財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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83.神は俺が憎いらしい

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 誠大はその日表情のセンサーがおかしくなっていた。意味もなくふとした時に一人ニヤけていた。主のご乱心に郡司は溜息を漏らしつつ誰にもバレないように誠大の背後に近付きお尻を一発殴った。

「……っ、何だ……」

「何だじゃありませんよ、また自然描写の絵で笑ったらお尻にもう一発かましますよ……」

 イタリア人画家の展示会の初日のセレモニーに招待されていたのだが、葡萄畑の絵の前で吹き出すように笑わえば怪しまれるだろう。現に作者であるイタリア人の髭面の男は戸惑ったように腕を組みなおしている。誠大は気を取り直すと真剣な表情で展示を見て回った。誠大の頭の中は今日の午後からの雫のピクニックのことで頭が一杯だ。これが終われば屋敷に帰る予定だ。

『明日って言うまで、キスしないでください! いいですね!? 絶対ダメですよ──』

 昨日の雫の告白を思い出し、笑いそうになるのを必死に堪える誠大だった。自分で告白をして帰ったことに気がついていないのがまた雫らしくて可愛かった。誠大は再びニヤけそうになる。背後から郡司の咳払いとともに、指の関節を鳴らす音が聞こえてきて誠大は必死で仮面を被り直した。

 無事展示会のセレモニーが終わり誠大が会場を後にしようとすると背後から声が掛かった。振り返ると焦げ茶のスーツを着た西園寺が大股で誠大の元へとやってきた。八の字の髭を撫でながら現れた西園寺に、誠大と郡司の空気が張り詰める。

「こんにちは、奇遇ですな……ワシも絵の買い付けに来たところです」

「どうも……素敵な絵画ばかりでした。お楽しみください。では、私はこれで──」

「ちょっとお待ちを。ここでお会いしたのもご縁……少し見ていただきたいものがあるのです。貴方にとって良いものですよ」

「申し訳ないですが、急いでいるので失礼します。ではまた──」

 西園寺が誠大の行く手を阻んだ……静かに耳寄せすると小声で話し掛ける。郡司は眉間にシワを寄せて西園寺を睨んだ。

「春日雫──に関することだと言えば、どうですかな?」

 恐ろしいほどの明るい笑みを浮かべた西園寺の言葉に誠大は絶句する。西園寺の頬は赤らめ自信が体中から溢れていた。誠大は郡司に目配せをする……郡司には西園寺の呟きが聞こえなかったようで二人を交互に見て何があったのかと誠大に訴えていた。

「お車で少しドライブでもいかがですか? 残念ですがお付きの方は乗れませんな。なんせ狭い古いセダンですから」

「……郡司、車で後を付いてきてくれ。俺一人で行く」

「誠大さま!」

 難しい顔をした誠大の表情に郡司は何か良からぬことが起きたのだと分かった。エレベーターに乗り込むが沈黙が続いていた。
 誠大の表情は固く、薄ら笑いを浮かべる西園寺の姿が滑稽に見えた。

 エレベーターを降りて道路に出るとビルの正面に黒のセダンが横付けされていた。二人が車に乗り込むと運転手らしき男がドアを閉めた。鋭い視線を誠大に送る。その運転手は永徳だった。永徳が追って来た郡司を一瞥すると運転席に乗り込み車が発進した。郡司は待たせていたリムジンに乗り込むとセダンを追った。すぐに他の仕事中で外にいた木戸に電話を掛けた。

「私です……西園寺が誠大さまに何かを吹き込んだようです。車の中で二人きりで話を──ええ、分かりました。至急こちらへ来て頂けませんか? ええ……今二人を乗せた車を追っています」

 郡司はもどかしそうに拳を握りしめた。とある工場の裏の通りで停車したセダンから誠大が降りた。西園寺を乗せた車はあっという間に消えて行った。郡司が慌てて駆け寄ると真っ青な顔をした誠大に息を呑んだ。誠大は俯きじっと何かに耐えているようだった。その手にはB5サイズの白い封筒があったが誠大の手によって丸められ握り潰されていた。

「誠大さま、なんのお話ですか? 一体何が──」

「…………」

「誠大さま!」

 郡司の問いに誠大は答えなかった。



 ◇

 
 その頃雫は時計を確認しつつ、食堂でせっせとおにぎりを作っていた。塩とおかかに卵焼きで包んだおにぎりも用意していた。ラップで包むとお重箱に詰めた。朱色のお重箱にはたくさんのおにぎりがひしめき合っている。その上段には唐揚げやポテトサラダが入っていた。
 朝から梅原にお願いして厨房を借り、雫は誠大のためにおかずを作った。口に合わないかも知れないと思ったが、自分の好きなものを共有したいと思った。
 
 「よし……あとは待つばかりか……ふふ、楽しみだな」

 雫はお重箱を緑の唐草模様の風呂敷で包むとようやく椅子に座った。ここでも渋好みの柄のチョイスが雫らしい。
 朝からバタバタとしていてろくに休憩も出来なかった。それでも雫は口元が緩みっぱなしだった。

 好き、です。遅くなってごめんなさい。私は──あなたが好きです。うーん、好きとかシンプルな言葉恥ずかしいな。いや、でも他にどう言えばいいんだろう? ま、いっか……伝わるもんね、きっと。

 雫は前日にフライングしていることを知らない。必死で思いを伝えることを考えていた。時計の針を見つめて誠大の帰宅を待つ雫だった。


 時計の針が刻々と進む中、雫はオーバーオールに着替えて誠大の帰りを待っていた。予定時刻を大幅に過ぎていた……雫は心配になり郡司に連絡を取ろうと携帯電話を握りしめるが、すぐさま胸ポケットへと戻す。

 仕事中だもの……二時間ぐらい遅れることなんてあるわよ……。戻ってくるわよ……。

 雫は再びソファーに座り深呼吸を繰り返した。テーブルのお重箱を暫く見つめていたが待ちきれなくなり、お重箱を抱えると桔梗の間で待つことにした。桔梗の間に入りソファーに座って待っていると部屋の中は誠大の香りがした。それだけで不安だった心が落ち着いていく……まるで隣で足を組み、誠大が新聞を読んでいるようでホッとした。

 こんなにも、惹かれるなんてね……出会いは最悪だし、プールに突き飛ばすし……それなのに……なんでこんなことになっちゃったんだろう。最終的に恋人……になるなんて……。んー、恋人? 響きがくすぐったいな……ふふ。

 雫が一人ニヤけていると廊下から口論する声が聞こえてきた。一人は郡司で複数人で何かを話しているらしい。木戸の怒号が聞こえる……その声が近づいて来る。

「いいから! ふざけんなって! 一体どうしちまったんだよ!」

「誠大さま! 何があったのですか……そんな事信じられるわけないでしょう!?」

 どんどん近づく声に雫は拳を握りしめてどうすればいいか考えていた。この部屋にいるのがマズい気がしてきて慌ててカーテンの裏に隠れた。桔梗の部屋のドアが開かれると三人が部屋に入ってきた。緊迫した空気が三人を纏っていた……木戸の息が荒れていた。誠大は上着を脱ぐとソファーの背に放り投げた。

「決めたと言っている。よく考えろ、西園寺と関係が密になれば……我がグループにとってプラスにしかならないだろう」

「それは……そうかもしれませんが──」

「……西園寺花蓮と婚約する。これは決定事項だ」

 
 え?

 雫は誠大が何を言ったのかすぐに理解ができなかった。でも、スポンジが水を吸うようにじわじわと言葉の意味が理解できた。目の前が曇った……持っていたお重箱が急に重たくなって雫はそれを手放した。


 ガタン


 お重箱が硬い大理石の床に落ちて大きな音が部屋に響いた。気が付くと誠大が自分の目の前に立っていた……カーテンを捲り真っ青な顔をして誠大がこちらを見下ろしていた。雫は足元に落ちたお重箱を見て、これが現実の出来事なのだと気付いた。

「調教師……なぜここに……」

「し、雫さま……」

「チッ──マジか」

 背後にいた郡司と木戸は切なそうな顔でこちらを見ていた。雫が誠大に視線を戻すと誠大が息を飲んだのが分かった。

「二人は、席を外してくれ……」

 誠大は低く小さな声でそう呟いた。視線は雫から離さなかった。二人が出ていくと誠大は真顔になり雫から一歩後退った。距離を取った誠大に雫は寒気を感じ、不安になった。

「聞いて、いただろう? 俺は──俺は西園寺と……」

「……結婚されるんですね」

 雫の声に誠大は少し瞬きの回数が多くなった。雫は意外にも大きな声が出たことに自分自身に驚いていた。こんなにも胸の中は荒れているのに、平然とできる自分に感心した。雫は大きく息を吐いた。

「そうですか、おめでとうございます。良かったですね」

 雫の笑顔に誠大はただじっと瞳を見つめていた。どうしようもなかった。雫の笑顔が遠くに見えて……視線を逸らすと消えてしまいそうで怖かった。

 誠大は運命に怒りを覚えた。雫の笑顔をずっと見たいと思っていたのに、今日が二人にとって特別の日になると思っていたのに──神がもしいるとしたら、きっと俺の事が憎かったんだろう……そう思った。
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