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序章 ”始まりと旅立ち” の段
1話~春、ぽっちゃり少年と黒髪美人
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春の香りが風に吹かれて日本中を駆け巡る四月。季節的に今は入学シーズン真っ盛りで、僕もご他聞に漏れずに新入生として太陽高校に通う事になりました。学校にある大きな桜の木も、その太い幹から伸びる枝に満開の花を付けて春風に揺られて微笑んでいる様だ。
そして、そんな校庭に咲く桜の下にどっかりと腰を下ろすぽっちゃりとした少年こと、僕、凪風奏慈は、春の陽気を楽しみながらポーっと昼食兼日向ぼっこをしていた。
「あ~、いい天気だ」
花の芳香を胸いっぱいに吸い込み、青空に浮かぶ真っ白な雲を見て食べ物の妄想をする。ふわふわとした三角形の雲を見れば、頭に浮かぶのは大きな大きな塩おにぎり。思わず涎が溢れそうになり慌てて口元に本物のおにぎりを放り込む。もぐもぐと大きな口で咀嚼すれば、口いっぱいに米の甘味と塩の旨味が素敵なハーモニーを奏でる。
大きな桜の枝には、小鳥やリスなどが姿を見せて僕と一緒に昼食中である。
「むぐっ、君達も食事中か。今日はいい天気だね~」
そんな、楽しくもありのんびりとしたお昼を過ごしていた。
「今日もまたのんびりしたものよな、坊よ」
其処に背後から呆れたような、それでいて古風で凛として楽し気な声が掛かる。
声のした方にぽっちゃりとした顔で口におにぎりを頬張りつつ振り向けば、いつの間にか僕の隣に美しく艶やかな黒髪を春風に靡かせたスーツ姿の女性が立っていた。
「あーちゃん。もぐ……どうしたの、こんな所まで」
見た目は20歳前後で若々しさと艶やかさの両面を見事に併せ持つ、何処か神々しい雰囲気を放つ女性の名はあーちゃん……ではない。勿論僕が呼んでいる愛称なのだけで、本名は別にある。まあ、いわゆる渾名だね。
「ふむ、少し暇が出来たでの。暇潰しと散歩も兼ねて、坊の所に遊びに来た次第よ」
存外に暇だから来たと答えるあーちゃんに苦笑を交えつつも、学校の自販機で購入した熱いお茶を啜る。そんな僕の隣にあーちゃんは腰を下ろし、ご飯のお供として持ってきた茄子と胡瓜の漬物を僕の弁当から摘まんで食べた。
「うん、うん……。やはり、坊が拵えた漬物は美味よな。さっぱりとした味わいの中に、素材の味もちゃんと生きておる……っと、もう一つ」
目を細めて美味しそうに食べるあーちゃん。そんな彼女の姿にほっこりしながら、僕も箸休めに茄子の漬物を一つ口に放り込む。つるっとした皮を奥歯で噛み潰せば、茄子の中から漬け汁の味と茄子の甘味が溢れ出す。
「ありがとう。やっぱりこういう物は自分で作ってみないと、ね……うん、美味い」
「何事も経験が大事じゃからな。……まぁ、その経験に囚われ過ぎると逆にそれしか信じられなくもなるがのう」
二人して他愛も無い話をしながら程よく漬かった漬物をぽりぽりと齧り、春の陽気に包まれた大きな校舎を見上げる。桜の木に囲まれた校舎からは、多くの生徒達や先生達の話し声が聞こえてくる。ある者はふざけ合い、またある者は勉学に励んでいる様子が聞こえる。先生達は午後の授業の準備に忙しく走り回り、のんびりと食事をしている先生はあまり居ないようだった。
「うむ、実に平和じゃのう……。人の一生は短くも美しい。この何気ないひと時も、こうやって見つめてみれば美しいモノよ」
「さすがあーちゃん。なんだか深い言葉だね」
「フフッ……、坊には良く理解はできなんだか。まぁ、それも好しじゃな」
僕が良く言葉の意味を理解できていない事を見抜いたあーちゃんは、玉を転がす様な声で楽しそうに笑う。そんな彼女の姿に面映くなった僕は、とりあえず苦笑してごまかす事にした。
「はは……、一応褒め言葉と受け取っておくよ」
「うむ、今はそれでよい。いずれ坊が成長すれば、自ずとこの言葉の意味も分かるようになるからの」
いつの間にか、何処からか取り出した湯飲みでお茶を啜りながら語るあーちゃん。そんな彼女の言葉に僕は唯肯くしかなかった。
「さて、坊よ。実は、此度此処に来たのは単なる暇潰しだけではない」
「え? 何か用事でもあったの?」
突然居住まいを正し真剣な表情で話し出すあーちゃんに、僕も同じ様に緊張した面持ちで応える。普段から凛としているあーちゃんがこんな雰囲気を醸し出す時は、昔から何か重大な事を話す時だと相場が決まっていた。
そう、今でも憶えているのは長男のスーさんと長女のあーちゃんが喧嘩をした時だった。
僕の家は神社の神主を務めている家系なんだけれど、お隣にはあーちゃんを含めた5人の隣人が住んでいる。
父親はナギさん
母親がナミさん
それに二人の子供である3人が一緒に暮らしている。
長女はあーちゃん
次女がツク姉
最後に長男のスーさんという三人姉弟だ。
ご両親は朗らかで気の良い人達なのだが、何時だがもの凄い夫婦喧嘩をやらかした事があるらしく、一時は完全に絶縁状態までいった事があるらしい。それでも今はご近所で有名なくらいのおしどり夫婦で、土日などの休日にはよく二人で出かけているのが見かけられる。
そして、一番の問題は3人姉弟の長女と長男の仲がすこぶる悪い時が長い間あった事だった。
あーちゃんは普段から凛とした世間で言う理想の女性であり、自分に厳しく他人にも厳しいのを地で行く女傑である。対して、長男のスーさんは幼い頃は相当ヤンチャした時があったらしく、よくあーちゃんから厳しく躾けられたらしい。だが、そんな厳しい躾けに反発する様に素行が悪くなり、ある日ついにあ-ちゃんを本気でキレさせてしまったそうだ。
その日からあーちゃんはスーさんが何をしても何も言わなくなり、家族の食事の場でも無言で通し、スーさんが話しかけても完全に居ない者として扱って無視し続けた。ツク姉は間に入ろうと懸命に奔走していたけど、結局あーちゃんの凍えるような笑みで何も言えなくなり、いつも僕の所に来て落ち込んでいた。その時のツク姉はこれまた厄介で、何を言ってもネガティブに捉えて一向に元気になる気配が無かった。
『…………ねぇ、奏ちゃん。私って、姉弟の喧嘩も止められない駄目な女なのかな?』
『そんな事無いよ、ツク姉っ! ツク姉はいつも頑張っているよ、悪いのは何時までも仲直り出来ないあーちゃんとスーさんだよ!!』
『……でも、私の言う事は二人とも全然聞いてくれないし、何だか私まで疎外感が……』
『ツク姉…………ようしっ!』
正直あの時の落ち込んだツク姉の姿には、当時小学生の僕でもとてつもない加護欲が溢れてきた。
結局、その時のツク姉があまりにも可哀想だったので、ぽっちゃりとした外見に似つかわしい温厚な性格だった小学生の時の僕が珍しく奮起し、収拾のつかない二人を叱り飛ばして何とか治めたのだった。二人とも小学生に説教されるとは思っても見なかったのか、キョトンとした顔で僕の説教を聞いた後突然笑い出して、何事も無かったようにあっさりと仲直りしてたっけ……。
「これ、聞いておるのか坊よ?」
「え? ああ、ごめん。色々と昔の事を思い出してたんだよ。具体的には小学生の頃――――」
「うむ、それ以上は思い出さなくてもよいぞ!」
「――――ああ、うん。分かったよ、あーちゃん」
どうやらあーちゃんの中では思い出したくない類の記憶らしく、この話題を出されると露骨に話を逸らす傾向にある。お茶を飲む手がほんの少し震えるのを尻目に、この話題を引っ込める事にして僕もお茶を啜る。
「それであーちゃん、用事って何なの? 結構な大事でもあったの?」
「ん? ああ、ん、んんっ! 実はな、この度我が家と坊の家で今後の方針を決める会議があったのじゃが、そこで一つの議題が上がっての」
ん? 家とあーちゃん家で会議って、確か年末と年明けに又かけて開催されるあの行事だろうか? でも、今は4月の中旬だし、特に決める事も無かったような気がする。それに、なんだかあーちゃんのほほが薄らと紅潮している様な?
「早い話が、坊の修行を何処で行うのかと言う事だったんじゃが、やれあそこが良い、ほれ其処が良いと中々決まらなくてな。一応修行をするのは坊自身だからの、坊の意見を聞きたくて参上した次第じゃ」
ああ、修行の話か……。今までは、神職に就く為の修行を毎日欠かさずに行ってきたつもりだけども。もしかしたら、さらに厳しい修行を積まねばいけない時期に来てしまったという事だろうか?
「候補は三つまでに絞っておいたのじゃが、どれが良いのかは坊が決めてくれ」
そう言うと、あーちゃんはスーツの上着から一枚の用紙を取り出して僕に手渡した。
「何々……?」
用紙に書かれていた内容はこうだった。
「一つ……雅楽および神楽演奏者として修行」
「これは我の父上と母上が押している修行じゃ」
これは、まぁ普通だ。普段から御神楽で僕が担当している、楽器演奏者としての腕を上げる修行内容だと想像できる。主に横笛と鼓を担当している僕は、ぽっちゃりとした体に内包されている鍛えられた肺活量と脂肪に隠された腕の筋肉を駆使して長時間の御神楽を演奏している。
まぁ、あの御二方は宴会やら祭りが大好きだからな~。きっと、もっとレパートリーえお増やして欲しいなんて考えて押しているんだろう。
「二つ……神職者として、神主になるための修行」
「それは、神主である坊の父殿が押している修行じゃな」
これまた普通の神職者が通る道である。実家が社家(神社)の場合、神道系の大学へ入学後宮司の推薦を得てその神社の属する都道府県の神社庁という所から推薦状をもらい、神道系の大学に提出して認められれば神主になる事ができる。
しかし、これは普段から神主である父さんから見て直接学んでいる事だし、大学への推薦入学の資格もすでに所持している。
何故15歳で資格を持っているかという疑問は、家の神社がかなり特殊な立ち居地にいる事が関係しているんだけど……。
「三つ……世界を越えて人間から一皮剥ける修行?」
おうふ……。最後の最後で理解できない修行が待っていたよ。
「ちなみに我とその他の家族が押しているのは、その三つめじゃな」
「……いやいやいや、三つめは意味が理解できないんだけど」
「ふふふっ! それは此処では言えぬな。選んでみてからのお楽しみじゃ」
ええ~、修行の内容が教えてもらえ無いってどういう事? というか、世界を越えるってどういう事なんだろう? それに、人間から一皮剥ける修行って言うのも意味が分からないよ。
ニコニコと笑みを浮かべるあーちゃんと用紙を交互に見つつ、心地良い風に吹かれながら昼下がりのポワンとした頭で考える。ナギさんとナミさん夫婦の案に乗るか、父さんの無難でかつあまり意味が無い修行にするか。それとも、この三人以外の家族全員が押しているという謎の三つめに挑戦してみるか……。
「――ああ、そう言えば。駄弟が4つめとして“ダイエット”とかふざけた事を抜かしておったが、我が妹と共に軽く伸しておいたからの」
「…………スーさんたら、もう」
相変わらず変な所で残念な部分が出てくる人だな。黙っていれば好青年とした容姿と爽やかな雰囲気なのに、態々人をおちょくる様な事を言ってはあーちゃんとツク姉に制裁されている。非常に惜しい性格をしている人だよ……。
「まぁ、今すぐに決めろとは言わぬゆえ、一度帰ってからゆっくりと話し合いの席を設けるという手も有るぞ?」
うんうんと唸りながら頭を抱えて必死に考える僕の姿を見かねたのか、あーちゃんが横目で僕を見ながらお茶を飲みつつ助け舟を出してくれる。休み時間も残り少ないし、今後の大事な事柄はもっと落ち着いて考えたかったので、僕はあーちゃんの出した助け舟に一も二も無く飛びついた。
「うむむむっ、確かに。……これは昼休みの眠気全開な時に考えて決められる様な問題じゃあないね。あーちゃんの言う通り、一旦家に帰ってから決めようと思うよ」
「じゃろうな。…………さて。では、我はそろそろお暇しようかのう」
お茶を飲み干したあーちゃんは持っていた湯飲みを手に立ち上がる。
結局修行の指針を決めることは出来なかったが、家に帰ってから相当考え込まなければならない事態になりそうだ。なんせ、こういう大事な事を決める時は、決まって家族全員とナギさんとナミさん夫妻&三姉弟がこぞって揃うからである。これが正月ともなればさらに親族親戚が加わり、それほど敷地と建物が大きくない神社の中が人でごった返すのである。もっと言えば、初詣の参拝客もいらっしゃるので……考えただけで厚苦しい事この上ない。
「じゃあ、あーちゃん。また後で」
「おう、坊も勉学に励むのじゃぞ」
長く美しい黒髪を春風に靡かせながら、湯飲みを片手に桜の並木道を校門に向かって颯爽と歩いて行くあーちゃんを見送った。春風に揺られて舞い散った花弁があーちゃんの美しさをさらに引き立て、並木道で通りすがる生徒達の誰もを振り返らせていた。
「……さてと、そろそろ休み時間も終わる頃だし。僕も教室に戻るとしますか」
ぺろりと食べ終えた弁当箱を風呂敷に包み、空になったお茶の缶を左手に持って教室へと歩き出す。からっと晴れた青空の下を、春風と桜をパートナーに昼下がりの眠気と戦いながら歩く。鳥やリスと言った小動物たちが春の陽気に誘われ顔を見せ、桜の木々で宴会をしている様に食事を楽しんでいる。
「ふあぁ~~……。よし! 帰ってからの疲労度合いも考えて、午後からの授業もそこそこに頑張ろう!」
気合を入れつつ帰ってからの疲労を考え、程ほどに頑張ろうと心に刻み込む。普段の僕なら午後まで手を抜く事はしないんだけれど、こればっかりは仕方が無いよね。
うんっと一つ背伸びをしてまた歩き出す。ぽっちゃりとした僕の足も、青空を吹き抜ける春風の様に軽やかに歩を進めるのであった。
そして、そんな校庭に咲く桜の下にどっかりと腰を下ろすぽっちゃりとした少年こと、僕、凪風奏慈は、春の陽気を楽しみながらポーっと昼食兼日向ぼっこをしていた。
「あ~、いい天気だ」
花の芳香を胸いっぱいに吸い込み、青空に浮かぶ真っ白な雲を見て食べ物の妄想をする。ふわふわとした三角形の雲を見れば、頭に浮かぶのは大きな大きな塩おにぎり。思わず涎が溢れそうになり慌てて口元に本物のおにぎりを放り込む。もぐもぐと大きな口で咀嚼すれば、口いっぱいに米の甘味と塩の旨味が素敵なハーモニーを奏でる。
大きな桜の枝には、小鳥やリスなどが姿を見せて僕と一緒に昼食中である。
「むぐっ、君達も食事中か。今日はいい天気だね~」
そんな、楽しくもありのんびりとしたお昼を過ごしていた。
「今日もまたのんびりしたものよな、坊よ」
其処に背後から呆れたような、それでいて古風で凛として楽し気な声が掛かる。
声のした方にぽっちゃりとした顔で口におにぎりを頬張りつつ振り向けば、いつの間にか僕の隣に美しく艶やかな黒髪を春風に靡かせたスーツ姿の女性が立っていた。
「あーちゃん。もぐ……どうしたの、こんな所まで」
見た目は20歳前後で若々しさと艶やかさの両面を見事に併せ持つ、何処か神々しい雰囲気を放つ女性の名はあーちゃん……ではない。勿論僕が呼んでいる愛称なのだけで、本名は別にある。まあ、いわゆる渾名だね。
「ふむ、少し暇が出来たでの。暇潰しと散歩も兼ねて、坊の所に遊びに来た次第よ」
存外に暇だから来たと答えるあーちゃんに苦笑を交えつつも、学校の自販機で購入した熱いお茶を啜る。そんな僕の隣にあーちゃんは腰を下ろし、ご飯のお供として持ってきた茄子と胡瓜の漬物を僕の弁当から摘まんで食べた。
「うん、うん……。やはり、坊が拵えた漬物は美味よな。さっぱりとした味わいの中に、素材の味もちゃんと生きておる……っと、もう一つ」
目を細めて美味しそうに食べるあーちゃん。そんな彼女の姿にほっこりしながら、僕も箸休めに茄子の漬物を一つ口に放り込む。つるっとした皮を奥歯で噛み潰せば、茄子の中から漬け汁の味と茄子の甘味が溢れ出す。
「ありがとう。やっぱりこういう物は自分で作ってみないと、ね……うん、美味い」
「何事も経験が大事じゃからな。……まぁ、その経験に囚われ過ぎると逆にそれしか信じられなくもなるがのう」
二人して他愛も無い話をしながら程よく漬かった漬物をぽりぽりと齧り、春の陽気に包まれた大きな校舎を見上げる。桜の木に囲まれた校舎からは、多くの生徒達や先生達の話し声が聞こえてくる。ある者はふざけ合い、またある者は勉学に励んでいる様子が聞こえる。先生達は午後の授業の準備に忙しく走り回り、のんびりと食事をしている先生はあまり居ないようだった。
「うむ、実に平和じゃのう……。人の一生は短くも美しい。この何気ないひと時も、こうやって見つめてみれば美しいモノよ」
「さすがあーちゃん。なんだか深い言葉だね」
「フフッ……、坊には良く理解はできなんだか。まぁ、それも好しじゃな」
僕が良く言葉の意味を理解できていない事を見抜いたあーちゃんは、玉を転がす様な声で楽しそうに笑う。そんな彼女の姿に面映くなった僕は、とりあえず苦笑してごまかす事にした。
「はは……、一応褒め言葉と受け取っておくよ」
「うむ、今はそれでよい。いずれ坊が成長すれば、自ずとこの言葉の意味も分かるようになるからの」
いつの間にか、何処からか取り出した湯飲みでお茶を啜りながら語るあーちゃん。そんな彼女の言葉に僕は唯肯くしかなかった。
「さて、坊よ。実は、此度此処に来たのは単なる暇潰しだけではない」
「え? 何か用事でもあったの?」
突然居住まいを正し真剣な表情で話し出すあーちゃんに、僕も同じ様に緊張した面持ちで応える。普段から凛としているあーちゃんがこんな雰囲気を醸し出す時は、昔から何か重大な事を話す時だと相場が決まっていた。
そう、今でも憶えているのは長男のスーさんと長女のあーちゃんが喧嘩をした時だった。
僕の家は神社の神主を務めている家系なんだけれど、お隣にはあーちゃんを含めた5人の隣人が住んでいる。
父親はナギさん
母親がナミさん
それに二人の子供である3人が一緒に暮らしている。
長女はあーちゃん
次女がツク姉
最後に長男のスーさんという三人姉弟だ。
ご両親は朗らかで気の良い人達なのだが、何時だがもの凄い夫婦喧嘩をやらかした事があるらしく、一時は完全に絶縁状態までいった事があるらしい。それでも今はご近所で有名なくらいのおしどり夫婦で、土日などの休日にはよく二人で出かけているのが見かけられる。
そして、一番の問題は3人姉弟の長女と長男の仲がすこぶる悪い時が長い間あった事だった。
あーちゃんは普段から凛とした世間で言う理想の女性であり、自分に厳しく他人にも厳しいのを地で行く女傑である。対して、長男のスーさんは幼い頃は相当ヤンチャした時があったらしく、よくあーちゃんから厳しく躾けられたらしい。だが、そんな厳しい躾けに反発する様に素行が悪くなり、ある日ついにあ-ちゃんを本気でキレさせてしまったそうだ。
その日からあーちゃんはスーさんが何をしても何も言わなくなり、家族の食事の場でも無言で通し、スーさんが話しかけても完全に居ない者として扱って無視し続けた。ツク姉は間に入ろうと懸命に奔走していたけど、結局あーちゃんの凍えるような笑みで何も言えなくなり、いつも僕の所に来て落ち込んでいた。その時のツク姉はこれまた厄介で、何を言ってもネガティブに捉えて一向に元気になる気配が無かった。
『…………ねぇ、奏ちゃん。私って、姉弟の喧嘩も止められない駄目な女なのかな?』
『そんな事無いよ、ツク姉っ! ツク姉はいつも頑張っているよ、悪いのは何時までも仲直り出来ないあーちゃんとスーさんだよ!!』
『……でも、私の言う事は二人とも全然聞いてくれないし、何だか私まで疎外感が……』
『ツク姉…………ようしっ!』
正直あの時の落ち込んだツク姉の姿には、当時小学生の僕でもとてつもない加護欲が溢れてきた。
結局、その時のツク姉があまりにも可哀想だったので、ぽっちゃりとした外見に似つかわしい温厚な性格だった小学生の時の僕が珍しく奮起し、収拾のつかない二人を叱り飛ばして何とか治めたのだった。二人とも小学生に説教されるとは思っても見なかったのか、キョトンとした顔で僕の説教を聞いた後突然笑い出して、何事も無かったようにあっさりと仲直りしてたっけ……。
「これ、聞いておるのか坊よ?」
「え? ああ、ごめん。色々と昔の事を思い出してたんだよ。具体的には小学生の頃――――」
「うむ、それ以上は思い出さなくてもよいぞ!」
「――――ああ、うん。分かったよ、あーちゃん」
どうやらあーちゃんの中では思い出したくない類の記憶らしく、この話題を出されると露骨に話を逸らす傾向にある。お茶を飲む手がほんの少し震えるのを尻目に、この話題を引っ込める事にして僕もお茶を啜る。
「それであーちゃん、用事って何なの? 結構な大事でもあったの?」
「ん? ああ、ん、んんっ! 実はな、この度我が家と坊の家で今後の方針を決める会議があったのじゃが、そこで一つの議題が上がっての」
ん? 家とあーちゃん家で会議って、確か年末と年明けに又かけて開催されるあの行事だろうか? でも、今は4月の中旬だし、特に決める事も無かったような気がする。それに、なんだかあーちゃんのほほが薄らと紅潮している様な?
「早い話が、坊の修行を何処で行うのかと言う事だったんじゃが、やれあそこが良い、ほれ其処が良いと中々決まらなくてな。一応修行をするのは坊自身だからの、坊の意見を聞きたくて参上した次第じゃ」
ああ、修行の話か……。今までは、神職に就く為の修行を毎日欠かさずに行ってきたつもりだけども。もしかしたら、さらに厳しい修行を積まねばいけない時期に来てしまったという事だろうか?
「候補は三つまでに絞っておいたのじゃが、どれが良いのかは坊が決めてくれ」
そう言うと、あーちゃんはスーツの上着から一枚の用紙を取り出して僕に手渡した。
「何々……?」
用紙に書かれていた内容はこうだった。
「一つ……雅楽および神楽演奏者として修行」
「これは我の父上と母上が押している修行じゃ」
これは、まぁ普通だ。普段から御神楽で僕が担当している、楽器演奏者としての腕を上げる修行内容だと想像できる。主に横笛と鼓を担当している僕は、ぽっちゃりとした体に内包されている鍛えられた肺活量と脂肪に隠された腕の筋肉を駆使して長時間の御神楽を演奏している。
まぁ、あの御二方は宴会やら祭りが大好きだからな~。きっと、もっとレパートリーえお増やして欲しいなんて考えて押しているんだろう。
「二つ……神職者として、神主になるための修行」
「それは、神主である坊の父殿が押している修行じゃな」
これまた普通の神職者が通る道である。実家が社家(神社)の場合、神道系の大学へ入学後宮司の推薦を得てその神社の属する都道府県の神社庁という所から推薦状をもらい、神道系の大学に提出して認められれば神主になる事ができる。
しかし、これは普段から神主である父さんから見て直接学んでいる事だし、大学への推薦入学の資格もすでに所持している。
何故15歳で資格を持っているかという疑問は、家の神社がかなり特殊な立ち居地にいる事が関係しているんだけど……。
「三つ……世界を越えて人間から一皮剥ける修行?」
おうふ……。最後の最後で理解できない修行が待っていたよ。
「ちなみに我とその他の家族が押しているのは、その三つめじゃな」
「……いやいやいや、三つめは意味が理解できないんだけど」
「ふふふっ! それは此処では言えぬな。選んでみてからのお楽しみじゃ」
ええ~、修行の内容が教えてもらえ無いってどういう事? というか、世界を越えるってどういう事なんだろう? それに、人間から一皮剥ける修行って言うのも意味が分からないよ。
ニコニコと笑みを浮かべるあーちゃんと用紙を交互に見つつ、心地良い風に吹かれながら昼下がりのポワンとした頭で考える。ナギさんとナミさん夫婦の案に乗るか、父さんの無難でかつあまり意味が無い修行にするか。それとも、この三人以外の家族全員が押しているという謎の三つめに挑戦してみるか……。
「――ああ、そう言えば。駄弟が4つめとして“ダイエット”とかふざけた事を抜かしておったが、我が妹と共に軽く伸しておいたからの」
「…………スーさんたら、もう」
相変わらず変な所で残念な部分が出てくる人だな。黙っていれば好青年とした容姿と爽やかな雰囲気なのに、態々人をおちょくる様な事を言ってはあーちゃんとツク姉に制裁されている。非常に惜しい性格をしている人だよ……。
「まぁ、今すぐに決めろとは言わぬゆえ、一度帰ってからゆっくりと話し合いの席を設けるという手も有るぞ?」
うんうんと唸りながら頭を抱えて必死に考える僕の姿を見かねたのか、あーちゃんが横目で僕を見ながらお茶を飲みつつ助け舟を出してくれる。休み時間も残り少ないし、今後の大事な事柄はもっと落ち着いて考えたかったので、僕はあーちゃんの出した助け舟に一も二も無く飛びついた。
「うむむむっ、確かに。……これは昼休みの眠気全開な時に考えて決められる様な問題じゃあないね。あーちゃんの言う通り、一旦家に帰ってから決めようと思うよ」
「じゃろうな。…………さて。では、我はそろそろお暇しようかのう」
お茶を飲み干したあーちゃんは持っていた湯飲みを手に立ち上がる。
結局修行の指針を決めることは出来なかったが、家に帰ってから相当考え込まなければならない事態になりそうだ。なんせ、こういう大事な事を決める時は、決まって家族全員とナギさんとナミさん夫妻&三姉弟がこぞって揃うからである。これが正月ともなればさらに親族親戚が加わり、それほど敷地と建物が大きくない神社の中が人でごった返すのである。もっと言えば、初詣の参拝客もいらっしゃるので……考えただけで厚苦しい事この上ない。
「じゃあ、あーちゃん。また後で」
「おう、坊も勉学に励むのじゃぞ」
長く美しい黒髪を春風に靡かせながら、湯飲みを片手に桜の並木道を校門に向かって颯爽と歩いて行くあーちゃんを見送った。春風に揺られて舞い散った花弁があーちゃんの美しさをさらに引き立て、並木道で通りすがる生徒達の誰もを振り返らせていた。
「……さてと、そろそろ休み時間も終わる頃だし。僕も教室に戻るとしますか」
ぺろりと食べ終えた弁当箱を風呂敷に包み、空になったお茶の缶を左手に持って教室へと歩き出す。からっと晴れた青空の下を、春風と桜をパートナーに昼下がりの眠気と戦いながら歩く。鳥やリスと言った小動物たちが春の陽気に誘われ顔を見せ、桜の木々で宴会をしている様に食事を楽しんでいる。
「ふあぁ~~……。よし! 帰ってからの疲労度合いも考えて、午後からの授業もそこそこに頑張ろう!」
気合を入れつつ帰ってからの疲労を考え、程ほどに頑張ろうと心に刻み込む。普段の僕なら午後まで手を抜く事はしないんだけれど、こればっかりは仕方が無いよね。
うんっと一つ背伸びをしてまた歩き出す。ぽっちゃりとした僕の足も、青空を吹き抜ける春風の様に軽やかに歩を進めるのであった。
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