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誰かにとっての悲劇。
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はじめは10人がここで暮らす予定だったそうだ。
だけど記憶にある限りここには八人の見知らぬ他人がいて、一堂に顔を合わせた日からずっと一緒。
あともうひとり、このカイタイ館の管理人をしている『まおは』がいるだけの、とてもささやかな暮らしが続いていた。
南向きの大きな窓から見える景色はぜんぶ灰青色の海。一階にはプールがあるけれど、窓の外から見えるあの海の水を引いてきていると最初に説明された。
だからプールがあっても水がとても冷たいので、使う人はほとんどいない。よく晴れて暖かい夏の時期でもないと、とてもじゃないが『りん』は入る気にならなかった。
―― はなだまのうみなおし ――
りん、――黒髪おかっぱ頭の少女は寒々しいプールサイドのベンチのひとつに毛布に包まりながら、ぼうっと考えていた。
同じ境遇ということもあり、他人が知り合いになり、知り合いが友人になるにはそれほど時間は掛からなかった。
八人の友人たちの中でも、いちばん仲の良いのは、『いろは』と『まこと』。――この二人は冷たいプールがいちばん快適だと言って、雨でも曇でも、雪の降る真冬だろうが気にせず入っていた。
さすがにそこまで付き合いきれないと、りんは水遊びに興じる二人をプールサイドのベンチから眺めていた。元気に跳ね回るように遊ぶ二人を眺めているだけでも、なんだか楽しくて幸せな気分になれるから、二人を見守ることはりんのさやかな日課でもあった。
ガラス越しに伝わる太陽のかすかな温かさと、冬の寒さの残る空気の中、元気な二人は海の匂いがするプールでどちらが早く泳げるのかと競走していた。
二人があまりにも楽しそうだから、今までも何度かつられてプールに手を入れてみたこともあるが、毎回冷たすぎて触れた手の先から一気に寒さが身体中を走るだけだった。
どう考えても、水遊び出来る温度じゃない。なのに今日もあの二人は元気に水中から現れる。
「りんも来ればいいのに。水の中は外にいる時よりも、ずっと気分がいいよ」
ばしゃりと、勢いよくこちらに近づいた拍子に足元に水が飛び散った。その勢いだけでも身体が冷えそうだ。
「やめとけ、いろは。誰にだって得意不得意はあるんだ」
同じように近付くまことが水飛沫を飛ばしながらプールから上がり、すぐ隣にあるビニル製のプールサイドベッドへと寝っ転がった。
この前の身体検査で170センチを超えたと言っていたが、まことはこのカイタイ館にいる人たちの中でも一番背が高く、身体が大きい。毎日水泳をしているからその影響だろうか。近くに座るりんと比べても、足の大きさから手の平、四肢や首の太さとなんだかすべての身体の厚みが違う。その厚みの差が活発さに影響を与えているとしか思えなかった。
何度もこの潮水のプールに入るから、短いまことの髪はチリチリだ。顔を合わせた当初は枯れた葉っぱと同じ色をしていたが、今や色が抜け金髪だ。無造作に腕をこちらに伸ばすので、彼の大きな手に持ってきたバスタオルを載せた。
「そうは言っても、こうやって待ってるのは退屈じゃないの? りんも来たらいいのに」
「見てるだけでじゅーぶん。飽きもせず毎日夏でも冬でもプールで楽しそうな二人を観察するのも、面白いからね」
ベンチの上に敷いた座布団の上で三角座りをし、水から上がるいろはを観察する。いろはは濡れてウェーブ掛かる癖のある黒髪をひとつ縛りにしており、垂れる水を絞りながらニヤリと笑った。
二番目に背があるのはいろはだろう。160センチ台で身体つきも他の子たちに比べれば身体の凹凸がしっかりしている。やはり水泳が成長の肝なのかもしれない。薄い身体つきの自分と比べてみるが、同じ土俵にいないのだからこんな比較は意味はない。
そんなことを考えながら、りんは肩上で切りそろえたまっすぐな黒髪を耳に掛けた。いろはの柔らかい髪と違って、コシのあるりんの髪は癖をつけられるのを嫌がるようにすぐに耳から外れた。
「それを言うなら、毎回泳ぐわけでもないのに付いてくるりんだって充分おかしいね」
タオルを投げて渡せば、満足そうに身体を拭いながら隣にいろはが座った。近くで三人並べばいつも通りの日常に、寒かった空気もあっという間に穏やかなものに変わる。
「もうすぐで、ここの生活も終わりなんだよ。二人はなにやりたいことはないの?」
生まれて五年、ここに来てから三年ほどの時が経つ――。山も谷もない緩やかな人生を振り返ってみるものの、穏やかな日々を気の合う友人たちとた過ごせることだけでも、充分幸せではないだろうか。
「うーん、やりたいことは毎日してるし、いろはとまことがいればそれで充分かな」
「そうそう、焦っても仕方ないさ。次の場所にもプールとかあればいいよなー」
「ふたりともぜんぜん夢がないなぁ。……私はふたりと離れたら寂しいよ」
「次も一緒だったらいいな。俺もそれだけが心配だ」
曇るいろはをなだめるように、まことが優しく伝えていた。
「そうだね、わたしも――」
ここでの暮らしも、今までの暮らしも、ずっと自分たちの意志とは関係なく行われる。
過不足のない生活に、『務め』を果たすだけの日々。それ以上を望んだところで、ここの生活は今後も自分たちの意志の有無に関わらず無常に過ぎると誰もが感じていることだった。
ガラス張りの天井の向こうは灰色、――海も灰色で、水平線には今日も何も現れない。
「知ってる? 人魚の肉を食べると不老不死になれるんだって。――私たちが自分たちの肉を分け合ったら、長生き出来るかな」
「えぇ……、気色悪いこと言わないでくれるか。……寒気してきた」
イタズラっぽく笑ういろはの言葉に、気分を害したまことが身震いしていた。こんな空気の中濡れているだけでも寒いだろうに、今の話でまことの心が凍えたらしい。一方いろははご機嫌そうにバスタオルを被り直していた。
人魚とは、文字通り身体の半分が魚で半分が人間の水性生物だ。不老不死の象徴で、海に住まう者。
海の気候を操り、病める人を救う知恵を分け与えてくれる貴重な隣人――。遥か昔に人間と人魚が契約を交わし、人魚の血を分け与えて生まれたのがりんたちのような『真人』だった。
三人とも魚らしい部分はどこにもないが、あえて言うならこの冷たい水に入っても元気なところが人魚の血を引いているという証明になるかもしれない。とはいえずっと水中にいられるということもなく、カイタイ館など特別な施設の中でなければ、皆呼吸をすることもままならなかった。
そして成長が早い。ここに来てからずっと顔を合わせている管理人のまおははなにも変わらないけれど、みんな彼女が下ろした手の高さほどの背しかなかったのに、今では同じくらいの目線で物を見ることが出来るほど背が伸びた。
まおはたちのような『普通の人』とは違うため、人魚の血を引くりんたちはずっと誰かに管理されながら生きている。活発ないろはとまことはたまに怪我をすることもあるが、体調を崩すものもなく、ここまで八人揃って元気にいられるのだから、これ以上を望むのは罰が当たってしまうのではないだろうか。
頭からタオルを被り、両腕をさするまことの腹には一本筋の縫い跡がある。でもそれはまことだけにあるわけじゃない。
「わからないわよ。この検査の跡も、じつはすでに誰かに食べられた跡なのかもしれないじゃない」
まおはが用意してくれたセパレートタイプの水着を着ているいろはは、お腹を出し同じ傷跡を見せた。同じ大きさのそれはりんの腹にも、ここにいる他五名の腹にもある跡だ。
カイタイ館に到着する前に検査をしたときにつけられた跡で、これがあるということは施設を出られるという証になる。初めの頃は痛んだこともあったが、傷もとうに塞がり、短い線が伸びるだけだった。服の上からなぞってみると、浮いた線の感触が指に伝わった。
「……まおはにもあるのかな」
「さぁねぇ。まおはは『普通の人』だからないんじゃない? もくすぐ40歳になるんだっけ」
「そうそう、ろうそくの準備はもうバッチリだよ。――長生きすると、どんどんパンケーキの上に載せるものが増えるし、火も消しにくくて大変だね~」
ここに来て一番最初にいろはがはじめたことだった。カイタイ館で共に生活するみんなの名前を聞き出し、誕生日を聞き、その日をお祝いするというイベント。九人居るうち春から夏の終わりまで毎月誰かの誕生日が連なるが、飛んで真冬にまおはの誕生日が来る。
「でも賑やかで楽しいじゃん。上に載せられなくても、やり方はなんだってあるさ」
「たとえば?」
「……横にぶっさすとか、ろうそくだけ別の皿に載せて火をつけるとか」
「ろうそくを横にするのは危ないし、ろうそくだけ別盛りにしたらただのろうそくじゃない。そんなのつまらない」
まことの適当なアイディアにりんといろはが呆れて笑っていると、
「三人とも、またここにいたのね」
後ろからくすりと笑う声と一緒に、噂の人物がやってきた。
「おやつが出来たわよ。あなたたちも上にいらっしゃい」
外の景色に馴染むような落ち着いた色をした丈の長いワンピースに、長い黒髪を後ろでまとめている清潔感のある女性。みんなに比べて顔や手の皺が大きいこの人がまおはだ。
「はーい。今日はなに、まおは」
「いろはは今日も元気ね。おはぎを作ったの。たくさんあるから、みんなで仲良くね」
「おはぎか~。こし餡、つぶ餡?」
「心配しなくても両方あるし、数もたくさんあるわ。――まことがいつもうるさいからって、みんなが頑張ってくれたのよ」
「一番の大喰らいだもんね。手のかかるやつだからな~、まことは」
三人ともまおはに促されて立ち上がると、いろはがまことの脇腹を小突いた。
「『もこ』と『あい』、『せん』と『ばく』の四人が手伝ってくれたの。作ってる途中に何度も味見してたから、あの子たちはもうお腹いっぱいになってしまったみたいだけど」
ここに居ない四人の名に、彼らが手伝う光景が浮かんだ。まおはを手伝えば好きなものを作れるし、誰よりも先に味見が出来るのである意味ご褒美のようなものだ。味見と言いつつ、なんだかんだ普通に四人は食べていたんだろうなと容易に想像がついた。
みんな、いろはとまことよりは小柄だけど、よく食べることからりんよりも大きい。
「なら四人で残りをもらっちゃお。りんもたくさん食べなよっ。そしたらもっと大きくなれるかも」
肩にいろはの手が載ると、まことを置いて行こうと二人で駆けだした。
「三人とも、『じん』を見なかったかしら」
まおはの声に、つんのめりながらもうひとりの名にまおはを振り返りみた。
「見てないわ。……またどこかいい隠れ場所でも見つけたのかな」
「そう……。また悩んでいるのかしら」
「じんは――、ひとりになれる時間が好きなだけさ。俺たちも一緒に探そうか?」
「ありがとう。そうね、どうしても見つからなかったらみんなに手伝ってもらおうかしら。それまで休んでいて」
にこりと笑みを送ると、廊下を分かれてまおはがじんを探しに行った。
「……たぶんまた屋根裏ね。まおはに見つかる前に声を掛けに行きましょう」
離れたまおはに届かないよういろはが小声で提案すれば、りんとまことも頷いた。
日々、検査と管理される生活。――それは多くの人を助けるためのもので、人魚の血が混じる真人だからこその日常だ。
同時に、それ以外に費やせる時間もない。『真人』の寿命は長くて十数年と言われているが、ほとんどは五年から八年で終わるものらしい。
だからまおはのような大人になることも、年輪のように刻まれたしわを持つ手になることもないのだろう。
カイタイ館の前にいた場所はもっとシステマチックで、少しも自由がなかった。同じ場所で生まれた仲間たちはいたが、深く関わる時間がもらえず、ここに来て初めて他人とコミュニケーションを取ることが許されたのだ。
三人で並んで歩く廊下に連なる窓をりんは目で追った。窓の外に広がる灰色の世界も、いつだったかまおはが開けてみせてくれた。ガラス一枚で隔たれた世界は、呼吸も出来ないほど苦しくて、ここの誰の居場所ではないのだと思い知ったのだった。
手にできるものが少ない以上、この世界や自分たちの在り方とどう向き合えばいいのか、いろはやじんのように何かを考えてしまうこともあるだろう。
りんやまことのように、この先に希望なんて持たず、できれば死ぬときはあの時よりもつらくなければいいと、思うだけの者もいる。
ここでの暮らしは、ただそれだけだった。
ある日のことだった。
「今日の鑑賞会は『この人』について、みんなに見てもらいたいの」
いろは、まこと、りんの他、もこ、あい、せん、ばく、じんと全員が鑑賞部屋に散らばるクッションの上で、各々自由に座り、寝転がりながらまおはがいくつかの冊子を何人かで見るように配った。
カイタイ館では午前に勉強会、午後には鑑賞会と呼ばれる時間がある。まおはが先生となり、勉強会では普通の人の暮らしについて教わる。彼らがいかに真人たちに助けられ暮らしているか、長い人類史の中で様々な困難を乗り越えてきたかなどの話が中心だ。
鑑賞会ではこの世に出回っている本や映像、音楽や詩、様々な表現を学び、勉強会で得た知識から、感受性や情動を高めるために行われる時間だった。――真人が泣くと、空気に触れ肌から落ちる涙が形を持つ。白や黒の塊になるのだが、どうやらそれが人々の薬になるらしい。その材料を得るために鑑賞会が行われ、涙を流すことがここで求められるものだった。
午後の授業について最初は何をしても意味が分からなかったが、徐々に心が動かされるという感覚を理解していけば、『普通の人』はなんとも忙しなく生きているんだなとりんは思った。
「今日もお涙ちょうだいなお話しなのかな」
小さな声で茶化すいろはにくすりと二人で笑うと、聞こえていたのか聞こえていないのかちょうど横をまおはが通って行った。こっそり様子を伺うが、特に気付いた様子もなくこの部屋全体を見回していた。
「……これって誰の写真?」
まことが特にタイトルも作者の名もない本をめくると、小さな子どもの写真が何枚も出て来た。背景は施設とは違うが、小さい子どもが二人の大人に代わる代わる抱かれて、いろんな場所で撮られているようだった。
「これは『おりのすけさん』の写真よ。――もう亡くなってしまった方だけど、あなた達に知ってもらいたくて今日紹介するの」
「……おりのすけさん?」
聞きなれない名前に三人で顔を合わせるが、その名前に記憶がなかった。他の友人たちを見てみると、同じような反応をしている。
「このカイタイ館を長年支援して下さっていた方で、あなたたち真人を大切に保護するために長年尽力して下さった方でもあるわ」
「ふぅん、こんな人がいたんだ」
「知らなかったね」
この写真に写る大人たちは笑顔をこちらに向けているが、中央に写る少年は笑顔だったり、真面目だったり大泣きをしていたりと、いろんな表情をしていた。――施設ではない場所ではこういう日常を送っているのかと、りんにはどうでもいい感想が浮かんだ。
きっと、何度も写っている大人はこの少年の親なのだろう。なんだか似ている顔立ちに、『親』というものに対し知識があっても、それがどういう意味を持つのかピンとこなかった。
「……もしかして、この人が亡くなったから、ここを出なきゃいけないのか?」
「そうじゃないわ。あなたたち真人が関わる施設を支援して下さってる方は、世の中にたくさんいるのよ。だけど、次のお役目があるからあなたたちはここを出なきゃいけないと言うだけ。何も不安に思うことはないわ」
「次の役目ってなあに?」
「あなた達がいてくれるだけで、喜んでくれる人たちがたくさんいるの。――その方たちに会いに行くことよ」
まことといろはの質問に応えてくれるが、曖昧な言い方でみんなを包もうとしているような笑顔だった。
「……つまり、俺たちは見世物ってことだろ。死ぬまであんたたちの好き勝手にされる――。もううんざりだ……!」
せんとばくと一緒にいたじんが、不快感をあらわにしながら本を投げた。飛んできた本がりんの傍に落ち、広がるページにりんたちの手元にある写真よりもずっと大きくなった『おりのすけさん』が、同じ服を身に着け、同い年くらいの男子だろうか、――たくさん集まって各々ポーズを決めて写真に納まっていた。
「この先を不安に思うのは仕方ないわ。真人であるあなた達は外に出ることは難しく、何かを成すには短すぎる時間しか与えられていない。……不公平よね」
じんの傍でしゃがむまおはの気遣いを避けるように、顔を背け距離を取っていた。せんとばくも荒れるじんを、どうしたらいいものかと対応に困っている。
「俺たちを勝手に哀れむな」
「そんなつもりはないわ。……そう言っても聞き入れてくれないわよね。少しわたしとお話しをしましょうか」
背を向け心を閉ざすじんが気がかりだが、もことあいがこの空気に耐えられず部屋を静かに出て行った。
「私たちも行きましょう。せんとばくも外で待ってようよ」
いろはに名を呼ばれた二人も諦めるように、まおはとじんの傍を離れた。ドアを閉める前、部屋に残るじんとまおはを見たが、お互いに納得できる話し合いが出来るとはりんは思えなかった。
結局、諦める方が楽なのだ。それが受け入れられないから、じんは苦しんでいる。
そんな簡単なことに気付かないから、心が乱れてつらい気持ちが続く。
ただそれだけの話だ。
「……じんの気持ちは分かるわ。いつ自分が終わるかと思うと怖いもの」
ウェーブのかかるくせ毛を指先で弄びながら、いろはが窓の傍でそんなことを口にした。
ここは遊戯室。――本や盤上遊戯にピアノの他、撞球台が置かれている部屋で、みんなが集まる場所だった。
「でもそんなことばかり考えてると、気も滅入るだけだ。俺たちが真人ある以上、短い生であることは変わらないからな」
「私も……、怖いものをわざわざ考えることないと思う」
撞球棒にチョークをつけるまことの言葉にりんが同調すれば、あいがホットレモンを作って持って来た。甘い香りに暖かな温度がいまの空気を変えてくれるようだった。
「そうだよ、いろは。残り少ない時間は、楽しいことに費やした方がずっと建設的だと思う」
「もこまで……」
「だってそうでしょ? 毎日みんなに不安をあたり散らすじんを見てると、あんな気持ちで最後までいたくないと思うもの」
「あぁなると誰も手を付けられない。こっちも気を遣うからやめて欲しいよなぁ」
部屋のソファにだらりと座るせんが、撞球棒を選ぶばくへとため息をこぼした。よく傍にいるからこそ出てしまう悪態だ。
「真人として生まれた以上、私たちには自由もなくて、どこにも居場所なんてないの。施設から出ても、自分たちの力で呼吸すらできない出来損ないの種族なんだから」
もこが撞球台の縁に座り白色の球に狙いをつけ、静かに撞いた。もこの強い自虐と共に突かれた白い玉はカツンと高い音を鳴らし、九色ある玉を散らした。激しく盤上で散る玉同士がぶつかり、壁に当たり四隅の穴に三色玉が落ちて行った。このままもこの順番が続くが、あまりにも都合の良い場所に黄色いラインが入る玉が止まり、勝負がすぐに終わる気配にまことが呆れていた。
「さっさと落として次はエイトボールにしよう。ばく、一緒にもこを倒すぞ」
「いいけど、足を引っ張らないでよ。まことって力はあるけど、コントロールは下手だからなぁ」
「……せんってそんな風に俺のこと思ってたんだ。ひどい」
「ドンマイまこと。台から落とさなければいいのよ」
「あいも俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「そんなことないわ。純粋に応援しているのよ」
くすくすと三人のやり取りを笑い、せんの近くに座るあいがエールを送っていた。カツンと玉がぶつかる音が響くと、次の遊戯の準備をしようと、三角の枠を手にしたばくと、ライン入りの玉を取り出すまことに、台の上の球をかき集めるもこの三人が忙しなく準備していた。
「いろは、大丈夫?」
心ここにあらずといった様子で、窓の外を眺めていたいろはの視線を追った。同じように窓を見てみるが灰色の空と海が広がるだけの景色に、いろはの心を誘うなにかがあるとは思えなかった。
「私は……、出来たらここから出て、みんなで海の向こうとかに行ってみたいな」
先攻後攻を決めるために順番に撞いた玉の位置を比べ賑わうみんなを背に、いろははずっと遠くを見ている。
「誰かの手を借りることなく、自分の力で生活してみたり、鑑賞会で見た映画みたいに自由に生きてみたいって。……りんは考えたことはないの?」
「……どちらかと言えば、いつもこんなものを見せるなんて、まおはもひどいなって思ってた」
先程渡されたアルバムにあった『おりのすけさん』とやらの写真を思い出した。
「世の中のものは全て流転し、変化と消滅を繰り返すだけ。形のないことの連続で、なにごとも囚われないことの大事さを教えてくれるのに、――私たちの手の届かない場所で暮らす人たちのことなんて、知りたくなんてなかった」
日頃良くしてくれるとはいえ、まおはもただの管理人だ。真人ではない。素直に彼女の話は聞くけれど、それがどういう意味を持つのか理解すれば、じんのように抵抗する気持ちが湧かない訳ではない。
「さっきのアルバムみたいに何か記録が残されて、誰かにその記録を見せて語り継がれる人とは違ってさ、……ここで暮らすみんなのことを、一体誰が思い出してくれているのかなって、いつも考えてる」
「りん……」
きっと同じ痛みをいろはも感じたのだろう。傷付くいろはの瞳に、空っぽな胸が苦しくなった。
こんな思いをしても、憧れは決して目の前に現れない。いろはもそのことは重々承知しているだけに、目を逸らし窓の外に何かを求めた。
「……どうして、人魚は人間と契約をしたのかしら」
「人を助けるために、知恵を授けたんだってまおはも言ってたじゃない。――誰かの役に立つために、きっと私たちは生まれて来たんだ。だからそれ以外の役割を貰えないんだって、思うな」
『真人』と名付けられたのは、何十年も長く生きる『人間』が妄執と偏執と忘我で道を失う人と区別するため。短くも潔く生きる様に敬意を示し『真人』と名付けられたのだと、ここに来てから何度も教わって来た。
「何度もそう言われてきたから強く思うんだ。――諦めることこそ、どんなことがあってもこの先不安すら飲み込んで生きていけるって」
カツンと玉と玉がぶつかる音が響き、勝負の始まりを告げる。台の周り三人が値踏みするように周り、台の上を彷徨う16個の玉たちの姿を追っていた。
「私たちが生まれた理由を探さず、憧れを手放し、あるがままを受け入れること。――次また生まれ変わって、新しく自分をやり直せるなら、その時の自分に託すの」
人が苦しいと、つらいと感じるのは、理想があり、憧れに届かず、ちっぽけな自分を認められないことから起こる現象だ。窓の外はずっと広く、灰色以外を映さないが、きっと自分たち以上に不幸な人もいる。
「私たちの知らないところで日々何かが誕生している。同時に誰の元にも死は平等に来て、それは誰にもコントロールできない。――だけど生死が巡るものであれば、少しでも功徳を積むことで、きっとこの次は別の機会をもらえるんじゃないかって、私は信じたい」
「……それってオカルトでしょう? 前世の記憶なんて誰も持ってないじゃない」
「全部やり直すんだから、記憶を持ってないのは当たり前じゃない。……でもきっとまたいろはやまこと、あいやもこ、せんにばく、じんともまた別の形で出会えるかもしれない」
「……、素敵な考えね」
「そうしたらさ、今度はみんな『普通の人』になって、何十回もお互いの誕生日を祝うの」
たった二回しか祝うことが出来なかったみんなの誕生日。三回目のお祝いをやる前にここを出なければならないことが、りんの中にある後悔のひとつだったと、口にしてから気付いた。
なんでも諦めたつもりでいたけれど、まだ捨てきれないものがここにあったのかと、いろはに気付かれないように顔を背けた。
「……その時はさ、――映画で見たような何段もある大きなスポンジを作って、みんなで飾り付けるのはどう? クリームも何色も色を付けて、フルーツやお菓子を飾ったり――。そうだ、ケーキの中から陶器のおもちゃが出て来るのもやってみたいね」
背けるりんの頭をつつくいろはは、りんの話に乗り窓をの外を見るのをやめていた。
「いいね。――でもあれって、うっかり噛んぢゃいそうで怖いけど」
「まことは気付かずにかじりそうよね。くすっ、――なら口に入らないくらい大きなおもちゃに変えた方がいいかも」
「ケーキを分けたら、すぐにバレちゃいそうだけど」
「なら分けずに、みんなフォークとお皿を持って一気に食べればいいじゃない」
「行儀が悪いなぁ」
「だってお祝いだよ? おめでたい席は無礼講っていうじゃない。――もう一度出会えたら、毎回一生忘れられないくらい楽しい誕生日会を開こうね、りん」
いろはが遠くへ想いを送るような笑顔を浮かべ、りんを見つめていた。
「うん、――絶対約束だよ、いろは」
短い人生も、今の境遇も全て受け入れるので、どうかせめて――。
カツンと白い玉がもこに撞かれ、ラインの入った玉が穴へと落ちた。既に勝負の行方が見えて来そうな空気に、引き留めるようにまことが叫んだ。りんといろはは窓辺から離れ、情けなく肩を落とす友人の応援に加わる。
どうかせめて、いろはとの約束だけは来世まで一緒に持っていけますようにと願いを込めて、りんはいろはと指切りした指の感触を忘れないように記憶した。
雪が降る寒い日だった。カイタイ館を出る日は、すんなり来てしまった。
もうすぐ春が来ると言うのに、今年の冬は深まるばかりで、春を遠ざけるような雪を毎日降らしていた。
「みんな忘れ物はない? もうすぐ迎えがやって来るから、もう一度身の回りを確認してね」
まおはの声に、みんなから落ち着きが遠のき、あいとせんが慌ただしくこの場を後にした。
「……ねぇ、もう一度部屋を見てきていい?」
「既に朝から十回以上確認しているじゃないか。ま、いいけど」
「なにか忘れ物があったら困るじゃない。りんも行ってくれるよね」
「はいはい。――案外いろはも心配性なんだね」
「そうみたいだ。こんな落ち着かないいろはが見れるのも最後かもしれないし、どこまでも付いて行くさ」
りんとまことの言葉に不満げに口の先をとがらせるが、不安が足を急かすようで、いろはの手に服を引っ張られてカイタイ館を全て回ることになった。
昨日も使っていたプールに、遊戯室、勉強室に鑑賞部屋、本が並ぶ部屋に、みんなが使っていた部屋に風呂、トイレ、食堂に階段、物置、出入りした場所をくまなく調べ、壁に天井まで、記憶のない場所まで館中を歩き回った。
「なにか見つかったか?」
「……いいえ、なにも」
「大丈夫だよ、いろは。この後もみんな一緒だって、まおはが言ってたじゃない」
以前カイタイ館に住む真人たちに会いたいと思っている人がいるとまおはが話していたが、その人に会うことが次の役目だと言う。
だから誰も別れることにならず、ほっとしていた。残りどれくらい時間があるか分からないが、親しい人たちといられることは、手にできる内の数少ない幸運だろう。
以前いろはと指切りしたときよりも、いろはは背が少し伸びて、さらにまことは大きくなった。りんは変わらず小さいままで、先を歩くいろはに追いつくために小走りしている。まことは悠々と隣を歩く。
結局ずっと追いつかなかった。だけど互いの心はずっと変わらず、仲の良い三人組だ。
「そうそう。こういうときは頭を空っぽにしててもいいからさ、ドンと構えておくけばいいんだよ。……まずは形からっていうだろ?」
「どうしたの?」
胸を張り、ドンと自分の胸を叩き、不安げに目を彷徨わせるいろはに言うと、思ったより強く叩きすぎたのか、まことは胸を押さえていた。
「ちょっと痛かった。……励まそうと思った俺の努力だけは拾ってくれないか」
「もう、さっきの自信はどこに行ったのよ。本当に頼りないんだから」
呆れるりんの冷たいツッコミと、まことの自滅をいろはが笑った。
「……そろそろ諦めないといけないなー。これ以上、ここに何かを探しても見つからないって」
数回の深呼吸と共にいろはが呟くと、不安に染まっていた表情が消えていた。
「そうだね。何度も三人でチェックしたし、置いてきたものもない。――次も一緒だから大丈夫だよ」
「りんもまことも、ありがとう。……そうね、きっと大丈夫」
「この俺もいるし、みんなも一緒だ。これ以上、心細いことなんてないだろ?」
「……まこと、こういう時は『心強いだろ』って言ってくれないと締まらないじゃない」
「あれ? ……うっかりしてたわ」
まことの空振りする励ましを二人で笑うと、まことが頭を掻いていた。
「みんなは三年前、施設からここに来た時の事覚えてるかしら」
窓のない大きな鉄の箱の中で、みんなが顔を合わせて座っていると、まおはが尋ねてきた。
「……あの時気付いたらカイタイ館にいたから、どうやって来たのか覚えてる人はいないんじゃないかな」
思い出しながら、りんがまおはに応えた。
あの時は腹を切るほどの検査のためか、みんな麻酔を打たれ眠っていた。目を覚ましたら知らない空気とベッドの上で、真っ白だった施設と違って、いろんな色をした場所に戸惑っていた。あたりを見回せば、ずっとガラス越しで交流も出来なかった誰がすぐ側に居た。目の合った小さないろはが駆け寄ってきて、一番最初に名前を聞かれたことまで思い出されて懐かしさに胸を焦がした。
「検査の後じゃなくて、その前よ。……ずっと、あなたたちに会うことを楽しみにしている人がいらっしゃるのよ」
「全然覚えてないな」
「白衣の人じゃなくて?」
「誰かいたっけ?」
カイタイ館に迎えに来たのは施設で見かけたような、白衣姿の人達だった。あの時と同じ人だったのかどうかは分からないが、何人もいて、みんなの健康状態や心身に異常がないか簡単に確かめた後、なにひとつ無駄のない動きで扉の外へと案内された。
外は息が出来ないのではと不安になったが、半透明な通路が扉の向こうに用意され、移動用の車へと続いていた。
迷わないようにと行先が用意され、安全に配慮された道に覚悟を決める。――今までも誰も傷つけるようなことはしてこなかったのだ。だから大丈夫だとりんは自分に言い聞かせ、不安に染まるいろはの手を取った。まことも少し遅れていろはの手を取り、三人で最初に車へと乗りこんだのだ。
その車に揺られ、施設へと向かっている。最初にいた場所へと帰るようだった。
まおはとはお別れだと思っていたので、まだみんなと一緒にいられる安心感と、あの頃にはなかった絆が心強くさせてくれるようだった。揺れる車内で隣に座るいろはにぶつかる度に、互いにくすぐったく笑う。
「いろは、まこと、りん、せん、じん、あい、ばく、もこ――。あなた達の存在が、いかにあの方たちのお心を慰めていたか――。真人であるあなた達にしかできないことで、何よりも尊い行いをしてきたの。それだけは大切に、どうかあなた達の誇りにしてね」
恭しく丁寧に包んだ優しさを、少しでもみんなに届けたいという気遣いがまおはから伝わる。
「わたしにとってもあなた達は誇りよ。――最後まで、責任を持って傍にいることをどうか許してくれないかしら」
「……」
端に座るじんが冷たい目でまおはを見たが、気持ちをぶつけることはせず、すぐに顔を背けていた。――鑑賞会でまおはとふたりで話してから、じんは誰とも話すことはやめ、誰からも距離を取るようになった。
誰が声を掛けても返事をすることもなくなり、まおはの誕生日会にも現れなかった。それでも、まおはだけはじんに語り掛ける。返事がなくても、期待をされなくても、荒れる心をぶつけられてもまおはの態度はずっと変わらず、誰に対しても平等であろうとしていた。
「……まおはって私たちの『親』みたいね」
あいがぽつりとつぶやいた。すぐに顔が紅潮し、照れを隠すように膝を抱え三角座りになった。
「なんでもないっ」
「ありがとう――。少しでもそう思ってくれたら嬉しいわ」
モーター音しかない車の中で、あいの言葉を反芻した。
「そうかも……、まおはって俺たちの『母親』みたい」
「今までいろんなことを教えてくれて、大事にしてくれて、危ないときは叱ってくれて、なんでも話を聞いてくれた」
「親って、そういうものなんでしょ?」
せんともこ、いろはが口々にまおはへと心を寄せている。『親』という概念を教えてくれたのもまおはだった。
生まれたときのことは覚えていないし、育ててくれたのは白衣を着た名前も知らぬ人たちで、施設では特に誰も親しみを持って接してくれなかっただけに、寄り添ってくれる他人の存在が温かい。
「昔――、わたしにも自分の子どもがいたの。お腹から出る前に呼吸が止まってしまって、手を尽くしたけれど間に合わなかった。……あなた達みたいにここに傷があるのよ」
下腹部を押さえるまおはの手は、りんたちの傷跡よりも下の位置にあった。今まで個人的な話などしたことがなかっただけに、一緒にいることも、みんなで話をしていることもなんだか現実味が薄かった。
狭い車の中でなければ、今もまだカイタイ館の暖房が効いた部屋で、いつものように他愛ないおしゃべりをしていた日常が続いているようだった。
「そうなんだ……。まおはにも子どもがいたんだね」
「みんなといると、あの子にしてあげられなかったことを、返しているようで楽しかったわ」
まおはの染みるような言葉に、三年という時の長さを誰もが思っただろう。
「みんなのことは、自分の子のようにずっと思ってきた。短い間だけでも、わたしを『親』でいさせてくれてありがとう」
「――まおはこそありがとう。いろんなことを教えてくれて、一緒に過ごせてすごく楽しかった」
「いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。まおはが作ってくれるシチューが好きだったな」
「おはぎもおいしかった。皆で一緒に作ったのも楽しかったね」
「そういやカイタイ館に来た頃、もこが砂糖と塩を間違えて作ったクッキーはひどかったな」
「そんなことは思い出さないでよ! まことってば、ほんっとうに空気読まないわね」
カイタイ館よりもずっと狭い場所で、互いの距離が近いからか管理人と真人という立場を超え、一体感が芽生えた。
「……のんきなもんだ」
ひとり背を向けるじんの呟きなど、みんなで楽しかった思い出や、好きだったものを語る声に追いやられ、かすかにりんの耳に届くのみだった。
輪に入れず拗ねるような態度に、もう誰もじんを構うことなどしなかった。
三年振りに戻ってきた生まれ育った施設に到着すると、無機質な白さの印象そのままだった。
「……こうなってたんだね」
ガラス張りの廊下から見えるのは、無機質な白い部屋に詰められたいつかのりんたちの姿。検査着に身を包み、なにもない部屋にぽつんといる姿がこちらを見ていた。
「あの子たちも、いつかカイタイ館とかに行くのか?」
「そうね。――カイタイ館の他にもその子に適した環境が用意している施設があるのよ。あなた達も選ばれて私の元へ来たの」
青白い検査着に身を包むあの子たちとは違い、カイタイ館からここへと戻って来たりんたちは揃いの薄灰色の制服を着用しており、ここの関係者のようには見えなかっただろう。
選ばれて今がある――。その話がなんだか誇らしく、くすぐったさから思わず背が伸びた。
「真人の皆さんは、あちらの部屋で着替えて下さい」
白衣の人たちに促され、指示の通りに進もうとしたところ、
「久坂、波々賀部さまが既にいらしてる。問題はないか」
「なにひとつ抜かりなく。――お部屋へご案内をお願いします」
白衣の男性とまおはが話しているのが聞こえた。振り返れば、変わらぬ笑みを向けるまおはと目が合った。
「早く着替えてらっしゃい。私もやることがあるから、また後で会いましょう」
真っ黒なウールのドレスを着ているまおはも着替えに行くのだろうか。誰かに連れられてこの場を後にしていった。
「……『くさか』って呼ばれてなかった? まおはの名前かな」
「『ほうかべさま』って誰だろうな。すごい人が来るってこと?」
白いドアをくぐり、みんなで部屋に入ると、ついたてで分けられただけの簡素な更衣室だった。
「波々賀部財閥の人間だろ――、俺たちを飼っている人間の名前だ」
「あぁ、――『おりのすけさん』のことか」
じんがぶっきらぼうにりんといろはの疑問に答えると、まことが思い出したかのように『おりのすけさん』の名を挙げた。
いつだったかの鑑賞会で紹介された人物だ。
真人が誕生した頃、『波々賀部財閥』が真人を保護し、薬を世に流通させ、数多くの病を克服してきたと説明された。その内のひとりだと説明があったが、いつもの鑑賞会とは違い、ただ故人の紹介にとどまるだけだったので、あの時ばかりは涙を流す者は誰もいなかった。
「おりのすけさんの身内……、ってことかな。あなた方のおかげで私たちはここまで大きくなりました、ってお礼でも言えばいいのかな」
制服を脱ぎながら、あいがそんなことを言った。代わりに用意されていたのは検査着。――本当の意味でここに戻って来たんだと、軽い布を手にすれば実感が心を重くした。
「じん、頼むから失礼な態度は取らないようにしてよね」
棘のあるもこのセリフに、堅い何かが床に叩きつけられた。
「……どうしてお前たちは、そう従順でいられるんだ。全て勝手に決められて、いいように利用されているだけで、ずっと気分が悪くならないのか……!」
「あのさ! じんこそずっとそういう態度取ってばかりでこっちも気分が悪くなってるの、分からないの? 不安なのはみんなも同じなんだから、ひとりだけ不幸ですってツラしないでよ」
銀のフレームに白い布がついているだけのついたてを蹴り飛ばし、脱ぎかけのワイシャツだけの恰好になったもこがじんの胸倉をつかんだ。
「まあまあまあまあ、二人とも落ち着いて――。こんなところで喧嘩なんかしないでくれよ」
「じんも、……向こうの気が変わって、俺たちよりあとの子たちが不利を被っても嫌だろ」
「短い人生なんだ――。残りの時間をさ、誰かと険悪になりながら過ごしたくなんてないよ」
まこと、せん、ばくがもこを引き離そうとし、じんをこれ以上荒れないようにと宥めていた。急になくなったついたてに、着替えが途中だったあいはいろはの影に隠れた。
あいに構わず、まだ着替えてすらいなかったいろはがもこの肩を叩いた。
「もこも手を離して。……不安なのはみんな一緒でしょ。偉い人に挨拶して終わるだけなら、少しの間だけ我慢して。――それが終わったらどうするか一緒に考えましょうよ。今度もまた個室なのかな。またみんな一緒の部屋になれたらいいよね」
「これからの食事ってどうなるんだろうな。カイタイ館にいた時はまおはが作ってくれたけどさ、ここだとドロドロの栄養食じゃん……? 俺、耐えられるかな」
「まことってば……、まーたテンションの下がること言うんだから」
空気を変えようといろはとまことが他愛ないやり取りをすれば、もこはじんから手を離し、じんは押し黙った。
「正直、わたしたちの人生って短くて、他の人に比べれば残念なことも多いけどさ――、みんなが一緒だったら、その残念さもあまり気にならないと思うんだ。……じんは違うの?」
もこの怒りから逃れた無事なついたてから顔を出し、りんは俯くじんへ尋ねた。
「わたしたちを『飼っている』とか、そういうこと言うのもやめてよ。より自分が惨めになるだけだよ」
「……じゃあ、なんのために俺たちはここに居るんだ……。なにも出来ずに死ぬだけの人生に、生まれた意味があったのかよ」
「誰かの役に立ってるって、まおはが何度も言ってたじゃない」
「……そんなこと、どうでもいい。役に立たなければ生きている価値がないみたいな言い方、それこそ惨めじゃないか――っ!」
あふれる感情をどうすることも出来ないと、声が震えるじんが叫んだ。
「それだけじゃ満足できないの?」
「できない――、」
ドアが急に開けられ、白衣の人間が数名入って来た。急なことに驚くも、彼らは冷静に現状を把握すると、何も言わずじんの傍へ行った。
「やめろ! 近付くなっ!」
急なことにじんが逃げようとするが、二人の大人に取り押さえられ、注射器でなにかを注入されるとそのままじんは動かなくなった。唐突な出来事に、思考が止まりなにも言えなくなれば、
「着替えが終わったらすぐに外に出るように。彼のことは気にするな」
端的な説明と共に、じんは連れて行かれ扉が閉められた。あまりにも一瞬の出来事に、誰もが呆然とすることしか出来なかったが、
「……ずっと自分勝手だから、バチが当たったんだな」
せんが乾いた笑いと一緒にこの空気を一蹴した。その言葉に誰かが笑い、もめ事がなくなったことに安堵する気持ちが湧いてきた。
検査着に着替え、淡々と白衣の人たちに案内されると、白い廊下の先に今までとは違う雰囲気の扉の前にやって来た。
「まおは――」
別れた時と変わらぬまおはの姿が見え、心細い気持ちがりんに名を呼ばせた。
「じんのことは聞いたわ。誰もケガはしてない?」
「うん……」
「そう、良かった。――大丈夫よ、じんともまた後で会えるから、心配しないで」
不安に顔が暗くなるみんなから、優しいまおはの言葉が顔を上げさせた。
「まおはがいてくれてよかったね」
あいの弾む声に、みんなの硬かった表情がほぐれていく。無機質な白い施設の中で、まおはの周りだけはカイタイ館にいたときのような平穏があるようだった。
「みんな、喉は乾いてない? 慣れない場所で緊張しているでしょ」
「えぇ、――ありがとう」
まおはの言葉に、ひとりの白衣がお盆に人数分の紙コップを持ってきた。花の香りだろうか。無色透明だが、華やぐ香りにさらりとした飲み心地が、乾いていた身体を癒してくれた。
「これってなんなの? おいしいね」
「まだ欲しいならあるわよ。もってきてあげてくれないかしら」
別の白衣が飲み物を持ってきたので、嬉しそうにみんなお代わりを貰っていた。
まことから、いろはとりんの分のコップをもらうと、彼は自分の分を取りに行った。彼の姿に肩の力が抜け、渡されたカップを口にした。
友人やまおはたち以外の人はずっと無機質な態度だ。離れても時間が経っても変わらないものに、元いた場所へ帰って来たとしても、自分たちの居場所は本当にここなのかと自問したくなった。
ただ、じんのように不安に溺れたくないと空のコップを潰し、心の中に湧いたものを捨てていく。
何も考えてはいけない。
白い施設の中で案内された場所が金の装飾が施された暗い扉があることも、みんな白い白衣や検査着なのにまおはだけが黒いドレスであること、『久坂』と呼ばれていたこと、じんに注射されたのはなんだったのか、そのままどこへと連れて行かれてしまったのか――。
「りん、だいじょうぶ?」
「……うん、少したちくらみがしただけ」
暗くなる思考のせいか目の奥が痛み、頭を振る。いろはの不安げな顔が見え、りんはもう一度頭を振る。
頭に不自然な重さがやって来て、じんわりと温かくなった。
「もしかして身体に合わなかったかしら。――少しだけ頑張れるかしら、りん?」
まおはの手が頭に載せられ傍で屈み、こちらの顔色を窺っていた。調子が悪いときにしてくれる仕草に、不安な気持ちをぎこちない笑みで追い払った。
「大丈夫だよ、まおは。心配してくれて、ありがとう」
「――カイタイ館のみんなは大切な存在よ。無理をさせて悪いんだけど、もう終わるから。みんなもあと少しだけ頑張ってもらえないかしら」
これから何か授業を始めるかのように先導するまおはに、りんは自分の心に大丈夫だと言い聞かせた。
新しいことが始まるときは、いつだって不安でいっぱいになるものだ。
いろはがりんの指を取り、りんの不調を取り払おうと両手で握ってくれた。カイタイ館より他人の多い場所で、信じていたものが揺らいでいたとりんは気付いた。
気を許せる仲間しかいなかったカイタイ館から出され、無関心な白衣の人間が多い場所で、不安に飲まれている。
「もう大丈夫だよね、りん。私たちが一緒だもん」
いろはの指が絡み、いつかの約束を思い出す。
不安に思う気持ちも、疑う気持ちも全て諦めれば楽になる。
「ありがと、いろは」
潰したカップを捨て、大事なものだけ手の中に握りしめる。小さな約束と願い、大事な友人がいればそれでいい。白衣が白ではない扉を開け、まおはがみんなをその先へと案内した。
整備されていた真っ白な部屋を後にした先は、暗い道だった。
「……これって外?」
波の音が大きく、冷たい風が軽い検査着を煽ろうとする。壁にてんてんと明かりが灯るが、その光が照らすのは黒いゴツゴツとした岩肌だった。
「ここは通路よ。少し息が苦しいかもしれないけれど、向こうの扉が見えるかしら。あそこまでだから少しだけ辛抱してちょうだい」
今いる場所は岩に囲まれ左側が大きな空洞になっていた。真っ暗な闇が広がり波が岩肌にぶつかる音だけが響いて届く。
「なんか、……変な場所」
建物の外だというのに、以前カイタイ館で窓を開けられたとき程の苦しさがない。空気が薄い気がするが、今までいた場所の中で、どこよりも広い空間に自由を感じた。
「まおは、ここってなあに?」
白衣は扉を閉めた後、誰の姿もなくなった。カイタイ館から来たメンバーだけがここにいる。気安い仲間しかいなくなったことであいが、まおはの手を繋いでいた。
「最初に真人が生まれた場所よ。――閉め切られた空間でないと、あなた達が呼吸も出来ないのは、生まれた場所に由来するのかしらね」
「生まれた場所――」
「えぇ。人間は胎生だけれども、真人は――、卵から生まれるの。だけど、繁殖にエネルギーを使うとそのまま亡くなってしまうのよね」
飲み込もうとする闇を避けながらまこともりんも進むが、まおははいつもと変わらぬ速度で歩いていた。
「長年研究していても、ずっと解決策が見つからなくて――。短い生だから、出来ることにどうしても限りがあるのかしら。わたしたちと同じ見た目をしているのに、不公平よね」
まだこの空間に圧倒されているもこが、慌てて列を追いかけた。慣れない場所と、足りない空気のせいか歩みが遅いみんなを待つために、まおはが振り返った。
「あぁ、だけど複数産めるから、種の存続については心配しなくても平気よ。少しでも真人のみんなが安心して生きて行けるよう、今までも、これからもずっと多くの人が研究を続けてくれるわ」
勉強会の時のように落ち着いた声でずっと話しているが、波の音に阻まれうまく聞き取れない。傍に行こうと足を速めるが、ついてきているのを確かめたからか、まおはあいの手を引き、扉の方へと歩いていく。
「まおはってここに慣れてるのかな。こっちが真っ暗で怖いんだが……」
「もしかしたらここの研究員だったのかもね。寒いし早く行きましょ。お腹が冷えて来た」
「こんなに冷えるなら、さっき五杯も貰うんじゃなかった」
お腹を押さえるまことに笑ってみるが、彼の言う通り薄い検査着では少々寒くて息苦しい。
「ならさっさと扉まで行こ。そろそろお腹もすいてきたよね」
「今何時なんだろうな……。腹具合的に、もう昼は過ぎてるんじゃないのか」
くすくすと三人で顔を合わせ笑いながら、まおはの後に続くよう大股や小走りで進んだ。
洞窟に入った時と同じような、暗く重そうな扉が開かれると、施設とは違って木造の建物に続いていた。赤い絨毯が敷かれ、花が活けられた花瓶がところどころに置いてあり、いくつもの柱で部屋の視界が悪いが、とても広い場所だった。
「ここが新しい家……?」
「広くていい場所ね。――施設よりずっとマシ」
暖房が効いており、扉をくぐれば暖かな空気がみんなを包んだ。
「むしろ前より豪華じゃない? 見て見ろよ。天上の灯りがキラキラしてる」
白衣もいない、ひとつの階段が両手を広げるように階上へと続く作りに、階下を見渡せる欄干がぐるりと四方を囲い、さらに上の階まで行ける。今までと違う環境に高揚感がやってくる。先ほどまで手を繋いでいたまことやいろはも、新しい予感に表情が明るくなり、りんから離れて広間を観察していた。
だけど扉を閉めたのにここも空気が薄いのか、呼吸が浅くなる。
「みんなこっちよ」
部屋の中央でみんなが浮かれていると、ひとつの部屋の扉を開けて、まおはが待っていた。扉の向こうには黒いスーツ姿の人間が数人おり、新たな他人の登場に散らばっていたみんなが集まった。
施設にいた白衣たちとは違うのだろうか。表情を隠すように暗いレンズで皆目元を隠しており、また心細さがやってきた。
彼らは誰で、何のためにここにいるのか。
「皆さんがお待ちよ。さぁ、こちらに」
固まる真人たちの空気に気付かないのか、まおはは部屋に入るよう皆に促す。――部屋の中央に金屏風でついたてがなされ、先ほどいた場所よりも特別な場所だと誰もが思った。促すまおはの表情が普段通りということもあり、あいが我先にと部屋に入って行った。
部屋の左右にいる黒服を見ても、誰も関心をどこかに置いてきたように表情が硬く、誰も真人たちを目に映していないように思えた。
肌に伝わる温度よりもずっと冷たい何かがここにあり、そのせいかみんなの呼吸が浅くなる。
「あの時の――っ、」
枯れた声に何かが倒れる音が屏風の向こうから聞こえ、先に入って行ったあいが足を止めていた。他にも誰かいるのか微かな声と息遣いが聞こえて来た。
「お待たせしました、波々賀部さま。――この方たちがみんなのことを待っていらした方よ」
屏風を通り過ぎて視界に現れたのは、白い髪がふわりと頭頂部に載せ、顔も手も首も深く皺が刻まれた、細く小さな身体つきをした人だった。
その人を囲み、気遣うように三人の黒髪に黒服の男女三人がその杖を手にした、小さな人の身体を支えいる。
「……干からびてしまったの?」
もこの小さな疑問に誰も返事はせず、まおはがその小さな人が倒してしまった椅子を起こし、皺だらけの人を介抱している。よく分からない状況と、初めて見た他人の姿に恐れが湧きひしと、まことの傍にみんなが固まった。
「もしかして、あれが病気……?」
ばくのつぶやきに、今まで固まった涙を採取されていたことを思い出す。人の手が離れると、手が震えているのに誰もそれを気に掛けた様子がなかった。杖の頭を両手で持っているが、手の震えに合わせてグラついているので、支えとして意味があるのだろうか。
りんと同じくらいの、小柄の皺だらけの人。どうしたらこんな姿になってしまうんだろう。
「大変お待たせいたしました。ご紹介させていただきます。――真、彩羽、厘、繊、埃、獏、模糊です」
まおはが名を呼びながら、ひとりひとりを並べていった。肩に手を乗せられ、みんなから引き離されて立つと、新しい検査が始まったのかと気持ちを切り替えていく。
全員の紹介が終わると、しばしの沈黙がやってきた。白い人はじっと真人を眺め、その人の後ろに立つ女性はまおはと同じ大人に見えた。黒に華やかな絵がつけられた着物を着ており、口元を袖で隠していた。りんたちを見る目は険しく、その視線が痛かった。
その女性の隣にまことといろはと同じ程の男女がいて、周りと同じ黒のスーツと、漆黒のワンピースに身を包んでいる。男性は短い茶色の髪を後ろに流しており、女性は黒く艶やかな黒髪をまっすぐに落としていた。二人の表情は硬さと難しさが混じり、空気が張り詰められていく。――息苦しさの原因はここにあるのではないだろうか。
大して動いて居ないにも関わらず、息が上がり続ける。だが、それはりんだけではなく、両隣に立つみんなが同じようだった。正面にも扉があるだけで、窓なんてないのにどうしてか
「三年前に皆さまがお会いした真人です。今日まで大切に預かって参りました」
「あぁ、覚えているとも。こんなに大きくなって……。――だがあと一人どうした」
「二人死んだことは聞いているが、残りは八人だったはずだろ。あと一人はどうしたんだ」
枯れた声の主は白い人だったようだ。懐かしむような柔らかさから一転、咎めるような低い声に変わる。気が立っているのか傍にいた茶髪の男も、まおはに荒々しい声で訊ねていた。
「直前で少々感情的になってしまったため、休ませています。間もなくこちらへ参りますので、こちらに到着しましたら改めてご紹介いたしますわ」
今まで普通に接してくれていたまおはも、ここでは周りの黒服と同じように、他人行儀になり、こちらを見ることなくここで待っていた人たちとやり取りをしていた。
そして顔も名前も知らない二人が死んでいたという話に、居ない理由が今更明らかになったところで、薄々そうではないかと予想はしていたことだ。誰も言葉にしたことはなかったが、事実にちくりと胸が痛み、くらりと現実がおぼつかなくなるようだった。
「……だいじょうぶ、りん?」
いろはの声にふらついていることに気付いた。
「大丈夫。少し息が苦しくて……」
「だ、黙れ――! そいつらをしゃべらせるな。久坂、お前の管理だろ、躾くらいしっかりしろ」
大きな声で指を差され、急な弾圧に遠ざけていた不安と恐れが胸の内に湧いた。ここに呼ばれて来ているだけなのに、息苦しいのを耐えているというのに、どうして冷たい態度を取られ続けなければならないのだろうか。
「修治さま――。彼らは大切なわたしの子どもたちです。この子たちに、そのような言葉遣いはおやめ下さい」
「彼らは『織之助』を擁しているのだぞ。無礼な真似はするな」
同じ姿をしており、同じ言葉を話しているのになにひとつ頭に入ってこない。空気が足りないからだろうか。ふらりと足元がおぼつかなくなり、いろはにぶつかり倒れ込む。
「りん――!」
息が苦しい。心配するいろはに声を掛けようとするが、足りぬ呼吸のせいか声が出なくなる。傍にまおはが膝を折り頬の温度を確かめた。
「この子が一番小さいですから、耐えられなくなったようですね」
「――真珠だ」
息苦しさから涙が零れ落ちれば、小さな玉が床に落ちていく。まおはの手で仰向けにされると、先ほど悪態をついていた男性と、白い枯れた人がやって来た。
目の前に影を落とされ、距離が近くなることからまた呼吸が出来なくなる。離れてくれと声をあげたいのに息苦しさから、ぽろぽろと涙が落ちるばかりで、りんを抱えるまおはも優しい笑みをくれるだけだった。
「りんはどうしたの、……まおは?」
「なんと美しい――。人魚の涙とは言うが、こうして目の前で精製されれば、いっそうその価値が分かるというもの」
「ははっ……、本当に人じゃないんだな。どうかしてるぜ」
床に落ちる涙の塊をつまんだその男がつまらなそうに、それを見ている。
「だが、名前の通り小さすぎるな……。こんなもので父さんが満足すると思っているのか」
「当然だ。……小さくとも、これのひとつひとつにあの子が宿っていると思えば、どれもが愛しい――」
白い人は恍惚の表情を浮かべりんを見るが、薄気味悪いものが傍にあることに離れたくなり、まおはの手から逃げようとする。だがどうにも力が入らず、せめてと求めるようにいろはたちの方向へと頭を動かした。――まこともいろはも困惑と戸惑いで離れ、あい、もこ、せん、ばくも黒服たちに制されていた。
もしかしてこのまま死んでしまうのだろうか。
浅くなる呼吸と、緩やかになる思考に、自分の終わりがすぐ傍にあることを感じた。
ぽろりとおちる塊を手にしたまおはが、白く輝く珠をりんの前にかざした。
「えぇ、そうでしょう織治さま。――小さくとも愛しいこの子たちが、大切なお身内をこのように美しい姿に変えてくれる。――形は違えど、永遠にお傍に置いておくことが出来るんですよ。素晴らしいでしょう」
つまんだものを皺ばかりの白い人へ渡せば、感極まったかのように強く握り落ちくぼんだ目から、透明な涙をこぼしていた。
「織之助――、」
「貝では核を入れたとしても、精製に時間がかかりますし、中身も開けるまでは出来ているのかどうかすら分かりません。海の状態によって失敗することもありますし、自然を相手にすることは非常に難しいものです。――ですが、この子たちであればその心配も無用です。保護は容易く、涙がすぐ珠になり、このように次々に精製することが可能なのですから」
「まおは……、何を言ってるの? りんは、おりのすけって人じゃないわ……。りんはりんよ」
遠くから聞こえるいろはの声は震え、掠れていた。
「お父さま、あちらの方が大きいものが採れそうよ。――久坂も早く織之助兄さんを返して下さらない?」
パタンと扉が閉まる音がし、泣き崩れる白い人の背後に誰かやってきた。ぼうっとする思考と霞む視界には、黒い影しか映らず、何も考えられくなっていった。
「あぁ……、まだこんなにもあるなんて、――久坂、よくやった」
「お褒めにあずかり光栄です」
「コイツの中にまだあるんだろ? ……まさか切り裂いて取り出すのか――?」
「えぇ。もし抵抗があるのでしたら、こちらで取り出しましょう。この身体も貝と同じく、体内に入った異物を排除するために真珠層を生成します。三年間に皆さんがこの子たちに入れた核が、丁度良くコーティングされていることでしょう」
「まるで浜揚げだな。――貝を開き採珠したことがあるが、あの時はひどかった。何百と開けたのに、形になったものは数個だけ。……これは大丈夫なんだろうな」
「えぇ、中身については保障致します。ずっとわたし手ずから見守って参りましたから、この子も、――懐胎館で預かった子どもたちは皆、健やかに育ちましたので出来についても自信があります」
まおはの手が離れ、りんは床に寝かされた。目の間にスラリとした光が差し込むが、あれはなんだろうか――。
「――やめてっ!」
「真珠葬だなんてなんて悪趣味な……。ヒトモドキから真珠が採れるからと言って、こんなことをする必要はないでしょうに」
冷めた声がりんが耳にした最期の言葉となった。
「母さんてば、ここにいたんだ」
「ちさと――。あなたも見届けるかと思ったわ」
ふぅと火のついたシガレットを口から離し、誰よりも先に退出した妙齢の女性は、後から出て来た自分の娘を振り返った。長い艶やかな黒髪が歩くたびに揺れ、漆黒のワンピースから伸びる健康的な四肢がひと際目立つ。
年頃の娘であり、波々賀部財閥の娘だ。財閥を存続させるための駒として、彼女の目の前にいる母と同じ路を辿るのだろう。ふぅと息を吐けば、白い煙が宙を漂う。
「これ以上見るものなんてないわ」
吐き出された煙はあっという間に姿を消すも、香りがまわりに残った。その香りの中に身を置くかのようにちさとが傍へ来たので、空いている手でちさとへとシガレットケースを差し出した。
ちさとが手に取れば慣れた手つきで火をつけ、母と同じように深く息を吸う。中に詰まった葉が燃え、独特な香りを纏うことになるだろうが、今日はこの後の予定はもうないのだ。他を気にする必要はもうないだろう。
「父さんは今でも織之助兄さんしか見てないし、修治もやっと気持ちに折り合いもついたみたい。――これ以上、何を見届ければいいっていうの」
「そうね、修治もずっと可哀そうだったわ。――あの子だってずっと織治さんに認めてもらおうと一生懸命だったけれど、あの人は織之助しかいらないんですもの」
最初に生まれた織之助――。織治にとっても残った二人の子どもたちにとっても、まして母であるみつるにとっても特別な子だった。命を亡くし、形を失くしてからどれくらいの月日が経っただろうか。
きちんと弔ってもなお、息子に執着する織治を見ていられなかったが、死者を真人を使い弔う方法があると知り久坂に頼んで利用した。
先ほどの様子から、密かに広がる弔い方に納得しかなかった。だが、人と同じ形をしたものの、腹を切り裂くなど――。医者でもないのに、何度も経験はしたくなかった。
「……思っていたより採れたことだし、あなたも少し分けて貰えば? ネックレスでも指輪でも、ブローチにだって出来るのよ」
ただの真珠ではない。大切な息子だったものだ。――息子と再会し興奮する織治ほどではないものの、先ほど目にした珠の大きさや艶、色味を思い出せば特別だ。
人と似たようなモノから採れることに嫌悪感はあるが、もうただの素材になったそれを思い出すこともないだろう。
「これからもずっと、織之助がみんなのそばにいられるわ」
「……やめておくわ。ずっとないものとして扱われていた母さんこそ貰えばいいじゃない。あまりそばに居てあげられなかったでしょ」
落ち込む父を支え続けてきたものの、誰もその母を気遣う者はいなかった。誰よりも蔑ろにされている母を思えば、ちさとは深くため息をついた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
娘の気遣いに微笑で返すが、当の娘は顔を背け窓を開けた。海風が強く、手にしているシガレットの熱の勢いを増すそれは、みつるの耳を塞いだ。
「……一番家族から離れたがっていたのに、死んでもまだ離して貰えないなんてかわいそうね」
風に煽られ乱れる髪に隠した本音を吐き出し、指に挟んでいたシガレットを海へと放り捨てた。
だけど記憶にある限りここには八人の見知らぬ他人がいて、一堂に顔を合わせた日からずっと一緒。
あともうひとり、このカイタイ館の管理人をしている『まおは』がいるだけの、とてもささやかな暮らしが続いていた。
南向きの大きな窓から見える景色はぜんぶ灰青色の海。一階にはプールがあるけれど、窓の外から見えるあの海の水を引いてきていると最初に説明された。
だからプールがあっても水がとても冷たいので、使う人はほとんどいない。よく晴れて暖かい夏の時期でもないと、とてもじゃないが『りん』は入る気にならなかった。
―― はなだまのうみなおし ――
りん、――黒髪おかっぱ頭の少女は寒々しいプールサイドのベンチのひとつに毛布に包まりながら、ぼうっと考えていた。
同じ境遇ということもあり、他人が知り合いになり、知り合いが友人になるにはそれほど時間は掛からなかった。
八人の友人たちの中でも、いちばん仲の良いのは、『いろは』と『まこと』。――この二人は冷たいプールがいちばん快適だと言って、雨でも曇でも、雪の降る真冬だろうが気にせず入っていた。
さすがにそこまで付き合いきれないと、りんは水遊びに興じる二人をプールサイドのベンチから眺めていた。元気に跳ね回るように遊ぶ二人を眺めているだけでも、なんだか楽しくて幸せな気分になれるから、二人を見守ることはりんのさやかな日課でもあった。
ガラス越しに伝わる太陽のかすかな温かさと、冬の寒さの残る空気の中、元気な二人は海の匂いがするプールでどちらが早く泳げるのかと競走していた。
二人があまりにも楽しそうだから、今までも何度かつられてプールに手を入れてみたこともあるが、毎回冷たすぎて触れた手の先から一気に寒さが身体中を走るだけだった。
どう考えても、水遊び出来る温度じゃない。なのに今日もあの二人は元気に水中から現れる。
「りんも来ればいいのに。水の中は外にいる時よりも、ずっと気分がいいよ」
ばしゃりと、勢いよくこちらに近づいた拍子に足元に水が飛び散った。その勢いだけでも身体が冷えそうだ。
「やめとけ、いろは。誰にだって得意不得意はあるんだ」
同じように近付くまことが水飛沫を飛ばしながらプールから上がり、すぐ隣にあるビニル製のプールサイドベッドへと寝っ転がった。
この前の身体検査で170センチを超えたと言っていたが、まことはこのカイタイ館にいる人たちの中でも一番背が高く、身体が大きい。毎日水泳をしているからその影響だろうか。近くに座るりんと比べても、足の大きさから手の平、四肢や首の太さとなんだかすべての身体の厚みが違う。その厚みの差が活発さに影響を与えているとしか思えなかった。
何度もこの潮水のプールに入るから、短いまことの髪はチリチリだ。顔を合わせた当初は枯れた葉っぱと同じ色をしていたが、今や色が抜け金髪だ。無造作に腕をこちらに伸ばすので、彼の大きな手に持ってきたバスタオルを載せた。
「そうは言っても、こうやって待ってるのは退屈じゃないの? りんも来たらいいのに」
「見てるだけでじゅーぶん。飽きもせず毎日夏でも冬でもプールで楽しそうな二人を観察するのも、面白いからね」
ベンチの上に敷いた座布団の上で三角座りをし、水から上がるいろはを観察する。いろはは濡れてウェーブ掛かる癖のある黒髪をひとつ縛りにしており、垂れる水を絞りながらニヤリと笑った。
二番目に背があるのはいろはだろう。160センチ台で身体つきも他の子たちに比べれば身体の凹凸がしっかりしている。やはり水泳が成長の肝なのかもしれない。薄い身体つきの自分と比べてみるが、同じ土俵にいないのだからこんな比較は意味はない。
そんなことを考えながら、りんは肩上で切りそろえたまっすぐな黒髪を耳に掛けた。いろはの柔らかい髪と違って、コシのあるりんの髪は癖をつけられるのを嫌がるようにすぐに耳から外れた。
「それを言うなら、毎回泳ぐわけでもないのに付いてくるりんだって充分おかしいね」
タオルを投げて渡せば、満足そうに身体を拭いながら隣にいろはが座った。近くで三人並べばいつも通りの日常に、寒かった空気もあっという間に穏やかなものに変わる。
「もうすぐで、ここの生活も終わりなんだよ。二人はなにやりたいことはないの?」
生まれて五年、ここに来てから三年ほどの時が経つ――。山も谷もない緩やかな人生を振り返ってみるものの、穏やかな日々を気の合う友人たちとた過ごせることだけでも、充分幸せではないだろうか。
「うーん、やりたいことは毎日してるし、いろはとまことがいればそれで充分かな」
「そうそう、焦っても仕方ないさ。次の場所にもプールとかあればいいよなー」
「ふたりともぜんぜん夢がないなぁ。……私はふたりと離れたら寂しいよ」
「次も一緒だったらいいな。俺もそれだけが心配だ」
曇るいろはをなだめるように、まことが優しく伝えていた。
「そうだね、わたしも――」
ここでの暮らしも、今までの暮らしも、ずっと自分たちの意志とは関係なく行われる。
過不足のない生活に、『務め』を果たすだけの日々。それ以上を望んだところで、ここの生活は今後も自分たちの意志の有無に関わらず無常に過ぎると誰もが感じていることだった。
ガラス張りの天井の向こうは灰色、――海も灰色で、水平線には今日も何も現れない。
「知ってる? 人魚の肉を食べると不老不死になれるんだって。――私たちが自分たちの肉を分け合ったら、長生き出来るかな」
「えぇ……、気色悪いこと言わないでくれるか。……寒気してきた」
イタズラっぽく笑ういろはの言葉に、気分を害したまことが身震いしていた。こんな空気の中濡れているだけでも寒いだろうに、今の話でまことの心が凍えたらしい。一方いろははご機嫌そうにバスタオルを被り直していた。
人魚とは、文字通り身体の半分が魚で半分が人間の水性生物だ。不老不死の象徴で、海に住まう者。
海の気候を操り、病める人を救う知恵を分け与えてくれる貴重な隣人――。遥か昔に人間と人魚が契約を交わし、人魚の血を分け与えて生まれたのがりんたちのような『真人』だった。
三人とも魚らしい部分はどこにもないが、あえて言うならこの冷たい水に入っても元気なところが人魚の血を引いているという証明になるかもしれない。とはいえずっと水中にいられるということもなく、カイタイ館など特別な施設の中でなければ、皆呼吸をすることもままならなかった。
そして成長が早い。ここに来てからずっと顔を合わせている管理人のまおははなにも変わらないけれど、みんな彼女が下ろした手の高さほどの背しかなかったのに、今では同じくらいの目線で物を見ることが出来るほど背が伸びた。
まおはたちのような『普通の人』とは違うため、人魚の血を引くりんたちはずっと誰かに管理されながら生きている。活発ないろはとまことはたまに怪我をすることもあるが、体調を崩すものもなく、ここまで八人揃って元気にいられるのだから、これ以上を望むのは罰が当たってしまうのではないだろうか。
頭からタオルを被り、両腕をさするまことの腹には一本筋の縫い跡がある。でもそれはまことだけにあるわけじゃない。
「わからないわよ。この検査の跡も、じつはすでに誰かに食べられた跡なのかもしれないじゃない」
まおはが用意してくれたセパレートタイプの水着を着ているいろはは、お腹を出し同じ傷跡を見せた。同じ大きさのそれはりんの腹にも、ここにいる他五名の腹にもある跡だ。
カイタイ館に到着する前に検査をしたときにつけられた跡で、これがあるということは施設を出られるという証になる。初めの頃は痛んだこともあったが、傷もとうに塞がり、短い線が伸びるだけだった。服の上からなぞってみると、浮いた線の感触が指に伝わった。
「……まおはにもあるのかな」
「さぁねぇ。まおはは『普通の人』だからないんじゃない? もくすぐ40歳になるんだっけ」
「そうそう、ろうそくの準備はもうバッチリだよ。――長生きすると、どんどんパンケーキの上に載せるものが増えるし、火も消しにくくて大変だね~」
ここに来て一番最初にいろはがはじめたことだった。カイタイ館で共に生活するみんなの名前を聞き出し、誕生日を聞き、その日をお祝いするというイベント。九人居るうち春から夏の終わりまで毎月誰かの誕生日が連なるが、飛んで真冬にまおはの誕生日が来る。
「でも賑やかで楽しいじゃん。上に載せられなくても、やり方はなんだってあるさ」
「たとえば?」
「……横にぶっさすとか、ろうそくだけ別の皿に載せて火をつけるとか」
「ろうそくを横にするのは危ないし、ろうそくだけ別盛りにしたらただのろうそくじゃない。そんなのつまらない」
まことの適当なアイディアにりんといろはが呆れて笑っていると、
「三人とも、またここにいたのね」
後ろからくすりと笑う声と一緒に、噂の人物がやってきた。
「おやつが出来たわよ。あなたたちも上にいらっしゃい」
外の景色に馴染むような落ち着いた色をした丈の長いワンピースに、長い黒髪を後ろでまとめている清潔感のある女性。みんなに比べて顔や手の皺が大きいこの人がまおはだ。
「はーい。今日はなに、まおは」
「いろはは今日も元気ね。おはぎを作ったの。たくさんあるから、みんなで仲良くね」
「おはぎか~。こし餡、つぶ餡?」
「心配しなくても両方あるし、数もたくさんあるわ。――まことがいつもうるさいからって、みんなが頑張ってくれたのよ」
「一番の大喰らいだもんね。手のかかるやつだからな~、まことは」
三人ともまおはに促されて立ち上がると、いろはがまことの脇腹を小突いた。
「『もこ』と『あい』、『せん』と『ばく』の四人が手伝ってくれたの。作ってる途中に何度も味見してたから、あの子たちはもうお腹いっぱいになってしまったみたいだけど」
ここに居ない四人の名に、彼らが手伝う光景が浮かんだ。まおはを手伝えば好きなものを作れるし、誰よりも先に味見が出来るのである意味ご褒美のようなものだ。味見と言いつつ、なんだかんだ普通に四人は食べていたんだろうなと容易に想像がついた。
みんな、いろはとまことよりは小柄だけど、よく食べることからりんよりも大きい。
「なら四人で残りをもらっちゃお。りんもたくさん食べなよっ。そしたらもっと大きくなれるかも」
肩にいろはの手が載ると、まことを置いて行こうと二人で駆けだした。
「三人とも、『じん』を見なかったかしら」
まおはの声に、つんのめりながらもうひとりの名にまおはを振り返りみた。
「見てないわ。……またどこかいい隠れ場所でも見つけたのかな」
「そう……。また悩んでいるのかしら」
「じんは――、ひとりになれる時間が好きなだけさ。俺たちも一緒に探そうか?」
「ありがとう。そうね、どうしても見つからなかったらみんなに手伝ってもらおうかしら。それまで休んでいて」
にこりと笑みを送ると、廊下を分かれてまおはがじんを探しに行った。
「……たぶんまた屋根裏ね。まおはに見つかる前に声を掛けに行きましょう」
離れたまおはに届かないよういろはが小声で提案すれば、りんとまことも頷いた。
日々、検査と管理される生活。――それは多くの人を助けるためのもので、人魚の血が混じる真人だからこその日常だ。
同時に、それ以外に費やせる時間もない。『真人』の寿命は長くて十数年と言われているが、ほとんどは五年から八年で終わるものらしい。
だからまおはのような大人になることも、年輪のように刻まれたしわを持つ手になることもないのだろう。
カイタイ館の前にいた場所はもっとシステマチックで、少しも自由がなかった。同じ場所で生まれた仲間たちはいたが、深く関わる時間がもらえず、ここに来て初めて他人とコミュニケーションを取ることが許されたのだ。
三人で並んで歩く廊下に連なる窓をりんは目で追った。窓の外に広がる灰色の世界も、いつだったかまおはが開けてみせてくれた。ガラス一枚で隔たれた世界は、呼吸も出来ないほど苦しくて、ここの誰の居場所ではないのだと思い知ったのだった。
手にできるものが少ない以上、この世界や自分たちの在り方とどう向き合えばいいのか、いろはやじんのように何かを考えてしまうこともあるだろう。
りんやまことのように、この先に希望なんて持たず、できれば死ぬときはあの時よりもつらくなければいいと、思うだけの者もいる。
ここでの暮らしは、ただそれだけだった。
ある日のことだった。
「今日の鑑賞会は『この人』について、みんなに見てもらいたいの」
いろは、まこと、りんの他、もこ、あい、せん、ばく、じんと全員が鑑賞部屋に散らばるクッションの上で、各々自由に座り、寝転がりながらまおはがいくつかの冊子を何人かで見るように配った。
カイタイ館では午前に勉強会、午後には鑑賞会と呼ばれる時間がある。まおはが先生となり、勉強会では普通の人の暮らしについて教わる。彼らがいかに真人たちに助けられ暮らしているか、長い人類史の中で様々な困難を乗り越えてきたかなどの話が中心だ。
鑑賞会ではこの世に出回っている本や映像、音楽や詩、様々な表現を学び、勉強会で得た知識から、感受性や情動を高めるために行われる時間だった。――真人が泣くと、空気に触れ肌から落ちる涙が形を持つ。白や黒の塊になるのだが、どうやらそれが人々の薬になるらしい。その材料を得るために鑑賞会が行われ、涙を流すことがここで求められるものだった。
午後の授業について最初は何をしても意味が分からなかったが、徐々に心が動かされるという感覚を理解していけば、『普通の人』はなんとも忙しなく生きているんだなとりんは思った。
「今日もお涙ちょうだいなお話しなのかな」
小さな声で茶化すいろはにくすりと二人で笑うと、聞こえていたのか聞こえていないのかちょうど横をまおはが通って行った。こっそり様子を伺うが、特に気付いた様子もなくこの部屋全体を見回していた。
「……これって誰の写真?」
まことが特にタイトルも作者の名もない本をめくると、小さな子どもの写真が何枚も出て来た。背景は施設とは違うが、小さい子どもが二人の大人に代わる代わる抱かれて、いろんな場所で撮られているようだった。
「これは『おりのすけさん』の写真よ。――もう亡くなってしまった方だけど、あなた達に知ってもらいたくて今日紹介するの」
「……おりのすけさん?」
聞きなれない名前に三人で顔を合わせるが、その名前に記憶がなかった。他の友人たちを見てみると、同じような反応をしている。
「このカイタイ館を長年支援して下さっていた方で、あなたたち真人を大切に保護するために長年尽力して下さった方でもあるわ」
「ふぅん、こんな人がいたんだ」
「知らなかったね」
この写真に写る大人たちは笑顔をこちらに向けているが、中央に写る少年は笑顔だったり、真面目だったり大泣きをしていたりと、いろんな表情をしていた。――施設ではない場所ではこういう日常を送っているのかと、りんにはどうでもいい感想が浮かんだ。
きっと、何度も写っている大人はこの少年の親なのだろう。なんだか似ている顔立ちに、『親』というものに対し知識があっても、それがどういう意味を持つのかピンとこなかった。
「……もしかして、この人が亡くなったから、ここを出なきゃいけないのか?」
「そうじゃないわ。あなたたち真人が関わる施設を支援して下さってる方は、世の中にたくさんいるのよ。だけど、次のお役目があるからあなたたちはここを出なきゃいけないと言うだけ。何も不安に思うことはないわ」
「次の役目ってなあに?」
「あなた達がいてくれるだけで、喜んでくれる人たちがたくさんいるの。――その方たちに会いに行くことよ」
まことといろはの質問に応えてくれるが、曖昧な言い方でみんなを包もうとしているような笑顔だった。
「……つまり、俺たちは見世物ってことだろ。死ぬまであんたたちの好き勝手にされる――。もううんざりだ……!」
せんとばくと一緒にいたじんが、不快感をあらわにしながら本を投げた。飛んできた本がりんの傍に落ち、広がるページにりんたちの手元にある写真よりもずっと大きくなった『おりのすけさん』が、同じ服を身に着け、同い年くらいの男子だろうか、――たくさん集まって各々ポーズを決めて写真に納まっていた。
「この先を不安に思うのは仕方ないわ。真人であるあなた達は外に出ることは難しく、何かを成すには短すぎる時間しか与えられていない。……不公平よね」
じんの傍でしゃがむまおはの気遣いを避けるように、顔を背け距離を取っていた。せんとばくも荒れるじんを、どうしたらいいものかと対応に困っている。
「俺たちを勝手に哀れむな」
「そんなつもりはないわ。……そう言っても聞き入れてくれないわよね。少しわたしとお話しをしましょうか」
背を向け心を閉ざすじんが気がかりだが、もことあいがこの空気に耐えられず部屋を静かに出て行った。
「私たちも行きましょう。せんとばくも外で待ってようよ」
いろはに名を呼ばれた二人も諦めるように、まおはとじんの傍を離れた。ドアを閉める前、部屋に残るじんとまおはを見たが、お互いに納得できる話し合いが出来るとはりんは思えなかった。
結局、諦める方が楽なのだ。それが受け入れられないから、じんは苦しんでいる。
そんな簡単なことに気付かないから、心が乱れてつらい気持ちが続く。
ただそれだけの話だ。
「……じんの気持ちは分かるわ。いつ自分が終わるかと思うと怖いもの」
ウェーブのかかるくせ毛を指先で弄びながら、いろはが窓の傍でそんなことを口にした。
ここは遊戯室。――本や盤上遊戯にピアノの他、撞球台が置かれている部屋で、みんなが集まる場所だった。
「でもそんなことばかり考えてると、気も滅入るだけだ。俺たちが真人ある以上、短い生であることは変わらないからな」
「私も……、怖いものをわざわざ考えることないと思う」
撞球棒にチョークをつけるまことの言葉にりんが同調すれば、あいがホットレモンを作って持って来た。甘い香りに暖かな温度がいまの空気を変えてくれるようだった。
「そうだよ、いろは。残り少ない時間は、楽しいことに費やした方がずっと建設的だと思う」
「もこまで……」
「だってそうでしょ? 毎日みんなに不安をあたり散らすじんを見てると、あんな気持ちで最後までいたくないと思うもの」
「あぁなると誰も手を付けられない。こっちも気を遣うからやめて欲しいよなぁ」
部屋のソファにだらりと座るせんが、撞球棒を選ぶばくへとため息をこぼした。よく傍にいるからこそ出てしまう悪態だ。
「真人として生まれた以上、私たちには自由もなくて、どこにも居場所なんてないの。施設から出ても、自分たちの力で呼吸すらできない出来損ないの種族なんだから」
もこが撞球台の縁に座り白色の球に狙いをつけ、静かに撞いた。もこの強い自虐と共に突かれた白い玉はカツンと高い音を鳴らし、九色ある玉を散らした。激しく盤上で散る玉同士がぶつかり、壁に当たり四隅の穴に三色玉が落ちて行った。このままもこの順番が続くが、あまりにも都合の良い場所に黄色いラインが入る玉が止まり、勝負がすぐに終わる気配にまことが呆れていた。
「さっさと落として次はエイトボールにしよう。ばく、一緒にもこを倒すぞ」
「いいけど、足を引っ張らないでよ。まことって力はあるけど、コントロールは下手だからなぁ」
「……せんってそんな風に俺のこと思ってたんだ。ひどい」
「ドンマイまこと。台から落とさなければいいのよ」
「あいも俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「そんなことないわ。純粋に応援しているのよ」
くすくすと三人のやり取りを笑い、せんの近くに座るあいがエールを送っていた。カツンと玉がぶつかる音が響くと、次の遊戯の準備をしようと、三角の枠を手にしたばくと、ライン入りの玉を取り出すまことに、台の上の球をかき集めるもこの三人が忙しなく準備していた。
「いろは、大丈夫?」
心ここにあらずといった様子で、窓の外を眺めていたいろはの視線を追った。同じように窓を見てみるが灰色の空と海が広がるだけの景色に、いろはの心を誘うなにかがあるとは思えなかった。
「私は……、出来たらここから出て、みんなで海の向こうとかに行ってみたいな」
先攻後攻を決めるために順番に撞いた玉の位置を比べ賑わうみんなを背に、いろははずっと遠くを見ている。
「誰かの手を借りることなく、自分の力で生活してみたり、鑑賞会で見た映画みたいに自由に生きてみたいって。……りんは考えたことはないの?」
「……どちらかと言えば、いつもこんなものを見せるなんて、まおはもひどいなって思ってた」
先程渡されたアルバムにあった『おりのすけさん』とやらの写真を思い出した。
「世の中のものは全て流転し、変化と消滅を繰り返すだけ。形のないことの連続で、なにごとも囚われないことの大事さを教えてくれるのに、――私たちの手の届かない場所で暮らす人たちのことなんて、知りたくなんてなかった」
日頃良くしてくれるとはいえ、まおはもただの管理人だ。真人ではない。素直に彼女の話は聞くけれど、それがどういう意味を持つのか理解すれば、じんのように抵抗する気持ちが湧かない訳ではない。
「さっきのアルバムみたいに何か記録が残されて、誰かにその記録を見せて語り継がれる人とは違ってさ、……ここで暮らすみんなのことを、一体誰が思い出してくれているのかなって、いつも考えてる」
「りん……」
きっと同じ痛みをいろはも感じたのだろう。傷付くいろはの瞳に、空っぽな胸が苦しくなった。
こんな思いをしても、憧れは決して目の前に現れない。いろはもそのことは重々承知しているだけに、目を逸らし窓の外に何かを求めた。
「……どうして、人魚は人間と契約をしたのかしら」
「人を助けるために、知恵を授けたんだってまおはも言ってたじゃない。――誰かの役に立つために、きっと私たちは生まれて来たんだ。だからそれ以外の役割を貰えないんだって、思うな」
『真人』と名付けられたのは、何十年も長く生きる『人間』が妄執と偏執と忘我で道を失う人と区別するため。短くも潔く生きる様に敬意を示し『真人』と名付けられたのだと、ここに来てから何度も教わって来た。
「何度もそう言われてきたから強く思うんだ。――諦めることこそ、どんなことがあってもこの先不安すら飲み込んで生きていけるって」
カツンと玉と玉がぶつかる音が響き、勝負の始まりを告げる。台の周り三人が値踏みするように周り、台の上を彷徨う16個の玉たちの姿を追っていた。
「私たちが生まれた理由を探さず、憧れを手放し、あるがままを受け入れること。――次また生まれ変わって、新しく自分をやり直せるなら、その時の自分に託すの」
人が苦しいと、つらいと感じるのは、理想があり、憧れに届かず、ちっぽけな自分を認められないことから起こる現象だ。窓の外はずっと広く、灰色以外を映さないが、きっと自分たち以上に不幸な人もいる。
「私たちの知らないところで日々何かが誕生している。同時に誰の元にも死は平等に来て、それは誰にもコントロールできない。――だけど生死が巡るものであれば、少しでも功徳を積むことで、きっとこの次は別の機会をもらえるんじゃないかって、私は信じたい」
「……それってオカルトでしょう? 前世の記憶なんて誰も持ってないじゃない」
「全部やり直すんだから、記憶を持ってないのは当たり前じゃない。……でもきっとまたいろはやまこと、あいやもこ、せんにばく、じんともまた別の形で出会えるかもしれない」
「……、素敵な考えね」
「そうしたらさ、今度はみんな『普通の人』になって、何十回もお互いの誕生日を祝うの」
たった二回しか祝うことが出来なかったみんなの誕生日。三回目のお祝いをやる前にここを出なければならないことが、りんの中にある後悔のひとつだったと、口にしてから気付いた。
なんでも諦めたつもりでいたけれど、まだ捨てきれないものがここにあったのかと、いろはに気付かれないように顔を背けた。
「……その時はさ、――映画で見たような何段もある大きなスポンジを作って、みんなで飾り付けるのはどう? クリームも何色も色を付けて、フルーツやお菓子を飾ったり――。そうだ、ケーキの中から陶器のおもちゃが出て来るのもやってみたいね」
背けるりんの頭をつつくいろはは、りんの話に乗り窓をの外を見るのをやめていた。
「いいね。――でもあれって、うっかり噛んぢゃいそうで怖いけど」
「まことは気付かずにかじりそうよね。くすっ、――なら口に入らないくらい大きなおもちゃに変えた方がいいかも」
「ケーキを分けたら、すぐにバレちゃいそうだけど」
「なら分けずに、みんなフォークとお皿を持って一気に食べればいいじゃない」
「行儀が悪いなぁ」
「だってお祝いだよ? おめでたい席は無礼講っていうじゃない。――もう一度出会えたら、毎回一生忘れられないくらい楽しい誕生日会を開こうね、りん」
いろはが遠くへ想いを送るような笑顔を浮かべ、りんを見つめていた。
「うん、――絶対約束だよ、いろは」
短い人生も、今の境遇も全て受け入れるので、どうかせめて――。
カツンと白い玉がもこに撞かれ、ラインの入った玉が穴へと落ちた。既に勝負の行方が見えて来そうな空気に、引き留めるようにまことが叫んだ。りんといろはは窓辺から離れ、情けなく肩を落とす友人の応援に加わる。
どうかせめて、いろはとの約束だけは来世まで一緒に持っていけますようにと願いを込めて、りんはいろはと指切りした指の感触を忘れないように記憶した。
雪が降る寒い日だった。カイタイ館を出る日は、すんなり来てしまった。
もうすぐ春が来ると言うのに、今年の冬は深まるばかりで、春を遠ざけるような雪を毎日降らしていた。
「みんな忘れ物はない? もうすぐ迎えがやって来るから、もう一度身の回りを確認してね」
まおはの声に、みんなから落ち着きが遠のき、あいとせんが慌ただしくこの場を後にした。
「……ねぇ、もう一度部屋を見てきていい?」
「既に朝から十回以上確認しているじゃないか。ま、いいけど」
「なにか忘れ物があったら困るじゃない。りんも行ってくれるよね」
「はいはい。――案外いろはも心配性なんだね」
「そうみたいだ。こんな落ち着かないいろはが見れるのも最後かもしれないし、どこまでも付いて行くさ」
りんとまことの言葉に不満げに口の先をとがらせるが、不安が足を急かすようで、いろはの手に服を引っ張られてカイタイ館を全て回ることになった。
昨日も使っていたプールに、遊戯室、勉強室に鑑賞部屋、本が並ぶ部屋に、みんなが使っていた部屋に風呂、トイレ、食堂に階段、物置、出入りした場所をくまなく調べ、壁に天井まで、記憶のない場所まで館中を歩き回った。
「なにか見つかったか?」
「……いいえ、なにも」
「大丈夫だよ、いろは。この後もみんな一緒だって、まおはが言ってたじゃない」
以前カイタイ館に住む真人たちに会いたいと思っている人がいるとまおはが話していたが、その人に会うことが次の役目だと言う。
だから誰も別れることにならず、ほっとしていた。残りどれくらい時間があるか分からないが、親しい人たちといられることは、手にできる内の数少ない幸運だろう。
以前いろはと指切りしたときよりも、いろはは背が少し伸びて、さらにまことは大きくなった。りんは変わらず小さいままで、先を歩くいろはに追いつくために小走りしている。まことは悠々と隣を歩く。
結局ずっと追いつかなかった。だけど互いの心はずっと変わらず、仲の良い三人組だ。
「そうそう。こういうときは頭を空っぽにしててもいいからさ、ドンと構えておくけばいいんだよ。……まずは形からっていうだろ?」
「どうしたの?」
胸を張り、ドンと自分の胸を叩き、不安げに目を彷徨わせるいろはに言うと、思ったより強く叩きすぎたのか、まことは胸を押さえていた。
「ちょっと痛かった。……励まそうと思った俺の努力だけは拾ってくれないか」
「もう、さっきの自信はどこに行ったのよ。本当に頼りないんだから」
呆れるりんの冷たいツッコミと、まことの自滅をいろはが笑った。
「……そろそろ諦めないといけないなー。これ以上、ここに何かを探しても見つからないって」
数回の深呼吸と共にいろはが呟くと、不安に染まっていた表情が消えていた。
「そうだね。何度も三人でチェックしたし、置いてきたものもない。――次も一緒だから大丈夫だよ」
「りんもまことも、ありがとう。……そうね、きっと大丈夫」
「この俺もいるし、みんなも一緒だ。これ以上、心細いことなんてないだろ?」
「……まこと、こういう時は『心強いだろ』って言ってくれないと締まらないじゃない」
「あれ? ……うっかりしてたわ」
まことの空振りする励ましを二人で笑うと、まことが頭を掻いていた。
「みんなは三年前、施設からここに来た時の事覚えてるかしら」
窓のない大きな鉄の箱の中で、みんなが顔を合わせて座っていると、まおはが尋ねてきた。
「……あの時気付いたらカイタイ館にいたから、どうやって来たのか覚えてる人はいないんじゃないかな」
思い出しながら、りんがまおはに応えた。
あの時は腹を切るほどの検査のためか、みんな麻酔を打たれ眠っていた。目を覚ましたら知らない空気とベッドの上で、真っ白だった施設と違って、いろんな色をした場所に戸惑っていた。あたりを見回せば、ずっとガラス越しで交流も出来なかった誰がすぐ側に居た。目の合った小さないろはが駆け寄ってきて、一番最初に名前を聞かれたことまで思い出されて懐かしさに胸を焦がした。
「検査の後じゃなくて、その前よ。……ずっと、あなたたちに会うことを楽しみにしている人がいらっしゃるのよ」
「全然覚えてないな」
「白衣の人じゃなくて?」
「誰かいたっけ?」
カイタイ館に迎えに来たのは施設で見かけたような、白衣姿の人達だった。あの時と同じ人だったのかどうかは分からないが、何人もいて、みんなの健康状態や心身に異常がないか簡単に確かめた後、なにひとつ無駄のない動きで扉の外へと案内された。
外は息が出来ないのではと不安になったが、半透明な通路が扉の向こうに用意され、移動用の車へと続いていた。
迷わないようにと行先が用意され、安全に配慮された道に覚悟を決める。――今までも誰も傷つけるようなことはしてこなかったのだ。だから大丈夫だとりんは自分に言い聞かせ、不安に染まるいろはの手を取った。まことも少し遅れていろはの手を取り、三人で最初に車へと乗りこんだのだ。
その車に揺られ、施設へと向かっている。最初にいた場所へと帰るようだった。
まおはとはお別れだと思っていたので、まだみんなと一緒にいられる安心感と、あの頃にはなかった絆が心強くさせてくれるようだった。揺れる車内で隣に座るいろはにぶつかる度に、互いにくすぐったく笑う。
「いろは、まこと、りん、せん、じん、あい、ばく、もこ――。あなた達の存在が、いかにあの方たちのお心を慰めていたか――。真人であるあなた達にしかできないことで、何よりも尊い行いをしてきたの。それだけは大切に、どうかあなた達の誇りにしてね」
恭しく丁寧に包んだ優しさを、少しでもみんなに届けたいという気遣いがまおはから伝わる。
「わたしにとってもあなた達は誇りよ。――最後まで、責任を持って傍にいることをどうか許してくれないかしら」
「……」
端に座るじんが冷たい目でまおはを見たが、気持ちをぶつけることはせず、すぐに顔を背けていた。――鑑賞会でまおはとふたりで話してから、じんは誰とも話すことはやめ、誰からも距離を取るようになった。
誰が声を掛けても返事をすることもなくなり、まおはの誕生日会にも現れなかった。それでも、まおはだけはじんに語り掛ける。返事がなくても、期待をされなくても、荒れる心をぶつけられてもまおはの態度はずっと変わらず、誰に対しても平等であろうとしていた。
「……まおはって私たちの『親』みたいね」
あいがぽつりとつぶやいた。すぐに顔が紅潮し、照れを隠すように膝を抱え三角座りになった。
「なんでもないっ」
「ありがとう――。少しでもそう思ってくれたら嬉しいわ」
モーター音しかない車の中で、あいの言葉を反芻した。
「そうかも……、まおはって俺たちの『母親』みたい」
「今までいろんなことを教えてくれて、大事にしてくれて、危ないときは叱ってくれて、なんでも話を聞いてくれた」
「親って、そういうものなんでしょ?」
せんともこ、いろはが口々にまおはへと心を寄せている。『親』という概念を教えてくれたのもまおはだった。
生まれたときのことは覚えていないし、育ててくれたのは白衣を着た名前も知らぬ人たちで、施設では特に誰も親しみを持って接してくれなかっただけに、寄り添ってくれる他人の存在が温かい。
「昔――、わたしにも自分の子どもがいたの。お腹から出る前に呼吸が止まってしまって、手を尽くしたけれど間に合わなかった。……あなた達みたいにここに傷があるのよ」
下腹部を押さえるまおはの手は、りんたちの傷跡よりも下の位置にあった。今まで個人的な話などしたことがなかっただけに、一緒にいることも、みんなで話をしていることもなんだか現実味が薄かった。
狭い車の中でなければ、今もまだカイタイ館の暖房が効いた部屋で、いつものように他愛ないおしゃべりをしていた日常が続いているようだった。
「そうなんだ……。まおはにも子どもがいたんだね」
「みんなといると、あの子にしてあげられなかったことを、返しているようで楽しかったわ」
まおはの染みるような言葉に、三年という時の長さを誰もが思っただろう。
「みんなのことは、自分の子のようにずっと思ってきた。短い間だけでも、わたしを『親』でいさせてくれてありがとう」
「――まおはこそありがとう。いろんなことを教えてくれて、一緒に過ごせてすごく楽しかった」
「いつも美味しいご飯を作ってくれてありがとう。まおはが作ってくれるシチューが好きだったな」
「おはぎもおいしかった。皆で一緒に作ったのも楽しかったね」
「そういやカイタイ館に来た頃、もこが砂糖と塩を間違えて作ったクッキーはひどかったな」
「そんなことは思い出さないでよ! まことってば、ほんっとうに空気読まないわね」
カイタイ館よりもずっと狭い場所で、互いの距離が近いからか管理人と真人という立場を超え、一体感が芽生えた。
「……のんきなもんだ」
ひとり背を向けるじんの呟きなど、みんなで楽しかった思い出や、好きだったものを語る声に追いやられ、かすかにりんの耳に届くのみだった。
輪に入れず拗ねるような態度に、もう誰もじんを構うことなどしなかった。
三年振りに戻ってきた生まれ育った施設に到着すると、無機質な白さの印象そのままだった。
「……こうなってたんだね」
ガラス張りの廊下から見えるのは、無機質な白い部屋に詰められたいつかのりんたちの姿。検査着に身を包み、なにもない部屋にぽつんといる姿がこちらを見ていた。
「あの子たちも、いつかカイタイ館とかに行くのか?」
「そうね。――カイタイ館の他にもその子に適した環境が用意している施設があるのよ。あなた達も選ばれて私の元へ来たの」
青白い検査着に身を包むあの子たちとは違い、カイタイ館からここへと戻って来たりんたちは揃いの薄灰色の制服を着用しており、ここの関係者のようには見えなかっただろう。
選ばれて今がある――。その話がなんだか誇らしく、くすぐったさから思わず背が伸びた。
「真人の皆さんは、あちらの部屋で着替えて下さい」
白衣の人たちに促され、指示の通りに進もうとしたところ、
「久坂、波々賀部さまが既にいらしてる。問題はないか」
「なにひとつ抜かりなく。――お部屋へご案内をお願いします」
白衣の男性とまおはが話しているのが聞こえた。振り返れば、変わらぬ笑みを向けるまおはと目が合った。
「早く着替えてらっしゃい。私もやることがあるから、また後で会いましょう」
真っ黒なウールのドレスを着ているまおはも着替えに行くのだろうか。誰かに連れられてこの場を後にしていった。
「……『くさか』って呼ばれてなかった? まおはの名前かな」
「『ほうかべさま』って誰だろうな。すごい人が来るってこと?」
白いドアをくぐり、みんなで部屋に入ると、ついたてで分けられただけの簡素な更衣室だった。
「波々賀部財閥の人間だろ――、俺たちを飼っている人間の名前だ」
「あぁ、――『おりのすけさん』のことか」
じんがぶっきらぼうにりんといろはの疑問に答えると、まことが思い出したかのように『おりのすけさん』の名を挙げた。
いつだったかの鑑賞会で紹介された人物だ。
真人が誕生した頃、『波々賀部財閥』が真人を保護し、薬を世に流通させ、数多くの病を克服してきたと説明された。その内のひとりだと説明があったが、いつもの鑑賞会とは違い、ただ故人の紹介にとどまるだけだったので、あの時ばかりは涙を流す者は誰もいなかった。
「おりのすけさんの身内……、ってことかな。あなた方のおかげで私たちはここまで大きくなりました、ってお礼でも言えばいいのかな」
制服を脱ぎながら、あいがそんなことを言った。代わりに用意されていたのは検査着。――本当の意味でここに戻って来たんだと、軽い布を手にすれば実感が心を重くした。
「じん、頼むから失礼な態度は取らないようにしてよね」
棘のあるもこのセリフに、堅い何かが床に叩きつけられた。
「……どうしてお前たちは、そう従順でいられるんだ。全て勝手に決められて、いいように利用されているだけで、ずっと気分が悪くならないのか……!」
「あのさ! じんこそずっとそういう態度取ってばかりでこっちも気分が悪くなってるの、分からないの? 不安なのはみんなも同じなんだから、ひとりだけ不幸ですってツラしないでよ」
銀のフレームに白い布がついているだけのついたてを蹴り飛ばし、脱ぎかけのワイシャツだけの恰好になったもこがじんの胸倉をつかんだ。
「まあまあまあまあ、二人とも落ち着いて――。こんなところで喧嘩なんかしないでくれよ」
「じんも、……向こうの気が変わって、俺たちよりあとの子たちが不利を被っても嫌だろ」
「短い人生なんだ――。残りの時間をさ、誰かと険悪になりながら過ごしたくなんてないよ」
まこと、せん、ばくがもこを引き離そうとし、じんをこれ以上荒れないようにと宥めていた。急になくなったついたてに、着替えが途中だったあいはいろはの影に隠れた。
あいに構わず、まだ着替えてすらいなかったいろはがもこの肩を叩いた。
「もこも手を離して。……不安なのはみんな一緒でしょ。偉い人に挨拶して終わるだけなら、少しの間だけ我慢して。――それが終わったらどうするか一緒に考えましょうよ。今度もまた個室なのかな。またみんな一緒の部屋になれたらいいよね」
「これからの食事ってどうなるんだろうな。カイタイ館にいた時はまおはが作ってくれたけどさ、ここだとドロドロの栄養食じゃん……? 俺、耐えられるかな」
「まことってば……、まーたテンションの下がること言うんだから」
空気を変えようといろはとまことが他愛ないやり取りをすれば、もこはじんから手を離し、じんは押し黙った。
「正直、わたしたちの人生って短くて、他の人に比べれば残念なことも多いけどさ――、みんなが一緒だったら、その残念さもあまり気にならないと思うんだ。……じんは違うの?」
もこの怒りから逃れた無事なついたてから顔を出し、りんは俯くじんへ尋ねた。
「わたしたちを『飼っている』とか、そういうこと言うのもやめてよ。より自分が惨めになるだけだよ」
「……じゃあ、なんのために俺たちはここに居るんだ……。なにも出来ずに死ぬだけの人生に、生まれた意味があったのかよ」
「誰かの役に立ってるって、まおはが何度も言ってたじゃない」
「……そんなこと、どうでもいい。役に立たなければ生きている価値がないみたいな言い方、それこそ惨めじゃないか――っ!」
あふれる感情をどうすることも出来ないと、声が震えるじんが叫んだ。
「それだけじゃ満足できないの?」
「できない――、」
ドアが急に開けられ、白衣の人間が数名入って来た。急なことに驚くも、彼らは冷静に現状を把握すると、何も言わずじんの傍へ行った。
「やめろ! 近付くなっ!」
急なことにじんが逃げようとするが、二人の大人に取り押さえられ、注射器でなにかを注入されるとそのままじんは動かなくなった。唐突な出来事に、思考が止まりなにも言えなくなれば、
「着替えが終わったらすぐに外に出るように。彼のことは気にするな」
端的な説明と共に、じんは連れて行かれ扉が閉められた。あまりにも一瞬の出来事に、誰もが呆然とすることしか出来なかったが、
「……ずっと自分勝手だから、バチが当たったんだな」
せんが乾いた笑いと一緒にこの空気を一蹴した。その言葉に誰かが笑い、もめ事がなくなったことに安堵する気持ちが湧いてきた。
検査着に着替え、淡々と白衣の人たちに案内されると、白い廊下の先に今までとは違う雰囲気の扉の前にやって来た。
「まおは――」
別れた時と変わらぬまおはの姿が見え、心細い気持ちがりんに名を呼ばせた。
「じんのことは聞いたわ。誰もケガはしてない?」
「うん……」
「そう、良かった。――大丈夫よ、じんともまた後で会えるから、心配しないで」
不安に顔が暗くなるみんなから、優しいまおはの言葉が顔を上げさせた。
「まおはがいてくれてよかったね」
あいの弾む声に、みんなの硬かった表情がほぐれていく。無機質な白い施設の中で、まおはの周りだけはカイタイ館にいたときのような平穏があるようだった。
「みんな、喉は乾いてない? 慣れない場所で緊張しているでしょ」
「えぇ、――ありがとう」
まおはの言葉に、ひとりの白衣がお盆に人数分の紙コップを持ってきた。花の香りだろうか。無色透明だが、華やぐ香りにさらりとした飲み心地が、乾いていた身体を癒してくれた。
「これってなんなの? おいしいね」
「まだ欲しいならあるわよ。もってきてあげてくれないかしら」
別の白衣が飲み物を持ってきたので、嬉しそうにみんなお代わりを貰っていた。
まことから、いろはとりんの分のコップをもらうと、彼は自分の分を取りに行った。彼の姿に肩の力が抜け、渡されたカップを口にした。
友人やまおはたち以外の人はずっと無機質な態度だ。離れても時間が経っても変わらないものに、元いた場所へ帰って来たとしても、自分たちの居場所は本当にここなのかと自問したくなった。
ただ、じんのように不安に溺れたくないと空のコップを潰し、心の中に湧いたものを捨てていく。
何も考えてはいけない。
白い施設の中で案内された場所が金の装飾が施された暗い扉があることも、みんな白い白衣や検査着なのにまおはだけが黒いドレスであること、『久坂』と呼ばれていたこと、じんに注射されたのはなんだったのか、そのままどこへと連れて行かれてしまったのか――。
「りん、だいじょうぶ?」
「……うん、少したちくらみがしただけ」
暗くなる思考のせいか目の奥が痛み、頭を振る。いろはの不安げな顔が見え、りんはもう一度頭を振る。
頭に不自然な重さがやって来て、じんわりと温かくなった。
「もしかして身体に合わなかったかしら。――少しだけ頑張れるかしら、りん?」
まおはの手が頭に載せられ傍で屈み、こちらの顔色を窺っていた。調子が悪いときにしてくれる仕草に、不安な気持ちをぎこちない笑みで追い払った。
「大丈夫だよ、まおは。心配してくれて、ありがとう」
「――カイタイ館のみんなは大切な存在よ。無理をさせて悪いんだけど、もう終わるから。みんなもあと少しだけ頑張ってもらえないかしら」
これから何か授業を始めるかのように先導するまおはに、りんは自分の心に大丈夫だと言い聞かせた。
新しいことが始まるときは、いつだって不安でいっぱいになるものだ。
いろはがりんの指を取り、りんの不調を取り払おうと両手で握ってくれた。カイタイ館より他人の多い場所で、信じていたものが揺らいでいたとりんは気付いた。
気を許せる仲間しかいなかったカイタイ館から出され、無関心な白衣の人間が多い場所で、不安に飲まれている。
「もう大丈夫だよね、りん。私たちが一緒だもん」
いろはの指が絡み、いつかの約束を思い出す。
不安に思う気持ちも、疑う気持ちも全て諦めれば楽になる。
「ありがと、いろは」
潰したカップを捨て、大事なものだけ手の中に握りしめる。小さな約束と願い、大事な友人がいればそれでいい。白衣が白ではない扉を開け、まおはがみんなをその先へと案内した。
整備されていた真っ白な部屋を後にした先は、暗い道だった。
「……これって外?」
波の音が大きく、冷たい風が軽い検査着を煽ろうとする。壁にてんてんと明かりが灯るが、その光が照らすのは黒いゴツゴツとした岩肌だった。
「ここは通路よ。少し息が苦しいかもしれないけれど、向こうの扉が見えるかしら。あそこまでだから少しだけ辛抱してちょうだい」
今いる場所は岩に囲まれ左側が大きな空洞になっていた。真っ暗な闇が広がり波が岩肌にぶつかる音だけが響いて届く。
「なんか、……変な場所」
建物の外だというのに、以前カイタイ館で窓を開けられたとき程の苦しさがない。空気が薄い気がするが、今までいた場所の中で、どこよりも広い空間に自由を感じた。
「まおは、ここってなあに?」
白衣は扉を閉めた後、誰の姿もなくなった。カイタイ館から来たメンバーだけがここにいる。気安い仲間しかいなくなったことであいが、まおはの手を繋いでいた。
「最初に真人が生まれた場所よ。――閉め切られた空間でないと、あなた達が呼吸も出来ないのは、生まれた場所に由来するのかしらね」
「生まれた場所――」
「えぇ。人間は胎生だけれども、真人は――、卵から生まれるの。だけど、繁殖にエネルギーを使うとそのまま亡くなってしまうのよね」
飲み込もうとする闇を避けながらまこともりんも進むが、まおははいつもと変わらぬ速度で歩いていた。
「長年研究していても、ずっと解決策が見つからなくて――。短い生だから、出来ることにどうしても限りがあるのかしら。わたしたちと同じ見た目をしているのに、不公平よね」
まだこの空間に圧倒されているもこが、慌てて列を追いかけた。慣れない場所と、足りない空気のせいか歩みが遅いみんなを待つために、まおはが振り返った。
「あぁ、だけど複数産めるから、種の存続については心配しなくても平気よ。少しでも真人のみんなが安心して生きて行けるよう、今までも、これからもずっと多くの人が研究を続けてくれるわ」
勉強会の時のように落ち着いた声でずっと話しているが、波の音に阻まれうまく聞き取れない。傍に行こうと足を速めるが、ついてきているのを確かめたからか、まおはあいの手を引き、扉の方へと歩いていく。
「まおはってここに慣れてるのかな。こっちが真っ暗で怖いんだが……」
「もしかしたらここの研究員だったのかもね。寒いし早く行きましょ。お腹が冷えて来た」
「こんなに冷えるなら、さっき五杯も貰うんじゃなかった」
お腹を押さえるまことに笑ってみるが、彼の言う通り薄い検査着では少々寒くて息苦しい。
「ならさっさと扉まで行こ。そろそろお腹もすいてきたよね」
「今何時なんだろうな……。腹具合的に、もう昼は過ぎてるんじゃないのか」
くすくすと三人で顔を合わせ笑いながら、まおはの後に続くよう大股や小走りで進んだ。
洞窟に入った時と同じような、暗く重そうな扉が開かれると、施設とは違って木造の建物に続いていた。赤い絨毯が敷かれ、花が活けられた花瓶がところどころに置いてあり、いくつもの柱で部屋の視界が悪いが、とても広い場所だった。
「ここが新しい家……?」
「広くていい場所ね。――施設よりずっとマシ」
暖房が効いており、扉をくぐれば暖かな空気がみんなを包んだ。
「むしろ前より豪華じゃない? 見て見ろよ。天上の灯りがキラキラしてる」
白衣もいない、ひとつの階段が両手を広げるように階上へと続く作りに、階下を見渡せる欄干がぐるりと四方を囲い、さらに上の階まで行ける。今までと違う環境に高揚感がやってくる。先ほどまで手を繋いでいたまことやいろはも、新しい予感に表情が明るくなり、りんから離れて広間を観察していた。
だけど扉を閉めたのにここも空気が薄いのか、呼吸が浅くなる。
「みんなこっちよ」
部屋の中央でみんなが浮かれていると、ひとつの部屋の扉を開けて、まおはが待っていた。扉の向こうには黒いスーツ姿の人間が数人おり、新たな他人の登場に散らばっていたみんなが集まった。
施設にいた白衣たちとは違うのだろうか。表情を隠すように暗いレンズで皆目元を隠しており、また心細さがやってきた。
彼らは誰で、何のためにここにいるのか。
「皆さんがお待ちよ。さぁ、こちらに」
固まる真人たちの空気に気付かないのか、まおはは部屋に入るよう皆に促す。――部屋の中央に金屏風でついたてがなされ、先ほどいた場所よりも特別な場所だと誰もが思った。促すまおはの表情が普段通りということもあり、あいが我先にと部屋に入って行った。
部屋の左右にいる黒服を見ても、誰も関心をどこかに置いてきたように表情が硬く、誰も真人たちを目に映していないように思えた。
肌に伝わる温度よりもずっと冷たい何かがここにあり、そのせいかみんなの呼吸が浅くなる。
「あの時の――っ、」
枯れた声に何かが倒れる音が屏風の向こうから聞こえ、先に入って行ったあいが足を止めていた。他にも誰かいるのか微かな声と息遣いが聞こえて来た。
「お待たせしました、波々賀部さま。――この方たちがみんなのことを待っていらした方よ」
屏風を通り過ぎて視界に現れたのは、白い髪がふわりと頭頂部に載せ、顔も手も首も深く皺が刻まれた、細く小さな身体つきをした人だった。
その人を囲み、気遣うように三人の黒髪に黒服の男女三人がその杖を手にした、小さな人の身体を支えいる。
「……干からびてしまったの?」
もこの小さな疑問に誰も返事はせず、まおはがその小さな人が倒してしまった椅子を起こし、皺だらけの人を介抱している。よく分からない状況と、初めて見た他人の姿に恐れが湧きひしと、まことの傍にみんなが固まった。
「もしかして、あれが病気……?」
ばくのつぶやきに、今まで固まった涙を採取されていたことを思い出す。人の手が離れると、手が震えているのに誰もそれを気に掛けた様子がなかった。杖の頭を両手で持っているが、手の震えに合わせてグラついているので、支えとして意味があるのだろうか。
りんと同じくらいの、小柄の皺だらけの人。どうしたらこんな姿になってしまうんだろう。
「大変お待たせいたしました。ご紹介させていただきます。――真、彩羽、厘、繊、埃、獏、模糊です」
まおはが名を呼びながら、ひとりひとりを並べていった。肩に手を乗せられ、みんなから引き離されて立つと、新しい検査が始まったのかと気持ちを切り替えていく。
全員の紹介が終わると、しばしの沈黙がやってきた。白い人はじっと真人を眺め、その人の後ろに立つ女性はまおはと同じ大人に見えた。黒に華やかな絵がつけられた着物を着ており、口元を袖で隠していた。りんたちを見る目は険しく、その視線が痛かった。
その女性の隣にまことといろはと同じ程の男女がいて、周りと同じ黒のスーツと、漆黒のワンピースに身を包んでいる。男性は短い茶色の髪を後ろに流しており、女性は黒く艶やかな黒髪をまっすぐに落としていた。二人の表情は硬さと難しさが混じり、空気が張り詰められていく。――息苦しさの原因はここにあるのではないだろうか。
大して動いて居ないにも関わらず、息が上がり続ける。だが、それはりんだけではなく、両隣に立つみんなが同じようだった。正面にも扉があるだけで、窓なんてないのにどうしてか
「三年前に皆さまがお会いした真人です。今日まで大切に預かって参りました」
「あぁ、覚えているとも。こんなに大きくなって……。――だがあと一人どうした」
「二人死んだことは聞いているが、残りは八人だったはずだろ。あと一人はどうしたんだ」
枯れた声の主は白い人だったようだ。懐かしむような柔らかさから一転、咎めるような低い声に変わる。気が立っているのか傍にいた茶髪の男も、まおはに荒々しい声で訊ねていた。
「直前で少々感情的になってしまったため、休ませています。間もなくこちらへ参りますので、こちらに到着しましたら改めてご紹介いたしますわ」
今まで普通に接してくれていたまおはも、ここでは周りの黒服と同じように、他人行儀になり、こちらを見ることなくここで待っていた人たちとやり取りをしていた。
そして顔も名前も知らない二人が死んでいたという話に、居ない理由が今更明らかになったところで、薄々そうではないかと予想はしていたことだ。誰も言葉にしたことはなかったが、事実にちくりと胸が痛み、くらりと現実がおぼつかなくなるようだった。
「……だいじょうぶ、りん?」
いろはの声にふらついていることに気付いた。
「大丈夫。少し息が苦しくて……」
「だ、黙れ――! そいつらをしゃべらせるな。久坂、お前の管理だろ、躾くらいしっかりしろ」
大きな声で指を差され、急な弾圧に遠ざけていた不安と恐れが胸の内に湧いた。ここに呼ばれて来ているだけなのに、息苦しいのを耐えているというのに、どうして冷たい態度を取られ続けなければならないのだろうか。
「修治さま――。彼らは大切なわたしの子どもたちです。この子たちに、そのような言葉遣いはおやめ下さい」
「彼らは『織之助』を擁しているのだぞ。無礼な真似はするな」
同じ姿をしており、同じ言葉を話しているのになにひとつ頭に入ってこない。空気が足りないからだろうか。ふらりと足元がおぼつかなくなり、いろはにぶつかり倒れ込む。
「りん――!」
息が苦しい。心配するいろはに声を掛けようとするが、足りぬ呼吸のせいか声が出なくなる。傍にまおはが膝を折り頬の温度を確かめた。
「この子が一番小さいですから、耐えられなくなったようですね」
「――真珠だ」
息苦しさから涙が零れ落ちれば、小さな玉が床に落ちていく。まおはの手で仰向けにされると、先ほど悪態をついていた男性と、白い枯れた人がやって来た。
目の前に影を落とされ、距離が近くなることからまた呼吸が出来なくなる。離れてくれと声をあげたいのに息苦しさから、ぽろぽろと涙が落ちるばかりで、りんを抱えるまおはも優しい笑みをくれるだけだった。
「りんはどうしたの、……まおは?」
「なんと美しい――。人魚の涙とは言うが、こうして目の前で精製されれば、いっそうその価値が分かるというもの」
「ははっ……、本当に人じゃないんだな。どうかしてるぜ」
床に落ちる涙の塊をつまんだその男がつまらなそうに、それを見ている。
「だが、名前の通り小さすぎるな……。こんなもので父さんが満足すると思っているのか」
「当然だ。……小さくとも、これのひとつひとつにあの子が宿っていると思えば、どれもが愛しい――」
白い人は恍惚の表情を浮かべりんを見るが、薄気味悪いものが傍にあることに離れたくなり、まおはの手から逃げようとする。だがどうにも力が入らず、せめてと求めるようにいろはたちの方向へと頭を動かした。――まこともいろはも困惑と戸惑いで離れ、あい、もこ、せん、ばくも黒服たちに制されていた。
もしかしてこのまま死んでしまうのだろうか。
浅くなる呼吸と、緩やかになる思考に、自分の終わりがすぐ傍にあることを感じた。
ぽろりとおちる塊を手にしたまおはが、白く輝く珠をりんの前にかざした。
「えぇ、そうでしょう織治さま。――小さくとも愛しいこの子たちが、大切なお身内をこのように美しい姿に変えてくれる。――形は違えど、永遠にお傍に置いておくことが出来るんですよ。素晴らしいでしょう」
つまんだものを皺ばかりの白い人へ渡せば、感極まったかのように強く握り落ちくぼんだ目から、透明な涙をこぼしていた。
「織之助――、」
「貝では核を入れたとしても、精製に時間がかかりますし、中身も開けるまでは出来ているのかどうかすら分かりません。海の状態によって失敗することもありますし、自然を相手にすることは非常に難しいものです。――ですが、この子たちであればその心配も無用です。保護は容易く、涙がすぐ珠になり、このように次々に精製することが可能なのですから」
「まおは……、何を言ってるの? りんは、おりのすけって人じゃないわ……。りんはりんよ」
遠くから聞こえるいろはの声は震え、掠れていた。
「お父さま、あちらの方が大きいものが採れそうよ。――久坂も早く織之助兄さんを返して下さらない?」
パタンと扉が閉まる音がし、泣き崩れる白い人の背後に誰かやってきた。ぼうっとする思考と霞む視界には、黒い影しか映らず、何も考えられくなっていった。
「あぁ……、まだこんなにもあるなんて、――久坂、よくやった」
「お褒めにあずかり光栄です」
「コイツの中にまだあるんだろ? ……まさか切り裂いて取り出すのか――?」
「えぇ。もし抵抗があるのでしたら、こちらで取り出しましょう。この身体も貝と同じく、体内に入った異物を排除するために真珠層を生成します。三年間に皆さんがこの子たちに入れた核が、丁度良くコーティングされていることでしょう」
「まるで浜揚げだな。――貝を開き採珠したことがあるが、あの時はひどかった。何百と開けたのに、形になったものは数個だけ。……これは大丈夫なんだろうな」
「えぇ、中身については保障致します。ずっとわたし手ずから見守って参りましたから、この子も、――懐胎館で預かった子どもたちは皆、健やかに育ちましたので出来についても自信があります」
まおはの手が離れ、りんは床に寝かされた。目の間にスラリとした光が差し込むが、あれはなんだろうか――。
「――やめてっ!」
「真珠葬だなんてなんて悪趣味な……。ヒトモドキから真珠が採れるからと言って、こんなことをする必要はないでしょうに」
冷めた声がりんが耳にした最期の言葉となった。
「母さんてば、ここにいたんだ」
「ちさと――。あなたも見届けるかと思ったわ」
ふぅと火のついたシガレットを口から離し、誰よりも先に退出した妙齢の女性は、後から出て来た自分の娘を振り返った。長い艶やかな黒髪が歩くたびに揺れ、漆黒のワンピースから伸びる健康的な四肢がひと際目立つ。
年頃の娘であり、波々賀部財閥の娘だ。財閥を存続させるための駒として、彼女の目の前にいる母と同じ路を辿るのだろう。ふぅと息を吐けば、白い煙が宙を漂う。
「これ以上見るものなんてないわ」
吐き出された煙はあっという間に姿を消すも、香りがまわりに残った。その香りの中に身を置くかのようにちさとが傍へ来たので、空いている手でちさとへとシガレットケースを差し出した。
ちさとが手に取れば慣れた手つきで火をつけ、母と同じように深く息を吸う。中に詰まった葉が燃え、独特な香りを纏うことになるだろうが、今日はこの後の予定はもうないのだ。他を気にする必要はもうないだろう。
「父さんは今でも織之助兄さんしか見てないし、修治もやっと気持ちに折り合いもついたみたい。――これ以上、何を見届ければいいっていうの」
「そうね、修治もずっと可哀そうだったわ。――あの子だってずっと織治さんに認めてもらおうと一生懸命だったけれど、あの人は織之助しかいらないんですもの」
最初に生まれた織之助――。織治にとっても残った二人の子どもたちにとっても、まして母であるみつるにとっても特別な子だった。命を亡くし、形を失くしてからどれくらいの月日が経っただろうか。
きちんと弔ってもなお、息子に執着する織治を見ていられなかったが、死者を真人を使い弔う方法があると知り久坂に頼んで利用した。
先ほどの様子から、密かに広がる弔い方に納得しかなかった。だが、人と同じ形をしたものの、腹を切り裂くなど――。医者でもないのに、何度も経験はしたくなかった。
「……思っていたより採れたことだし、あなたも少し分けて貰えば? ネックレスでも指輪でも、ブローチにだって出来るのよ」
ただの真珠ではない。大切な息子だったものだ。――息子と再会し興奮する織治ほどではないものの、先ほど目にした珠の大きさや艶、色味を思い出せば特別だ。
人と似たようなモノから採れることに嫌悪感はあるが、もうただの素材になったそれを思い出すこともないだろう。
「これからもずっと、織之助がみんなのそばにいられるわ」
「……やめておくわ。ずっとないものとして扱われていた母さんこそ貰えばいいじゃない。あまりそばに居てあげられなかったでしょ」
落ち込む父を支え続けてきたものの、誰もその母を気遣う者はいなかった。誰よりも蔑ろにされている母を思えば、ちさとは深くため息をついた。
「ありがとう。あなたは優しい子ね」
娘の気遣いに微笑で返すが、当の娘は顔を背け窓を開けた。海風が強く、手にしているシガレットの熱の勢いを増すそれは、みつるの耳を塞いだ。
「……一番家族から離れたがっていたのに、死んでもまだ離して貰えないなんてかわいそうね」
風に煽られ乱れる髪に隠した本音を吐き出し、指に挟んでいたシガレットを海へと放り捨てた。
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