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6.調教初め
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ピピピ ピピピ──
爽やかな朝を邪魔する音が聞こえた。携帯電話のアラームが鳴り響く。それを止めようと音のする方に四つん這いになって手を伸ばすとそのままベッドから転げ落ちた。雫は頭を床に打ち付けた。
「あたたた……」
今まで布団を敷いて寝ていたのでベッドに慣れていなかった。寝ぼけていた脳が覚醒する。目の前には最高級の磁器の花瓶が置かれていた。
あ、そっか──夢、じゃないみたいね……。
雫の目の前には高級旅館顔負けの備品が置かれている。雫は寝癖のついた頭を掻くと障子を開けた。そこには立派な日本庭園が広がっていた。てっきり以前見た庭が見られるとばかり思っていた。どうやらこの部屋のために別の庭が作られているらしい。朝日に映える緑の紅葉や丁寧に作られた枯山水が美しい。あと数ヶ月もすれば本格的な紅葉を迎えて鮮やかな朱色で埋め尽くされるだろう。まるで京都のお寺にいるような気分になる。
「大金持ちって……すごい──」
「大金持ちじゃない、超大金持ちだ」
嫌味な声に振り返ると部屋の椅子にスーツ姿の誠大が足を組んで座っていた。肘掛に手を置き爪でカツカツと音を出す。
「ちょ、ちょっと! 勝手に入ってこないでよ──」
雫が声を上げると誠大は耳の穴を指で塞いで近付いて来る。目の前に立ち雫を静かに見下ろす……獲物を狙うような視線に文句を言い続けていた雫も押し黙る。
「認めない」
「は?」
「調教師かなんだか知らないが……そんなもの必要ない。出て行け」
腕を組み再度雫を睨む。その態度に雫もカチンときて腕を組む。
「何? 怖いわけ?……はん、笑っちゃうわね、天下の超大金持ち様が庶民を恐れてるの? あー笑っちゃう」
雫がバカにしたように笑うと誠大の眉がピクリと動いた。額にも血管が浮き出てきた。侮辱され体を震わせている。誠大は雫の寝巻き姿をチラリと見下ろすと鼻で笑った。
「怖くない。こんな色気もない胸もない女なんて怖くもなんともない。涎の跡をつけた女なんて初めて見た」
「……なんですって?」
雫が口元を押さえて誠大を睨む。どちらも視線は逸らさない……先に逸らした方が負けだ。
「……おはようございます」
ドアをノックする音が聞こえてそちらを向くと郡司が満面の笑みで二人を見つめていた。笑顔だが威圧感が凄い。郡司の声色の変化をいち早く察知した誠大が肩を揺らし雫から離れる。
「誠大さま──女性の寝起きを突撃訪問するなんて愚の骨頂ですよ」
「いや、俺は──」
郡司は首根っこを掴むと優雅に雫に一礼し大人しくなったクズ犬……いえ、誠大を連れて部屋から出て行った。急に静かになった部屋に置いていかれた雫は呆然としていた。寝起きなので頭がまだ動いていないようだ。
「賑やかでいいな」
ん?
どこからか声が聞こえてきた。ドアのそばに昨日の泣きボクロのメイドが一人立っていた。その口元は微笑んでいる。
今の……この人が?
「あの──」
「朝食の準備が整っております。雫さま、一階へお越しください」
メイドは一礼すると部屋を出て行った。
慌てて準備をして一階に降りると不機嫌な誠大が白いクロスが敷かれたテーブルのそばに座っていた。誠大の目の前には豪勢な朝食が並んでいた。そばに立つ郡司は機嫌がいいようで微笑みを絶やさない。雫は促されるように席に座った。
「おはようございます……すみません、お待たせして──」
「いえ、こちらへどうぞ──」
東郷家の朝食は最高に美味しかった。パンはバターの香りがするし、スープも野菜の旨味たっぷりで最高だ。朝からこんなに贅沢していいのかと不安になる。
「どうぞ、好きなだけ召し上がってくださいね」
雫の隣に立つメイドが優しく話しかけてくれる。なんて幸せなんだろう……。朝から焼きたてのパンを食べられなんて一握りしか存在しない。
「あの……すごく美味しいです。朝早くから準備してくださってありがとうございます。このスープも優しい味で心が温まりました」
雫がそばに立つメイド達にペコっとお辞儀をする。一瞬部屋の空気が固まった。皆真顔で雫のことを見つめる。
ん? なんだ……? 私、変な事言った?
「……いいえ、さ……スープのお代わりはいかかがですか? パンをもう少しお持ちしましょうか?」
「あ、いや、もうお腹いっぱいで──」
部屋にいたメイドたちは雫へ優しい笑みを向けた。郡司はうっすらと微笑むと横に座る主人を盗み見た。こちらの期待通り目を見開き驚いているようだ。徐ろに持っていたスプーンでスープを掬ってじっと透き通ったスープを見つめる。
さすが調教師ですね──。
郡司は確信していた。
ジャックの人間を見る目は確かだ。昔から悪意を持った人間を嗅ぎ分けていた。もちろんこの屋敷で働く者たちは厳しい審査で選ばれているのでジャックに襲われる者はいない……だが、雫のように命令を聞き、甘えるようなことはしない。それは特別な存在ということだ。
ジャックを送り届けてもらった後、郡司は雫のことを調べ上げた。そして尾行をしていると雫が底抜けにお人好しだということがわかった。困った人間がいれば放っておけないその性格は天性のものだろう。ジャックが一目で気に入るのも頷けた。
そしてあの夜──郡司は雫と接触を試みた。偶然夜道で肩が当たるふりをしようとしたのだがなぜか直前で雫が慌てて走り出してしまい計画は思わぬ方向に傾いてしまった。
雫は転倒した。郡司も一歩間違えれば眼鏡を割り、負傷するところだった。郡司は咄嗟に体を捩ったが雫は怪我を負ってしまった。そんな中、雫は自分の怪我よりも相手の心配ばかりをしていた。
郡司は雫こそ誠大に必要な人間だと思った。
東郷グループの後継者である誠大の経営の手腕は問題ない……ただ、冷血だ。人間味のない男だった。幼い頃から共に過ごしてきたが、ある事をきっかけに誠大は人間を信用しなくなった。屋敷の人間は誠大の我儘に慣れているが、今の東郷グループを継ぐ人間としての器としては不十分だ。人を信用する、思いやる心が欠けていた。
郡司は雫に申し訳ないと思いながらこの屋敷に連れてきた。これはきっと神様の思し召しだと感じた。
申し訳ございません……雫さま──とんでもないクズ犬の調教をお願いして……。
郡司は美味しそうにおかわりのパンを頬張る雫に悲しい視線を送った。
爽やかな朝を邪魔する音が聞こえた。携帯電話のアラームが鳴り響く。それを止めようと音のする方に四つん這いになって手を伸ばすとそのままベッドから転げ落ちた。雫は頭を床に打ち付けた。
「あたたた……」
今まで布団を敷いて寝ていたのでベッドに慣れていなかった。寝ぼけていた脳が覚醒する。目の前には最高級の磁器の花瓶が置かれていた。
あ、そっか──夢、じゃないみたいね……。
雫の目の前には高級旅館顔負けの備品が置かれている。雫は寝癖のついた頭を掻くと障子を開けた。そこには立派な日本庭園が広がっていた。てっきり以前見た庭が見られるとばかり思っていた。どうやらこの部屋のために別の庭が作られているらしい。朝日に映える緑の紅葉や丁寧に作られた枯山水が美しい。あと数ヶ月もすれば本格的な紅葉を迎えて鮮やかな朱色で埋め尽くされるだろう。まるで京都のお寺にいるような気分になる。
「大金持ちって……すごい──」
「大金持ちじゃない、超大金持ちだ」
嫌味な声に振り返ると部屋の椅子にスーツ姿の誠大が足を組んで座っていた。肘掛に手を置き爪でカツカツと音を出す。
「ちょ、ちょっと! 勝手に入ってこないでよ──」
雫が声を上げると誠大は耳の穴を指で塞いで近付いて来る。目の前に立ち雫を静かに見下ろす……獲物を狙うような視線に文句を言い続けていた雫も押し黙る。
「認めない」
「は?」
「調教師かなんだか知らないが……そんなもの必要ない。出て行け」
腕を組み再度雫を睨む。その態度に雫もカチンときて腕を組む。
「何? 怖いわけ?……はん、笑っちゃうわね、天下の超大金持ち様が庶民を恐れてるの? あー笑っちゃう」
雫がバカにしたように笑うと誠大の眉がピクリと動いた。額にも血管が浮き出てきた。侮辱され体を震わせている。誠大は雫の寝巻き姿をチラリと見下ろすと鼻で笑った。
「怖くない。こんな色気もない胸もない女なんて怖くもなんともない。涎の跡をつけた女なんて初めて見た」
「……なんですって?」
雫が口元を押さえて誠大を睨む。どちらも視線は逸らさない……先に逸らした方が負けだ。
「……おはようございます」
ドアをノックする音が聞こえてそちらを向くと郡司が満面の笑みで二人を見つめていた。笑顔だが威圧感が凄い。郡司の声色の変化をいち早く察知した誠大が肩を揺らし雫から離れる。
「誠大さま──女性の寝起きを突撃訪問するなんて愚の骨頂ですよ」
「いや、俺は──」
郡司は首根っこを掴むと優雅に雫に一礼し大人しくなったクズ犬……いえ、誠大を連れて部屋から出て行った。急に静かになった部屋に置いていかれた雫は呆然としていた。寝起きなので頭がまだ動いていないようだ。
「賑やかでいいな」
ん?
どこからか声が聞こえてきた。ドアのそばに昨日の泣きボクロのメイドが一人立っていた。その口元は微笑んでいる。
今の……この人が?
「あの──」
「朝食の準備が整っております。雫さま、一階へお越しください」
メイドは一礼すると部屋を出て行った。
慌てて準備をして一階に降りると不機嫌な誠大が白いクロスが敷かれたテーブルのそばに座っていた。誠大の目の前には豪勢な朝食が並んでいた。そばに立つ郡司は機嫌がいいようで微笑みを絶やさない。雫は促されるように席に座った。
「おはようございます……すみません、お待たせして──」
「いえ、こちらへどうぞ──」
東郷家の朝食は最高に美味しかった。パンはバターの香りがするし、スープも野菜の旨味たっぷりで最高だ。朝からこんなに贅沢していいのかと不安になる。
「どうぞ、好きなだけ召し上がってくださいね」
雫の隣に立つメイドが優しく話しかけてくれる。なんて幸せなんだろう……。朝から焼きたてのパンを食べられなんて一握りしか存在しない。
「あの……すごく美味しいです。朝早くから準備してくださってありがとうございます。このスープも優しい味で心が温まりました」
雫がそばに立つメイド達にペコっとお辞儀をする。一瞬部屋の空気が固まった。皆真顔で雫のことを見つめる。
ん? なんだ……? 私、変な事言った?
「……いいえ、さ……スープのお代わりはいかかがですか? パンをもう少しお持ちしましょうか?」
「あ、いや、もうお腹いっぱいで──」
部屋にいたメイドたちは雫へ優しい笑みを向けた。郡司はうっすらと微笑むと横に座る主人を盗み見た。こちらの期待通り目を見開き驚いているようだ。徐ろに持っていたスプーンでスープを掬ってじっと透き通ったスープを見つめる。
さすが調教師ですね──。
郡司は確信していた。
ジャックの人間を見る目は確かだ。昔から悪意を持った人間を嗅ぎ分けていた。もちろんこの屋敷で働く者たちは厳しい審査で選ばれているのでジャックに襲われる者はいない……だが、雫のように命令を聞き、甘えるようなことはしない。それは特別な存在ということだ。
ジャックを送り届けてもらった後、郡司は雫のことを調べ上げた。そして尾行をしていると雫が底抜けにお人好しだということがわかった。困った人間がいれば放っておけないその性格は天性のものだろう。ジャックが一目で気に入るのも頷けた。
そしてあの夜──郡司は雫と接触を試みた。偶然夜道で肩が当たるふりをしようとしたのだがなぜか直前で雫が慌てて走り出してしまい計画は思わぬ方向に傾いてしまった。
雫は転倒した。郡司も一歩間違えれば眼鏡を割り、負傷するところだった。郡司は咄嗟に体を捩ったが雫は怪我を負ってしまった。そんな中、雫は自分の怪我よりも相手の心配ばかりをしていた。
郡司は雫こそ誠大に必要な人間だと思った。
東郷グループの後継者である誠大の経営の手腕は問題ない……ただ、冷血だ。人間味のない男だった。幼い頃から共に過ごしてきたが、ある事をきっかけに誠大は人間を信用しなくなった。屋敷の人間は誠大の我儘に慣れているが、今の東郷グループを継ぐ人間としての器としては不十分だ。人を信用する、思いやる心が欠けていた。
郡司は雫に申し訳ないと思いながらこの屋敷に連れてきた。これはきっと神様の思し召しだと感じた。
申し訳ございません……雫さま──とんでもないクズ犬の調教をお願いして……。
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