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27.『策士』は雨上がりと共に⑫
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神事はつつがなく行われた。全員が席に着くと教会の空気は静寂に包まれ、神職が神へ祈りを奏上している。――その間前を向いているため、否が応でも前方の垂れ幕が目に入る。
左から南方天、東方天、北方天、西方天と並んでいる。ラウルスでは黒を基調としたものが多いが、聖国では白を基調としたものが多い。北方天だけは黒い衣装に身を包んでいるが、残りの三人は白を基調とした衣装に家の名の色のマントを身に着けていた。ウェーブがかった黒髪に大きな赤い瞳を持つシャナ太子。黒髪短髪に優し気に目を細めているカナタ太子。短い白髪に黄色の鋭い眼光を向けている天摩太子。クリスと同じく神の代行者として聖都にいる人たちだ。――偶像崇拝は禁止だったはずで、なぜこんな垂れ幕がここにあるのか分からない。もしかしたらこれは偶像に当てはまらないのか。
少し頭を後ろに引き横に目をやると、かすかにフィフスが見えた。微動だにせず、神職の言葉を静かに聞いているようだ。
神職が手元の本を閉じ静かになる。彼が祭壇を後にすると後方の兵士たちが一斉に立ち上がり、教会を出ていくようだ。
「どうやら終わったみたいね。――思ったより短くてよかったわ」
退出する音が響き、隣にいた姉が座りながら軽く伸びをした。
「姉上たちはこの後どうするんですか? 僕たちは博物館に行く予定です」
反対側に座っていた弟がアストリッドと、彼の隣に座るレティシアにそれぞれ聞いている。
「博物館って……、そんなに見る時間ある? 私たちはアシェンプテルの展示を見に行くの。リタとエリーチェが興味あるんですって」
「男の子らしくていいじゃない。時間いっぱいまで見てくるといいわ」
アシェンプテルは山の手エリアでも有名なドレスショップだ。女性の憧れとも言われているので、二人が行きたがるのは理解できる。
エミリオは何か思いついたのか、くすくすと笑いながら、
「さっき道端で猫をみかけたんですが、フィフスが初めて見たそうで驚いていました。――だから博物館で他にも見せてあげようと思ったんです」
「猫を見たことがない人なんているのね」
「それが、ずっと勘違いしていたみたいで。――西方天さまが虎を飼っているそうなんですが、ずっとそれを猫だと思っていたんですよ。――兄さまと同じくらい大きいそうですよ。全然大きさが違うので驚いていました」
よほど先ほどの出来事が面白かったようで、湧き出る笑いを止められそうにない様子だ。
「それは、ずいぶん大きな『猫』ね――」
姉がこちらを見て何かを想像したらしく、弟の笑いが伝播したようだ。堪えようとしているが、弟と同じで止まらなさそうだ。肩を小さく揺らしてこちらに寄りかかる。レティシアも姉と同じく小さくツボに入っているようだった。この困った空気に思わずため息が出る。
「なにやら盛り上がってるね。どうかした?」
ヴァイスがこちらに来るも、説明する気力はなかった。周りもそれどころじゃなくて、くすくすと小さな笑い声がしばらく続いた。
「取り込み中だったか――。」
聞きなれた声がして、ふと顔を上げる。
「なにか面白いことがあったみたいなんだけど、みんなそれどころじゃないみたい。――ここに来るとみんなツボにはいるけど、そういう加護でもあるのかな」
「……あの幕のせいでは? ……取り外させた方がいいかもしれないですね。」
「あの幕は聖国でも使われているのか? ずいぶん立派だが……」
叔父も気になっていたようでフィフスに尋ねている。
「いえ、ここの卒業生が会社の金を使ってあれを作ったそうです。――シャッツ社をご存じでしょうか?」
「シャッツって……こちらの出版会社じゃないか。え? 許可とか取ってやってるんだよな……?」
「会社でも許可は取っていると聞いています。彼は勝手に聖国の広報をしてくれているので、我々も特に止めていません」
「待って、……なんでその人勝手に広報してるの? いっそ雇ってあげたら?」
叔父はラウルスの出版社の名が出たことに驚き、ヴァイスはフィフスの話にツボったようで笑いが止められなくなった様子だった。ずっと笑っていた姉弟たちも叔父たちの様子に、笑いが引っ込んだようだ。
「なぜかは知りませんが、以前から聖国の広報をしてくれるんです。きっと商機と思ってやっているのではないしょうか。あの垂れ幕も広報の一環でこちらに贈ったものらしいです。……あと、彼は今の会社でなにかやりたいことがあるようで、広報として誘うのは諦めています。」
淡々と説明しているフィフスを、後ろの幕の姿と比べる。
「シャッツって聞いたことあるけど、何の会社だっけ……」
「月刊『ロイヤル』を作っているところよ。よく取材に来ているじゃない」
姉がこそこそとレティシアと話している。そういえば昨日もその雑誌を持っていたが、その卒業生と関係があるのかもしれない。――あの人が自分で購入している姿が想像できないからだ。
「じゃあこの垂れ幕ってここにしかないんですか?」
「他に贈ったと聞いていないから、そうなるだろう。――恐らく締結式に合わせて用意したものだ。抜け目のないやつだからな。」
笑いの引いたエミリオににこりと返事をしていた。
「ここを後にする前に、先ほど用意した盃を消すから見るかと思って声を掛けに来たんだが、どうする?」
「あれ消しちゃうんですか? ――触ってもいいですか?」
「もちろん。持ち上げなければ好きに触るといい。持ち上げるとただの水に戻るから気を付けろ。」
フィフスの後ろにある祭壇を見ると、いつの間にか先ほど置かれた水の盃以外は下げられ何もない状態だった。エミリオは嬉しそうに駆け出し、近付くと指先でどんなものかと触れていた。
「あれって水なの――?」
「あぁ。もし興味があればどうぞ。ここで用意した水だし、害のあるものではない。――昨日見せた学園都市の模型と同じようなものだ。」
その言葉に姉も興味が移ったのか、ぞろぞろとエミリオのいる祭壇に向かい、せっかくだからと従姉や叔父も移動した。――振り返ると自分の後ろにはほとんど人が消え失せ、小さな音でもよく響いた。
「――なぜ、落ち込んでいるんだ?」
遅れて立ち上がろうとしたところ、フィフスに小さく声を掛けられる。
「ここの空気が合わなかったか? それともうちの師団のせいだろうか。そうだったら申し訳ない。――疲れたのなら先に戻って休むか?」
「ディアス――」
レティシアの影に隠れていたようで、いたことにすら気付かなかった。――コレットの不安気な声が届く。
「――彼の言う通りよ。もし疲れているなら、先に一緒に戻って休みましょ? ね?」
彼女はディアスの前に立ち、彼女に場所を譲る様にフィフスは一歩下がった。
「ここの空気が合わないのでしょ? 外でみんなを待っていてもいいと思うの……」
こちらの手を取ろうと従妹の小さな手が差し出される。コレットの小さく女性らしい柔らかな指先と、少し離れて心配そうに見ている彼を見比べた。――また誰かに余計な心配をかけてしまったことに、気が重くなる。
「――二人とも心配をかけてすまない。空気が合わないって訳じゃない。その……少し、気圧されてしまっただけだ」
遠くに在るなら、一方的に想うだけで満足だった。一方的なのだから何も返ってこないことは当たり前で、期待しなくて済むから気楽なものだ。――寂しいと思っても、本物だと分からなくても、傍になければ、知らなければ傷つかない。
でも、本当のことを知らないままだったら、きっと今日はこんな風に過ごさなかったはずだ。下町に行くことにも反対しただろう。命の恩人だとしても、すぐにこれだけ気安く接することはなかったはずだ。
今日は一緒に過ごして楽しかった。予想外なことばかりで、まだ半日しか過ごしていないというのに、目まぐるしくて息つく間もないくらいだ。――小さい頃、クリスと過ごしたときもそうだった。あの時の楽しかった記憶が胸に溢れてくる。
「……すぐにあれは外してもらおうか。ここの者に伝えてこよう。」
困ったように垂れ幕を見ていたフィフスが踵を返す。――思わず立ち上がり、腕を取って引き止める。
「――あのままでいい。別に幕のせいじゃない。その、――少し、勇気が出なかっただけだ」
「そんなに……? でかすぎて怖がらせてしまうとは……。ふっ、なかなかやるな。」
真剣で、なにか満更でもないようで、何を褒めているのか分からなかった。今日もだいたいこんな感じだったし、昔からこんな感じだった気すらする。――なにかがストンと心に落ちた。
立ち去る気配が消えたので手を放す。――もう少し一緒にいたい。思わずとった行動が言っている、自分がどうしたいのかを――。
「コレットも心配してくれてありがとう。もう大丈夫だ――」
できれば本物がいいけれど、まだ時間はある。――偽物だけじゃなく、いずれ本物に会えるように、今はきちんと向き合いたいと思った。昨日のことも、今日のこともどちらもなかったことにしたくなかった。
忘れられて、もう一度なかったことになることは怖い。
最初からでもいい、もうなにか忘れられないものを残したいと思った。
「そう……、分かったわ――」
コレットの返事が小さく届くと、皆がいる方向とは逆を歩いて行った。
「――彼女、大丈夫か?」
「侍女がついているから大丈夫だと思う。それによく、こうやって置いて行かれる……」
情けなさに苦笑する。気遣いを無碍にしてしまったから、自分に腹を立てているのだろう。いつもそうだ――。
後で改めて謝ろうと思い、すぐ近くにいるフィフスに向き合った。何を言おうか少し悩んでから、
「……どうして身長をごまかしているんだ?」
「っ、――成長期だから、問題ない。あと30センチは伸びるからこんなの誤差だ。」
ヴァイスに見抜かれた10倍伸びるつもりなのか。少し悔しそうな青色の瞳に睨まれるが、その反応も悪くなかった。――唯一知っているもので、この瞳の青さだけは本物だから。その二つの本物を目に出来ることも、見てもらえることも悪くない。
「そうなんだ」
思わず口角が上がりそうになるのを手で隠し、気持ちがバレないようにみんなの元へ行くことにする。
向かう途中、視界の端に垂れ幕が入る。――先ほどまでは遠く感じたこの人物が、秘密と共に傍にいると思うと不思議な高揚感に変わる。そうだ、これも悪くない。
祭壇の側に行くと、先ほどここで祈祷をしていた神職の者が来ており、叔父たちと話をしているようだった。他にも玄家の三人と東方軍の人間が姉たちを含めて会話をしているようだった。
フィフスが到着すると神職とここの関係者だろう、気付いた様子で彼に深々と礼をしている。
「先ほどはこちらの不始末を収めてくださりありがとうございました。――まして蒼家の方がいらっしゃるのに蒼龍神さまを奉る聖具を壊してしまうなど、本来であればあってはならない事……」
「気にするな。形あるものは壊れる。些末なことだ。」
「……この人ったら器の代わりにバケツでいいだろとか言い出したのよ? 本当に信じられない……」
ミラが苦々しく、隣にいたガレリオを見た。
「別に形にこだわる必要はない。バケツだって丈夫だしたくさん水も入って――」
「もう! ダメに決まってるでしょ……! あなたたちは本当にもっと信心を持ちなさいよ!」
「まぁまぁ。当の蒼家の御方が仰るんだからいいじゃないですか、ねぇ。――参拝も無事に終わってよかったよかった」
ガレリオの言葉に怒りが沸いた様子のミラを、エリーチェとリタが宥めはじめた。対照的にフィフスとガレリオは涼しい顔だ。
「――最近表に出られらなくなった東方天さまのことを思うと、あまり他所事に思えず……。なにかよくない兆しではないかと……」
青い顔で神職たちが不安がっている。
「問題ありませんよ。――いいですか、聖国の破壊神の異名を持つ我らが東方天さまですよ。聖具が壊れるなんて、逆に縁起がいいと思いませんか?」
堂々とした物言いにここの神職たちは萎縮しているようだった。――そんな異名を持っているのか。
「そうそう。表に出ないのはただの休暇だし、クリスくんのことだから元気にやってるはず。だから心配いらないよ」
毒気のない外向き用のにこやかな笑顔を作ったヴァイスが付け足す。すぐそこに本人がいるのだ。――心底この状況を楽しんでいそうだった。
「不吉な兆しだったとて、覆してしまえばいい。凶事にしなければいいだけのこと。――そうだろ?」
神職たちの不安に動じず、悠然と話す彼の言葉に少し落ち着いたのか姿勢を正した。
「先ほどは成功を神に祈ったが、実際成功できるかどうかは我らの働きによって決まるものだ。祈りを反故にしないよう、成功させるしかない。――お前たちも今日ここにいた者たちを信じろ。」
自信に満ちた言葉に、自然と周りも鼓舞される。
「――君もあれくらい自信持ってくれるといいんだけどね~」
「……人には向き不向きがあるんだと、身につまされるな……」
ヴァイスが隣にいた叔父に話していた。気弱な叔父の背が小さくなり、娘のレティシアがくすりと笑っていた。
「――そろそろこれを片付けていいか?」
異議が出なかったことから器の下に敷いた紙を引き抜く。――すると蒸発するかのようにその形は一瞬にして霧散した。液体に戻るかと思っていたので、空気中に消えたことに殊更大きくエミリオが驚いていた。近くにいたアストリッドも目を大きくしており、二人の血のつながりを強く感じた。
「長居をしたな。――さて、次へ行こうか。」
引き抜いたはずの紙はどこかへ仕舞ったのか、もうどこにも見えなくなり両手が空になったようだった。
「そうだ、――みんな学園に戻ってくるとき、水上庭園で待ち合わせだからよろしくね~」
学園の西側にある庭園だ。――中央を挟み東側には薔薇の生垣のある庭園が、西側は大きな池があり、水の上を橋を通した庭園がある。
「あそこは夕方もきれいだからね。せっかくだし庭を案内するから、皆さんくれぐれも遅刻されませんように。――お茶を用意して待っているよ」
人差し指を立て、皆に言って聞かせるとヴァイスはウィンクを飛ばした。
博物館はこのあたりから近いはず。――学園都市西部の山の手と下町の中間にある場所だ。せっかくの時間を今は無駄にしたくない。
どこに消えたのかと虚空に手を伸ばす弟の手を取った。
「そろそろ行こう。――あまり中のことを覚えていないから、エミリオが頼りだ」
「――お任せ下さい! 兄さまもフィフスのことも僕が案内します」
「よろしく頼む。」
にこりと微笑んだフィフスに続いて顔が小さく緩んだ。
左から南方天、東方天、北方天、西方天と並んでいる。ラウルスでは黒を基調としたものが多いが、聖国では白を基調としたものが多い。北方天だけは黒い衣装に身を包んでいるが、残りの三人は白を基調とした衣装に家の名の色のマントを身に着けていた。ウェーブがかった黒髪に大きな赤い瞳を持つシャナ太子。黒髪短髪に優し気に目を細めているカナタ太子。短い白髪に黄色の鋭い眼光を向けている天摩太子。クリスと同じく神の代行者として聖都にいる人たちだ。――偶像崇拝は禁止だったはずで、なぜこんな垂れ幕がここにあるのか分からない。もしかしたらこれは偶像に当てはまらないのか。
少し頭を後ろに引き横に目をやると、かすかにフィフスが見えた。微動だにせず、神職の言葉を静かに聞いているようだ。
神職が手元の本を閉じ静かになる。彼が祭壇を後にすると後方の兵士たちが一斉に立ち上がり、教会を出ていくようだ。
「どうやら終わったみたいね。――思ったより短くてよかったわ」
退出する音が響き、隣にいた姉が座りながら軽く伸びをした。
「姉上たちはこの後どうするんですか? 僕たちは博物館に行く予定です」
反対側に座っていた弟がアストリッドと、彼の隣に座るレティシアにそれぞれ聞いている。
「博物館って……、そんなに見る時間ある? 私たちはアシェンプテルの展示を見に行くの。リタとエリーチェが興味あるんですって」
「男の子らしくていいじゃない。時間いっぱいまで見てくるといいわ」
アシェンプテルは山の手エリアでも有名なドレスショップだ。女性の憧れとも言われているので、二人が行きたがるのは理解できる。
エミリオは何か思いついたのか、くすくすと笑いながら、
「さっき道端で猫をみかけたんですが、フィフスが初めて見たそうで驚いていました。――だから博物館で他にも見せてあげようと思ったんです」
「猫を見たことがない人なんているのね」
「それが、ずっと勘違いしていたみたいで。――西方天さまが虎を飼っているそうなんですが、ずっとそれを猫だと思っていたんですよ。――兄さまと同じくらい大きいそうですよ。全然大きさが違うので驚いていました」
よほど先ほどの出来事が面白かったようで、湧き出る笑いを止められそうにない様子だ。
「それは、ずいぶん大きな『猫』ね――」
姉がこちらを見て何かを想像したらしく、弟の笑いが伝播したようだ。堪えようとしているが、弟と同じで止まらなさそうだ。肩を小さく揺らしてこちらに寄りかかる。レティシアも姉と同じく小さくツボに入っているようだった。この困った空気に思わずため息が出る。
「なにやら盛り上がってるね。どうかした?」
ヴァイスがこちらに来るも、説明する気力はなかった。周りもそれどころじゃなくて、くすくすと小さな笑い声がしばらく続いた。
「取り込み中だったか――。」
聞きなれた声がして、ふと顔を上げる。
「なにか面白いことがあったみたいなんだけど、みんなそれどころじゃないみたい。――ここに来るとみんなツボにはいるけど、そういう加護でもあるのかな」
「……あの幕のせいでは? ……取り外させた方がいいかもしれないですね。」
「あの幕は聖国でも使われているのか? ずいぶん立派だが……」
叔父も気になっていたようでフィフスに尋ねている。
「いえ、ここの卒業生が会社の金を使ってあれを作ったそうです。――シャッツ社をご存じでしょうか?」
「シャッツって……こちらの出版会社じゃないか。え? 許可とか取ってやってるんだよな……?」
「会社でも許可は取っていると聞いています。彼は勝手に聖国の広報をしてくれているので、我々も特に止めていません」
「待って、……なんでその人勝手に広報してるの? いっそ雇ってあげたら?」
叔父はラウルスの出版社の名が出たことに驚き、ヴァイスはフィフスの話にツボったようで笑いが止められなくなった様子だった。ずっと笑っていた姉弟たちも叔父たちの様子に、笑いが引っ込んだようだ。
「なぜかは知りませんが、以前から聖国の広報をしてくれるんです。きっと商機と思ってやっているのではないしょうか。あの垂れ幕も広報の一環でこちらに贈ったものらしいです。……あと、彼は今の会社でなにかやりたいことがあるようで、広報として誘うのは諦めています。」
淡々と説明しているフィフスを、後ろの幕の姿と比べる。
「シャッツって聞いたことあるけど、何の会社だっけ……」
「月刊『ロイヤル』を作っているところよ。よく取材に来ているじゃない」
姉がこそこそとレティシアと話している。そういえば昨日もその雑誌を持っていたが、その卒業生と関係があるのかもしれない。――あの人が自分で購入している姿が想像できないからだ。
「じゃあこの垂れ幕ってここにしかないんですか?」
「他に贈ったと聞いていないから、そうなるだろう。――恐らく締結式に合わせて用意したものだ。抜け目のないやつだからな。」
笑いの引いたエミリオににこりと返事をしていた。
「ここを後にする前に、先ほど用意した盃を消すから見るかと思って声を掛けに来たんだが、どうする?」
「あれ消しちゃうんですか? ――触ってもいいですか?」
「もちろん。持ち上げなければ好きに触るといい。持ち上げるとただの水に戻るから気を付けろ。」
フィフスの後ろにある祭壇を見ると、いつの間にか先ほど置かれた水の盃以外は下げられ何もない状態だった。エミリオは嬉しそうに駆け出し、近付くと指先でどんなものかと触れていた。
「あれって水なの――?」
「あぁ。もし興味があればどうぞ。ここで用意した水だし、害のあるものではない。――昨日見せた学園都市の模型と同じようなものだ。」
その言葉に姉も興味が移ったのか、ぞろぞろとエミリオのいる祭壇に向かい、せっかくだからと従姉や叔父も移動した。――振り返ると自分の後ろにはほとんど人が消え失せ、小さな音でもよく響いた。
「――なぜ、落ち込んでいるんだ?」
遅れて立ち上がろうとしたところ、フィフスに小さく声を掛けられる。
「ここの空気が合わなかったか? それともうちの師団のせいだろうか。そうだったら申し訳ない。――疲れたのなら先に戻って休むか?」
「ディアス――」
レティシアの影に隠れていたようで、いたことにすら気付かなかった。――コレットの不安気な声が届く。
「――彼の言う通りよ。もし疲れているなら、先に一緒に戻って休みましょ? ね?」
彼女はディアスの前に立ち、彼女に場所を譲る様にフィフスは一歩下がった。
「ここの空気が合わないのでしょ? 外でみんなを待っていてもいいと思うの……」
こちらの手を取ろうと従妹の小さな手が差し出される。コレットの小さく女性らしい柔らかな指先と、少し離れて心配そうに見ている彼を見比べた。――また誰かに余計な心配をかけてしまったことに、気が重くなる。
「――二人とも心配をかけてすまない。空気が合わないって訳じゃない。その……少し、気圧されてしまっただけだ」
遠くに在るなら、一方的に想うだけで満足だった。一方的なのだから何も返ってこないことは当たり前で、期待しなくて済むから気楽なものだ。――寂しいと思っても、本物だと分からなくても、傍になければ、知らなければ傷つかない。
でも、本当のことを知らないままだったら、きっと今日はこんな風に過ごさなかったはずだ。下町に行くことにも反対しただろう。命の恩人だとしても、すぐにこれだけ気安く接することはなかったはずだ。
今日は一緒に過ごして楽しかった。予想外なことばかりで、まだ半日しか過ごしていないというのに、目まぐるしくて息つく間もないくらいだ。――小さい頃、クリスと過ごしたときもそうだった。あの時の楽しかった記憶が胸に溢れてくる。
「……すぐにあれは外してもらおうか。ここの者に伝えてこよう。」
困ったように垂れ幕を見ていたフィフスが踵を返す。――思わず立ち上がり、腕を取って引き止める。
「――あのままでいい。別に幕のせいじゃない。その、――少し、勇気が出なかっただけだ」
「そんなに……? でかすぎて怖がらせてしまうとは……。ふっ、なかなかやるな。」
真剣で、なにか満更でもないようで、何を褒めているのか分からなかった。今日もだいたいこんな感じだったし、昔からこんな感じだった気すらする。――なにかがストンと心に落ちた。
立ち去る気配が消えたので手を放す。――もう少し一緒にいたい。思わずとった行動が言っている、自分がどうしたいのかを――。
「コレットも心配してくれてありがとう。もう大丈夫だ――」
できれば本物がいいけれど、まだ時間はある。――偽物だけじゃなく、いずれ本物に会えるように、今はきちんと向き合いたいと思った。昨日のことも、今日のこともどちらもなかったことにしたくなかった。
忘れられて、もう一度なかったことになることは怖い。
最初からでもいい、もうなにか忘れられないものを残したいと思った。
「そう……、分かったわ――」
コレットの返事が小さく届くと、皆がいる方向とは逆を歩いて行った。
「――彼女、大丈夫か?」
「侍女がついているから大丈夫だと思う。それによく、こうやって置いて行かれる……」
情けなさに苦笑する。気遣いを無碍にしてしまったから、自分に腹を立てているのだろう。いつもそうだ――。
後で改めて謝ろうと思い、すぐ近くにいるフィフスに向き合った。何を言おうか少し悩んでから、
「……どうして身長をごまかしているんだ?」
「っ、――成長期だから、問題ない。あと30センチは伸びるからこんなの誤差だ。」
ヴァイスに見抜かれた10倍伸びるつもりなのか。少し悔しそうな青色の瞳に睨まれるが、その反応も悪くなかった。――唯一知っているもので、この瞳の青さだけは本物だから。その二つの本物を目に出来ることも、見てもらえることも悪くない。
「そうなんだ」
思わず口角が上がりそうになるのを手で隠し、気持ちがバレないようにみんなの元へ行くことにする。
向かう途中、視界の端に垂れ幕が入る。――先ほどまでは遠く感じたこの人物が、秘密と共に傍にいると思うと不思議な高揚感に変わる。そうだ、これも悪くない。
祭壇の側に行くと、先ほどここで祈祷をしていた神職の者が来ており、叔父たちと話をしているようだった。他にも玄家の三人と東方軍の人間が姉たちを含めて会話をしているようだった。
フィフスが到着すると神職とここの関係者だろう、気付いた様子で彼に深々と礼をしている。
「先ほどはこちらの不始末を収めてくださりありがとうございました。――まして蒼家の方がいらっしゃるのに蒼龍神さまを奉る聖具を壊してしまうなど、本来であればあってはならない事……」
「気にするな。形あるものは壊れる。些末なことだ。」
「……この人ったら器の代わりにバケツでいいだろとか言い出したのよ? 本当に信じられない……」
ミラが苦々しく、隣にいたガレリオを見た。
「別に形にこだわる必要はない。バケツだって丈夫だしたくさん水も入って――」
「もう! ダメに決まってるでしょ……! あなたたちは本当にもっと信心を持ちなさいよ!」
「まぁまぁ。当の蒼家の御方が仰るんだからいいじゃないですか、ねぇ。――参拝も無事に終わってよかったよかった」
ガレリオの言葉に怒りが沸いた様子のミラを、エリーチェとリタが宥めはじめた。対照的にフィフスとガレリオは涼しい顔だ。
「――最近表に出られらなくなった東方天さまのことを思うと、あまり他所事に思えず……。なにかよくない兆しではないかと……」
青い顔で神職たちが不安がっている。
「問題ありませんよ。――いいですか、聖国の破壊神の異名を持つ我らが東方天さまですよ。聖具が壊れるなんて、逆に縁起がいいと思いませんか?」
堂々とした物言いにここの神職たちは萎縮しているようだった。――そんな異名を持っているのか。
「そうそう。表に出ないのはただの休暇だし、クリスくんのことだから元気にやってるはず。だから心配いらないよ」
毒気のない外向き用のにこやかな笑顔を作ったヴァイスが付け足す。すぐそこに本人がいるのだ。――心底この状況を楽しんでいそうだった。
「不吉な兆しだったとて、覆してしまえばいい。凶事にしなければいいだけのこと。――そうだろ?」
神職たちの不安に動じず、悠然と話す彼の言葉に少し落ち着いたのか姿勢を正した。
「先ほどは成功を神に祈ったが、実際成功できるかどうかは我らの働きによって決まるものだ。祈りを反故にしないよう、成功させるしかない。――お前たちも今日ここにいた者たちを信じろ。」
自信に満ちた言葉に、自然と周りも鼓舞される。
「――君もあれくらい自信持ってくれるといいんだけどね~」
「……人には向き不向きがあるんだと、身につまされるな……」
ヴァイスが隣にいた叔父に話していた。気弱な叔父の背が小さくなり、娘のレティシアがくすりと笑っていた。
「――そろそろこれを片付けていいか?」
異議が出なかったことから器の下に敷いた紙を引き抜く。――すると蒸発するかのようにその形は一瞬にして霧散した。液体に戻るかと思っていたので、空気中に消えたことに殊更大きくエミリオが驚いていた。近くにいたアストリッドも目を大きくしており、二人の血のつながりを強く感じた。
「長居をしたな。――さて、次へ行こうか。」
引き抜いたはずの紙はどこかへ仕舞ったのか、もうどこにも見えなくなり両手が空になったようだった。
「そうだ、――みんな学園に戻ってくるとき、水上庭園で待ち合わせだからよろしくね~」
学園の西側にある庭園だ。――中央を挟み東側には薔薇の生垣のある庭園が、西側は大きな池があり、水の上を橋を通した庭園がある。
「あそこは夕方もきれいだからね。せっかくだし庭を案内するから、皆さんくれぐれも遅刻されませんように。――お茶を用意して待っているよ」
人差し指を立て、皆に言って聞かせるとヴァイスはウィンクを飛ばした。
博物館はこのあたりから近いはず。――学園都市西部の山の手と下町の中間にある場所だ。せっかくの時間を今は無駄にしたくない。
どこに消えたのかと虚空に手を伸ばす弟の手を取った。
「そろそろ行こう。――あまり中のことを覚えていないから、エミリオが頼りだ」
「――お任せ下さい! 兄さまもフィフスのことも僕が案内します」
「よろしく頼む。」
にこりと微笑んだフィフスに続いて顔が小さく緩んだ。
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