100のキスをあなたに

菅井群青

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62.ホース

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 夕方になり、不機嫌な母から逃げるように玄関に出ると気怠い体を動かしホースを本体ケースから引っ張り出す。機嫌が悪い母の側にいれば大変だ。どんなとばっちりが来るか分からない。

 大学生の夏は長い。リビングのソファーに朝から晩まで居座る俺にとうとう母の雷が落ちてしまった。

「さぁて、水やり水やり」

 ちょうど蒸し暑い日だ。水に触れたかったので涼めて一石二鳥だ。俺はホースの先を絞って庭の植物たちに恵みの水を与える。

 こんな暑い中、よく耐えられるな……。

 植物の偉大さに感服していると近所に住む親友の姉の亮子が通りかかる。
 白のシャツにふわふわのスカートを着ている。手にはスーパーの袋が見えた。買い物帰りなのだろう。

「亮子さん」

「あら、篤くん……偉いわね、お手伝い?」

「いや、俺もう小学生じゃないんですから……」

 小学生の頃から親友の正志の家に入り浸っていたせいか、俺のことを亮子さんは今でも子供扱いする。

 亮子さんは俺の初恋だ……大学生になった今も淡い気持ちはある。

 ただ、俺は童貞じゃない。それなりに経験は積んでいるし恋もした。ただ、いつもどこかで彼女と亮子さんを比べてしまう。

 亮子さんならこうするか?

 亮子さんの手料理はどうなんだろう。

亮子さんなら──。

 もちろんそんな俺の単純な脳を察知した彼女たちは俺に別れを告げる。仕方がない、初恋の存在が今もこうして目の前に現れるのだから。忘れろって言う方が無理だ。

「もう帰りですか?」

「ええ、帰ってご飯の準備よ。今日は私が作る日なのよ……簡単なそうめんがいいわよね」

「そうなんですねー」

 俺は閃いた。昔よくやった遊びだ。大学生の俺を小学生扱いした仕返しだ。

「亮子さん、この花見えます?」

 亮子が敷地内に入り、プランターに植えられた花を覗く。

「これって──」

「ほれ!」

 俺は勢いよくホースの水を亮子さんの背中にぶちまけた。

「きゃー! 冷たい!……やだ、何すんの!? バカー!」

 亮子さんは驚き袋を芝生の上に落とす。びしゃびしゃに濡れた服に目をやると一気に吹っ切れたようで俺の手からホースを奪い取り俺のTシャツの襟元からホースを突っ込む。

「うわ! 冷た! わはは! やったな!」

 篤はホースを奪い取ると亮子の胸元へと水をかける。庭で大騒ぎしていると何事かと母がリビングから覗く。二人が無邪気に遊んでいるのを見ると微笑みどこかへと去って行く。

 気が付くと二人とも全身ずぶ濡れだ。篤は涼子を見ると胸元の下着が見えていることに気づき思わず見てしまう。

 俺の視線の先が胸元にあることに気づいた涼子さんは真っ赤になり腕で隠す。

「っ……こんなおばさんの下着見てどうすんのよ……全く……」

 亮子は恥ずかしさを隠すために早口で呟くと篤は真顔で亮子の肩に触れる。

「おばさんじゃないよ、亮子さんは……昔と変わらないよ、キレイだってば」

 意外な篤の言葉に、より頰が赤く染まる。水に濡れた亮子の髪に触れると篤は赤い唇に口付けたくなる。亮子は篤の視線が唇にあるのに気付いた。
 二人の距離がどんどん近くなっていく……。


 あと数センチ、あと一センチ。

「篤、亮子ちゃん、スイカ……」

 突然玄関が開いた。
 俺たちの様子に母がしまったという顔をした。

「あ、ごめん、あーどうぞ続けて?」

「母さん!」

 真っ赤な顔をした俺の声から逃げるように母が玄関のドアを閉める。
 篤はため息をつく。もう少しだったのに台無しだ……。

「亮子さん、ごめん、うちの母が──」

 振り返ると亮子さんが俺の唇に触れた。

 キスだ……想像し続けた亮子さんとのキスだ。水に濡れて冷えた唇が心地よい。

「あんなこと言ったら、期待しちゃうでしょ……」

 亮子さんの声は掠れて震えていた──。

「期待して、いいよ」

 俺は笑いながら亮子さんに思いを込めてキスをした。
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