財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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70.財閥の犬共

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 その人物は屋敷の裏山を歩いていた。落葉し多くの葉が斜面に溜まり進行を邪魔していた。掻き分けるように、時に踏みしめながら前へと進む。

「う、わ! クソ、最っ悪だ……」

 山に不似合いな高級スーツを着たその人物は枯れ葉が積もった斜面で泥濘んだ部分を踏み、転倒しかけた。咄嗟に生えていた木の細技に捕まって助かった。しかし、これが初めてではないのだろう……スーツや磨き上げられた革靴は葉や小枝で傷が付き、泥が付いていた。斜面を抜けると淡いクリーム色の壁に緑の苔や蔓が纏わり付いているのが見えた。

 やっとの思いで東郷家の屋敷の裏側に辿り着いた。

「確かこの辺りに……あった、あった……」

 コソ泥の真似事をしていたのは天洋だった。天洋は雫に会うために東郷家に侵入しようとしていた。もちろん正門からは通れない事を知っていた天洋は、幼い頃この屋敷で遊んでいたときに見つけた塀の穴を探しに来た。穴が見つからないとしてもここは壁が低く大人になった今では侵入可能だろうとやって来たのだった。目印の大きなドングリの木を発見するとそのそばの塀を隈なく見て回った。そこには確かに穴が開いていたが今の天洋には小さ過ぎた。

 無理か。当然だ……アイツらと遊んでいたのは就学前だ……。あの頃は平気ですり抜けたのにな……。

 子供の頃はここから抜け出し裏山で遊んでいたことを思い出す。その頃は喧嘩しながらも誠大と郡司の三人で遊ぶこともあった。成長するにつれ次第に父親である真守の顔色を伺い、遊ばなくなった。天洋は一人しんみりと思い出に浸っていた。

「ほら、取っておいで! ジャック!」

 塀の向こう側の敷地から若い女の声がした。天洋は壁をよじ登り屋敷の中を覗いた。幼い頃は一面コスモスだったその場所は、フェンスに囲まれ芝生の広場へと変わっていた。その中央で雫がシェパード犬と戯れていた。ジャックと呼ばれた犬は雫に撫でられご満悦のようだ。オーバーオールを着たお団子頭姿の雫を見て、天洋は心臓が壊れそうになる。

 く……天使だな。俺と同じ歳のはずなのに随分幼いな……。ってか、なんでメイドなのにオーバーオールなんだ?

 しばらく覗いていると突然雫が辺りを見渡しジャックを呼ぶ。どうやらジャックが居なくなったようだ。

 ガサ……ガサガサ……。

 天洋は何かが擦れる音に気が付いた。誰かが枯れ葉を踏み荒らしているような音だ。

 な、なんだ? まさか──そんな……。

 天洋が音のする方を見渡していると、突然例の抜け穴からジャックの勇ましい顔が現れた。クリーム色の壁にシェパード犬の顔が刺さっている。天洋がすぐに間合いを取った。ジャックは枯れ葉を押し除けて天洋を睨み唸り声を上げる。枯れ葉がジャックの顔を取り囲みライオンのように見えた。天洋はジャックに会うのは初めてだった……だが、刹那に凶暴な犬である事を理解した。

「マジかよ……まさか脱走する気じゃ……この穴を抜けられないよな、お前──ウソだろ!?」

 慌てて天洋が塀の上によじ登ろうとすると、ジャックが強引に胴体まで穴を抜けた。もう穴を抜けきるのも時間の問題だ。鋭そうな白い牙が見えて天洋は塀を跨いだまま恐怖で体を竦めた。

「ジャック! そこにいるの? 悪い子ね……こうやってあの日も脱走したのね? ほら、出てらっしゃい!」

 自分の頭上に天洋がいるとは思わない雫が穴からジャックに向けて叫ぶ。ジャックは天洋のことが気になったが雫に嫌われるのはもっと嫌なようで渋々屋敷内へと戻って行った。そしてブルブルと体を震わせて毛についた枯れ葉をふるい落とした。そして塀の上の天洋の姿を見つけると激しく吠えはじめた。

「んもう……悪い子ね、ジャック! いいかげん──」

 雫が何となく見上げると塀の上に忍者のように身を潜める天洋と目が合った。服に泥や葉を付けた姿に雫は驚いていた。遭難したホストがそこに居た。

「えっと……何してるんですか? 仕事中……ですか?」

「俺の仕事何だと思ってんの? おかしいでしょ……」

 天洋はこんな情けない姿を見られたショックで項垂れている。プライドの高さは誠大よりも高いようだ。

「えっと……降りられます? そこに居ます?」
 
「ここに居たい訳ないって……ねぇ、悪いけど、その犬を押さえてくれる? 俺犬苦手なんだ」

「あ、はい。ジャック、お座り」

 何とか侵入に成功した天洋だったがその代償は大きかった。まさかロマンチックな告白の後にこんな格好で再会するとは思わなかった。雫はジャックを犬舎に戻して天洋の元へと戻ってきた。天洋をいつもの木のそばのベンチに案内すると腰掛けた。

「イメージとは違いますね。忍者みたいな事をするなんて……」

「参った……だって門前払いだもん。こうでもしなきゃアンタに会えないからな……ガードの固い犬が二頭煩くてね──まさかもっと恐ろしい犬がこの広場にいるとは知らなかったけど」

 天洋がうらめしそうに犬舎に居るであろうジャックを見た。雫は天洋の言い方に吹き出して笑った。天洋は雫の横顔を見て微笑み返した。

 天洋が雫をじっと見つめる……告白して振られたのに全然諦められる気がしなかった。それどころか一言会話をする度に嬉しくて、新しい事を知る度に胸が躍った。天洋の熱い視線に雫は顔を赤らめ視線を逸らした。

「あの……ちょっと、見過ぎかなーなんて……あ、そうだ、私誠大さまの恋人なん──」

「春日雫……あんたに頼みがある」

 天洋が真剣な表情で雫の方へと近付く……後ずさる雫の手を握りしめた。その時背後から静かで、重い声が聞こえた。

「その手を離せ」

 中庭から息を切らした誠大と郡司が現れた。屋敷の防犯カメラを見ていた警備員も後ろに続く。塀をよじ登った時にセンサーが作動したが天洋の姿にどうすべきか悩んだ整備員が郡司に連絡をしていた。天洋を捕まえようとする警備員に対して「もういい、警察に誤報だと伝えてくれ」と誠大が声を掛けた。

「はぁ……天洋、離れろ。強盗のような真似までするとはな」

「誠大……郡司まで……忌々しい番犬どもめ」

 三人は静かに睨み合っていた。雫はどうしてこんな時間に誠大が屋敷にいるのか不思議に思った。

「誠大さま、なぜここに?」

「……たまたま屋敷に用事があって帰ってきただけだ」

 誠大が出社した後GPSをチェックしていた木戸から連絡があった。発信器を確認したら天洋の車が屋敷に向かっていることを知り慌てて引き返した。

「俺も言いそびれた事があったから来ただけだって……。郡司までそんな顔するなよ。流石にお前の女に手は出せない。時期後継者様だしな」

 天洋は呆れた様に溜息をつくと立ち上がり衣服についた砂を払う。天洋は雫の方を向くと優しく微笑んだ。

「春日雫……俺と友達になってくれないか?」

「え?」

「言い寄らない、変な気なんか起こさない。神に誓う……友達としてなら、いいよな? 俺は春日雫という人間が好きなんだ。友達でもいい。いや、友達がいい。金持ちの友だちができたと思ってくれていい」

 誠大が顔を硬らせて二人の間に割って入る。青筋を立てた誠大と鬼の様な目で睨みつける天洋の間に火花が散った。郡司はただ黙って眼鏡をずり上げた。腕を組み二人の戦いを見守っている。

「懐かしいですね……こんなに睨み合うなんて十年ぶりでしょうか? いや、もっとかもしれませんね、ハハ、変わってないですね」

「ぐ、郡司さん! 止めなくて良いんですか? なんか凄くヤバそうですけど……」

 雫には誠大の背中しか見えなかったが、二人の間の殺意を感じ一人焦っていた。

「この馬鹿野郎が。ダメに決まってんだろう……お前みたいなどうしようもないクズの女ったらしと友達なんて……調、雫が許すと思っているのか? あり得ん……」

「それを言ったらお前だって性根が腐ってる。独占欲の強い彼氏なんて最悪だね。あぁ、昔からお前はそういう奴だよ。郡司に落とし穴を掘らして俺を嵌めただろう……あれから俺は狭いところが大嫌いだ!」

「罠に嵌る人間が悪い。前科があるからな、手を出さないとは言い切れない。……トラウマアピールはやめてくれ」

「は……ふざけんな。あれは夢だと勘違いしたからだ! 泣き虫誠大のクセに気取ってんなよ」

 激しく言い合う二人には間を挟む様にして立つ雫のことは視界に入らない。雫が目を左右に動かしてどう収拾すればいいか考える。若干口論の内容が過去の出来事が混ざっている。昔の喧嘩を掘り返すほど根に持っているようだ。

 郡司に助けを求めるが慣れているのか「ほほう……泣き虫誠大──懐かしいですね」と笑みを浮かべている。完全に郡司は楽しんでいる。

「あのー、すみません。あの、その、おーい……ストーーーップ!」

「「なんだ!?」」

 胸ぐらを掴み合った二人の声が重なった。雫を見下ろすその表情は双子のようだった。その動作や声があまりにもシンクロしていて雫が吹き出して笑う。雫の笑顔にバツが悪くなったのか二人が離れた。

「ダメって言っても天洋さまはまたいらっしゃいますよね?」

「俺の性格分かってるね、嬉しいな。友達になってくれるまで通うよ」

「しつこい男は嫌われるぞ。警察に突き出すしかないか……今からでも通報しよう」

 誠大が雫の腕を引っ張り天洋から引き離そうとする。雫は引き摺られながらも誠大に訴える。さすがに従兄弟同士で警察沙汰はマズい。

「あ、あの! 警察は、その良くないかなって……。あ! 誠大さまも天洋を許せるのなら許してやってくれって、あいつはバカだけど本物のバカじゃないって言ってたじゃありませんか」

「あれは……その……」

 雫の暴露に誠大は動揺する。

 舞踏会の日──ホテルから戻るときのエレベーターの中で誠大は雫にそう言った。天洋は誠大を信じられない様子で見つめた……そんな事を言うなんて誠大らしくなかった。居心地が悪くなった誠大が視線を泳がしたのを見て、天洋は雫の話が本当である事を確信した。天洋は誠大に対して何を言えばいいか分からず立ち尽くしていた。

 二人の空気が穏やかになったのを感じた雫は両手を組み頷いた。

「良かった。お二人は、ケンカするほど仲がいいってやつなんですよね?」

「「どこがだ!」」

 誠大と天洋の声が重なると郡司が吹き出して笑った。
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