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26.『策士』は雨上がりと共に⑪
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少しすると車内の揺れが止まる。どうやら目的地についたようだ。
「やっと着いたか。」
扉の窓から外を伺うと、小さな教会が見えた。建物の前に何人も人がたむろしてしており、見慣れない服装や髪色から東方軍の人間だろう。昨日も見かけた顔があるようだ。
馬車の到着に数名の顔がこちらを向くが、顔を背けている者もおり、なんとも妙な空気だった。
侍従が扉を開けたので、順番に外に出る。午前いたバルシュミーデ通りの時と違う空気に、少し戸惑う。
「何をしている。」
弟に続いて馬車から降りたフィフスが近くにいた者に声を掛けた。
「た、――坊っちゃん。いや、聞いてくださいよ……。今ちょっと我慢できなくなって、みんなで外の空気を吸っているんです」
二十代半ばほどだろうか。親し気に話しかけているものの、なぜか視線を合わそうとしない。
「何があった?」
今までもう少し感情が見えたしゃべり方をしていたが、兵士に対して淡々とした様子で尋ねている。我慢できなくなったと気になる言葉に侍従たちが傍に来た。何かただならぬ問題が起きたのか。
「笑っちゃいけない空気だって分かっているんですが、それが逆に面白くなってしまって……。外観もなかなかいかついじゃないですか。それだけでもちょっと面白いのに、中に入ったら……ふっ、ちょっとすみません……」
徐々に言葉尻が震えていく。どうやら笑いを堪えているようだった。周囲を見るとその言葉に釣られてか、同じように笑っているようだった。
いかついと形容された外観に目をやる。黒っぽい石造りの建物で、尖塔アーチが高さを強調している。細かな装飾が荘厳な雰囲気を醸し出しているだろう。あちこちに見える大きな窓はステンドグラスになっており、カラフルな光を中に届けているようだった。――小さな教会ではあるが、こちらでは見かけなくもないデザインに見えた。
「確かに派手だな。――ずいぶん立派に作ってもらったようだ。」
話しかけてきた兵士の様子が気にならないのか、フィフスの淡々とした評論を聞き、近くの兵士たちが、
「中に四方天さまのバカでかい垂れ幕があるんですよ。――あれってカイが言ってたやつですよね」
「それを見たヴァイスさまが笑うもんだから、みんなつられてしまって……。追い出されました」
「あと蒼龍神を奉る聖具が騒ぎで割れてしまいました。――不吉だって中でまだ騒いでて」
「団長がバケツに水入れてきたらまた怒られて」
「代用品も見つけられなくて、すったもんだしてるんですけど、どうします?」
「ここの神職の方が死にそうになってて、収拾つかないんです――。東方天さまに何かあるんじゃないかって」
わらわらと集まり彼に声を掛けている。
「そうか。」
次々に話しかけられているも、何ひとつ動じることなく返事をしている。
「だ、大丈夫ですか? 何か不吉なことが起きてるって……」
エミリオが不安気に服のすそを掴んできた。さらっと遠慮なく話す兵士たちの話に少し怖がっているようだった。――不吉に見舞われていると思しき本人がここにいるのだから、彼らも言うに言えないのかもしれない。エミリオになんと声を掛けるか逡巡する。
が、空気が変わる。――弛緩して軽い調子だった兵士たちが、堰を切ったかのように一斉に列を作り、張り詰めた空気に変わる。
「申し訳ありません! ――殿下達がいらっしゃると思わず気が緩んでおりました。大変失礼いたしました」
申し合わせたかのように同じタイミングで敬礼をする。呆気にとられて周りを見ると、後ろからフィフスが現れた。
「大丈夫だ。不吉なことなど何もない。よくあることだから気にしなくていい。」
怖がるエミリオに、にこりと笑みを向けている。
「よく、あるんですか……?」
「あぁ。本家の人間が来ることなど滅多にないから、こういう場所の神職たちは緊張するようで、しょっちゅう壊しているな。――硝子や陶器の器をやめればいいのに。」
先ほどの賑やかさから、一瞬で静寂が訪れたことが不可解だったが、彼らは一糸乱れぬ様子で直立不動の姿勢を続けている。唐突な変化に侍従たちも落ち着かないようで周りの様子を伺う。
「さて、中が混乱しているようなら様子を見るか。――お前たちはもう少し頭を冷やしてから来い。」
先ほど馬車の中で話していた時と同じような声のトーンだが、得も言われぬゆるぎなさを感じた。彼が歩き出すのでついていく。
「……なにかしたの?」
小さな声で尋ねてみた。
「お前たちがいることに気付いただけだ。申し訳ないな。――気安さはアイツらの長所だが、気が緩みすぎだ。」
小さく呆れている様子だったが、普段の様子が垣間見れたようで少し浮き立つような気持ちになった。中へ続く階段に足をかけると、中から人影が現れた。
「フィー! やっと来た~。待ってたんだから」
黒髪の肩につくくらいの髪の長さの元気そうな女性だった。――昨日紹介があったものの、大して挨拶もしていなかったと思い出す。駆け寄ろうと一瞬走り出すも、傍に人がいるからか足を止めた様子だった。
彼女の後ろからもうひとり現れる。外にいる東方軍と同じ服装の人物で、色素の薄い髪色と目の色をしていた。
「来て早々で申し訳ないんですけど、これお願いできますか」
軍人らしい身体つきをしたその人は水がたっぷり入ったバケツを見せ、扉の影に移動した。
「お前たちは先に入っているといい。みんなが待っているだろう。」
こちらを振り返り、中に入るよう促していた。
「何を――」
「おやおや! 殿下たちのお出ましか。待ってたよ~。ちょうどいいタイミングだね」
聞き覚えのある賑やかな声が届く。見知ったその人物に、隣にくっついていたエミリオが嬉し気に声を上げる。
「ヴァイス! ただいま戻りました」
「お帰りエミリオ殿下~。その顔はずいぶん楽しんだようだねぇ。下町散策はどうだった?」
「はい! ヴァイスの言ってた通り、フィフスはたくさん下調べしていて、いろいろと教えて貰いました」
今まで合った出来事を話したくて仕方ないようで、軽い足取りで階段を駆け上る。その様子にこの場を離れるフィフスを目で追うと、扉の影で兵士と女性と話をしており、水の入ったバケツを床に置き、近くで膝をつくと片手を水の中に突っ込んでいた。服が濡れるのも気にせず、袖をまくらず深く手を入れていた。
「あちらが気になるかい? ――せっかくなら見せてもらえば?」
ヴァイスの言葉にエミリオも興味を惹かれ、フィフスの元へ行った。ちらりとヴァイスを見ると、ご機嫌そうな赤い瞳がこちらを向いていた。
「それとも中に入ってる? こっちも面白いものがあったよ――」
どうぞと中へ促されるが、先ほどの兵士たちの話が気になり、弟に続いて彼の側に寄った。上から覗くと、じっと水の中に手をつっこんでいるようにしか見えなかった。
「フィフスは何をしているんですか?」
「器を作ってもらっているんですよ。とりあえずそれっぽいものがあれば、中も落ち着くと思うので」
エミリオの質問に、女性が応えた。
「器? ――まさか、壊れたという聖具? を直しているんですか?」
ぱちくりとまばたきをして、女性に尋ねていた。
「――いけそうですか?」
「あぁ。――エリーチェ、悪いが紙を一枚とってくれないか。片手が塞がる。」
「はーい。――殿下、すみませんがお隣よろしいでしょうか」
エリーチェ。そうだ、昨日名前が出ていたなと思い出す。――自分たちが立っている位置に用があるらしく、申し訳なさそうに横にずれるよう頼まれる。一緒にいた弟と移動すると、彼女がフィフスの横にしゃがみ込み、彼の腰のあたりに収納されている札の入った銀色のケースを取り出した。中から一枚取り出す。バケツの中に集中しているためか少し間が空き、もう一方の手を彼が伸ばすと、その手に紙を握らせた。
ゆっくりと水の中から何かを引き上げると、バケツの中で何かを握るような手の形をした手中に、透明な高さのあるガラス細工の盃が現れる。――水の中から抜かれた手は水滴もついておらず、服もやはり濡れていなかった。――不思議な光景だ。
「――こんなもんか。」
気泡ひとつない透き通ったそれは繊細な切れ込み模様が施されており、立派なものに見える。
「おぉ。立派なもんだねぇ」
ヴァイスも後ろで見ていたらしい。彼の隣に侍従たちが控えており、一緒に遠目から見ていたようだった。
「こんなもので良いでしょうか。」
ヴァイスに感想を求めている。
「僕にそれ聞くの? ――ふふっ。殿下たちはどう思う? 悪くないよね」
「素敵なグラスだと思います! ――その中に入っていたんですか?」
「まぁ、ある意味そうだな。……ディアスも悪くないと思うか?」
判断に迷っているのだろうか、浮かない顔に見えた。
「……キレイな品だと思う。それはさっき言ってた聖具なのか?」
「いや、ただの水だ。」
問題ないと判断したのか、立ち上がった。
「水、――なんですか?」
「あぁ。ガラスみたいだろ。少しの間ごまかすならこれでいい。――ディーノ、片付けておけ。」
名を呼ばれた兵士は用の済んだバケツを持って、建物の裏へ消えていく。
「待たせてすまなかったな。――さっさと終わらせよう。」
片手に水でできた盃、もう一方の手に札を持って教会の中に入っていく。――と、入口を潜り抜けてすぐに足が止まった。
「みたみた? あれすごくない?」
エリーチェがフィフスの横に並び、嬉しそうに話しかけている。
「僕もひとつ欲しいくらいだよ。いつの間にあんなの面白いもの作ったの?」
ヴァイスも楽しげにフィフスに話しかけていた。後ろ姿しか見えないが、何かを見上げているようだった。何事かとエミリオが駆けて行き、後についていく。
扉をくぐると、外観よりも広く感じる屋内の床は磨かれた石造りで、赤い絨毯が中心を通っていた。一本の長い絨毯の横には、いくつもの長椅子が置かれ、ステンドグラスと室内の燭台が屋内をほのかに灯していた。高い天井から壁にかけて、細やかな絵画が描かれているため、暗い屋内でも豪華絢爛と言っても遜色ないものだろう。
そして正面には高い天井から釣り降ろされた、長く大きな四枚の垂れ幕が堂々と目に入る。――そこには四人の人物が映っており、その中のひとりはよく知る、――だけど実物はまだ見たことのない人物だった。
「四方天のみんながが揃っているのは見ごたえがあるねぇ。エリーチェくんが撮影手伝ったんだって」
「えへへ。あの時は大変だったけど楽しかったなー」
癖のない柔らかなブロンドが少し顔にかかり、サファイアのような透き通った深みのある青い双眸は遥か遠くを見つめているようだった。金糸で縁取られた白い詰襟に青色のマントがはためいているのだが、ちょうどいい差し色となっている。武器を構えているようで、流動的な風を感じるシーンを縦長の幕の中にちょうど切り取っているかのようだった。
今まで目にする彼女の姿はずっとモノクロだった。鮮烈に色の付いた姿を見たのは初めてだ。
「――本当にバカみたいにでかいな。」
すぐ近くで少し呆れたような声がしたので、正面に釘付けだった視線が動く。
あの幕の中の人物はここにいる。――だがその見た目も、声も、身長も、性別も、名前までもが偽物だ。後ろ姿だけでは本人だと言われても分からないし、ヴァイスに紹介されるまで本人だと考えもしなかったし、きっと気付かなかったはずだ。
手を伸ばせば触れることのできる距離にいるのに、急に遠く感じた。――知らないままでいた方がよかったのではないか。
「やっぱりシャナが一番可愛いな。」
「まぁ……、それは一理あるね」
「ちょっと君たち~、――うちのクリスくんのこと差し置いて何を言ってるの?」
「クリスさまって一番左の方ですか? ……女性の方なんですよね?」
「ちょっと!? ――あれは南方天のシャナ太子。クリスくんはその隣のブロンドの方! 僕と髪の色とそっくりでしょ」
珍しくヴァイスが慌てた声で訂正している。
「瞳の色がヴァイスやセーレと同じだからそうかと……。クリスさまは、――かっこいい方なんですね」
「ふむ、エミリオは見る目があるな。」
うんうんと頷きこちらを振り返る。
「ディアスは誰がいいと思う?」
いたずらっぽい顔がこちらを向く。楽し気に細くなった青色の瞳が光彩を放っているように見えた。――澄んだ瞳に気圧されて、尋ねられるもなんて言葉を返すべきか分からず戸惑うしかなかった。
「もう! 殿下を困せちゃダメでしょ。――ほら、早くミラ姉を止めに行くよっ」
エリーチェがフィフスの背中を押し、そのまま二人が赤い絨毯の上を小走りで駆けて行った。
「――ヴァイス、またなにか言ったのか」
突如近くから叔父の声がした。いつの間にか叔父と姉が傍に来ていたようだ。――もしかしたら気付かなかっただけで、最初から居たのかもしれない。
「今のは僕じゃないんですけど~。ヨアヒムひどい!」
「お前の日頃の行いが悪すぎるんだ。――下町へ行ったと聞いたが、二人とも大事はなかったか?」
「本当に下町に行ってたの? ……あなたたちが?」
いつもの軽口に戻るヴァイスに、いつものように心配そうに尋ねてくる叔父と姉。
「はい! ヴァイスの言ってた通り下町は面白いものが多かったです。兄さまと初めて『買い食い』と『立ち食い』というものをしました。キールとアイベルも最初はしてくれたんですけど、途中から止めてしまって残念でした」
「……そうなの?」
侍従たちは残念という言葉に困っている様子だった。姉は驚いた様子で大きな弟を見ていた。
「えぇ、まぁ……。下町のような場所ではそうするものだと教わって……」
話しながらついさきほどしていた下町の出来事を思い出す。
初めてで慣れない場所であったが、何をどうすればよいのか教えて貰い、知らないものを一緒に見て聞いた時間だった。――どれもひとつひとつはささやかな出来事ではあったが、どれも楽しかった。
先ほど二人が進んだ赤い絨毯の先を見ると、中央の祭壇に手にしていた水でできた盃を置いている。事が収まったのか、フィフスに何度も畏まってお辞儀をする者や、まだ話し合いをしている者を仲裁しているのかエリーチェが止めたりしている様子が見えた。
「どうやら準備ができたみたいだね。席に着こうか。みんなは前の方に座ってね。後ろは東方軍の人たちと、うちの近衛が使うから」
ヴァイスも同じく先で起こっていた出来事を見ていたようで、この場を執成した。ちらりと見ると、彼らは既に最前列に腰かけているようだった。傍にいる者たちと話しているようで、親し気に後ろ姿が揺れている。
「兄さま? 行かないのですか?」
「……もしかして疲れた?」
叔父やヴァイスは既に先に行っており、姉と弟が両隣にいた。足を止めた自分を案じているのだろう。
「……少し考え事をしていただけなので、大丈夫です」
「ディアスは体力ないんだから、あまりムリしちゃだめよ。でもあとで詳しく話を聞かせてね」
にこりと微笑む姉に、ふらついていた心が戻ってくるのを感じた。
「……兄さまは左翼を見かけませんでしたか? 本当に消えちゃいました……」
言われて弟と一緒に前も後ろも見回すも、あの無口な仮面の彼の姿はなかった。入口から外にいた兵士たちがぞろぞろと入ってきてしまい、進行の妨げになりそうだったので、もう先に進むしかなかった。
「やっと着いたか。」
扉の窓から外を伺うと、小さな教会が見えた。建物の前に何人も人がたむろしてしており、見慣れない服装や髪色から東方軍の人間だろう。昨日も見かけた顔があるようだ。
馬車の到着に数名の顔がこちらを向くが、顔を背けている者もおり、なんとも妙な空気だった。
侍従が扉を開けたので、順番に外に出る。午前いたバルシュミーデ通りの時と違う空気に、少し戸惑う。
「何をしている。」
弟に続いて馬車から降りたフィフスが近くにいた者に声を掛けた。
「た、――坊っちゃん。いや、聞いてくださいよ……。今ちょっと我慢できなくなって、みんなで外の空気を吸っているんです」
二十代半ばほどだろうか。親し気に話しかけているものの、なぜか視線を合わそうとしない。
「何があった?」
今までもう少し感情が見えたしゃべり方をしていたが、兵士に対して淡々とした様子で尋ねている。我慢できなくなったと気になる言葉に侍従たちが傍に来た。何かただならぬ問題が起きたのか。
「笑っちゃいけない空気だって分かっているんですが、それが逆に面白くなってしまって……。外観もなかなかいかついじゃないですか。それだけでもちょっと面白いのに、中に入ったら……ふっ、ちょっとすみません……」
徐々に言葉尻が震えていく。どうやら笑いを堪えているようだった。周囲を見るとその言葉に釣られてか、同じように笑っているようだった。
いかついと形容された外観に目をやる。黒っぽい石造りの建物で、尖塔アーチが高さを強調している。細かな装飾が荘厳な雰囲気を醸し出しているだろう。あちこちに見える大きな窓はステンドグラスになっており、カラフルな光を中に届けているようだった。――小さな教会ではあるが、こちらでは見かけなくもないデザインに見えた。
「確かに派手だな。――ずいぶん立派に作ってもらったようだ。」
話しかけてきた兵士の様子が気にならないのか、フィフスの淡々とした評論を聞き、近くの兵士たちが、
「中に四方天さまのバカでかい垂れ幕があるんですよ。――あれってカイが言ってたやつですよね」
「それを見たヴァイスさまが笑うもんだから、みんなつられてしまって……。追い出されました」
「あと蒼龍神を奉る聖具が騒ぎで割れてしまいました。――不吉だって中でまだ騒いでて」
「団長がバケツに水入れてきたらまた怒られて」
「代用品も見つけられなくて、すったもんだしてるんですけど、どうします?」
「ここの神職の方が死にそうになってて、収拾つかないんです――。東方天さまに何かあるんじゃないかって」
わらわらと集まり彼に声を掛けている。
「そうか。」
次々に話しかけられているも、何ひとつ動じることなく返事をしている。
「だ、大丈夫ですか? 何か不吉なことが起きてるって……」
エミリオが不安気に服のすそを掴んできた。さらっと遠慮なく話す兵士たちの話に少し怖がっているようだった。――不吉に見舞われていると思しき本人がここにいるのだから、彼らも言うに言えないのかもしれない。エミリオになんと声を掛けるか逡巡する。
が、空気が変わる。――弛緩して軽い調子だった兵士たちが、堰を切ったかのように一斉に列を作り、張り詰めた空気に変わる。
「申し訳ありません! ――殿下達がいらっしゃると思わず気が緩んでおりました。大変失礼いたしました」
申し合わせたかのように同じタイミングで敬礼をする。呆気にとられて周りを見ると、後ろからフィフスが現れた。
「大丈夫だ。不吉なことなど何もない。よくあることだから気にしなくていい。」
怖がるエミリオに、にこりと笑みを向けている。
「よく、あるんですか……?」
「あぁ。本家の人間が来ることなど滅多にないから、こういう場所の神職たちは緊張するようで、しょっちゅう壊しているな。――硝子や陶器の器をやめればいいのに。」
先ほどの賑やかさから、一瞬で静寂が訪れたことが不可解だったが、彼らは一糸乱れぬ様子で直立不動の姿勢を続けている。唐突な変化に侍従たちも落ち着かないようで周りの様子を伺う。
「さて、中が混乱しているようなら様子を見るか。――お前たちはもう少し頭を冷やしてから来い。」
先ほど馬車の中で話していた時と同じような声のトーンだが、得も言われぬゆるぎなさを感じた。彼が歩き出すのでついていく。
「……なにかしたの?」
小さな声で尋ねてみた。
「お前たちがいることに気付いただけだ。申し訳ないな。――気安さはアイツらの長所だが、気が緩みすぎだ。」
小さく呆れている様子だったが、普段の様子が垣間見れたようで少し浮き立つような気持ちになった。中へ続く階段に足をかけると、中から人影が現れた。
「フィー! やっと来た~。待ってたんだから」
黒髪の肩につくくらいの髪の長さの元気そうな女性だった。――昨日紹介があったものの、大して挨拶もしていなかったと思い出す。駆け寄ろうと一瞬走り出すも、傍に人がいるからか足を止めた様子だった。
彼女の後ろからもうひとり現れる。外にいる東方軍と同じ服装の人物で、色素の薄い髪色と目の色をしていた。
「来て早々で申し訳ないんですけど、これお願いできますか」
軍人らしい身体つきをしたその人は水がたっぷり入ったバケツを見せ、扉の影に移動した。
「お前たちは先に入っているといい。みんなが待っているだろう。」
こちらを振り返り、中に入るよう促していた。
「何を――」
「おやおや! 殿下たちのお出ましか。待ってたよ~。ちょうどいいタイミングだね」
聞き覚えのある賑やかな声が届く。見知ったその人物に、隣にくっついていたエミリオが嬉し気に声を上げる。
「ヴァイス! ただいま戻りました」
「お帰りエミリオ殿下~。その顔はずいぶん楽しんだようだねぇ。下町散策はどうだった?」
「はい! ヴァイスの言ってた通り、フィフスはたくさん下調べしていて、いろいろと教えて貰いました」
今まで合った出来事を話したくて仕方ないようで、軽い足取りで階段を駆け上る。その様子にこの場を離れるフィフスを目で追うと、扉の影で兵士と女性と話をしており、水の入ったバケツを床に置き、近くで膝をつくと片手を水の中に突っ込んでいた。服が濡れるのも気にせず、袖をまくらず深く手を入れていた。
「あちらが気になるかい? ――せっかくなら見せてもらえば?」
ヴァイスの言葉にエミリオも興味を惹かれ、フィフスの元へ行った。ちらりとヴァイスを見ると、ご機嫌そうな赤い瞳がこちらを向いていた。
「それとも中に入ってる? こっちも面白いものがあったよ――」
どうぞと中へ促されるが、先ほどの兵士たちの話が気になり、弟に続いて彼の側に寄った。上から覗くと、じっと水の中に手をつっこんでいるようにしか見えなかった。
「フィフスは何をしているんですか?」
「器を作ってもらっているんですよ。とりあえずそれっぽいものがあれば、中も落ち着くと思うので」
エミリオの質問に、女性が応えた。
「器? ――まさか、壊れたという聖具? を直しているんですか?」
ぱちくりとまばたきをして、女性に尋ねていた。
「――いけそうですか?」
「あぁ。――エリーチェ、悪いが紙を一枚とってくれないか。片手が塞がる。」
「はーい。――殿下、すみませんがお隣よろしいでしょうか」
エリーチェ。そうだ、昨日名前が出ていたなと思い出す。――自分たちが立っている位置に用があるらしく、申し訳なさそうに横にずれるよう頼まれる。一緒にいた弟と移動すると、彼女がフィフスの横にしゃがみ込み、彼の腰のあたりに収納されている札の入った銀色のケースを取り出した。中から一枚取り出す。バケツの中に集中しているためか少し間が空き、もう一方の手を彼が伸ばすと、その手に紙を握らせた。
ゆっくりと水の中から何かを引き上げると、バケツの中で何かを握るような手の形をした手中に、透明な高さのあるガラス細工の盃が現れる。――水の中から抜かれた手は水滴もついておらず、服もやはり濡れていなかった。――不思議な光景だ。
「――こんなもんか。」
気泡ひとつない透き通ったそれは繊細な切れ込み模様が施されており、立派なものに見える。
「おぉ。立派なもんだねぇ」
ヴァイスも後ろで見ていたらしい。彼の隣に侍従たちが控えており、一緒に遠目から見ていたようだった。
「こんなもので良いでしょうか。」
ヴァイスに感想を求めている。
「僕にそれ聞くの? ――ふふっ。殿下たちはどう思う? 悪くないよね」
「素敵なグラスだと思います! ――その中に入っていたんですか?」
「まぁ、ある意味そうだな。……ディアスも悪くないと思うか?」
判断に迷っているのだろうか、浮かない顔に見えた。
「……キレイな品だと思う。それはさっき言ってた聖具なのか?」
「いや、ただの水だ。」
問題ないと判断したのか、立ち上がった。
「水、――なんですか?」
「あぁ。ガラスみたいだろ。少しの間ごまかすならこれでいい。――ディーノ、片付けておけ。」
名を呼ばれた兵士は用の済んだバケツを持って、建物の裏へ消えていく。
「待たせてすまなかったな。――さっさと終わらせよう。」
片手に水でできた盃、もう一方の手に札を持って教会の中に入っていく。――と、入口を潜り抜けてすぐに足が止まった。
「みたみた? あれすごくない?」
エリーチェがフィフスの横に並び、嬉しそうに話しかけている。
「僕もひとつ欲しいくらいだよ。いつの間にあんなの面白いもの作ったの?」
ヴァイスも楽しげにフィフスに話しかけていた。後ろ姿しか見えないが、何かを見上げているようだった。何事かとエミリオが駆けて行き、後についていく。
扉をくぐると、外観よりも広く感じる屋内の床は磨かれた石造りで、赤い絨毯が中心を通っていた。一本の長い絨毯の横には、いくつもの長椅子が置かれ、ステンドグラスと室内の燭台が屋内をほのかに灯していた。高い天井から壁にかけて、細やかな絵画が描かれているため、暗い屋内でも豪華絢爛と言っても遜色ないものだろう。
そして正面には高い天井から釣り降ろされた、長く大きな四枚の垂れ幕が堂々と目に入る。――そこには四人の人物が映っており、その中のひとりはよく知る、――だけど実物はまだ見たことのない人物だった。
「四方天のみんながが揃っているのは見ごたえがあるねぇ。エリーチェくんが撮影手伝ったんだって」
「えへへ。あの時は大変だったけど楽しかったなー」
癖のない柔らかなブロンドが少し顔にかかり、サファイアのような透き通った深みのある青い双眸は遥か遠くを見つめているようだった。金糸で縁取られた白い詰襟に青色のマントがはためいているのだが、ちょうどいい差し色となっている。武器を構えているようで、流動的な風を感じるシーンを縦長の幕の中にちょうど切り取っているかのようだった。
今まで目にする彼女の姿はずっとモノクロだった。鮮烈に色の付いた姿を見たのは初めてだ。
「――本当にバカみたいにでかいな。」
すぐ近くで少し呆れたような声がしたので、正面に釘付けだった視線が動く。
あの幕の中の人物はここにいる。――だがその見た目も、声も、身長も、性別も、名前までもが偽物だ。後ろ姿だけでは本人だと言われても分からないし、ヴァイスに紹介されるまで本人だと考えもしなかったし、きっと気付かなかったはずだ。
手を伸ばせば触れることのできる距離にいるのに、急に遠く感じた。――知らないままでいた方がよかったのではないか。
「やっぱりシャナが一番可愛いな。」
「まぁ……、それは一理あるね」
「ちょっと君たち~、――うちのクリスくんのこと差し置いて何を言ってるの?」
「クリスさまって一番左の方ですか? ……女性の方なんですよね?」
「ちょっと!? ――あれは南方天のシャナ太子。クリスくんはその隣のブロンドの方! 僕と髪の色とそっくりでしょ」
珍しくヴァイスが慌てた声で訂正している。
「瞳の色がヴァイスやセーレと同じだからそうかと……。クリスさまは、――かっこいい方なんですね」
「ふむ、エミリオは見る目があるな。」
うんうんと頷きこちらを振り返る。
「ディアスは誰がいいと思う?」
いたずらっぽい顔がこちらを向く。楽し気に細くなった青色の瞳が光彩を放っているように見えた。――澄んだ瞳に気圧されて、尋ねられるもなんて言葉を返すべきか分からず戸惑うしかなかった。
「もう! 殿下を困せちゃダメでしょ。――ほら、早くミラ姉を止めに行くよっ」
エリーチェがフィフスの背中を押し、そのまま二人が赤い絨毯の上を小走りで駆けて行った。
「――ヴァイス、またなにか言ったのか」
突如近くから叔父の声がした。いつの間にか叔父と姉が傍に来ていたようだ。――もしかしたら気付かなかっただけで、最初から居たのかもしれない。
「今のは僕じゃないんですけど~。ヨアヒムひどい!」
「お前の日頃の行いが悪すぎるんだ。――下町へ行ったと聞いたが、二人とも大事はなかったか?」
「本当に下町に行ってたの? ……あなたたちが?」
いつもの軽口に戻るヴァイスに、いつものように心配そうに尋ねてくる叔父と姉。
「はい! ヴァイスの言ってた通り下町は面白いものが多かったです。兄さまと初めて『買い食い』と『立ち食い』というものをしました。キールとアイベルも最初はしてくれたんですけど、途中から止めてしまって残念でした」
「……そうなの?」
侍従たちは残念という言葉に困っている様子だった。姉は驚いた様子で大きな弟を見ていた。
「えぇ、まぁ……。下町のような場所ではそうするものだと教わって……」
話しながらついさきほどしていた下町の出来事を思い出す。
初めてで慣れない場所であったが、何をどうすればよいのか教えて貰い、知らないものを一緒に見て聞いた時間だった。――どれもひとつひとつはささやかな出来事ではあったが、どれも楽しかった。
先ほど二人が進んだ赤い絨毯の先を見ると、中央の祭壇に手にしていた水でできた盃を置いている。事が収まったのか、フィフスに何度も畏まってお辞儀をする者や、まだ話し合いをしている者を仲裁しているのかエリーチェが止めたりしている様子が見えた。
「どうやら準備ができたみたいだね。席に着こうか。みんなは前の方に座ってね。後ろは東方軍の人たちと、うちの近衛が使うから」
ヴァイスも同じく先で起こっていた出来事を見ていたようで、この場を執成した。ちらりと見ると、彼らは既に最前列に腰かけているようだった。傍にいる者たちと話しているようで、親し気に後ろ姿が揺れている。
「兄さま? 行かないのですか?」
「……もしかして疲れた?」
叔父やヴァイスは既に先に行っており、姉と弟が両隣にいた。足を止めた自分を案じているのだろう。
「……少し考え事をしていただけなので、大丈夫です」
「ディアスは体力ないんだから、あまりムリしちゃだめよ。でもあとで詳しく話を聞かせてね」
にこりと微笑む姉に、ふらついていた心が戻ってくるのを感じた。
「……兄さまは左翼を見かけませんでしたか? 本当に消えちゃいました……」
言われて弟と一緒に前も後ろも見回すも、あの無口な仮面の彼の姿はなかった。入口から外にいた兵士たちがぞろぞろと入ってきてしまい、進行の妨げになりそうだったので、もう先に進むしかなかった。
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神性はその神が司るもの大まかには下記の通り
元素(風・火など)
概念や思想(愛・正義、知恵・運勢など)
技巧(鍛冶・酒・商業・音楽など)
現象や存在(大地・稲妻、太陽など)
【権能とは】
権能は神性に含まれている能力を指す
※主人公の『月』を例とする
月の持つ権能は【月・闇・死・聖】の四つ
神性を発現する前に所持していた【水・金運】は神性の発現時に『月』に合わずに消失している
逆に常闇は月が闇の権能を持つため、合致しそのまま内封されている。
結果、主人公は【月・常闇(闇+闇or夜+闇)・死・聖】を持っている
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