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間奏曲 ――従妹――

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 それ・・が目に入った瞬間、めまいがするほど気分が悪くなった。
(どうしてこんなものが――?)
 視界に入れたくなくて、足元を見る。お気に入りの靴が目に入るも、今は少しもこの気分を変えてくれそうになかった。
 ここに来るまでは順調だったと思う。
 新しい友人ができ、話してみたらそんなに嫌な人たちじゃないことが分かって、とても楽しい気分だった。これから一緒に過ごせることに始めは不安があったけれど、なんとかなるんじゃないかと思っていた。
 それなのに――。
 少ししか見ていないのに、目に焼き付いて離れなくなったそれ・・をなんとか忘れようとする。
 あれは大好きないとこをずっと苦しめてきた。
 たった少し会っただけだというのに、今でも忘れられないなんて、――まるで呪いだ。
「コレット、あちらで休まない? 少し疲れてしまったみたいなの。付き合ってくれるわよね」
「……お姉ちゃん」
 姉が手を引いて馬車に連れて行く。中に入るとカーテンを閉め、誰にも見えないようにしてくれる。
 なにか言葉をくれるわけではないけれど、苦手なものから遠ざけて、孤独こどくにならないようそばにいてくれる。
 小さな優しさが気分の悪い心にみ、暖かさからじんわりと涙が出た。


 ◆◆◆


 以前いとこから、その人の話を聞いたことがあった。
 伯父の友人の子で、ずっと家を出たことがなかったという。――最初からそれ・・は不吉なもので、周囲に不幸を与える存在だったとしか思えない。
 おとぎ話だってそう。幽閉ゆうへいされた人間を、外に出してはいけないものなのだ。
 その人が出るためには何か犠牲ぎせいともなうか、外に出たがために周りを不幸にする話がほとんど。
 『幸せになりました』なんて言葉で締めたとして、よく見れば二人が幸せなだけだ。――誰かを捨てたり、何かを壊したり、踏みにじった上で『幸せ』という言葉で装飾そうしょくして、周囲の惨状さんじょう誤魔化ごまかしているだけ。
 だからそういう話は嫌いだ。
 『幸せ』はもっと温かいことろにあるもの。青い鳥と同じだ。
 普段は気付かないだけで、すぐかたわらに『幸せ』はあるものだ。
 ただ多くの人はそれに気付かず、わざわざ危ないところや遠くへと探しに行ってしまう。
 何かがある保証なんてどこにもないのに、怪我して傷ついて、また帰ってきて――。ボロボロになってもまだ、隣にいる青い鳥に気付かなかったりするものなのだ。
 手の中にあるこの『幸せ』を、どうして人は気付かないのだろう。
 どうして彼はこれ・・に満足してくれないのだろう。

 彼の母が亡くなった時、ちょうどその現場を本人が見てしまい、ショックからしばらく話せなくなった時期があった。
 ただその時は彼だけじゃなく、伯父も大切な家族を亡くしたことに相当そうとうまいっていた。――不測の時に頼りにすべく親友をそばに置いていたけれど、親友にとっても大切な人だったため、突然の訃報ふほうに誰もが深く傷ついていた。
 仲の良かった姉弟でさえ、彼のそばにいることはできなかったという。
 父に連れられ姉と一緒に見舞いへ行ったこともあるけれど、あまりの痛ましさにそばに寄ることも出来なかった。
 声をかけてもなにも反応を示さなくて、思わず彼まで死んでしまったのではないかと、怖くて泣いてしまった。
 あの優しいいとこが、壊れてしまったことが、ひどく恐ろしくて仕方なかった。
 ――きっとあの時、頑張ってもっと一緒にいるべきだったのだ。
 後悔してももう遅い。
 あの時の時間も心も、まだ戻ってこないのだから。

 王である伯父が何もできなくなったのを見かね、退位していたおばあ様が王城に戻りしばらく代わりを務めていた。
 それくらいあの時はひどい状況で、だから来てしまったのだ。――――不幸の象徴しょうちょうが。
 おばあ様の友人が遠路はるばる見舞いに来た。その中にあの子がいた。
 直接会っても、見てもいないけど、あの子はいとこに会っていたのだ。
 おばあ様の友人たちのおかげで、誰もが不安で落ち着かない空気だったのが、なにかきざしが見えたかのごとく、少しずつ正常に戻ろうとしていたのを今でも覚えている。
 ――きっとそれが良くない事が起こる前触れだったのだ。
 おとぎ話なら良いところで終わらせてくれるが、現実はそれだけで終わらせてくれない。
 
 大人にばかりに囲まれてもつらいだろうからと、あの子が彼と一緒にいることになった。――いとこが反応を示すようになったらしい。医者も大人たちも喜んだ。
 だけど、まだ彼は言葉をつむぐことができなかった。
 きっともう少しで良くなるのではと、誰もが期待していたことだろう。

 ただおばあ様の友人たちも、ずっとこちらにいるわけにいかないからと聖国に戻る際、一緒にいとこを連れて行った。
 王城だと母を亡くした現場も近いから、離れて気分転換をという話だったらしい。
 ひと月後、遅れて向かった伯父と一緒に帰ってきたときには、壊れる前のいとこに戻っていた。
 無事に戻ってくれてよかった。周りの人間も大層喜んだ。
 また前のように、みんなで安心して一緒にいられるんだと思っていた――。


 ◆◆◆


「あら、男子たちが到着したようね」
 ちらりとカーテンの隙間すきまを覗いていた姉が教えてくれた。彼が来たという言葉に涙がにじむ目をハンカチでき、姉にくっついて外を見た。
 馬車から弟と一緒に彼も降りて来た。背が高く、綺麗な長い髪が動くたびに揺れ、端正な顔立ちが遠くからでもよくわかる。――大好きな彼の姿に少しだけ胸が明るくなったと同時に、後ろから黒髪の青い眼の少年と、金髪の仮面の男が降り立つのを見て黒いものが込み上げる。
 昨日、いとこを助けてくれたと言っていたが、思い出を汚すようなあの無表情が苦手だった。
 ――黒髪に青い眼をした先代の東方天であるハインハルトと同じ姿――。彼はいつもニコニコして、みんなに愛されていた。会ったのはずいぶん昔で、優しく暖かな人であったことはよく覚えている。
 父も伯父も、普段から怖いおばあ様でさえ、あの人のことが好きだったことを知っている。じゃなきゃ友人なんてできないもの――。
 そんな彼と目の色も顔立ちも似ているから、余計にハインハルトのことを思い出し、比べてしまう。
 金髪の仮面の彼も、なんだか噂で聞くあの子の雰囲気と似ている気がして、顔を隠しているところも、何も話さないところも不気味で不吉に感じた。
 ――ハインハルトとも、あの子とも彼らは同じ血が通っているのだ。同じ一族であれば、きっとどこか似ているのも仕方がないというものだろう。
 だけどあんなのと同じ空間にいなければならないなんて、いとこが不憫ふびんでならなかった。ここで起きた事件を解決しに来たと聞いても、あの青い瞳や蒼家と言う言葉が、どうしてもあの子のことを彷彿ほうふつさせて気分が悪い。
 周囲の人が青目の少年に声をかけているようで、人だかりができていた。彼らの影にいとこたちが隠れてしまうが、水を打ったかのように空気が変わり、たむろしていた人たちが整然と起立する。
「……なにごとかしら――?」
 異様な光景だ。その様子を気にすることなく、黒髪の少年がいとこたちに声を掛け、教会に向かった。――不気味だ。あの人だかりを、彼が何かしたのだろうか。
 あの先に入ってしまったら嫌でも彼は目にするだろう。最近も落ち込んでいたが、その原因があの子だと予想するのは簡単だった。
「どうしよう……このままじゃ……」
 あんなものを見て欲しくなかった。――きっとまた彼が傷つく。
(――相手は貴方を覚えていないのよ。ただの友人だって言うけれど、なにも覚えていないんじゃ他人じゃない……)
 失ったものが取り戻せると思っているのだろうか。死んだ人が戻らないように、過去も今になる訳じゃない。
 止めに行こうかと悩んでいると、ディアスが何か黒髪の少年に話しかけ、――いつものうれいを帯びた顔に笑みが差したのが見えてしまった。
「…………なにあれ」
「あら、珍しい。全然心を開かないのに、もしかして好みのタイプなのかしら――」
 揶揄からかう調子の姉の言葉が耳に届かない。心臓から血がなくなってしまったかと思う程、全身が冷たくなるのを感じる。
(また、またなの……?)
 何がそんなに彼の関心を引くのだろうか。あの青い眼か――?
 冷え切ってしまった手が行き場を無くす。
 しばらく青くなる妹を見つめていた姉がその手を取り、来た時と同じような強さで妹を馬車から連れ出した。
「やめてよ、行きたくない――」
「おばかね。――心配ならちゃんと傍にいてあげればいいじゃない。ただの写真に負ける方が悔しくなくて?」
 顔を合わせはしなかったが、姉の言葉も一理あると折れそうになる心をなんとか抱えて向かう。そうだ。あれはただの写真――。本人じゃないのだから、きっと大丈夫。
 あの姿にきっと彼は傷つくだろう。
 だってあの眼は誰のこともを映さない。――ここにいるいとこの姿など見ることも、思い出すこともなく置いて行くのだ。
 入口に着くと、案の定彼が立ち尽くしている。彼の気持ちに気付かない周りの人が何か話している。
「ちょっと!? ――あれは南方天のシャナ太子。クリスくんはその隣のブロンドの方! 僕と髪の色そっくりでしょ」
 いつも周りを明るくしてくれるヴァイスの慌てた声が聞こえる。――余計な話をしているようだ。
(もう何も言わないで――)
 これ以上彼を傷つけるような言葉が出ないことを祈る。
 入口の手前で引っ張っていた姉の手が離され、ひどく覚束おぼつかない気持ちになった。ちらりと見ると、目線で行けと言っているようだ。
「瞳の色がヴァイスやセーレと同じだからそうかと……。クリスさまは、――かっこいい方なんですね」
 エミリオが言葉を選んでいた。彼はまだ幼いけれど、決して下手なことをいう子じゃない。
 この話題を止めさせようと、勇気の出ない足を踏み出した。
「ふむ、エミリオは見る目があるな。――ディアスは誰がいいと思う?」
 姿が見えなかったが、あの青い眼を持つ少年の声がする。
(――何を言ってるの?)
 ひどく無神経な質問をした彼に、ディアスはひどく戸惑っているようだった。後ろ姿しか分からないが、ずっとそばにいて見て来たのだ。それくらいの変化はわかる――。
「もう! 殿下を困せちゃダメでしょ。――ほら、早くミラ姉を止めに行くよっ」
 先ほど友人になったエリーチェが、彼を傷つける元凶を連れて離れてくれた。ほっとしたのもつかの間、父やアストリッドが彼と話してしまい、完全に声を掛けるタイミングを失う。
 呆然ぼうぜんと立ち尽くす妹の背に手を添え、優しく撫でた。
「勇気を出して偉いわ――。せっかくここまで来たのだから、最後まで見ていきましょう」
 一ミリも勇気なんてものを出していなかったが、姉は優しくなぐさめてくれた。
 話し込んでいる横を通り、前の方の席に一緒に腰かける。彼を苦しめるあの子の姿を視界に入れたくなくて、ずっとうつむいていた。
 
 神聖な教会の中でこんなに心が苦しいのはなぜなのか。
 きっと異教徒が集まる場所だからかもしれない。相容あいいれないから二つの国の間に壁がある。それを越えて交流するなど、きっとよくないことだと思う。
 今回聖国から使者が来て、この街の事件を解決するなんて言っていたけど、どれも良くない事の前触れな気がしてならない。
 隣に座る姉やいとこたちが何か話しているようで、くすくすと笑っている。昨日は変なことがあったけど、あんなことがなければいつだって私たちは仲良しだ。――できるだけ視界を上げずに教会の中央を見ると、リタたちと話すあの無神経な人がこちらに向かってくるのが見えた。
(来ないで――)
 祈りもむなしく、その足はまっすぐこちらに向かっていた。近くのヴァイスと少し話していると、
 「……取り外させた方がいいかもしれないですね。」
 あの幕を外させようと話していた。
 ――そうか、ずっと嫌な気持ちで見ていたから気付かなかったが、彼は別にあの子じゃない。
 一様いちように嫌う必要なんてない。リタもエリーチェもいい子だった。異教徒だから、壁の向こうの人だからと一緒くたにまとめて雑に考えるなど、蒙昧もうまいな人間のする行いだ。
 闇雲やみくもに嫌っていた自分を少し恥じる。
 同じ一族だから、青い眼を持っているからという理由で嫌な目で見すぎていた。
 あの子はここにいない。だからきっと大丈夫。――そのまま外してくれることを彼に期待した。先ほどの無神経な発言を許そう――。
 なによりも大切なのは、いとこだ。
 少し軽くなった身体を起こし、彼らの言葉を耳に入れる。――どうやら祭壇に置いてあるものが水でできているということで、見に行くようだった。
 隣に座る姉も離れると、席には自分とディアスだけになる。さっき傷付けられた彼に声をかけようと息を吸う。
「――なぜ、落ち込んでいるんだ?」
 黒髪の少年がまだおり、ディアスに声を掛けていた。
 コレットは驚いた。彼が気付くなんて、微塵も思わなかったからだ。
 誰も気付かないから、いつも彼はひとりなのに――。
「ここの空気が合わなかったか? それともうちの師団のせいだろうか。そうだったら申し訳ない。――疲れたのなら先に戻って休むか?」
 ここを離れるよう提案しているようだ。良いことを言ってくれる。
「ディアス、――彼の言う通りよ。もし疲れているなら、先に一緒に戻って休みましょ? ね?」
 彼が落ち込んでいるのは、あなたの無神経な発言と、あの子のせいだと伝えたかった。
 でもそんなはしたないことは彼の前でしたくない。
 立ち上がり彼の前に行く。
「ここの空気が合わないのでしょ? 外でみんなを待っていてもいいと思うの……」
 彼と一緒に外に行こう。それからいつものみんなで一緒にアシェンプテルに行こう。――男の子にはつまらないかもしれないけれど、姉も弟もいるのだ。いつものようにきっと彼は来てくれる。
 まだ傷ついているようでうれいた顔をしている。ここはいつもの場所じゃないし、あんなものがあるのだ。気分が落ち込んでしまうのは仕方ないだろう。
「――二人とも心配をかけてすまない。空気が合わないって訳じゃない。その……少し、圧倒されてしまっただけだ」
 優しい言葉が、蒼家の人間の気分を害さないよう気を使っているのが見て取れる。あれだけ威圧的なもの、たとえここの卒業生でも、この国にふさわしいかどうか少しは考えられなかったのだろうか。
「……すぐにあれは外してもらおうか。ここの者に伝えてこよう。」
 彼の話に安堵あんどする。いつも通りに事が収束していくようで、波立つ心が徐々に落ち着いていく。きびすを返す青目の彼を見送ると、ディアスが立ち上がって、――彼を取った。
「あのままでいい。別に幕のせいじゃない。その、――少し、勇気が出なかっただけだ」
 いつも通りでない行動に心が止まる。
「そんなに……? でかすぎて怖がらせてしまうとは……。ふっ、なかなかやるな。」
 どうして、私の手は取ってもらえないの――。
 なぜあの幕を残そうとするのか理解できなかった。
 そんなものにすがっても救いなんてないのに。
 あの子のことが視界に入るたび、ただ悪い夢を何度も思い出すときのような苦しみしか生まないじゃない。
 優しいから卒業生の好意を無碍にできない、ということだろうか――。冷たくなる心に、納得のいく理由を当てはめていく。
「コレットも心配してくれてありがとう。もう大丈夫だ――」
 いつもの憂いのある顔じゃなく、強い意思が灯った力強さが彼の中にあった。
 ――こんなの知らない。
「そう……、分かったわ――」
 きっと悪い夢を見ているんだ。この場の空気に当てられて、なにかよくない幻を見ているに違いない――。
 恐くなって人の少ない方へ歩いていく。……入口まで歩き、小さく振り返ると、ディアスは彼と一緒に皆のところにいた。わっと声が上がった後、エミリオがなにか手を伸ばしている。
 弟の手をディアスがつかむと、微笑みを返していた。――これもきっと悪い夢だ。
 それともあの青い眼があれば、彼の心を手に入れることが出来るのだろうか。止まる心に身体が冷え切って、傍に駆け寄る侍女に伴われ、馬車に乗り込むことしかできなかった。

「いつまでそこで突っ伏しているつもりなの? お洋服に皺がついてしまってよ」
 女子寮に戻り、姉の部屋に来ていた。部屋に入るなり帽子を床に捨て、姉のベッドに突っ伏して動けずにいる。
 声を掛けてくれはするが、姉は侍女に手伝ってもらいながら手先の手入れをしている。こちらを見る様子はない。
 外の冷たい空気で荒れてしまったため、手入れをしたくて妹が部屋に戻るのに合わせ、ついて来ただけだ。
「あとであの子たちに謝りなさいね。――エリーチェもリタもずっと心配していたわ」
 教会を出てからアシェンプテルにいるときも、ずっと周囲によろしくない態度を取っていた。こんな態度をとるのはだめだと分かっているのに、言うことを聞かない心が勝手に不機嫌になってしまう。
 こんな子供っぽい自分が嫌いだ。悔しさから涙があふれる。
「コレットってば、どうしていつもそんなに苦しいことばかりに夢中になっているのかしら。もっと外に目を向ければいいのに」
「――お姉ちゃんには分からないわ」
「私は楽しいことが好きだもの。分かる訳ないわ」
 指先にうるおいが戻ってきたようで、手先を満足そうにながめる姉のご機嫌な声が届いた。
「だって……。ディアスのあんな顔みたことがない……。なんで私には向けてくれないの――?」
「さぁ。興味がないからじゃないの」
「そんな冷たいこと言わないで……」
「こういう時何を言っても、コレットはご機嫌斜めになるじゃない。――だいたい初恋なんてものに執着しゅうちゃくするのは子供のするものよ。未熟なことはその時は楽しいかもしれないけれど、こうやって出口が見つからなくて苦しくなる。――早めに見切りをつけて経験を積んで、もっと素敵なことを見つける方が楽しいと思わなくて?」
 楽しいことが好きな姉は、自分を満たしてくれるものしか興味がない。だから姉はいつも綺麗きれい素敵すてきなのだが、手の中にあるものが楽しくなくなった瞬間見切りをすぐにつけられるところだけは理解できなかった。
 どうしてそんなにすぐに捨てられるのだろう。
 こんなに好きなのに。――執着する心を簡単に捨てられない。
「手放してみると、それが大したことなかったって後でわかるものよ。――狭い世界で、小さなものばかり見ていると、本当に大事なときに、大事なものを見落としてしまう。それなら私は大手を振って、外でもっと手にできるいろんなものを集めに行くわ」
 姉の生き方そのものだ。自信に満ちあふれた熱を持った言葉と共に、ベッドの上に座る気配を感じる。
「それに、あの子にただ新しい友だちが出来て楽しと思っているだけじゃないの? たった二週間で帰る人たちに嫉妬するなんて、疲れるだけじゃない」
 ベッドに突っ伏したままの妹の頭を優しく撫でた。
「なにをそんなに意固地いこじになっているのか分からないけれど、あの二人も彼もやりたいとがあってここに来たと言っていたじゃない。――誰かに構う余裕なんてなさそうだけど」
「……さっきも、ずっと見てた」
 不機嫌な心を隠してくれていた帽子が、風に飛ばされ池に落ちた。
 つばが大きいものだから、大きく風に飛ばされてしまうのは仕方のなかったことだろう。見る分には綺麗だけど、魚もいるような場所だ。そんな汚いところにお気に入りのものが落ちてしまって、悲しかった。
 優しい父がすぐに回収するよう命じていたけど、そんな言葉より早く、青い眼の彼が取りに行ってしまった。
「あれは驚いたわ。――ふふっ、手品のようで面白かったわね。他にも何かできないのかしら」
 水にかって濡れていたはずなのに、手にしたそれはどこも濡れていなくて、頭の上にあったときと同じものだった。
 でも池に落ちたものだ。――もういらない。
 水上庭園についてから言葉を交わしている様子はなかったが、ゾフィと去る姿を名残惜なごりおし気に見ていたことに、気付いてしまった。
(どうしてそんな顔をしていたの――。)
 姉の言う友達を見る顔に見えなかった。
 あの時と同じ、――伯父と一緒に帰ってきた時と同じ顔に見えた。



 恋に落ちると言った人は、どういうつもりでそう表現したのか。
 人が水に沈むとき、とても静かに沈んでいくそうだ。――すぐ近くに人がいても、あまりの静かさにその人がおぼれていることに気付かないという程、静かに沈んでいくらしい。
 そして窒息ちっそくも、気持ちがいいものらしい。
 脳へ送る酸素が止まることで身体が仮死状態になり、低酸素状態が幻覚を引き起こし、快感がその身を襲うそうだ。
 ――誰にも気付かれず、ただ静かに沈み、幻覚を見ながら気持ちよくなれるなんて、そんなのまるで恋だ。
 苦しい中にいることに気付かず、ただ幸せな夢でもみているのだろうか。
 そんな風にした、あの子が許せなかった。
 そんな顔をまたさせた彼が嫌いになった。
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