財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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14.初めてだった

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 誠大は部屋に戻ると水分を含み重くなった革靴を脱ぐと床に放り投げた。ベッドに腰掛けると濡れた足元のタイルを見つめていた……。床の丸い水滴を見てさっきの出来事を思い出していた。

 雫の瞳が揺れて大粒の涙が落ちた。その床の水滴が雫の涙のようだった。誠大は恐る恐る左頬に触れてみるとそこは脈を打ち腫れていた。唇も切れて熱を持っている。雫の声と傷ついた顔が脳裏を掠めると誠大は思わず目を瞑った。

『あなたはそんな偉い人間なの? 私から見れば、ただの馬鹿な人間よ、冷淡の救いようのないクズよ……』

『人の痛みに、敏感になりなさい』

 郡司に寄りつこうとする虫を排除したのは初めてじゃない。東郷家の執事──伊集院家といえばその辺の資産家よりも多くの財産を持っている。執事という仕事柄敵を作らないように心掛けているせいで、郡司の周りには金目当ての女がウジャウジャいる。勿論誠大もモテるが誠大は自分の意思で次々と打破している。郡司はそうはいかない……自分の一挙一動で会社の取引に不利になることもあると知っている。
 誠大は雫に釘を刺すつもりだった。手出しをするなと念を押すつもりだった。ただ、自分でも分からないが回り諄い事をしてしまった。明らかに郡司に対して態度の異なる雫に苛ついた。

 誠大は何とも言えない罪悪感に襲われた。呼び付けて一言言えば済んだのに……どうしてあんな風に呼び付けて、尚且つ抱きしめてしまったのか分からなかった。キャンドルの光に包まれた雫を見て誠大は胸がざわつくのを感じた。

「くそ──なんだよ……金目当てじゃないのか……?」

 初めてだった。
 初めて女に殴られた。あんな風に怒鳴られて叱責されたことも男女通して初めてだ。郡司にすらあんな風に殴られたことはない。

 誠大が全身びしょ濡れで廊下を歩いていたと聞きつけて郡司が慌てて部屋に入ってくる。上半身裸のまま動かない誠大を見て一瞬息を呑んだ……。よく見るとスラックスからも水が滴り落ちている。寒くて、衣類が体にへばり付き気持ちが悪いはずなのに誠大は気にも留めていないようだ。郡司は持っていた白いバスタオルを誠大の肩に掛けてやる。

「誠大さま……このままでは風邪を引きます……」

「郡司……」

 誠大の焦点は合っていない。頰をみると真っ赤になっている。微かに指の跡が見えた。左の口角から少し血が滲んでいた。相当な力で平手打ちをされたのだと気付いた。そして誠大にそんな事ができる人間はこの屋敷に一人しかいない──。

「はい……なんでしょう?」

「あの調教師は……金に興味がないらしい──頭がおかしいのか?」

 誠大の言葉に郡司が笑った。郡司は引き出しから着替えを出すとベットに置いた。革靴の中に溜まったままの水を見て郡司が残念そうな顔をした。最高級のイタリア製の革靴が台無しだ。

「雫さまは──特別な方です。金よりも価値のあるものの存在をご存知なんですよ」

「金より……それは何だ?」

 誠大の顔がようやく上がり郡司と目が合う。郡司は優しく微笑んだまま何も言わなかった。

「おやすみなさいませ……誠大さま」

 静かに部屋のドアが閉められた──。


 雫は部屋に戻ると疼く掌を撫でた。随分と経つのにまだ熱を持っている。人生で初めて人を殴ってしまった……しかも全力で。掌が赤く痒くなる……その手をすり合わせてみるが脈を打つ感覚が止まらない。

「平手打ちってこんなに……痛いんだ……誠大さまも痛かっただろうな」

 掌だけでこんなにも痛いのなら頰はもっとだろう──プールへ突き落とす時に口の端が赤かった。

 プールサイドでの抱擁を思い出す。触れているだけなのに胸が震えた。あの切なそうな声、少し震えた手が誠大だったなんて……。騙されていたなんて、信じられなかった。

「悔しい──なんて男なの……」

『私から見れば、ただの馬鹿な人間よ、冷淡の救いようのないクズよ』

 自分の言葉に自分が傷ついた。

 あんなことを考えるような男なら傷ついていないと思うけれど……もし傷ついていたら──どうしよう。

 雫はベッドに横になると天井の木目を眺める。雫はそっと目を閉じた。

 皆が寝静まった頃、雫は財布に入れたままだった郡司からもらった絆創膏を取り出した。握りしめると雫は溜息をついた。



 ◇

 誠大は朝目覚めると顔に違和感を感じた。顔に何かが貼られている。洗面台へと向かうと口角の切れた部分に絆創膏が貼られていた。郡司が部屋に入ってくると絆創膏に驚いているようだった。

「誠大さま……言ってくだされば処置をいたしましたのに──」

「……何?」

「次からはお申し付けくださいね」

 郡司が朝の準備を始めた。てっきり寝た後に郡司が手当てをしてくれたと思っていたが先程の反応からしてそうではないらしい。

 誰が、これを貼ったんだ?

 洗面台で誠大は絆創膏を撫でた。その絆創膏は切れた口角にかかるように優しく貼られていた。誠大が出勤のため玄関に向かっていると廊下で他のメイドと話をしていた雫と鉢合わせた。誠大に気がつくと雫たちは頭を下げ誠大たちが通りすぎるのを待った。

 雫の前で誠大が立ち止まる。雫は思わず息を呑んだ。無視をされると思っていた……それなのに視界に誠大の高級革靴が見えた。お辞儀をしたまま時が流れる。

「…………」
「おい……」

 声を掛けられて雫が顔を上げると誠大がじっと雫を見つめていた。雫と目が合うと誠大はすぐに視線を逸らした。その顔は無表情のはずなのにどこか困っているように見えた。口元には絆創膏が貼られたままだった。雫は絆創膏に視線を移すと再び足元へと視線を落とした。

すまなかった」

 誠大は一言呟くとすぐに廊下を歩き始めた。後ろについていた郡司が微かに微笑んだ。


 すまなかった──。


 その言葉にあんぐりと口が開く。横にいた美智もいつもの仮面が剥がれて変な声が出ている。並んだメイドたちも驚きの表情を隠せない。

「まじ?……謝ったよ──あの誠大さまが……」

 雫は少しだけ笑った……ほんの少しだけ。
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