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3.長い一日③
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突然抱きしめられて言葉が出なかった。
何をされているのか一瞬分からず身体が強張るも、服越しに伝わる体温が優しく、軽く自分に乗せられた身体の重さや、身を包む腕の力強さが今の自分にはひどく心地よく感じた。
他人の体温を感じたのはいつのこと以来か――。ゆっくりと撫でられる背中がじんわりと温められていくのを感じた。
指先の札よりも人の体温の方が高いのか、身体の芯までぬくもりが直接届くようだった。
他人の呼吸と心音が伝わる。先ほど会ったばかりで何も知らない相手だというのに、近くに寄ることや自分に触れることを止められずにいる。むしろ彼に触れられてから徐々に気持ちが落ち着いてくるようだった。
「ずいぶんと怖い目にあってしまったな。」
泣いている子供に言い聞かせるような穏やかな声色だ。
「よく耐えた。――お前たちが無事でよかった。」
背をゆっくりと撫でられるたび、ひとつ、ひとつ、と心に募る滓が消えるようだった。もうすぐで16になる。それなのに、こんな子供のように宥められるなんて――。情けない、と心中で毒づくも、黒くなにかわからない塊になってしまった自分の心が少しずつ落ち着きを取り戻す感覚になる。
落ち着いてくる心と比例して息が乱れる。
「しんどかっただろう。もう大丈夫だ。」
心に澱んでいた黒くて重いなにかは解けているのかもしれない。解けた滓は軽くなって心の奥から出ようとしている。
彼の手に撫でられるたび、じわりと目の奥が熱くなるのを止められない。なんとか平静を取り繕うとするも、意思に反して瞼から涙がこぼれ、唇からは嗚咽がこぼれはじめた。
――人前で泣いたことなど、思いつく限りなかったはず。多分アイベルにも見せたことはなかったと思う。だからこんな情けない姿を誰にも見せたくはなかった。
けれど一度堰を切った感情は抑えることが難しく、涙を止める理由をあれこれと探したものの、伝わる人のぬくもりが否応にも止めることを許してくれない。
何も言わず、ただただ優しく添えられた手が、静かに背の上で動くだけだった。
どれくらいの時が経ったのだろうか。胸の内からあふれ出るものがなくなり、ようやく涙腺と呼吸が平静さを取り戻す。顔を上げるには、まだ恥ずかしさが勝るためできずにいた。
長く伸ばしている髪が、うつむく頭の角度に合わせて横顔を隠してくれている。――髪をまとめずに流していたメリットがひとつあったようだ。
頃合いを見図りフィフスはディアスの膝に乗っていたストールを広げて彼の肩にかけると、自分の荷物がある方へ歩を進めた。何も言ってこないことが今はありがたかった。片付けをしているのかなにか音を立てている。
「殿下、――」
隣にいる心配そうにアイベルが様子を伺うも、なんと声をかけるべきか迷っているようだ。それもそうだろう。自分でも人前で、しかも涙が止められずにただただ泣くなんてなかった。――幼い頃はあったかもしれないが、ここ十数年程はなかったはずだ。感情的になってしまった今、どう気持ちに折り合いをつければいいのかわからなかった。
ひとつ息を吸って、無理やり気持ちに区切りをつける。ゆっくり息を吐いて冷静を繕う。
「……もう、大丈夫だ。心配をかけてすまない」
硬い靴底が音を立てこちらに近付く。立っている者はひとりしかいないので、もう気を張る必要もない。
助けてもらったこと、侍従の手当をしてくれたこと、そして先ほどの情けない姿を見せてしまったことに対しなんて言葉をかけるべきか考えていると、甘い香りが目の前に差し出された。
「甘いものが苦手でなければ。――ミルクはないから味はいまいちかもしれないが、身体は温まるだろう。」
チョコレートの香りだった。あまり大きくはないカップに入れられており、かすかに立つ湯気が温かいことを示している。はい、と隣にいたアイベルにも差し出していた。思いもよらなかったが、差し出されるがまま受け取った。曲線を描く陶器は深みがあり、包むように両手に持つと甘い香りが心身までも温めてくれるようだった。
「あ、ありがとう、ございます……」
ようやく出た言葉がひとつ。もっと他にも適した言葉があったはずだ。普段であれば、もう少しそれらしく振る舞えたはずだったとディアスは自分の失態を恥じた。――いつも通りに出来ないことから、きっとまだ動揺しているだろう。
声が届かなかったのかフィフスの反応は特になく、両手が空いた彼はまた机の方に戻る。もうひとつカップがあるようで、それを口にしながら机に寄りかかり向かい合う形となった。
「お前たちはここの学生だよな。よかったら学園のことを教えてくれないか?」
「――フィフス殿、まずは貴方に失礼な態度をとってしまったこと申し訳ありませんでした」
アイベルが立ち上がろうとするも、ふらりとバランスが崩れそうになる。侍従の様子に驚いていると、フィフスがすでに腕を伸ばし彼を支えアイベルを座らせようとしていた。
「見ず知らずの相手を警戒するのは当然のことだろう。だから気にしなくていい。――私も神との盟約に従い行動しているだけだからな。」
聖国の人間は信心深いと聞く。――聖国には人々のすぐ傍に神の代行者がいるのだ。見えない存在であれば信仰心も試されるだろうが、実在する存在であれば疎かにせず信心する気持ちも一層強くなるものではないだろうか。
まして彼は蒼龍神を奉る家の者。神が力を与える際に一族に盟約を課したという話を聞いたことがある。
詳細を知っている訳ではないが、確か『人を助ける』といったことが盟約のひとつにあったはずだと、ディアスはぼんやりと考えていた。
「それにしばらく学園都市に滞在する予定だ。機会があればまた顔を合わせることもあるだろう。――その時にお前たちのことを改めて教えてくれれば嬉しい。」
今すぐお互いのことをすべて明かさなくていいと、気遣いが言外に伝わってきた。
普段であればあれこれと詮索されないのはありがたかったが、だが彼の言う機会はすでに迎えられているはずのもので、これ以上後回しにするべきではなかろうか。むしろ次の機会があった時がとても気まずいものになるだろう。――アイベルは座りながら彼に向き合い、危機を救ってくれた恩人へ真摯に対応しようとした。
「我々の窮地を助けてくださったこと、保護してくださったことや手当をしてくださったことなど、数々のお心遣いに感謝いたします。そしてご紹介させてください。――こちらは現国王グライリヒ陛下のご令息であらせられる、ディアス・フェリクス・アルブレヒト様です。私は侍従のアイベルと申します」
「……王子?」
やはり気付いていなかったようだ。誰もが自分を知っているとまでは思ったことはないが、彼が確かめるようにつぶやく声が少し居心地が悪かった。
こんな情けないのが王子だなんて、彼も予想していなかっただろう。それから――、紹介をされ、いまだ目を合わせないのも失礼に当たるだろうと意を決し、足元ばかりに落としていた目線を上げる。――顔の前にかかっていた髪を軽く手で払い、彼にきちんと向き合った。
「ここの学生でもあります。――貴方の助力に重ねて御礼申し上げます」
短い、軽やかな前髪の隙間から覗く青い瞳がまっすぐ見つめている。――黒髪だと思っていたが、明かりの元では濃紺に近い色をしていた。目鼻立ちが整っており、美しい顔立ちと形容するにふさわしいだろう。清涼とした青い瞳がやはり目につく。
同性ではあるが、端正に整った顔に見つめられるのは否が応でもドキリとする。――黒を基調とした詰襟に青いラインが入った服装をしている。先ほどマントを脱いでしまったからか、少し薄着にも見えた。
身長は160センチほどだろうか。色白で小柄で肉付きの薄さから華奢にも見えるが、決して揺らぐことのない意思の強さのようなものが全身から滲み出ている。
今は彼は片手にカップを持った姿で静止しており、長考しているのか微動だにすることなく、まっすぐな視線をディアスに注いだ。
居たたまれなさをごまかすように、ふと息をつき手にしたカップに口をつける。手にする器よりも少し温度が低くなったそれはとても飲みやすく、疲れた身体に染み入る甘さだった。
ミルクが入っていないと言っていたが、そのせいだろうか。あっさりとした口当たりが程よく悪くないものだった。
「本日聖国から来客があると伺っており、殿下もお迎えする予定でした。ただお迎えするまで時間がまだありましたので、外出を提案したところ先ほどのような、危ない目にあってしまって……」
アイベルの声がだんだん小さくなる。しばしの沈黙の後フィフスは手にしたカップをあおると、静かに机にカップを置き、大きく息をついた。
「なるほど。まさかこんなことになるなんて誰が想像しただろう。」
彼は座っているアイベルとディアスの間に立ち、二人の肩に手を置いてため息をつく。
「こんなことろでもロイヤル詐欺に会うなんて……」
「「――――――え?」」
聞きなれない言葉に耳を疑った。――いや、聞いたことはあるが、まさか自分たちが言われるなどと思ってもみなかったことだ。――王家、王族の名を語り、無辜の民から金品を巻き上げるという不敬極まりない詐欺行為だ。
王家、王族の名を語る行為は基本厳罰に処され、最悪死刑もありうる行いだろう。
「お前たちまだ学生だろ? 詐欺なんてくだらないことしたらダメだぞ。」
「あの、待ってください。何か誤解されているようですが、この方は本当に――」
肩に乗せた手を離し、フィフスは膝をつき二人を見上げた。
「ここに来るまでに二回自称王家の末裔と自称王家の親戚ってやつに会ったぞ。王都からの使者がいるにもかかわらずだ。――こちらの国の人間は肝が据わりすぎでは?」
あきれた、という顔をしているのだろうか。さきほどからあまり表情が大きく変わらないので、もしかしたらなんとも思っていないのかもしれないが、善意から注意している様子だけはしかと伝わる。
「ましてここはオクタヴィア女王のお膝元だろ? ふむ、――なかなかガッツがあるなお前たち。」
何が面白いのか途中からかすかに笑いが混じる。
オクタヴィア・フェリクス・アルブレヒト。――現王グライリヒの母で、3000年近く続いた大戦を停戦に導いたひとりである。その性格は苛烈で容赦なく、ラウルスを勝利に導くために常に先陣に立っていたと伝え聞く。
最後の戦いの中、戦場で第236代目東方天であった蒼家のハインハルトを生け捕りにし、国民の前で彼に死を与えることでラウルスの勝利を祝う予定だった。――とある人物が現れるまでは。
その人物のおかげで予定は盆をひっくり返すかの如く大きく覆され、捕らえられていた東方天は死の運命から脱することができたのだ。
女王の苛烈な性格からは誰も予想しなかったであろう結果に、世の中はひどく混乱したともいうが、敵将にすら慈悲をかける情け深い心と、両国間のこれからを大きく変える機会を掴み、新たな時代の幕開けを宣言した豪傑さが今でも大きく評され人々に広く受け入れられている。
今でも多くの人に平和と安寧をもたらした人物として、国内外でオクタヴィア女王陛下の名を知らぬものはないのではないだろうか。――事実、聖国の使者である彼もその名を出していることからもよくわかる。
「ディアス様は紛うことなくオクタヴィア女王のご令孫です! そのような勘違いそこ不敬というもの――!」
彼はこの国の人間ではないのだ。見ただけで誰が王家の人間なのかわからないのも無理はないのかもしれない。ただ、この学園都市にいる者であれば、自分が誰なのか言わなくてもわかっている。――自分が何者かわかってもらえないという状況は些か新鮮だったし、少しだけこの状況を面白いと感じてしまう。
一方で隣国からきた客人にも理解できるような物はないかと、アイベルは慌てて自分が持っている物を探す。先ほど抜いていた剣に手を伸ばすも、剣に刻印された王家の印だけでは、王家の関係者ということしかわかってもらえないだろう。すぐに主の身分を証明できないというのはこんなにも心細いものなのかと、焦りを額に滲ませていた。
「なにしてんだ」
突如知らない声が耳に届いた。ゆるんだ空気に緊張が走り、声のした方向に視線が向けられる。壊れされた入口に現れた人物の声から男性だとわかった。
「来たか。――見た目は心底怪しいが、あれは私の兄で左翼という。警戒しないでくれると助かる。」
確かに『怪しい』という形容がまさにしっくりくる出で立ちだった。――170センチ半ばだろうか。背はアイベルより少し高いように見受けられる。身体つきはフィフスに比べるとだいぶしっかりしており、黒い長めの外套を羽織っている。腰元に交差させているだろう剣の柄が外套の隙間から見えた。
腕組しながら入口にもたれかかって立つ姿には隙がない。この国では珍しい金髪で、目元を凹凸のない白い仮面で隠しており、黒い服装に反した髪の色と仮面ががひときわ目立つ。
だが左翼という名に聞き覚えがあった――。蒼家で腕の立つ武人だとか、そんな話を最近従姉がしていた気がする。
新しい登場人物に思わず身が強張るも、フィフスの兄ということであれば不審な相手ではないはずだ。見た目は心底怪しいが。
フィフスは立ち上がり軽く膝についた埃を払うと、机の上に置いてあるものを手に取り、左翼と紹介した青年に渡していた。――どうやら彼の分の飲み物も用意していたようだ。
「彼らが王子だというんでな。なんの王子か確かめていたところだ。」
自分の兄弟が来たからだろうか。それとも面白がっているのか心なしかフィフスの声が少し弾んでいるようだった。来訪者は仮面のせいで何を考えているのかわからないが、顔の角度からこちらを注視しているようだった。彼の視界は完全にふさがれているように見えるが、視力がないのだろうか。
「王子?」
少し考えた後、渡されたカップを一気にあおるとフィフスのトランクが置いてある机にまっすぐ向かった。手探りで向かう様子もないことから、見えている人の動きであることがわかる。
飲み干したカップを机に置き、トランクの中から冊子をひとつ取り出し中をパラパラとみているようだ。彼の背に遮られ、どのような冊子に目を通しているのか伺えなかったが、薄い紙をめくる音から何かを調べていることは伝わってきた。
もしかしたら主人の身分を証明してくれる人物になってくれるだろうかと、アイベルは少し期待していた。逆にディアスは仮に王家、ないし警邏隊や近衛兵など、どこに突き出されても問題はないので少し気が楽だった。
学園都市にいる以上今すぐ自分が何者であるか証明されなくとも、自ずとわかることなのだから――。新たな登場人物に倣いカップの残り飲み干した。アイベルも動揺していたためかずっと飲まずにいたカップにようやく口をつけていた。
何をされているのか一瞬分からず身体が強張るも、服越しに伝わる体温が優しく、軽く自分に乗せられた身体の重さや、身を包む腕の力強さが今の自分にはひどく心地よく感じた。
他人の体温を感じたのはいつのこと以来か――。ゆっくりと撫でられる背中がじんわりと温められていくのを感じた。
指先の札よりも人の体温の方が高いのか、身体の芯までぬくもりが直接届くようだった。
他人の呼吸と心音が伝わる。先ほど会ったばかりで何も知らない相手だというのに、近くに寄ることや自分に触れることを止められずにいる。むしろ彼に触れられてから徐々に気持ちが落ち着いてくるようだった。
「ずいぶんと怖い目にあってしまったな。」
泣いている子供に言い聞かせるような穏やかな声色だ。
「よく耐えた。――お前たちが無事でよかった。」
背をゆっくりと撫でられるたび、ひとつ、ひとつ、と心に募る滓が消えるようだった。もうすぐで16になる。それなのに、こんな子供のように宥められるなんて――。情けない、と心中で毒づくも、黒くなにかわからない塊になってしまった自分の心が少しずつ落ち着きを取り戻す感覚になる。
落ち着いてくる心と比例して息が乱れる。
「しんどかっただろう。もう大丈夫だ。」
心に澱んでいた黒くて重いなにかは解けているのかもしれない。解けた滓は軽くなって心の奥から出ようとしている。
彼の手に撫でられるたび、じわりと目の奥が熱くなるのを止められない。なんとか平静を取り繕うとするも、意思に反して瞼から涙がこぼれ、唇からは嗚咽がこぼれはじめた。
――人前で泣いたことなど、思いつく限りなかったはず。多分アイベルにも見せたことはなかったと思う。だからこんな情けない姿を誰にも見せたくはなかった。
けれど一度堰を切った感情は抑えることが難しく、涙を止める理由をあれこれと探したものの、伝わる人のぬくもりが否応にも止めることを許してくれない。
何も言わず、ただただ優しく添えられた手が、静かに背の上で動くだけだった。
どれくらいの時が経ったのだろうか。胸の内からあふれ出るものがなくなり、ようやく涙腺と呼吸が平静さを取り戻す。顔を上げるには、まだ恥ずかしさが勝るためできずにいた。
長く伸ばしている髪が、うつむく頭の角度に合わせて横顔を隠してくれている。――髪をまとめずに流していたメリットがひとつあったようだ。
頃合いを見図りフィフスはディアスの膝に乗っていたストールを広げて彼の肩にかけると、自分の荷物がある方へ歩を進めた。何も言ってこないことが今はありがたかった。片付けをしているのかなにか音を立てている。
「殿下、――」
隣にいる心配そうにアイベルが様子を伺うも、なんと声をかけるべきか迷っているようだ。それもそうだろう。自分でも人前で、しかも涙が止められずにただただ泣くなんてなかった。――幼い頃はあったかもしれないが、ここ十数年程はなかったはずだ。感情的になってしまった今、どう気持ちに折り合いをつければいいのかわからなかった。
ひとつ息を吸って、無理やり気持ちに区切りをつける。ゆっくり息を吐いて冷静を繕う。
「……もう、大丈夫だ。心配をかけてすまない」
硬い靴底が音を立てこちらに近付く。立っている者はひとりしかいないので、もう気を張る必要もない。
助けてもらったこと、侍従の手当をしてくれたこと、そして先ほどの情けない姿を見せてしまったことに対しなんて言葉をかけるべきか考えていると、甘い香りが目の前に差し出された。
「甘いものが苦手でなければ。――ミルクはないから味はいまいちかもしれないが、身体は温まるだろう。」
チョコレートの香りだった。あまり大きくはないカップに入れられており、かすかに立つ湯気が温かいことを示している。はい、と隣にいたアイベルにも差し出していた。思いもよらなかったが、差し出されるがまま受け取った。曲線を描く陶器は深みがあり、包むように両手に持つと甘い香りが心身までも温めてくれるようだった。
「あ、ありがとう、ございます……」
ようやく出た言葉がひとつ。もっと他にも適した言葉があったはずだ。普段であれば、もう少しそれらしく振る舞えたはずだったとディアスは自分の失態を恥じた。――いつも通りに出来ないことから、きっとまだ動揺しているだろう。
声が届かなかったのかフィフスの反応は特になく、両手が空いた彼はまた机の方に戻る。もうひとつカップがあるようで、それを口にしながら机に寄りかかり向かい合う形となった。
「お前たちはここの学生だよな。よかったら学園のことを教えてくれないか?」
「――フィフス殿、まずは貴方に失礼な態度をとってしまったこと申し訳ありませんでした」
アイベルが立ち上がろうとするも、ふらりとバランスが崩れそうになる。侍従の様子に驚いていると、フィフスがすでに腕を伸ばし彼を支えアイベルを座らせようとしていた。
「見ず知らずの相手を警戒するのは当然のことだろう。だから気にしなくていい。――私も神との盟約に従い行動しているだけだからな。」
聖国の人間は信心深いと聞く。――聖国には人々のすぐ傍に神の代行者がいるのだ。見えない存在であれば信仰心も試されるだろうが、実在する存在であれば疎かにせず信心する気持ちも一層強くなるものではないだろうか。
まして彼は蒼龍神を奉る家の者。神が力を与える際に一族に盟約を課したという話を聞いたことがある。
詳細を知っている訳ではないが、確か『人を助ける』といったことが盟約のひとつにあったはずだと、ディアスはぼんやりと考えていた。
「それにしばらく学園都市に滞在する予定だ。機会があればまた顔を合わせることもあるだろう。――その時にお前たちのことを改めて教えてくれれば嬉しい。」
今すぐお互いのことをすべて明かさなくていいと、気遣いが言外に伝わってきた。
普段であればあれこれと詮索されないのはありがたかったが、だが彼の言う機会はすでに迎えられているはずのもので、これ以上後回しにするべきではなかろうか。むしろ次の機会があった時がとても気まずいものになるだろう。――アイベルは座りながら彼に向き合い、危機を救ってくれた恩人へ真摯に対応しようとした。
「我々の窮地を助けてくださったこと、保護してくださったことや手当をしてくださったことなど、数々のお心遣いに感謝いたします。そしてご紹介させてください。――こちらは現国王グライリヒ陛下のご令息であらせられる、ディアス・フェリクス・アルブレヒト様です。私は侍従のアイベルと申します」
「……王子?」
やはり気付いていなかったようだ。誰もが自分を知っているとまでは思ったことはないが、彼が確かめるようにつぶやく声が少し居心地が悪かった。
こんな情けないのが王子だなんて、彼も予想していなかっただろう。それから――、紹介をされ、いまだ目を合わせないのも失礼に当たるだろうと意を決し、足元ばかりに落としていた目線を上げる。――顔の前にかかっていた髪を軽く手で払い、彼にきちんと向き合った。
「ここの学生でもあります。――貴方の助力に重ねて御礼申し上げます」
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同性ではあるが、端正に整った顔に見つめられるのは否が応でもドキリとする。――黒を基調とした詰襟に青いラインが入った服装をしている。先ほどマントを脱いでしまったからか、少し薄着にも見えた。
身長は160センチほどだろうか。色白で小柄で肉付きの薄さから華奢にも見えるが、決して揺らぐことのない意思の強さのようなものが全身から滲み出ている。
今は彼は片手にカップを持った姿で静止しており、長考しているのか微動だにすることなく、まっすぐな視線をディアスに注いだ。
居たたまれなさをごまかすように、ふと息をつき手にしたカップに口をつける。手にする器よりも少し温度が低くなったそれはとても飲みやすく、疲れた身体に染み入る甘さだった。
ミルクが入っていないと言っていたが、そのせいだろうか。あっさりとした口当たりが程よく悪くないものだった。
「本日聖国から来客があると伺っており、殿下もお迎えする予定でした。ただお迎えするまで時間がまだありましたので、外出を提案したところ先ほどのような、危ない目にあってしまって……」
アイベルの声がだんだん小さくなる。しばしの沈黙の後フィフスは手にしたカップをあおると、静かに机にカップを置き、大きく息をついた。
「なるほど。まさかこんなことになるなんて誰が想像しただろう。」
彼は座っているアイベルとディアスの間に立ち、二人の肩に手を置いてため息をつく。
「こんなことろでもロイヤル詐欺に会うなんて……」
「「――――――え?」」
聞きなれない言葉に耳を疑った。――いや、聞いたことはあるが、まさか自分たちが言われるなどと思ってもみなかったことだ。――王家、王族の名を語り、無辜の民から金品を巻き上げるという不敬極まりない詐欺行為だ。
王家、王族の名を語る行為は基本厳罰に処され、最悪死刑もありうる行いだろう。
「お前たちまだ学生だろ? 詐欺なんてくだらないことしたらダメだぞ。」
「あの、待ってください。何か誤解されているようですが、この方は本当に――」
肩に乗せた手を離し、フィフスは膝をつき二人を見上げた。
「ここに来るまでに二回自称王家の末裔と自称王家の親戚ってやつに会ったぞ。王都からの使者がいるにもかかわらずだ。――こちらの国の人間は肝が据わりすぎでは?」
あきれた、という顔をしているのだろうか。さきほどからあまり表情が大きく変わらないので、もしかしたらなんとも思っていないのかもしれないが、善意から注意している様子だけはしかと伝わる。
「ましてここはオクタヴィア女王のお膝元だろ? ふむ、――なかなかガッツがあるなお前たち。」
何が面白いのか途中からかすかに笑いが混じる。
オクタヴィア・フェリクス・アルブレヒト。――現王グライリヒの母で、3000年近く続いた大戦を停戦に導いたひとりである。その性格は苛烈で容赦なく、ラウルスを勝利に導くために常に先陣に立っていたと伝え聞く。
最後の戦いの中、戦場で第236代目東方天であった蒼家のハインハルトを生け捕りにし、国民の前で彼に死を与えることでラウルスの勝利を祝う予定だった。――とある人物が現れるまでは。
その人物のおかげで予定は盆をひっくり返すかの如く大きく覆され、捕らえられていた東方天は死の運命から脱することができたのだ。
女王の苛烈な性格からは誰も予想しなかったであろう結果に、世の中はひどく混乱したともいうが、敵将にすら慈悲をかける情け深い心と、両国間のこれからを大きく変える機会を掴み、新たな時代の幕開けを宣言した豪傑さが今でも大きく評され人々に広く受け入れられている。
今でも多くの人に平和と安寧をもたらした人物として、国内外でオクタヴィア女王陛下の名を知らぬものはないのではないだろうか。――事実、聖国の使者である彼もその名を出していることからもよくわかる。
「ディアス様は紛うことなくオクタヴィア女王のご令孫です! そのような勘違いそこ不敬というもの――!」
彼はこの国の人間ではないのだ。見ただけで誰が王家の人間なのかわからないのも無理はないのかもしれない。ただ、この学園都市にいる者であれば、自分が誰なのか言わなくてもわかっている。――自分が何者かわかってもらえないという状況は些か新鮮だったし、少しだけこの状況を面白いと感じてしまう。
一方で隣国からきた客人にも理解できるような物はないかと、アイベルは慌てて自分が持っている物を探す。先ほど抜いていた剣に手を伸ばすも、剣に刻印された王家の印だけでは、王家の関係者ということしかわかってもらえないだろう。すぐに主の身分を証明できないというのはこんなにも心細いものなのかと、焦りを額に滲ませていた。
「なにしてんだ」
突如知らない声が耳に届いた。ゆるんだ空気に緊張が走り、声のした方向に視線が向けられる。壊れされた入口に現れた人物の声から男性だとわかった。
「来たか。――見た目は心底怪しいが、あれは私の兄で左翼という。警戒しないでくれると助かる。」
確かに『怪しい』という形容がまさにしっくりくる出で立ちだった。――170センチ半ばだろうか。背はアイベルより少し高いように見受けられる。身体つきはフィフスに比べるとだいぶしっかりしており、黒い長めの外套を羽織っている。腰元に交差させているだろう剣の柄が外套の隙間から見えた。
腕組しながら入口にもたれかかって立つ姿には隙がない。この国では珍しい金髪で、目元を凹凸のない白い仮面で隠しており、黒い服装に反した髪の色と仮面ががひときわ目立つ。
だが左翼という名に聞き覚えがあった――。蒼家で腕の立つ武人だとか、そんな話を最近従姉がしていた気がする。
新しい登場人物に思わず身が強張るも、フィフスの兄ということであれば不審な相手ではないはずだ。見た目は心底怪しいが。
フィフスは立ち上がり軽く膝についた埃を払うと、机の上に置いてあるものを手に取り、左翼と紹介した青年に渡していた。――どうやら彼の分の飲み物も用意していたようだ。
「彼らが王子だというんでな。なんの王子か確かめていたところだ。」
自分の兄弟が来たからだろうか。それとも面白がっているのか心なしかフィフスの声が少し弾んでいるようだった。来訪者は仮面のせいで何を考えているのかわからないが、顔の角度からこちらを注視しているようだった。彼の視界は完全にふさがれているように見えるが、視力がないのだろうか。
「王子?」
少し考えた後、渡されたカップを一気にあおるとフィフスのトランクが置いてある机にまっすぐ向かった。手探りで向かう様子もないことから、見えている人の動きであることがわかる。
飲み干したカップを机に置き、トランクの中から冊子をひとつ取り出し中をパラパラとみているようだ。彼の背に遮られ、どのような冊子に目を通しているのか伺えなかったが、薄い紙をめくる音から何かを調べていることは伝わってきた。
もしかしたら主人の身分を証明してくれる人物になってくれるだろうかと、アイベルは少し期待していた。逆にディアスは仮に王家、ないし警邏隊や近衛兵など、どこに突き出されても問題はないので少し気が楽だった。
学園都市にいる以上今すぐ自分が何者であるか証明されなくとも、自ずとわかることなのだから――。新たな登場人物に倣いカップの残り飲み干した。アイベルも動揺していたためかずっと飲まずにいたカップにようやく口をつけていた。
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