財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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25.じゃんけん

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 カチカチカチカチカチ

 古時計の秒針の音が部屋に響く。雫はソファーに腰掛けたまま動かない。向かいに座る誠大は真剣な表情で新聞を読み続けている。先日珍しく冷え込んだので縄跳びをしていたのだがある事件が発生した。それから誠大は不貞腐れてしまったのかずっと雫のことを無視していた。いつも賑やかな調教の時間だが冷め切った空気が流れている。

「いつまで怒っているんですか? 寒かったし、記録更新したくて、つい。縄跳びがダメでしたか?」

「…………」

「誠大さまの、シャツを破いたことを怒っているんですか? 転倒しそうになって必死に掴んだんです。でも、シルクですか? 縫製が甘い──いや、すみません。高級ですもんね……。勢い余って押し倒したのが良くなかったですか? もう許してくださいよぉ」

 先日縄跳びをしていて雫が椅子の足に引っ掛かり転倒しかけた。誠大はシルクのシャツを羽織っていたがバランスを崩した雫が胸元を掴んだ。誠大は油断していてそのまま押し倒された。気が付くと誠大はシャツの前をはだけさせていた。鍛えられた胸元に雫の顔が押しつけられていた。直接肌と肌が触れ合った。

『な、何──』
『アタタ……あれ……誠大さまなんで裸──』

 誠大は雫を払い除けてウォーキングクローゼットへと慌てて引っ込んだ。残された雫は突然の事に首を傾げていた。

 閉じ籠もった誠大は頭を掻きむしり腕で顔を覆った。高熱があるのかと思うぐらい体が熱かった。雫が触れた部分がひどく痛んだ。

 雫はシャツを破いてしまい誠大が怒っていると思っていたが実際はそうではなかった。雫の顔を見るとあの時の事を思い出し恥ずかしいだけだった。

 雫が落ち込んでいると部屋をノックする音が聞こえた。誠大はすぐに返事をした。

「……失礼いたします」

 他の仕事がある郡司に代わり梅原がティーセットを乗せたワゴンを押してやって来た。雫と目が合うと優しく笑った。目尻に数本シワが入り目が細まる。ふくよかな体は包容力が現れているようだ。ついお母さんと呼んでしまいそうな程母性が溢れている。

「誠大さま、雫さま、お飲み物は紅茶をご用意致しました」

「梅原さん、お忙しいのにすみません……」

 梅原は丁寧に紅茶を注ぎ雫と誠大の前へ置く。高級カップに注がれた紅茶の鮮やかな色と香りに思わず声が出そうになる。

「ありがとうございます、頂きます」  

 雫がカップを手に取ると香りに酔いしれる。この屋敷で出されるものは全て一般庶民には手が出ないものばかりだ。お菓子も、まかないご飯も最高に美味しい。これでお給料までもらえるなんて最高だ。雫が幸せそうに微笑んでいると誠大がボソリと呟いた。

「良い香りだ、ありがとう」

「……勿体無いお言葉でございます。ありがとうございます」

 梅原は手を前で組み頭を下げた。頬を赤らめその横顔は慈愛に満ち溢れていた。誠大は再び窓の外へと視線を戻した。梅原は静かに部屋を去った。誠大は紅茶を飲んで心が落ち着いたのか躊躇いながら声を掛ける。

「それで……今日は何をする気だ?」

「許してくれるんですか!? あぁ、良かった。誠大さま……誠大さまが転倒しかけた時私が同じように助けますね!」

「同じようには無理だろう。俺が逮捕され──いや、何でもない」

 誠大は首を横に振り呆れたように笑った。雫は何かを思い付き大袈裟に手を叩いた。

「あ、誠大さま、今日は叩いて被ってジャンケンポンしましょう」

「……なんだ? それは」

 誠大は眉間に皺を寄せた。嫌そうな感情を隠さない。誠大は人生で初めてその単語を耳にしたらしい。財閥が読む書物にこのワードが載る事はないはずだ……無理もない。雫が誠大の顔を見て目を細めた。

「その顔……まさか、子供の頃にこれで遊んでいないって言うんじゃないでしょうね?」

「そんなもの知らん……ジャンケンか? 幼稚も幼稚だな……俺は本でも読むから──」

 誠大は面倒臭そうに立ち上がろうとするのを雫は腕を引き再び座らせる。雫は昨日の新聞と洗面台から洗面器を持ってきた。新聞を丁寧に丸めていくと硬い棒を作った。素振りをすると空を切る音がする……楽しそうな雫を誠大は盗み見ていた。
 
 雫がルールを説明すると誠大は露骨に嫌そうな顔をした。こんな乱暴な遊びをしようだなんて無茶苦茶だ……確実に男女の壁はない。

「くだらん……こんなもの」

「誠大さま【スピード】の時もそうでしたけど反射神経鈍いから無理ですよね……ジャンプ力だけしか能がないから……」

「……ほう?」

 誠大は徐ろに立ち上がると上着を脱ぎシャツの袖を捲り始めた。上半身しか使わないのにアキレス腱を伸ばしているあたりに本気度を感じる。

 ちょろい、ちょろ過ぎるわね。誠大さま……。

「じゃあ、負けなきゃ良いんだな?」

「まぁ、そういうことになりますね」

 誠大は目を爛々と輝かせている。雫は机の上に洗面器と丸めた新聞紙を置いた。雫はハンデとして右利きの誠大が攻撃しやすいように配置してやる。

「じゃん、けん、ぽん!」

 雫がチョキ
 誠大がパー

 ジャンケンに勝った雫が丸めた新聞紙を手に取ると誠大は洗面器を取るのを忘れた。気がつくと鬼の形相で棒を振りかぶる雫と目が合った。

「もらったぁ!」

 パアァン

 誠大の頭に新聞紙の棒が炸裂した。新聞紙はへし折れてしまったが雫は嬉しくて飛び跳ねた。ガッツポーズで天井に向かって拳を振りかざした。

「やったやった!」
「…………」

 誠大は俯いたまま背中から暗黒のオーラを纏っている。それに気づいた雫が慌てて誠大に駆け寄る。誠大はこうして誰かに頭を殴られる事は初めてだ。こんなにも視界がブレるものだったのかと驚いた。木戸を灰皿で殴るときには今度から加減するか、申告してから殴ろうと誠大は思った。誠大に木戸を殴らないという選択肢はない。

「だ、大丈夫ですか? あの、その、すみません……つい本気で、あの、振り切ったのわざとじゃ──」

「かまわん、負けた方が悪い──続きをやるぞ」

 誠大は気合が入ったのかスーツベストまで脱ぎ始めた。戦闘態勢だ。叩かれた黒髪の髪を掻き上げる姿はまさに野獣だ。

「「じゃん、けん、ぽん!!」」

 今度は二人で声掛けをした。声が重なったのが少し嬉しかった。

 雫がチョキ
 誠大がグー

 誠大が新聞紙の棒を掴み悪魔のような笑みで振りかぶった。当たる瞬間雫はすでに洗面器を被っていた。洗面器に棒が当たり大きな音が部屋に響くと雫が不敵な笑みを浮かべた……その顔は悪代官にすり寄る越後屋のようだ。年頃の娘らしからぬ笑みだ。

「ふふふ……甘いですよ誠大さま……このゲームは十五年してきましたからね、仙人レベルですよ、新参者には負けません」

「人生の半分以上かけてきた至極の特技がこれとはな……だが、見切ったぞ……」

 誠大も妖しい笑みを浮かべた。静かに闘志を燃やす二人だった。


 しばらく時が流れて、木戸が誠大の元へ向かうと桔梗の間の前では梅原を始め多くのメイドたちがドアに聞き耳を立てていた。

「見ぃちゃった……優秀なメイドたちが何をしてるのかな? 梅原さんまで……」

「……っ!?」

 木戸の声に驚いたメイド達は軽く悲鳴を上げた。梅原を除くメイドたちは慌てて蜘蛛の子が散るように立ち去る。

「あらま、木戸さんか……脅かさないでください。ちょっと面白い事になってましてね……」

 胸を押さえて梅原は息を吐く。木戸の背中を叩くとドアへと視線を戻す。その表情は嬉しそうだった。木戸は梅原に合わせて音量を下げる。

「どういうこと?」
「聞けば分かりますから……」

 木戸は半信半疑で桔梗の間のドアに聞き耳を立てた。部屋の中から息を切らした男女の声が聞こえる。随分と二人とも疲れ切っているようだ。一人は誠大の声だがもう一人は分からない……。

「ふぅ……どうだ、俺のスピードは」

「最初だけですね、無駄な動きが多いんですよ。そのまままっすぐ打ち込めば良いんですけどね」

 ん?……何の会話だ? 二人の荒い呼吸と妖しい言葉に木戸は壁により耳を押しつける。

「ちょっとハッスルしちゃいましたね。ふう、誰か来る前にエプロン付けなきゃ……昨日はシャツを破って、今日はいっぱい汗掻かせちゃいましたね……すみません」

「シャワーを浴びるから問題ない。そもそも君がムキになるからだろう……そんなに負けるのが嫌なのか? 確かに上手いとは思うが……」

 木戸は息を呑み口をあんぐりと開けた。梅原は「激しいでしょ?」と微笑む。

 はい? な、なんだ!? シャ、シャツを破ったのか!? 上手い……何がぁ!?
 なんだ、この艶かしい内容は。二人は服を脱ぎ何をハッスルしたんだ! そしてなぜ梅原さんはこうも冷静に実況しているんだ!?

 木戸は目眩がした。誠大さまが、あの人間不信の誠大さまがメイドとそんな関係に?
 木戸は意を決してドアをノックする。

 見たい、部屋の中にいるハッスルの女を是非見たい。突然の木戸のノックに梅原は慌ててその場を離れた。ノックの音に中から慌てたような物音がする。木戸は聞き逃すまいと耳をドアにぴったりと付けた。

「誠大さま、服を……」

「このを隠せ。君も身だしなみを整えるんだ」

 武器……。木戸は今度こそ目眩で倒れそうになる。誠大さまに武器を使わせるとはなかなかの強者らしい。

 すぐに落ち着き払った誠大の声が聞こえた。どうやら身だしなみが整ったようだ。

「……入れ」
「失礼します」

 部屋に入るとにこやかな顔をした雫と額の汗を拭う誠大に目をやる。微笑む雫に対してどこか落ち着かない誠大は木戸の追求の目を避けるように足を組み直した。

 まさか……雫ちゃんだとは思わなかった……。ジャックと一緒に芝生を駆ける可憐な姿を思い出す……。そんな彼女が、武器……。シャツの前ボタンを飛ばすほど肉食か!? ギャップ萌え半端ねぇじゃねぇか! おじさんそんなの──大好きだっ!

 木戸は雫に目をやると雫が悪戯っ子のような顔をした。

「楽しい……ことしてたみたいだね」

「あ、バレちゃいました? えへへ、思いっきり誠大さまをぶっちゃいました」

 雫の屈託のない笑顔と軽い調子に木戸はおもわず怯む。木戸はとりあえず「そりゃ良かった」と微笑み返した。

「俺、ちょっと急用が……」

 木戸は用事を思い出したふりをして部屋から出て行った。その目尻からは涙が滲み出ていた。

 木戸の誤解が解けるのは後日……誠大が叩いて被ってジャンケンポンで大敗を期し雫にボコボコに殴られたと屋敷内で内々に噂が流れるまで続いた。

「誠大さま……なぜ武器が誠大さまの近くに置かれているのです?」

「……お前は元警官だろう。当然だ。武器の使い方は手慣れているだろう」

 しばらく誠大は木戸相手に叩いて被ってジャンケンポンの練習に励むのであった。
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