財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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45.音の出ないピアノ

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 日曜日の朝──それは本来であれば静かな朝だった。日曜日は誠大の出勤準備もなく屋敷内は穏やかなはずなのになぜかこの日は足音が響いている。

「……くそ、だから郡司を誘うなって言ったんだ。あいつが鬼なるとSの血が騒ぐ……」

 朝からなぜか三人は鬼ごっこをしていた。誠大はいつものスーツ姿ではなく某スポーツメーカーウェアに身を包み周囲を見渡し警戒している。髪型はいつも通りだが服装がラフなので随分若く見える。10分前──誠大が屋敷のジムで汗を流そうとすると雫が「走るのは同じでしょうから鬼ごっこしませんか? あ、郡司さんも」と誘ってきた。誠大は嫌がったが郡司が突然満面の笑みでカウントダウンを始めたので雫と誠大は一目散に散って逃げ出した。

 その頃雫は冷や汗を垂れながら大きく息を吐いていた。廊下にある柱の影部分に必死に体を寄せている。白地の壁に黒のメイド服なのでかなり目立っているが本人は真剣に気配を消そうとしている。通り過ぎるメイドたちは雫の必死の形相に見えぬふりをして通り過ぎる……。関わらぬ方がいいと本能的に察知したようだ。そうとも知らず雫は口元が緩む。

「私……もしかして前世忍者かもね……ふふ」

 知らぬが仏。

 そんな中廊下にドSの鬼──郡司が現れた。雫は息を潜めて壁に同化するように必死で壁にすり寄った。

 ヤモリよ、私はヤモリ……ヤモリ、ヤモリ……。

 雫の側を通るがなぜか郡司は気が付かなかった……そのまま通り過ぎて廊下の角を曲がってしまった。雫は郡司が消えたのを確認すると息を吐いた。雫は嬉しくて飛び跳ねるのを我慢するとそそくさとその場を後にした。曲がり角の向こうでは郡司が眼鏡をずり上げて必死で笑いを堪えていた。

「くく……最高ですね……」

 もちろん郡司もすぐに雫の存在に気付いたがあまりの雫の可愛さに捕まえるのをやめた。気付いてしまえばあの姿を二度と見られないと思い敢えてスルーした。郡司は窓の外を見下ろした。一階の廊下を誠大が歩いているのを確認すると美しく微笑んだ。誠大はその殺気に気付きブリキのおもちゃのようにゆっくりと窓の外を見上げた。郡司と目が合うと誠大は「まずい……」と慌てて駆け出した。既に二階の窓に郡司の姿はなかった。





「ああ、もう……疲れた……逃げるのも大変ね」

 雫はあれから屋敷の普段寄り付かない場所へとやって来た。梅原の説明では主に美術品や骨董品など一部の人間しか扱わないものが置かれている区域だったはずだ。人影も無く周りはしんと静まり返っているせいか、より肌寒く感じる。奥のドアは真っ白に塗られていて壁と同化していた。他のドアは同じ木製でも塗装はされていないのにどうしてこのドアだけ白いのだろう。

「ここ……部屋なんかあったっけ?」

 確か一階の奥には部屋はなかったはずだ。どうしてドアがあるのだろう……。

「もしかして……隠れた財宝? 隠れ通路……?」

 雫はそのドアノブを握った。てっきり鍵が掛かっていると思ったが意外にもそのドアは軽い力で開いた。雫は恐る恐る部屋の中を覗いてみた……そこには大きなグランドピアノが中央に置かれていただけだった。窓から差し込む光が白のカーテンレースに当たり部屋を優しくい淡い光が照らしていた。照明が無くても充分な彩光があるこの部屋は他の部屋と違って装飾品も、何もない……まるでこの部屋だけ異質だった。

 何? この部屋……なんでこんな部屋が……誠大さまのピアノかしら……。弾いてるところなんて見たことないけれど……。

 雫がグランドピアノに近づいていく……。埃は全くかぶっていなかった。どうやらきちんと手入れはされているようだ。でもこの屋敷にきて随分と経つがピアノの音色など聞いた事がない。蓋を開けると白と黒の美しい鍵盤が現れた。雫は白の鍵盤を押してみた。だが、音は出なかった。本体部分のどこかで何かがぶつかるような音しか聞こえない。こんなにも立派なのになぜ壊れたままなのだろう。

「音は……出ません」

 背後から静かな声が聞こえた。ドアのそばに郡司が立っていた。その表情は暗かった。雫は慌ててピアノから離れると郡司は鍵盤蓋を静かに閉めた。雫は申し訳ない気持ちになり頭を下げた。

「すみません……勝手に……」
「いえ、大丈夫です……私もこのピアノに触れたのは久しぶりです。昔はよくこの屋敷にはピアノを奏でる音が聞こえていました。誠大さまがお好きでしたから……」

 郡司は懐かしそうにピアノを撫でた。

「誠大さまは、もうピアノを弾かないんですか? こんなに立派なのに……」

「……もう二度とないでしょう。このピアノは奥様の大切なものなのでこうして置いてはいますが……もうこの部屋に入る事すら致しません」

 雫は郡司の言い方に何があったのかと聞き返せなかった。誠大の過去に踏み込むのが怖かった。郡司はピアノの椅子に腰掛けると空いている部分に雫を座らせた。大人が二人座るには狭かった。郡司の肩に雫の肩が当たる。

「こうして……二人並んでピアノで遊んだ事を思い出します。誠大さまは……よく私のためにピアノを弾いて下さっていました。……雫さまは幼かったので覚えてらっしゃらないとは思いますが、誠大さまが六歳の頃……東郷家にとって大きな事件が起こりました」

「じ、事件?」

 郡司は立ち上がると窓のカーテンを開けた。

「新聞の見出しはこうです──東郷グループ御曹司……誘拐──誠大さまはあの日この部屋から誘拐されたのです」

 雫は一瞬郡司が何を言ったのか分からなかった。あまりにも現実離れをしていた。


「誠大さまは……昔は笑顔の絶えない少年でした。本当に……素直で泣き虫で可愛かったです。同じ歳でしたが、弟のように思っていました。誘拐犯はピアノ教師で……あっという間の出来事だったようです」

 笑顔の幼い誠大がこの部屋で駆け回っている姿を想像して雫は胸がいっぱいになった。

「あれから誠大さまは変わってしまいました……この鳴らないピアノは……戒めのために置かれているのです」

「戒め……?」

 郡司は誘拐犯から無事救出された誠大がこの屋敷に戻ってきた時のことを思い出していた。おぼろげな記憶だが、雷が鳴るほどの荒れた天候の中、頭と手に包帯を巻いた誠大は取り憑かれたようにゴルフクラブでこのピアノを殴り続けた。誠大は泣いていなかった。じっとピアノを睨んだまま肩で息をしていた……暗闇の中一瞬雷光が部屋の中を照らした。心が壊れた誠大の姿に郡司は泣いた。幼いはずの誠大が怖くて大きな存在に見えた……。

 しばらくして梅原が部屋にやってきて何も言わずに郡司と誠大を抱きしめた。そしてこの部屋は屋敷から存在を消された。

「人を信じるな、心を許すな、疑え、世の中は敵だ──誠大さまは徹底的に他人を排除しました。あの日から、心の底から笑うこともしない。警戒し、心を開かなくなりました。あの日何があったのか話そうとしませんでした……誘拐犯から心ない言葉を浴びせられたのか、ひどい暴力を受けたのか分かりません」

「郡司さんは……無事だったんですか?」

「実は……あの日の記憶は、あまりないんです……思い出したくないのかもしれません。あの日誠大さまのそばにいたのかいなかったのか……私にとってもあの日は最悪の日に間違いありません」

 雫は涙が抑えきれなくなった。自分が六歳の頃なんて呑気にランドセルを背負い友達と笑い合っていた。そんな幼い頃に犯罪に巻き込まれた二人が不憫で、悔しかった。
 雫は立ち上がると郡司の元へと駆け寄った。雫の瞳から絶え間なく涙が流れ続けているのを見て郡司はハンカチを手渡した。

「雫さまを泣かせたと、私が怒られてしまいます……」

「……っ、辛かったですよね、怖かったですよね。誠大さまも、郡司さんも」

 雫は背伸びして郡司の柔らかい茶色の髪に触れると優しく撫でた。何度も何度も撫でた。郡司は瞬きを繰り返していたが突然苦しげに顔を歪ませた。雫の手を取ると強く握った。その手は震えていた。

「郡司さん、誠大さまが今まで頑張れたのは郡司さんがいたからです。以前……家族の話になった時に、一番に郡司さんの名前が出ました。郡司がいてくれたからって。それに、私の事郡司さんを騙す女だと思って遠ざけようとしたんですよ? 笑っちゃいますよね」

「あぁ、例のプール飛び込み事件ですね。ふふ、雫さま──その節はありがとうございました」

「あれは……その、すみませんキレちゃって……やり過ぎました」

 郡司が雫の手を離し綺麗にお辞儀をした。ニッコリ微笑んだ顔は清々しかった。

「……雫さまに、出会えて本当に良かったです。誠大さまにとっても、私にとっても最高の出会いでした」

「私なんて、そんな……」

「いえ、私たちは雫さまを必要としているのです。これからも笑顔にさせてくださいね」

 雫は再び涙が止まらなくなった。自分の居場所はここなのだと言ってもらえたようで嬉しかった。

 その頃誠大は郡司の部屋──白菊の間に隠れていた。部屋に飾られた写真を眺めていた。無垢な笑顔で笑う誠大と郡司の幼い頃の写真だった。パーティ会場らしき所でタキシードを着た二人が肩を組み笑っていた。誠大はその写真を見て優しく微笑んだ。
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