財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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12.逢引き

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 会社の社長室で誠大が処理する書類に目を通していると郡司が一冊のファイルを持って部屋に戻ってきた。それを誠大に手渡す。誠大はファイルを開くとその内容に目を細めた。

「こちらが先日仰っていた清掃会社です。都内の小さな清掃会社ですが、先代の社長との縁があり清掃業務契約を──」

「分かった……」

 視察から帰宅すると誠大は担当している清掃業者の経営を調べろと郡司に命じた……郡司が心配そうに誠大の様子を伺っている。突然変なことを言い出したのには何か訳があるはずだ。
 
「何か、気になることでもございましたか?」

「……前回の視察まであのビルは驚くほど清掃が行き届いていた。あんな風に床に汚れを残したままだとは考えにくい。エレベーターの隅にも埃が残ったままだった」

 誠大の観察力は並外れている。郡司は誠大はこの屋敷に生まれていなければ探偵として名を残しただろうと思っていた。誠大はファイルを閉じると疲れたように背もたれに身を任せた。郡司はファイルを受け取ると誠大に別のファイルを手渡した。

「これを御覧になられるとその謎が解けるかもしれません──私も驚きましたが……」

 ファイルを開くと雫の隠し撮りの写真が挟まっていた。中身は雫の身辺調査結果だった。雫の勤め先の欄にその清掃会社が書かれていた。誠大は郡司を睨みつける。郡司が雫の仕事を知っていて引き合わせたのではないかと疑っていた。郡司は掌を見せて潔白を示すと口元を緩ませた。

「私は何もしていませんよ。本当に偶然です。雫さまをスカウトしたのは私ですから。ビルの衛生面の劣化は雫さまの退職の影響でしょう……雫さまの清掃テクニックは素晴らしいと梅原が申しておりましたから」

「そうか……」

 誠大は黙り込んだ。とても偶然とは思えなかった……。
 
 あの調教師は俺や郡司の事を本当に知らなかったのか? もしかして何かの目的で近付いたんじゃ……。郡司に顔を覗かれて純粋そうに顔を赤らめていた雫を思い出し誠大は腕を組んだ。



 ◇


 その日の晩は誠大の体調が悪いという事で調教は無しになった。久しぶりに長湯をして部屋に戻るとベッドの上に白の封筒が置かれていた。中身を確認すると白の硬い紙に黒字で滑らかな文字が並んでいる。

 今夜十一時に屋敷のプールサイドで待っています──郡司

 雫はそのカードを握りしめながらわなわなと震え出した。興奮してベッドの周りを動き回る。何度もカードを確認して声にならない声を上げる。

 嘘、嘘でしょ! これってこれって……夜中のデート? え、まさか愛の告白……?

 雫の頭の中で郡司が雫の頰に手を添える。なぜか舞台は海外でよく見る色とりどりのライトに染められたプールだった。妄想なのでそこは脚色も致し方ない。若干郡司もアメリカっぽくシャツのボタンをはだけてお色気ムンムンだ。少し乱れた前髪が額にかかり男らしい……。

『雫さま……調教は口実です……私はあなたのそばに……』

『ぐ、郡司さん……』

 二人の顔がゆっくりと近付き唇が重なる……。

「キャーー! 待って待って!」

 雫は頭から蒸気が出るのを感じた。一人で妄想が膨らみすぎてしまった。頰が赤らむのを抑えようとベッドに突っ伏すと枕に顔を押し当てて足をばたつかせた。あくまで妄想だ。

 いや、郡司さんは素敵だと思うけれど……突然こんなカードもらったら……いやいや、数日前に振られたばっかりなのに……。何を浮かれてるんだろう……。

 雫は起き上がると溜息をついた。壁時計を見つめる……刻み続ける秒針が止まれば良いのにと思った。




 しばらくして雫はベッドの上に正座をしていた。壁時計の針を確認すると姿鏡に自分の姿を映した。もうすぐ郡司との約束の時間だ。雫は部屋を抜け出した。

 東郷家のプールは屋敷の隣の来賓館に設けられている。来賓館は要人のために常日頃から手入れが行き届いている。中庭を通り抜けて専用の小階段を抜けてプールサイドに出た。長方形のプールの輪郭に沿って等間隔にキャンドルが置かれている。そばの大きな木にはLEDライトが点滅し、その光が水面に映り込む。辺り一面が煌めいており幻想的な光景に雫は思わず声が出た。来賓館の本来の姿に驚く。

「わぁ……すごい……」

 雫は階段からプールサイドに出ると奥に人影が見えた。郡司は雫に背を向け夜空を見上げていた。グレーのスーツの背中がうっすらと見えて雫は緊張が高まる。

「郡司……さん?」

 雫が郡司に歩み寄ると突然郡司が振り返り雫を抱きしめた。郡司の温もりを感じて胸が高鳴る。来賓館には誰の姿もなかったが蝋燭代や銀食器がシャンデリアの照明を受けて煌めいていた。至る箇所が輝いて見えて雫は瞬きを繰り返す。

「ぐ、郡司……さん……あの……」

「……好きです──」

 ドクンッ

 心臓の鼓動が聞こえた気がした……その音が自分のものなのか雫は分からなかった。郡司は雫の耳元に唇を寄せると愛の言葉を囁いた。眼鏡が頬に当たる感覚に思わず目を瞑る。
 キャンドルのオレンジの光とイルミネーションの灯りに包まれて抱き合ったまま二人夜空に浮かんでしまっようだ。

 郡司さんが、郡司さんが……私の事を好きと言ってくれた。嘘みたい。どうしよう、出会ったばかりで良くわからないけど……。この胸のときめきは、何だろう。いい香水の香りがして、ずっとこうしていたいと思うこの気持ちは……何なんだろう。良い人だと思う。でも──こんな中途半端な気持ちじゃ、答えられない。

 ドクンッ ドクンッ

 心臓の鼓動を聞かれまいと雫は息を吐くと郡司から離れた。 

「郡司、さん……あの、嬉しい、です──」

「……ふ、ははは! っふ……いい反応だ」

 抱きしめていた郡司が離れると突然笑い出した。顔を背けながら口元を押さえて笑いを堪えた。豹変した郡司に雫は何が起きたのかわからなかった。でも、その笑い声には聞き覚えがあった。いつも腹立たしいと思っているその笑い声が聞こえてきた時に雫の中で何かが崩れ去った。

 え? 何──何で……。

 止まらない笑い声に雫は胸が冷えていく感覚がした。郡司は眼鏡を外し、後ろに流していた髪を手で乱暴にほぐした。

「普通、間違えるか? 気付くかと思ったがな……」

 馬鹿にするような瞳で雫を見下ろすその男は郡司ではなかった。雫の表情が変わったのを確認するとさっと表情を消して雫を睨む。その視線は雫を射抜く様だった。

「まさか……そんな──」

 雫に愛を告白したのは郡司ではなく、郡司に変装した誠大だった──。

「愛しい男と思ったか? 残念だったな……郡司じゃなくて」

「なんで……」

 雫は何が起こったのか理解出来ず呆然と誠大を見つめた。
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