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90.幼い執事
しおりを挟む誠大と共に学校から帰宅すると郡司は荷物を自分の部屋に置いた。白菊の間が自分に与えられた部屋だ。この部屋にいる間だけ郡司は気持ちのスイッチを切る事ができる。逆に言えばこの時間以外は自分のための時間ではない。いつも誠大が共にいた。郡司は小学生になり自分が他の子と違う事を知った。薄々は感じてはいたが自分の人生は自分のものではないのだと感じていた。それが伊集院の運命であり、自分も例外ではなかった。
嫌なわけでもない、誠大のことを嫌いなわけでもない……ただ、自分の存在意義が分からなくなっていた。郡司は小学生の頃から哲学的な考えで物事を捉える少年だった。
郡司はこの日、中庭のベンチに仰向けで横たわり空を見ていた。太陽は陰り、山側の空から雨雲が近づいていた。そのためか日差しが柔らかく心地よかった。中庭には誠大がピアノのを奏でる音が響いていた。今日はピアノのレッスンの日だ。誠大はピアノを演奏するのが好きでよく郡司のために弾いてくれた。誠大が奏でる音は音楽を愛する気持ちが溢れていて、聴くだけで思わず微笑んでしまうほどだった。郡司は邪魔をしないようにいつもこうして中庭でレッスンが終わるのを待っていた。
レッスンが終わったのか突然誠大の演奏が止まった。郡司は目を開けると腕時計を見た。終わる時間にはあと数十分以上ある。延長することはあってもこんなにも早く終わることは皆無だ。それに、あの誠大がそれを許すはずがない。郡司は体を起こすと中庭を突っ切り誠大の元へと向かった。ピアノの部屋のドアを開けようとすると背後から足音がした。郡司が振り返ると黒づくめ服に目出し帽を被った男が背後に立っていた。
「なっ!──んっ」
「くっそ……黙れ」
覆面の男は郡司の口を手で塞ぐと体の小さい郡司を抱き抱えると外へと駆け出した。中庭を越えると玄関の影に停車していた古い軽自動車の鍵を開けた。その車に押し込まれると郡司は叫び声を上げた。その瞬間覆面の男は郡司の顔を思いっきり平手打ちした。痛みは全く感じなかった……衝撃と、視界が揺れ動き目の前の色彩が失いモノクロに見えた。
「黙れ──殺すぞ」
男の脅しに郡司は声が出なくなった。男は冷静さを欠いているようでガムテープで郡司の口を覆うが粘着面がくっつき合い殆ど紐のような状態になっていた。同じ要領で郡司の手首を拘束し終わると男は安堵したように息を吐いた。男は覆面が気持ち悪いのか脱ぎたくてウズウズしているようだった。郡司はこの状況は一体何なのか必死で考えていた。後部座席の足元には物が散乱していた。塗料の缶が適当に置かれ、車内はシンナーのような匂いが漂っていた。よく見ると男の爪の間には白のペンキが入り込んでいた。
「まったく、ピアノの練習中に拉致るはずだったのにな……何やってんだ、アイツ」
男の言葉に郡司は怯えながらも必死で頭で考えた。この軽自動車はピアノ教師が乗ってきた車だ、この男がこの車に乗ってきたということは……ピアノ教師が、誘拐しようとしている犯人なのだと、そして……自分は誠大と間違われているのだと気付いた。誠大も毎日タキシードを着ているが、郡司も負けないほどの資産家だ。グレーのタキシードを着ているし御曹司と間違われてもおかしくはなかった。
誠大さまは無事なの? まだ誘拐されていないの? 誰か……誰か……助けて! 怖いよ……。
郡司は恐怖で涙がこぼれ落ちた。男は郡司の涙を落ちていたタオルで乱暴に拭き取った。表情は見えないが確かに男は笑っていた。
「坊ちゃん、大丈夫だ。お父さんがすぐに助けてくれるから安心しなよ。すぐにお家に返してやるよ、二億円さえ払えばな」
「ん、んん……」
郡司は愕然とした。高額な身代金に身の毛がよだつ。誠大ならまだしも自分なんかが誘拐されても簡単に払えられる額じゃない……殺される……そう思った。
その時軽自動車のドアが開くとピアノ教師が現れた。その腕の中で誠大がぐったりとしていた。どうやら激しく抵抗したらしく顔に殴られた痕があった。郡司は泣き叫んだがその声は口腔内で押し消され外へと出なかった。ピアノ教師は後部座席に郡司がいる事に驚いていた。覆面の男も誠大と郡司を見て、明らかにしまったという顔をしていた。
「何やってんだ……いつまでも来ないからどうしたのかと思ったら……こいつはただの執事の子だ!」
「え? そうなのか? こんな服着てるからてっきり……すまねぇ。こいつも連れて行くか?」
「いや、邪魔なだけだ。何発が殴って片づけよう」
覆面の男が郡司に近付こうとするとそれまで大人しかった誠大が覆面の男の腕に噛み付いた。
「郡司に、さわるな!」
「このガキ──!」
覆面の男が誠大の背中を殴った。誠大は痛みに悶えるように身を屈めたが郡司が殴られないように郡司の体に覆い被さった。郡司が泣き叫ぶ。自分の為に誠大が殴られるのを見て気が狂いそうだった。父親の言葉を思い出した。
『いいか? お前が誠大さまをお守りするんだ。それがお前の使命なのだからね』
『はい、お父さん。僕が、誠大さまをお守りします』
郡司は両腕の輪の中に誠大の体をねじ込んだ。そして決して離されないようにきつく抱きしめた。誠大だけ拐われないために必死だった。怖かった……殴られるのも嫌だった。でも、誠大がこのまま拐われしまうことが一番怖かった。
男が二人を剥がそうとするが郡司の力は子供と思えないほど強かった。舌打ちをして男は指示を乞うようにピアノ教師を見た。
「ダメだ。どうする? 連れて行くか?」
「待て、仕方がない……殺すしか──」
殺す
その言葉に先に反応したのは誠大だった。誠大は郡司を蹴り飛ばすと叫んだ。
「お前なんか嫌いだって言っただろ! 一緒になんか居たくない! こいつを車から出してくれ!」
誠大の豹変に郡司や男たちも呆然とした。「早くしないか!」と誠大が怒鳴ると慌てて腹面の男がドアのロックを解除すると容赦なく郡司を車から落とした。男は誠大の勢い圧倒されていた。
「んん!んん!……んー!」
郡司は必死で閉まった車のドアに擦り寄った。最後に見た誠大の瞳には悲しみの色が見えた。「ごめん」そう言っているのが分かった。
車が発進した後……すぐに屋敷のドアに向かって体当たりしたことだけ覚えている。その後は時間が過ぎているかどうか分からなかった。時が進んだと思えば誠大の別れの瞬間の記憶の中へと戻ることを繰り返していた。
屋敷の中が慌ただしく動き始めた。警察官が絶え間なく出入りしていた。何度もあの時の事を話したかもしれない……父親と母親がそばにいてくれたような気がしたが、よく分からなかった。誰かに責められたのかも、慰められたのかも分からなかった。食事も喉を通らなかった。
自分のせいだった。自分を守るために誠大は身を犠牲にした。守るべき存在の誠大に守られた。自分が異変に気づいていれば、もっと抵抗していれば、自分の時間を作らずに常に一緒にいれば……誠大さまはこんな目に合わなかったのかもしれない。
どれぐらい時間がたったのだろう。屋敷内が一層ざわつき始めた……母親に促されるようにエントランスに立たされた。その瞬間玄関のドアが開いた。いつのまにか外は雨が降っていた。傘を差して歩く秋生のそばに毛布を肩から掛けた誠大の姿があった。最後に会った時よりも服は薄汚れ、体の傷が増えていた。手をゲガしているのかもう一方の手で支えていた。
かなりの衝撃だった。薄暗い中現れた誠大はまるで幽霊のようだった。玄関の外灯の橙色の明かりが誠大を照らしているというのに誠大の顔は驚く程真っ青だった。怖かった。裏切ってしまった罪悪感で心臓が破れてしまいそうだった。誠大が郡司に気が付くとホッとしたような表情を浮かべた。
郡司が導かれるように誠大の前に立つと大きな瞳に涙をいっぱいに浮かべた。もしかしたらもう二度と会えないかと思った。怖かった。自分が自分じゃなくなりそうで怖かった。
「誠大さま……僕、僕は──」
「無事か? お前を守れてよかった」
誠大が力なく笑ったのを見て郡司はその場に泣き崩れた。ショックだった。守るべき存在の相手から命懸けで守られたことも、自分の無力さも、何もかも──何もできない自分が許せなかった。そのまま郡司は意識を手放した。その後郡司は死んだように眠り続けた。
次に郡司が目を覚めた時、郡司の様子がおかしかった。ここ数日の記憶を失っていた。誠大が誘拐されて無事戻った事を伝えるとひどく驚いていたが、自分がその現場に巻き込まれた事を覚えていなかった。礼司は穏やかな表情でベッドに眠る郡司の頬を優しく撫でた。起こさぬように部屋を出ると秋生と誠大が立っていた。
「どうだ……まだ記憶は戻らないか?」
「秋生さま……ご心配おかけいたします。郡司にとって、耐えがたい記憶のようで……」
「怖かったから、仕方ないよ。郡司があんなに泣くなんて……僕も見たことない」
秋生は優しく誠大の頭を撫でた。骨折した腕を見て礼司は悔しそうに顔を歪めた。礼司は首を横に振った。
「あの子は誘拐が怖かったのではありませんよ、誠大さま。あの子は、自分の最も大切なものを失い……あまりの辛さに記憶を消したのでしょう」
「失った……?」
「……執事というのは、魂が重要なのです。主人に仕え、主人を守り、主人のためにその人生を捧げるのです。決して、主人を置いて逃げる事は許されません。主人の危機に何も出来ないのも。特に──主人に守られる事は、大変辛い事なのです」
秋生は礼司の言葉を静かに聞いていた。優しい表情で誠大を抱きしめると少し悲しそうに笑った。秋生は礼司の言葉の意味も十分理解できたが、かつて自分も同じ道を歩んだことを思い出していた。誠大の気持ちが痛いほど分かっていた。
「僕、郡司が好きなんだ。友達だと思ってる。守りたいって思っちゃダメなの? お父さん……」
「ああそうだな。でもな、郡司はお前の執事なんだ。お前のしたことは立派だが、あの子の魂を壊してはいけない。もう郡司を守ってはいけないよ。今回の出来事を忘れたのならそれでいい。もし思い出せば執事としてお前のそばにいれなくなるかもしれないから……この事は秘密にしておくんだ」
「郡司が? 僕のそばからいなくなるの?」
「お前が執事として郡司をそばに置けば、ずっとそばに居られるよ……まだお前たちには難しいだろうな。すまない……」
誠大はみるみる落ち込んだ。自分では良い行いをしたと思っていた。残された郡司にとっては耐えがたい時間だったのだと気付いた。無事に戻れたから良かったものの、万が一命を落としていれば──郡司は、伊集院として生きていけなかった。
それから郡司の記憶が戻ることはなかった。郡司の秘密は東郷家の秘密になった。東郷一族と礼司と警察だけが郡司の一件を知っていた。郡司が事件に巻き込まれた事実はメディアにも公表される事なく闇に葬られた。
誠大は安堵していた。これで郡司は自分の元から去る事はない、魂を壊さずに済んだと思った。
屋敷に平穏な日々が戻った。桔梗の間で誠大が三角巾に釣られた腕を摩った。そばにいた郡司が近付くと心配そうに誠大の腕に触れた。その白くて柔らかい手の温もりに誠大は笑みが溢れた。やはり自分には郡司が必要だと再確認した。最も大切な友であり、兄であり、そして──執事だと。
「誠大さま、腕は傷みませんか? 僕に出来る事は何でもおしゃってください」
「ああ、そうだな。お茶を入れてくれるか?」
「え? あ……はい! ただいまお持ちいたしますね」
郡司は誠大の言葉に一瞬固まったものの、嬉しそうに微笑むと一礼して部屋を去った。誠大は初めて郡司に執事らしい事をお願いした。
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