忘れられたら苦労しない

菅井群青

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34.日々を

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 洗面所で髭を剃る慧一を、峰子がじっと見ている。
 とても珍しそうに。


「髭って本当に、植物みたいに伸びるんですね」


 素朴な感想を漏らし、うふっと笑う。

 慧一は顔を洗うと、さっぱりした顎を撫でた。そして、いつか峰子が彼に言った「髭が伸びない気がする」との言葉を思い出す。


「毎日毎日伸びるんだ。オ・ト・コだからな」


 窓を開け放つと、高原の風が流れてくる。

 樹木が生合成する、生き物を目覚めさせる空気が二人を包んだ。

 朝の気温は低めで肌がひんやりとするが、天気は上々。今日は一日、よく晴れそうである。


「海もいいけど、山の中ってのも気持ちが安らぐよなあ」

「この辺りは、気候がイギリスに似てるんですよね」

「ああ、客室係の兄ちゃんが言ってたっけ。向こうもこんな感じなのかな」


 慧一は手すりにもたれ、イギリスの風景を想像した。 現地について、彼も詳しくは知らない。


「工場の周りは森に囲まれた田舎だってのは、聞いたことがある。野うさぎが跳ねてるとか」

「野うさぎ?」


 峰子が慧一に寄り添い、嬉しそうに微笑む。


「まあ、田舎は田舎だけど、住めば都でさ、面白いぜきっと」


 住めば都――

 峰子は慧一の言葉を胸で繰り返す。

 どうということもない口調に、未知の土地に対する不安など、すっかり消されてしまう。本当に『面白い』予感がしてくるのだ。


「それより腹が減ったな。朝飯に行こうぜ」

「ええ」


 慧一の広い背中を見上げ、峰子はドキドキした。

 やはりこの人は男性なのだと、強烈に感じる。女性のように優しい顔立ちの下には、こんなにも逞しい男性が存在したのだ。

 峰子は今さらながら、激しくときめくのだった。




 チェックアウトを済ませたあと、二人はロビーの喫茶コーナーに寄った。コーヒーを飲みながら、今日の予定を打ち合わせる。


「さて、どこに行こうかな」

「そうですね……」


 観光案内のパンフレットを広げたところで、峰子のスマートフォンが鳴った。 発信者を確かめた峰子は、ぱっと明るい表情になり、すぐに応答する。


「もしもし、智樹ともき君?」



 慧一はパンフレットを膝に置き、峰子をそれとなく窺う。

 智樹――聞いたことのない名前だ。


「……そうそう、旅行中なの。何だ、それで電話したの? うふふ……」


 ずいぶんと優しい口調だ。
 それに、どこか浮き立っているようにも見える。


「うん、分かった。今夜帰るから、一緒に食べようね、じゃあね」


 峰子は通話を切り、スマートフォンをバッグに仕舞った。


「智樹君って?」


 慧一は真面目くさった顔で、電話の相手を確かめた。峰子はにこりと笑い、


「ああ、今のは弟です」

「弟?」

「あの子ってば、パンを焼いたから味見してくれって、わざわざ電話してきたんですよ」


 弟と聞いたとたん、慧一は表情をなごませる。


「弟さんは、智樹君っていうのか。そういえば一度も会ったことがないな」

「そうですね。いつもすれ違ってしまって」

「パンっていうのは手作りの?」

「はい。受験勉強の息抜きに小麦粉をこねたりすると、スッキリするそうです。男の子なのに、お菓子作りが好きなんですよ。私がいつも味見役なんです」


 姉弟仲が良いようで、嬉しそうに話す。峰子は優しいお姉さんなんだろう。

 慧一はクスッと笑った。


「何ですか?」

「いや、峰子みたいなお姉さんなら、俺もほしかったなあと思って」


 峰子はきょとんとする。

 自分よりずっと年上の男に言われても、ピンとこないのだろう。


(峰子は俺にとって、可愛い女の子だ。ゆうべはめちゃくちゃ甘えてきたし、わがままも言われた。だけど、家では弟に頼られる存在なんだ)


 三原峰子という女性は、いろんな顔を持っている。例えば、他の男にはどんな風に接してきたのか、慧一はあらためて気になった。

 さっき峰子が電話に出て、自分以外の男の名前を口にした時、慧一は妬いた。脊髄反射で嫉妬するとは、自分でも驚いてしまう。


(俺って、実は嫉妬深いのかな)


「どうしたんですか」


 覗き込むようにする峰子から目を逸らすと、慧一は立ち上がった。


「別に。そろそろ行こうぜ」


 何となく気まずくて、素っ気ない返事になった。




 外は陽射しが強く、気温が高くなっている。

 慧一はジャケットを脱いでポロシャツ一枚になった。


「うん、これでじゅうぶんだ」


 隣を歩く峰子を、何気なく眺めた。

 今日は髪をひっつめにして、綺麗なピンで飾っている。小花柄のワンピースが女の子らしくて可愛い。

 昨日とイメージが違うが、口紅だけは淡い薔薇色だった。


「口紅、いつもの色だな」


 思わず訊くと、峰子ははにかんだ。


「ええ……実は最近、別の色に変えてみたんですけど、あまり似合わない気がして。気付いてたんですか?」

「そりゃ、気付くよ。全然違うだろ」


 意外そうな反応に、慧一はかえって戸惑う。


「そ、そうですよね。あの色は、ちょっと派手だったし……」

「君には薔薇色が似合うよ」


 峰子ははっとした表情になる。


「ほんとですか?」

「うん。でも、会社では……」

「え?」


 もっと淡い色でいい。
 服も化粧も地味な峰子でいろ――と言いたかったが、やめた。

 こんなのは、けちな男の独占欲だ。慧一は、自分の余裕のなさが情けなく、恥ずかしいと思った。




 慧一は車に乗り込むと、カーナビを操作した。とりあえず山を下ることにする。


「お嬢さん、行き先のご希望は?」


 エアコンの風を調節しながら、リクエストを訊く。


「……そうですね。あの、これをやってみたいです」


 峰子がパンフレットを指差す。見ると、渓流釣りの案内が載っていた。


「釣り?」

「はい。一度もやったことがなくて、面白いかなあと思って」

「なるほど」


 彼女のリクエストに応え、釣り場に向かうことにする。ホテルからさほど離れていない場所にあるようだ。


 そういえば、釣りが趣味という女性は少ない。
 慧一は男女の遊びの違いを考えた。

 滝口家の場合も、父親が釣り好きで、息子二人を連れてよく出かけたものだ。 母親はまったく興味がなく、「魚が食いつくのをぼけーっと待って、何が楽しいの」と、首を傾げていた。
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