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やべー女だった

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 つい昨日のことのように彼女のことを思い出してしまう。――付き合って5年、同棲3年と長いこといたことは承知している。そのまま一緒になれるもんだと、プロポーズの相談だって友人としていた。だがいざ結婚の話になると彼女の曖昧な態度になっていたことを思い出す。
 ――きっと一生を添い遂げるつもりはなく、彼女にとっては俺はただの止まり木のひとつだったのだろう。
 そのことに気付かなかったことも、簡単に捨てられてしまったこともまだ全然受け止め切れなくて、しばらくひとりになりたかった。

「――こんなに優しい方と別れてしまうなんて、その方は見る目がなかったのですね……」

 一言伝えただけなのに、なぜかまた女は涙が出てくるのか泣き出した。――泣かれると弱い。どうしていいか分からないのも、泣き止むまでの時間を待つこともつらいからだ。

「なんで、あんたが泣くんだよ……」

 悪い子ではないのだろう。電波だけど。
 居心地の悪い思いと共に、見ず知らずの年下の女の子に道端で慰められるという状況がさらに落ち着かなさを加速させる。

「だって鷹浜さん、まだその方のことがお好きなんでしょう? ――好きな方と一緒にいられないなんて、そんなの悲しすぎます」

 まだ好き。――そう、なのだろうか。正直自信を無くして、自分が今どんな気持ちなのか分からなかった。
 涙と共に伝えられるまっすぐな言葉がなんだか妙に耳に残った。

「……たぶん、これで良かったんだ。相手の本心も知らないまま一緒にいても、きっとどこかでズレが生じてただろ」

 ちょうど一週間前の出来事だった、彼女が出て行ったのは。置いて行かれたショックでいっぱいだったのに、自分の代わりに悲しい気持ちを表現してくれる他人が目の前にいると、急に冷静になれるのかと思った。――もしかしたらちょうど酒も抜けたのかもしれない。
 妙にスッキリした心地が、夜風と共に訪れる。まだ目の前にいる名前もよくわからない女の子が泣いているが、ドリンクバーを驕るくらいはいいかという気持ちになる。

「頼むからもう泣くのはやめてくれ。……落とし物のことももういいから、ファミレスまで行こう」

 ハンカチやタオルの類を持ち歩いていればよかった。ここずっとそんな身だしなみも気にしなかったことを少し後悔する。とりあえず、この女の子を落ち着かせようと先ほどひっこめたペットボトルをもう一度差し出してみる。

「……涙を拭けるものを持ってなくて、代わりにこれでも――」

 もう一度泣き止もうと溢れる涙をまた両手で拭う彼女は、なんとか笑顔を見せてくれた。

「ありがとうございます。――やっぱり鷹浜さんはお優しい方ですね」

 無邪気に向けられる目元が赤くなった彼女は、嬉しそうに差し出されたペットボトルを手にしてそれを抱きしめた。

「ここに来てから誰にも見つけて貰えなかったので、こうして頂けて嬉しいです」

 道端で困っている人がいてもそれが視界に入らない人も、見て見ぬふりをする人もいるだろう。――自分はどちらかというとそちら側の人間だと思う。
 見知らぬ人に声を掛けるのは勇気のいることだ。ましてこのような人であふれた都会で、『誰か』がたくさんいる場所であればなおのこと、自分でなくてもいいと思ってしまうものだ。
 さっきも事ありげな彼女の横を通り過ぎた人たちは、きっと『誰か』に任せて通り過ぎたのだろう。その『誰か』がどうやら自分だったようだ。――そんな弱った状況なら神とかなんとか信じてしまうかもしれない。
 田舎から上京してきたばかりなのだろうか。黒のビジネススーツに着られている感の漂う彼女は、今流行りのミルクティー色の長い髪を緩くまとめ、色白の肌を涙と喜びで赤く染めた純朴そうな雰囲気だ。自分より10は下であろう、この社会に馴染み切っていない様子を心配だと思ってしまうのは仕方のないことだろう。
 ようやく落ち着いた彼女を連れて、一緒にファミレスへ行った。

 夜だからということもあるが、店員も客も少ない店内はガラガラだ。空いている席に自由に座れるスタイルのため店員はこちらに来る様子がなかったため勝手に席を探し、タブレットに人数を入れてとりあえずドリンクバー2つを頼んだ。

「で、最初に戻るけど、契約ってなんの契約なわけ? さすがに説明も告知もないのは不親切すぎないか?」

 彼女にグラスを渡しても取りに行く気配がなかったので適当にウーロン茶を入れて来た。

「すみません。先輩が先手必勝だから、先に契約しろと教えられていまして……。説明が必要だったんですね」

 やべー先輩のようだ。ブラック企業にでも務めているのだろうか。こんな時間まで仕事をしようとしているんだから、可能性はありそうだ。
 さっき矢がどうのと言っていたが、破魔矢でも売っている仕事なのか? ――神社関係か? クリスマスも過ぎ、もうあと少しで大晦日だ。――そういう仕事があるかは知らないが、ブラック神社とかあるのだろうか。

「物事順番が大事だろ? 先輩がそうは言っても、ちゃんとなんの商品を扱っているかとか、どういうものか説明がないとこっちも、じゃあお願いしますってならないだろ。――自分の事ばかりじゃなくて、相手のことを考えてくれよ」

「……なるほど、確かにそうですね。鷹浜さんはすごいですね。――相手のことを考えておられるからこんなにお優しいんですね!」

「今はそういうお世辞はいいから……。で、どういう仕事してるの?」

「はい、私はこの度天界から派遣された調査員のクピドで、この13659823549236423番目の世界に終焉をもたらすために現地の方の協力を得て実行しようとしています。――その協力を鷹浜さんにお願いしたいと思っています!」

「……へぇ、そうなんだ」

 真面目に話す気があるのだろうか。――いや、そういう設定なのかもしれない。会社がそういう設定ってどんな会社だ? むしろやばめの宗教とかもの知らずな女の子を使って行われる黒いお仕事か……?

「――まさか、美人局とかじゃないよな……? というかクピドって名前なの?」

「どっちも違います! 鷹浜さんはご存じないですか? ……ここだとキューピッドっていう方が分かりますか?」

「……ふぅん、そうなんだ」

 美人局じゃないのは良かったが、なんだか話について行けそうにない。氷で薄まったウーロン茶をストローで飲む。

「私たちクピド、――キューピッドは二本の矢を持っているんですが、その話は知りませんか? その内欲望の矢を使って誰かに自分を好きになってもらい、その恋のエネルギーを使って世界に終焉をもたらすのが私たちのお仕事になります」

「……はぁ、そうなんだ」

 恋のエネルギーで世界に終焉とか、中高生だったらドキドキしたかもしれんが、三十路をとうに通り過ぎたおっさんにはなにも響かなかった。

「――もしかして神話とかお読みになったことはないんですか?」

「まぁ、読まないわな」

「そうなんですか……。でもここの人たちって神話をモチーフにしたえっちな漫画とかよく作っていますよね」

 年下の可愛い女の子の口から聞きたくないワードが飛び出し、思わずむせた。――それこそえっちな漫画でありそうな展開だ。

「だ、大丈夫ですか?」

「……急に変な話になるから。――何の話をしているんだ?」

「私の仕事の目的をお伝えしているのですが……。分かりにくかったでしょうか?」

「何ひとつ分かる要素がなかったが」

 ひどくショックを受けた顔をしていた。そんな顔をされても、彼女の電波に合う周波数を持っていないんだから仕方がないじゃないかと言いたい。

「……矢があれば、信用していただけたでしょうか」

「――その矢があると、どうなるわけ?」

「神話とかでお調べいただけるとすぐ分かると思うのですが、欲望の矢が刺さると他のことを考えられなくなるほど相手のことが好きになります。――その『他のことが考えられなくなるほど夢中になる心』を使って、私たちは増えすぎた並行世界を閉じる仕事をしています」

「え、洗脳……?」

 急に怖い話になり、背筋に悪寒が走る。

「洗脳なんかじゃありません! 欲望に忠実になるだけで――」

「どう考えても自分の意志じゃなくなる時点で洗脳だろ! そんな怖いことやめな。多分あんたのいる会社ブラックだぞ!」

「で、ですがそれが私たちの役目なので……。それにブラックじゃありません!」

 互いに思わず大声を出してしまう。人の少ない店内で響いてしまい、周囲の目がこちらに集まる。その人たちにペコペコと頭を下げ、なんとか気を取り直す。

「矢って、てっきり破魔矢とかそういうもんかと……。転職した方がいいんじゃない? はたから聞いててもあまりいい会社に思えないよ」

「――この仕事が完了するまで、他のことはできないし、誰も来てくれません……」

「……友だちとかいないの? その、先輩はちょっと問題ありそうだけど、他に信頼できる人とか……」

 信頼できる人、という言葉に反応し彼女がこちらを見る。

「鷹浜さん……」

「いやいやいやいや、さっき会ったばかりの人間でしょ俺は――。」

「――あのお客様、」

 いつの間にか店員が傍に来ており、驚きつつ声を掛けて来た店員を見る。胡乱な目でこちらを見ており、そんなにさっき騒いでしまったかと反省する。

「……他のお客様が怖がっているので、おひとりで騒ぐのはやめていただけないですか?」

「――は? いや、ツレがいますが、」

「……失礼ですが、入ってきた時からおひとりでしたよ」

 険しくなる店員の表情に、周囲を見渡すと、店内の客も不気味がっている様子が伝わってくる。――正面に座る今まで会話をしていた相手を見ると、にこやかに笑っている。

「鷹浜さんにしか、私は見えていませんよ」

 ホラーかよ。――あまり働かない頭が、居たたまれないと訴えている。手荷物をまとめ、とりあえず出ていくことにした。
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