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罪の濃さ
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「おはようございます」
「おはよう……え──」
千紘の反応に気づかないふりをして桃香は自分のデスクに座る。その目は真っ赤で瞼も腫れ上がっている。桃香はそのまま引き出しを開けると買い置きしていた眼帯をつけた。
「桃香ちゃん、その目──」
「昨日超感動する映画を見たらこんな事になっちゃいました、あはは」
「あぁ、そうなの──待ってね」
千紘は引き出しを全部引っ張り出す。何かを探しているようだ。
「あれ? 違うな……これか? あ、これだ──桃香ちゃん、これあげる」
千紘はお試し用の眼精疲労用のホットアイマスクを取り出した。雑誌の特集の時に企業から頂いた物だ。桃香の手のひらに置くと商品の説明をする。袋には試供品と大きく書かれている。
「これ、多分使えるからやってみて? その後に氷で冷すと──って聞いてる?」
手のひらに置かれた試供品をじっと見つめたまま桃香が固まる……千紘の言葉が耳に入らないようだ。
桃香は椅子から立ちあがると千紘に抱きついた。そのまま千紘の腕を掴む。
「何なの? ちょっと離し──」
桃香の背中が震えているのが分かった。千紘はそのまま背中に手を回し撫でてやる。
「先輩、ごめんなさい。ごめんなさい、もう、それ以外の言葉が出なくて──ごめんなさい……先輩、私別れ、たんです」
ごめんなさいと小さな声で呟き続けている。繰り返す桃香に千紘は胸が痛くなる。あのカフェ以来二人は琢磨の話題に触れることはなかった。千紘も今まで通り接するようにしていた……。桃香の涙の理由を知り千紘は桃香を部屋から連れ出した。
「こっちに来て……」
千紘は会議室に入ると鍵を閉めた。桃香を抱きしめてふわふわの髪に顔を埋める。琢磨と別れたからじゃない、こんな風に泣く桃香を放っておけなかった。桃香が入社してから一から育てて失敗しながら成長する姿を見届けてきた。千紘にとって桃香は特別な存在に間違いなかった。
「……ほら、泣き止んで、大丈夫? 目を擦らないで──」
「先輩、殴ってください……お願いですから。怒りの気持ちをぶつけてもらわないと……最低だって、別れて当然だって……そう言ってください」
「そんな事言わないの。言えるわけないでしょ」
千紘は桃香の肩に触れた。
桃香はより一層辛そうだった。判決を待つ間のような人間の顔をしている。
琢磨と別れた──確かに桃香ちゃんはそう言った。桃香ちゃんは別れてもなお私の許しと戒めを求めている。カフェで話した時よりも一層辛そうだ。
罪悪感、だろう。罪悪感がどんどん濾されていったのだろう。濃縮されていき次第に心の濾紙にへばり付き取れなくなった。
心が呼吸できなくなったのだろう。今も小さな声で「ごめんなさい」と謝り続けている。
仕方がない──千紘は大きく息を吸うと桃香に声を掛けた。
「……私の好きな人を、よくもって言って欲しい? 奪われて泣いたって言えば桃香ちゃん、楽になる?」
「……っ、先輩──すみ、ません」
千紘のゆったりとした声が聞こえてきて桃香が自分の胸に拳を当てて顔を歪ませる。優しい言葉をかけてもらっても、責めるような言葉を言われてもどちらも辛かった。
「……ごめんね、桃香ちゃんは納得できないだろうけど……感情で言葉をぶつけ合ったり、殴ったりする必要なんてない──桃香ちゃん……?」
「は、い」
「自分への戒めを、他人に任せちゃダメよ」
千紘の言葉が桃香の胸に落ちてきた。その言葉に自分の甘えを感じた。
「ふぅ……っ……」
桃香は嗚咽を抑え切れないほど泣き出した。千紘は桃香のために責める言葉を敢えて言った。桃香に理解させるためにそうすべきだと思った──もう終わらせたかった。
「殴る方も殴られる方も、言う方も言われる方も傷付くだけだから……ね?」
桃香は立っていられずそばにあった椅子に腰掛けた。千紘はぎゅっと桃香を抱きしめた。桃香からは赤ん坊のような香りがした。
「私、自分の気持ちにまっすぐな桃香ちゃんが羨ましかったの。私は、いつだって逃げ腰だから──桃香ちゃん、私、もう謝って欲しくない」
「私、先輩が本当に大好きだった、のに、大好きな人なのに……どう、して──こんな……先輩、私、琢磨くんと……」
しゃくり上げる桃香の背中をあやすように叩いてやる。泣きすぎて上手く話せないようだ。
「言わなくていいよ、もういい」
二人が会議室から出てくると同僚の揶揄う声が聞こえて来た。
「やるなぁ……水原……」
「また糸口の愛の告白を断ったのかー?」
「ちょっとちょっと、だからなんでいつも私が振る方なんですか?」
千紘は笑いながら揶揄う同僚の背中を叩く。桃香は涙を拭くとデスクに座り千紘からもらったアイマスクを付けた。とても温かかった。
昼休みに琢磨から千紘の携帯電話にメールが届いた。開封するのが緊張する……何が書かれているんだろうか。二日前のキスのことだろうか。
──あの日はごめん。ごめん、落ち着いたら会いにいくから、話をきいてほしい
琢磨らしくない絵文字のないメールだった。千紘はデスクの上のカレンダーを見る。この時期だと琢磨の業界は大忙しのはずだ。そんな事を覚えている自分に笑ってしまう。
毎年この時期になると琢磨は体調を崩す。二日前の琢磨が痩せて見えたのもそのせいかも知れない。
徹夜だな……無理しなきゃいいけど……。
話を聞くのが怖かった──期待してしまっている自分が嫌だった。桃香ちゃんの涙を見て抱きしめたのに琢磨のメールの画面を見て胸が熱くなった自分は冷たい人間なのかもしれない。
恋愛は、色恋沙汰は理想論じゃないのは分かるけど、分かるけど──はぁ、人間の三大欲は性欲というより愛欲かも。
千紘は携帯電話をポケットに入れた。
キーボードの横に置いてあったコーヒーを飲んだ。それはすっかりぬるくなっていた。
「おはよう……え──」
千紘の反応に気づかないふりをして桃香は自分のデスクに座る。その目は真っ赤で瞼も腫れ上がっている。桃香はそのまま引き出しを開けると買い置きしていた眼帯をつけた。
「桃香ちゃん、その目──」
「昨日超感動する映画を見たらこんな事になっちゃいました、あはは」
「あぁ、そうなの──待ってね」
千紘は引き出しを全部引っ張り出す。何かを探しているようだ。
「あれ? 違うな……これか? あ、これだ──桃香ちゃん、これあげる」
千紘はお試し用の眼精疲労用のホットアイマスクを取り出した。雑誌の特集の時に企業から頂いた物だ。桃香の手のひらに置くと商品の説明をする。袋には試供品と大きく書かれている。
「これ、多分使えるからやってみて? その後に氷で冷すと──って聞いてる?」
手のひらに置かれた試供品をじっと見つめたまま桃香が固まる……千紘の言葉が耳に入らないようだ。
桃香は椅子から立ちあがると千紘に抱きついた。そのまま千紘の腕を掴む。
「何なの? ちょっと離し──」
桃香の背中が震えているのが分かった。千紘はそのまま背中に手を回し撫でてやる。
「先輩、ごめんなさい。ごめんなさい、もう、それ以外の言葉が出なくて──ごめんなさい……先輩、私別れ、たんです」
ごめんなさいと小さな声で呟き続けている。繰り返す桃香に千紘は胸が痛くなる。あのカフェ以来二人は琢磨の話題に触れることはなかった。千紘も今まで通り接するようにしていた……。桃香の涙の理由を知り千紘は桃香を部屋から連れ出した。
「こっちに来て……」
千紘は会議室に入ると鍵を閉めた。桃香を抱きしめてふわふわの髪に顔を埋める。琢磨と別れたからじゃない、こんな風に泣く桃香を放っておけなかった。桃香が入社してから一から育てて失敗しながら成長する姿を見届けてきた。千紘にとって桃香は特別な存在に間違いなかった。
「……ほら、泣き止んで、大丈夫? 目を擦らないで──」
「先輩、殴ってください……お願いですから。怒りの気持ちをぶつけてもらわないと……最低だって、別れて当然だって……そう言ってください」
「そんな事言わないの。言えるわけないでしょ」
千紘は桃香の肩に触れた。
桃香はより一層辛そうだった。判決を待つ間のような人間の顔をしている。
琢磨と別れた──確かに桃香ちゃんはそう言った。桃香ちゃんは別れてもなお私の許しと戒めを求めている。カフェで話した時よりも一層辛そうだ。
罪悪感、だろう。罪悪感がどんどん濾されていったのだろう。濃縮されていき次第に心の濾紙にへばり付き取れなくなった。
心が呼吸できなくなったのだろう。今も小さな声で「ごめんなさい」と謝り続けている。
仕方がない──千紘は大きく息を吸うと桃香に声を掛けた。
「……私の好きな人を、よくもって言って欲しい? 奪われて泣いたって言えば桃香ちゃん、楽になる?」
「……っ、先輩──すみ、ません」
千紘のゆったりとした声が聞こえてきて桃香が自分の胸に拳を当てて顔を歪ませる。優しい言葉をかけてもらっても、責めるような言葉を言われてもどちらも辛かった。
「……ごめんね、桃香ちゃんは納得できないだろうけど……感情で言葉をぶつけ合ったり、殴ったりする必要なんてない──桃香ちゃん……?」
「は、い」
「自分への戒めを、他人に任せちゃダメよ」
千紘の言葉が桃香の胸に落ちてきた。その言葉に自分の甘えを感じた。
「ふぅ……っ……」
桃香は嗚咽を抑え切れないほど泣き出した。千紘は桃香のために責める言葉を敢えて言った。桃香に理解させるためにそうすべきだと思った──もう終わらせたかった。
「殴る方も殴られる方も、言う方も言われる方も傷付くだけだから……ね?」
桃香は立っていられずそばにあった椅子に腰掛けた。千紘はぎゅっと桃香を抱きしめた。桃香からは赤ん坊のような香りがした。
「私、自分の気持ちにまっすぐな桃香ちゃんが羨ましかったの。私は、いつだって逃げ腰だから──桃香ちゃん、私、もう謝って欲しくない」
「私、先輩が本当に大好きだった、のに、大好きな人なのに……どう、して──こんな……先輩、私、琢磨くんと……」
しゃくり上げる桃香の背中をあやすように叩いてやる。泣きすぎて上手く話せないようだ。
「言わなくていいよ、もういい」
二人が会議室から出てくると同僚の揶揄う声が聞こえて来た。
「やるなぁ……水原……」
「また糸口の愛の告白を断ったのかー?」
「ちょっとちょっと、だからなんでいつも私が振る方なんですか?」
千紘は笑いながら揶揄う同僚の背中を叩く。桃香は涙を拭くとデスクに座り千紘からもらったアイマスクを付けた。とても温かかった。
昼休みに琢磨から千紘の携帯電話にメールが届いた。開封するのが緊張する……何が書かれているんだろうか。二日前のキスのことだろうか。
──あの日はごめん。ごめん、落ち着いたら会いにいくから、話をきいてほしい
琢磨らしくない絵文字のないメールだった。千紘はデスクの上のカレンダーを見る。この時期だと琢磨の業界は大忙しのはずだ。そんな事を覚えている自分に笑ってしまう。
毎年この時期になると琢磨は体調を崩す。二日前の琢磨が痩せて見えたのもそのせいかも知れない。
徹夜だな……無理しなきゃいいけど……。
話を聞くのが怖かった──期待してしまっている自分が嫌だった。桃香ちゃんの涙を見て抱きしめたのに琢磨のメールの画面を見て胸が熱くなった自分は冷たい人間なのかもしれない。
恋愛は、色恋沙汰は理想論じゃないのは分かるけど、分かるけど──はぁ、人間の三大欲は性欲というより愛欲かも。
千紘は携帯電話をポケットに入れた。
キーボードの横に置いてあったコーヒーを飲んだ。それはすっかりぬるくなっていた。
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