忘れられたら苦労しない

菅井群青

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33.恋情と友情

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 火曜日の朝。

 慧一は早めに家を出て、会社の駐車場で峰子を待つことにした。

 電話やメールより、直接会って話がしたい。

 会社は明日から夏季休業に入る。彼女をデートに誘って、その時に話してもいいのだが、一日でも早く伝えたかった。

 峰子は普段、慧一より十五分ほど早く出勤している。今朝も、いつもと同じ時間に彼女は現れた。

 慧一は駐車場前の坂道に立ち、歩いてくる彼女をじっと見つめた。

 お下げに眼鏡。白いブラウスと紺のタイトスカート。真面目な会社員として、隙のない通勤スタイルだ。

 峰子はまだ慧一に気付かない。

 トートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめ、俯きかげんで歩く彼女は、どこか緊張しているように見える。


 かなり近付いてきたところで、峰子が顔を上げた。坂道で待つ慧一を見つけると、たちまち笑顔になる。


「慧一さん、おはようございます!」


 元気よく挨拶し、駆け寄ってくる。さっきとは打って変わって、明るい印象だ。


「そんなに慌てるなよ。転ぶぞ」


 思わず微笑み、慧一も彼女のほうへと歩き出した。


「体調はよさそうだな」

「はい。あの、絶好調です」


 峰子はガッツポーズを作った。ユーモラスな仕草に慧一は目を細め、彼女の顔をあらためて見つめる。

 今日も唇が紅い。
 よく見ると、メイクもいつもより丁寧にほどこされていた。

 慧一は反射的に若い営業マンを思い出すが、すぐに打ち消す。


 二人は並んで歩き出した。


「今朝は早いんですね」

「ああ。君に言っておきたいことがあって、待ってたんだ」

「私に?」


 峰子が不思議そうな顔で、慧一を見上げる。


「あのな、峰子」

「はい」

「俺、転勤するかもしれん」

「え……」


 峰子のパンプスが止まった。


「遠くですか」

「うん」


 少し時間が早いと、出勤してくる社員もまばらである。今、ここは二人きりの坂道だった。

 静かな空気を震わせ、峰子が訊ねる。


「国内、ですよね」

「……いや」


 慧一はイギリス工場の所在地を教えた。

 峰子は声を上げそうになったのか、口元を抑える。


「まだ本決まりじゃないけど、多分、行くことになると思う。状況が変わらない限り」


 駐車場から会社の正門まで、徒歩五分。

 こんな短い距離で伝えるのは、無理があったかな。

 慧一は少し後悔するが、こうなっては仕方ない。かえって自分に発破をかけることが出来て幸いだ。と、ポジティブに考える。

 立ちすくむ峰子に一歩近付き、昨夜からずっと考えていた言葉を口にした。


「一緒に来ないか」

「……」


 彼女は驚きのあまり、ものも言えずに固まっている。瞬きもせず、彼女の周りだけ時が止まったかのよう。

 予想を上回る反応だった。


「よく考えて、返事をしてくれ。待ってるから」


 慧一は峰子の肩に手を置いてから、先に歩き出した。

 正門に着くまでの途中、何度か振り向こうと思った。

 だが出来なかった。

 峰子がどんな表情かおでいるのか、確認するのが怖い。昨夜はあれほど意気込んで、この申し込みを計画したのに、いざとなると自信がなくなる。

 あんな反応をされると、自分の思いどおりに事を運ぶなど、とても無理な話ではないかと、怯んでしまう。

 しかし、慧一は考える。

 あんな峰子だから俺は好きになったのだ。惚れてしまったのだ。

 もうあとは彼女の判断に任せるしかない。どんな答えでも受け入れよう。


 慧一は心を決めると、真っ直ぐに前を向いて門を潜った。



◇ ◇ ◇



 峰子はいつのまにか更衣室にいた。

 自分のロッカーの前でぼんやり考えている。


(私は、両親……特に母親に対して、一度だけ自分の意思を通した。高校卒業後は就職するという進路選択。学校という枠が苦しくて、中学の頃から、早く外に出て働こうと思っていたから)


 念願かなって勤めることが出来たこの会社は、峰子にとって大切な居場所である。そして、就職して最も幸運に思ったのは、滝口慧一と出会えたことだ。

 親の言うなりに進学していたら、彼との接点は失われ、一生彼を知らずに過ごしただろう。そんな恐ろしくて悲しい人生、想像したくもない。


 ぼんやりと制服に着替え、更衣室を出た。

 組合事務所のカウンター内にある自分の席に、無意識に座った。いつもの流れ、いつもどおりの動作。



(何も考えなくても、この場所に、当然のようにたどり着くことが出来る。これが私の安定した日常。さっきまでずっと幸せで、いつまでもこの生活が続くと思っていたのに……)


 大切な居場所と、大好きな人。

 その二つが離れ離れになるなんて、峰子の考えにまるでなかった。


 峰子はデスクに置かれた広報誌を、何となく開いた。ある社員がハネムーンに出かけたという記事に目が留まる。

 若い男女が幸せそうに寄り添っている。

 背景は外国の風景。

 遠い、海の向こうの国……

 峰子は海外旅行をしたことが無い。でも、いつか行ってみたいと思う。世界中の博物館や図書館を巡りたいという夢がある。


 ――そんな一人旅が夢です。


 朝礼でのスピーチを思い出す。あの時は、本当にそう思っていた。

 一人旅が気楽で、望ましいと。

 でも、今は……


 峰子は広報誌を閉じると、デスクに突っ伏した。

 そろそろ朝の掃除を始めなければ。でも、体が動かない。

 頭の中は、あの人のことでいっぱいだ。このところずっとそう。何をしていても、あの人のことが頭に浮かぶ。胸を締め付ける。

 ついさっきも、坂道で私を待つ彼を見つけた時の、嬉しさ、幸せな気持ち。

 あの人に伝わっただろうか。


 一緒に来ないか――


 耳に心地よい温かな声。

 峰子は顔を上げる。泣きそうだった。

 どうして「はい」と言えないのだろう。

 自分の意気地のなさに、彼女は再びくじけて顔を伏せてしまった。
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