と言っていいくらい表情を露わにしている。そんな顔でされると、それがお世辞ではないとはっきりと伝わってきた。
「嬉しいです。豆がとってもいいものでしたし、それを活かせたと思ってます」
自分のカップを持つと、芳醇な香りが鼻をくすぐる。美しい泡と混ざり合ったエスプレッソを一口含むと、口いっぱいにその香りは広がった。
「美味しい……。本当に美味しいですね」
想像以上の味に、自分が淹れたものとは思えないほど嬉しくなる。笑顔で顔を上げると、ふと薫さんの口元が目に入った。
「薫さん。泡が……」
無意識に手を伸ばし、その唇に付いた白い泡を指で拭う。
「あっ……」
(私はいったい何をしたの?)
慌てて引っ込めようとしたその手を、薫さんは捕まえ握った。
「……亜夜」
艶やかで穏やかな、でもほんのりと熱を帯びた声色で呼ばれて顔を上げる。視線がぶつかると、チリッと火花が散ったような気がした。そんな熱い視線を寄越す薫さんから、もう目が離すことなどできない。
「亜夜にも……ついている」
薫さんはそう言ってゆっくりと顔を近づける。そして唇が、その泡を拭っていた。
ほろ苦いのに甘い……。そんな、キスだった。
コーヒーには媚薬が含まれている。遥か昔にはそう信じられていたらしい。けれど、それは本当なのかも知れない。
部屋に戻れば鎮まるはずだった昂まった感情は、今も続いている。私たちはそれが当然のことのように唇を重ね、肌を合わせていた。
まだ出会って数日、数時間を共にしただけの関係。でも、この湧き出す感情を、旅先で見ている幻だと思いたくない。自分を熱く求めている薫さんの顔が滲んで見える。瞼を閉じるとそこから涙が零れ落ちていた。
(……好きです……。薫さん……)
時が、このまま止まってしまえばいい。愛されていると錯覚したままずっと。けれど恍惚としたこの時間も、まもなく終わりを迎えるだろう。日付けが変わっても消えることのなかったこの魔法は、太陽が姿を現すころ消えてしまうはずだ。
「さよなら。薫さん……」
彼の眠る部屋の扉が、パタンと小さく音を立てる。
その音を合図に、魔法は跡形もなく消え去った……。そんな、気がした。
「さっきのエスプレッソなんだが、パーティーで人手が足りず、バリスタではないものが淹れたようなんだ。エドがそのお詫びに、ここにあるものは自由に使ってと言ってくれてね」
そう話す薫さんに促されたのは、ラウンジのカウンターの中。豆の入ったキャニスターからエスプレッソマシンまで、街のバールの雰囲気そのままに並べられていた。
「ありがとうございます」
まず棚にあるキャニスターを眺める。そこには中身が何なのかきちんと書かれていて、もちろん知っているものもあった。そして、その中にあったそのラベルを見て、思わずそれを手にしていた。
「これっ……」
「どうかしたのかい?」
「……私がお願いした豆と同じものです」
さすが、と言うべきなのだろうか。この希少なものが当たり前にここにあるのは。
「これを……使ってみてもいいでしょうか?」
「もちろんだとも」
落ち着いたトーンで返してくれる薫さんに、気持ちが軽くなる。
「じゃあ……。よければカウンターに座ってお待ちください」
街のバールと違い、バーを兼ねているからかカウンターには高さのあるチェアが備わっている。私が促すと、薫さんは口角を上げそれに返す。
「こんな機会は滅多にない。そばで見ていても構わないかい?」
「はい。もちろん」
笑顔で返したあと、せっかくだからと今から淹れるものを提案してみる。
「薫さん。さきほどエスプレッソをいただいたので、今度はマキアートにしようと思うんですが、よろしいですか?」
「まかせるよ」
その言葉に頷き、早速抽出作業に入る。ここからは、時間との勝負だ。
まずエスプレッソグラインダーに向かう。イタリアの有名メーカーのものは店にあるものと同じで、使い方は体が覚えている。慣れた手つきで豆を挽き始めた。
想像していた以上に芳醇な香りのする粉を、今度はマシンにセットする作業に入る。ホルダーに挽いた粉を入れならすと、それを今度はそれを押し固める。この作業一つで味に違いが出る重要な工程だ。今まで数えきれないほどやってきたこの動きは、癖のように自分に染み込んでいた。
デミタスカップをセットし、いよいよエスプレッソを抽出。独特のスチーム音がして、すぐに深い琥珀色の液体がカップに注がれ始めた。そのあいだにフォームドミルクを作り、エスプレッソの抽出が終わったカップにそれを注ぎ入れた。
「見事な手際だ……」
出来立てのマキアートを差し出すと、感心したように薫さんは呟く。
「ありがとうございます。よかったらお先にどうぞ」
「ありがとう。では、いただこう」
柔らかな表情でカップを受け取った薫さんは、早速それを口に運んでいる。私はドキドキしながらそれを見守っていた。
「とても……美味い。こんな深い味わいのマキアートは初めてだ」
目を見開いて言うその顔は、今までで一番と言っていいくらい表情を露わにしている。そんな顔でされると、それがお世辞ではないとはっきりと伝わってきた。
「嬉しいです。豆がとってもいいものでしたし、それを活かせたと思ってます」
自分のカップを持つと、芳醇な香りが鼻をくすぐる。美しい泡と混ざり合ったエスプレッソを一口含むと、口いっぱいにその香りは広がった。
「美味しい……。本当に美味しいですね」
想像以上の味に、自分が淹れたものとは思えないほど嬉しくなる。笑顔で顔を上げると、ふと薫さんの口元が目に入った。
「薫さん。泡が……」
無意識に手を伸ばし、その唇に付いた白い泡を指で拭う。
「あっ……」
(私はいったい何をしたの?)
慌てて引っ込めようとしたその手を、薫さんは捕まえ握った。
「……亜夜」
艶やかで穏やかな、でもほんのりと熱を帯びた声色で呼ばれて顔を上げる。視線がぶつかると、チリッと火花が散ったような気がした。そんな熱い視線を寄越す薫さんから、もう目が離すことなどできない。
「亜夜にも……ついている」
薫さんはそう言ってゆっくりと顔を近づける。そして唇が、その泡を拭っていた。
ほろ苦いのに甘い……。そんな、キスだった。
コーヒーには媚薬が含まれている。遥か昔にはそう信じられていたらしい。けれど、それは本当なのかも知れない。
部屋に戻れば鎮まるはずだった昂まった感情は、今も続いている。私たちはそれが当然のことのように唇を重ね、肌を合わせていた。
まだ出会って数日、数時間を共にしただけの関係。でも、この湧き出す感情を、旅先で見ている幻だと思いたくない。自分を熱く求めている薫さんの顔が滲んで見える。瞼を閉じるとそこから涙が零れ落ちていた。
(……好きです……。薫さん……)
時が、このまま止まってしまえばいい。愛されていると錯覚したままずっと。けれど恍惚としたこの時間も、まもなく終わりを迎えるだろう。日付けが変わっても消えることのなかったこの魔法は、太陽が姿を現すころ消えてしまうはずだ。
「さよなら。薫さん……」
彼の眠る部屋の扉が、パタンと小さく音を立てる。
その音を合図に、魔法は跡形もなく消え去った……。そんな、気がした。
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