忘れられたら苦労しない

菅井群青

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31.分かち合い

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 金曜日の晩ということもあり、常連となりつつあるイカの店は大盛況だ。

 目の前にあるイカの刺身が一切れ残っている。ほぼ同時にそのイカに忍び寄る二組の箸があった……。

「……涼香ちゃん、さっき刺身二切れ一気に取ったろ。知らないとでも思ったか?」

「ふざけないで、合計数は一緒でしょ……大輝くんもさっきゲソの天ぷら私がトイレに行っている間に食べてたでしょ」

 涼香はそのまま大輝の腕を取り満面の笑みを浮かべる。その掴んだ腕をギリギリと締め上げているようだ。互いに目を合わせて微笑み合っているが二人の間には火花が散っている。たかが、イカの分配ごときで情けない話だが、本人たちは至って本気だ。イカへの愛は計り知れない。
 最終的にじゃんけんをして涼香が勝利し、戦利品が胃袋に収まる様を大輝は苦々しく見つめていた。

 二人は言いたいことを気兼ねなく言える、そんな仲になっていた。

 涼香の口から元彼の名が出ることがなくなった。きっと何か拍子で思い出しているのかもしれないが、その表情は穏やかだ。 

 そして、大輝も希のことは涼香に話さなくなった。たまに会話の流れでさらっと希の名が出るときがあるが、辛くなったり、変に空気が重くなることもない。
 
 涼香は大輝の話の中で希の武勇伝をいくつも知り、すっかりファンになった。

 イカの店を出て帰ろうとすると、外は大雨だった。大粒の雨がアスファルトにあたり地面が白く見える。バケツの水をひっくり返したような雨とはこの事だ。軒下で困ったように笑う涼香に店の大将が声を掛ける。

「これ使いなよ、また今度持ってきてくれたらいいからさ」

 大将は黒色の傘を一本差し出した。
 すっかり常連になった俺たちは大将と一言二言会話する間柄になっていた。五十歳ぐらいの大将は昔ヤンチャをしていたらしく坊主頭に耳にピアスの痕がいくつもある。見た目はいかついが人情味のある兄貴分だ。

「悪いね、大将」

 俺はそれを受け取ると早速傘を広げた。

「涼香ちゃん、行くよ。ってか濡れるだろう。こっちにもっと寄れってば」

「分かってるってば……大将また来ます、ありがとう」

 少し恥ずかしそうに涼香が傘に入ると二人はゆっくりと歩き出した。大将はその背中をしばらく見ていたがニヤリとほくそ笑むと厨房へと戻った。


 傘へ打ちつける雨の音がうるさい。頭の上でバタバタと音がする。
 遅い時間なのもあるがみんな予想していない雨だったのか傘を持っている人は少ない。
駅までの道を歩く人通りもいつもより格段に少なかった。

 涼香は大輝の方を見ると肩が濡れている。

「大輝くん……濡れてるよ? もうちょっとこっちに──」

 涼香が大輝の腕を引く。

「いやいや、いいって……カバンもあるしこれが限界だって!」

「あ、そうだ、こうだ」

 涼香は大輝の逆側に回り込み大輝の脇の下に潜り込んだ。まるで大輝が涼香の肩を抱きしめる形になる。二人の体が最大限に密着した。

 確かに、これが一番濡れないだろう、そうだけど……恥ずかしい。

 大輝が目の前にある涼香の顔を見て顔が赤くなる。突然すぎる至近距離にいつもの調子で声が出ない。

「ほら、ね?」

「あ──、そうだな」

 涼香も自分からした事だが、今更ながら恥ずかしくなった。大輝の戸惑った顔を見てつられるように顔が赤くなる。伝染してしまったようだ。

「あ……あ、ちょっと、近い、かな? うん……」

 そんな涼香に大輝は笑った。

「涼香ちゃん……」

「何よ、このまま駅に行くからね……」

「俺、涼香ちゃんが、好きだ」

 一瞬雨音で耳がおかしくなったのかと思った。見上げる大輝の顔を見る。その瞳は真剣で、不安そうだ。

 いま、何て言った? 誰が、好き?

 涼香が反応できないでいるともう一度大輝が口を開く。

「……好きだ」

 今度こそはっきりと聞こえた。

 ドン ドン ドン ドン……

 これは雨音なのか?いや、違う、胸の鼓動だ。猛烈なスピードで脈が打ち始めた。
血液の存在を今ほど感じたことはない。

「私のこと、が──好き? それは、心の友として?」

「いや、一人の女性としてだ。希のことを知っている涼香ちゃんに突然告白しても信じてもらえないかもしれないけど……今、俺、涼香ちゃんを……想ってる……」

 大輝の瞳は涼香を捉えたまま動かない。
 道の真ん中で二人は立ち尽くしていた。雨に包まれた二人しかこの街に存在していないようだ。たった……二人だけ──。

「返事は、待つから。元彼のことだってあるだろうし、希のことも気になるようなら分かってもらえるまで待つから、俺はもう──心は決まってる」

 大輝は涼香の肩に回していた手をそっと動かして涼香の髪に触れた。触れられた感覚に涼香が目を閉じて酔いたくなる。

 いつのまにか雨は止んでいた。それでも私たちは傘の下にいた。離れないようにくっついたままで話していた。大輝くんはもしかしたら雨が止んだことすら気づいてなかったのかもしれない。

「いつから──そんな風に思ってくれてたの? 全然そんな素振り……」

「分からない……希がずっと俺の中にいたのにいつのまにか……気になって、どうしようもなくもどかしくて……好きになった」

「大輝くん……ごめん、もしかして友情と恋情が分からなくなってない?」

 涼香が疑問に思ったことを尋ねてみる。大輝の言葉は嬉しいが、大輝と涼香は友人以上の何かで結ばられていると涼香は思っていた。

 もし、間違っていれば……それはお互いに傷つけるかもしれない。大輝は少し気まずそうな顔をした。

「それは……その……ごめん、キスしたときに気持ちに気付いたんだ、友人としてじゃなくて、異性として……」

「は? キ、キス……えぇ!?」

 涼香の瞳が大きく開かれる。それを見て大輝の眉が下がる。本当に申し訳なさそうだ。一瞬目が泳いだ。

「俺んとこ、泊まった時……。いや、キスだけだ、本当に、それ以上何もしてない」

 涼香の顔は真っ赤で口も開きっぱなしだ。それはそうだろう、あれから随分経つ。まさかキスされていたとは……。

「その……ごめん」

「いや、まぁ、いいけど……ずるいな……って」

 涼香の意外な言葉に大輝は首を傾げる。

「……大輝くんだけ、キスの記憶があるのは、ずるい──」

「涼香ちゃん……」

 二人の視線が絡まるとゆっくりと大輝が屈む。二人の顔が近づき、唇が重なる瞬間……
鼻と鼻が触れ合う。それだけで涼香は震えそうになる。唇が触れ合う瞬間の様子を見つめる大輝と目が合った。

 ドクン

 涼香の胸が跳ねた。
 大輝も胸の高鳴りが酷い……欲が出る。

 二人は同じ思いだった……あぁ、触れたい。

 大輝は一気に距離を詰めると唇が触れ合った。触れ合っているだけなのに背中に電気が走った。大輝は誰にも見えないように傘を深く被り二人を覆い隠した。




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