財閥の犬と遊びましょう

菅井群青

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8.邪魔な調教師

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 移動する車の中で誠大は不機嫌そうに前を睨む。仕切り板の向こうに座る郡司は諦めたようにボタンを操作し仕切り板を下げた。

「諦めてください。既に契約は締結して──」

「破棄したら……ドキュメンタリー番組に出演だなんて……俺は聞いてないぞ! サインした覚えもない!」

「破棄しなければ良いのですから問題ありません。万が一破棄すれば……誠大さまのメディアに──」

「もういい。くそっ!」

 郡司は眼鏡をずり上げると微笑んだ。

「この契約がある限り密着取材やテレビのインタビューの仕事は断ります。利点だらけではありませんか?」

「……クソ執事め……」

 誠大はそっぽを向き窓の外を眺めた。


 大都市の一等地にある五十四階建てのビルに一台の黒塗りの車が到着するとエントランスの周りに群がっていたスーツ姿の男たちが一列に並び車の後部座席が開くのをじっと待っていた。その表情は待ちわびたような喜びというより緊張の色が強い。出迎えをする年には見えない明らかに重役の装いをした男たちが一世に頭を下げる。

「「お待ちしておりました」」

 車から降り立った誠大は面倒臭そうに睨む。

「出迎えはやめてくれって、何度も言っているだろうが……ヤクザか」

「明治の時代からこのスタイルですから……聞く耳持ちませんよ」

 誠大の隣に立つ郡司はいつも偉そうに踏ん反り返っている男たちの頭皮を眺めて嬉しそうに頷く。その列にいた最も年齢の高い恰幅の良い男が一歩前に出て貼り付けたような笑顔で話しかけて来た。

「これはこれは……誠大さま! わざわざご足労いただきまして……」

「突然の訪問は迷惑だって顔に書いているぞ神石……俺だって抜き打ちで来たくはない──天洋はいないのか?」

「め、滅相もない! その、社長は今日は大阪へ出張でして……」

 このビルは東郷グループの所有で東郷家の親戚が経営している。この会社の社長である東郷天洋は誠大の従兄弟だ。親戚と言っても名ばかりで腹の内は分からない。

 誠大はビル内に入ると真っ直ぐエスカレーターに向かって歩き続ける。立ち止まらない誠大の背後を合鴨の子のようにぞろぞろと男たちが付いてくる。誠大の歩くスピードについて行きながら神石と呼ばれた男は息を切らしている。大きなお腹が揺れているのが見えて誠大がほくそ笑む。

 誠大はこうしてグループ傘下の視察を月に数回行う。好きで行っているわけではないが現社長である父親の命令では仕方がない。エレベーターの前に立つと床にある靴底のゴムが床に擦れて汚れが付いていた。誠大はその汚れを見つけると意外そうに顔をしかめた。エレベーターが到着すると最奥へ進むとエレベーターの隅を確認した。

「神石、最近清掃会社を変更したか?」

「清掃会社……でございますか? いえ、以前と変わりないはずですが……」

「そうか……」

 誠大の質問に神石は首を傾げた。今まで幾度も視察に来たが清掃のことを聞かれるのは初めてだった。神石は額から溢れる汗を必死でハンカチで押さえて早く目的の階に到着することを祈った。


 ◇



 前回同様誠大の部屋の前に立ち大きくノックする。すぐに部屋の中から返事があり雫は背筋を伸ばす。

「失礼します」

 部屋に入ると誠大はソファーに座り新聞を見ていた。一瞬だけ雫に視線やるとすぐに新聞へと視線を戻す。

「また来たのか……いつ屋敷から出て行くんだ?」
「お邪魔します」

 誠大の言葉を無視してそのまま雫が向かい合うように座る。ドアを軽くノックする音が聞こえると郡司が部屋へやって来た。その手にはいい香りのするワゴンがある。コーヒーのいい香りとバターの効いた香りが部屋に漂う。

「わぁ、すごい」
「ごく普通の菓子だ」

「コーヒーのいい香りがしますね」
「ミルクも砂糖も入れるんじゃないだろうな……」

 雫は誠大の嫌味にムッとする。

「私はブラック派です」
「ほう、それは良かった」

 誠大は一度も雫を見ないし、郡司が入れてくれたコーヒーに見向きもしない。新聞で四方を囲んだままだ。雫はだんだんと腹が立ってきた。貴重な時間をこんな自己中心的な男と過ごしたくない。

 新聞を掴むと一気に奪い取る。誠大は大きく目を開き雫を睨みつけて立ち上がる。雫も立ち上がると腕を組んだ。

「どういうつもりだ……」

「自分一人の世界にこもっちゃって何様のつもり? 目の前に出されたコーヒーやお菓子たちが可哀想じゃありませんか?」

「……は? 君こそ何様だ?」

「誰かの思いやりやその手間を感謝しませんか? そんな人として当たり前のことを指摘するのに上下関係は必要ないです。誠大さまは頭が良いから……私の言う事、分かりますよね?」

 雫が腰に手を当てて誠大を見上げる。その様子を郡司は楽しそうに微笑んで静観していた。雫は誠大の肩を掴むと座らせようと上から押した。誠大は抵抗する事なくソファーに崩れる様に腰掛けた。

「さ、座ってください」
「…………」

「ほら、手のひらを合わして……」
「お、おい……」

 雫は大人しくなった誠大の両手を掴んで掌を合わさせる。雫は向き合うようにして誠大の手の甲を包み込みお辞儀をする。

「はい、いただきます……」

「……いた、だき──ます」

 誠大の手を離すと雫はソファーに座るとコーヒーを頂く。口に含むと苦い香りが鼻から抜けていく。この芳醇な香りは最高級品だ、間違いない。

「郡司さん、すごい美味しいですね……これ」

「恐れ入ります」

 誠大は一口飲むが出されたコーヒーをじっと見つめるとソーサーに置く。

 どうもこの女が屋敷にやってきてから居心地が悪い。郡司が訳のわからないことを言い出したせいだ。俺に調教は必要ない。仕事もこなしそれなりに人生を謳歌している。こんなヨダレ女に教わることなど何もない。

 誠大は湯気の上るコーヒーを見つめた。
 言われてみていつもいつのまにか置かれたコーヒーを誰が置いたのか意識したことはない。当たり前のようにそこにあったし、手をつけずに用事で部屋を後にすることもあった。

 誰かが、俺のために入れてくれたもの……か? 
 誠大は一瞬だけ胸がしんと冷えた気がした。ほんの少しだけ。

 調教の時間が終わると雫は牡丹の間へと戻った。ベッドに腰掛けるとテーブルの下に影が見えた。朱色の絨毯に黒い染みがついている。立派な絨毯だ……きっと掃除をすれば見違えるほど綺麗になるだろう。雫はそれを見てうずうずし始めた。そのままスーツケースを開けるとプロ御用達の洗剤を取り出した。ゴム手袋をして作業を開始する。見事に染みは取れた。やはり掃除をしている時ほど生きていると感じる瞬間はない。

「いやー、手強い敵ほど燃えるのよね!」

 雫が洗面器と掃除道具を手に部屋を出たところで梅原と鉢合わせた。洗った道具を外で乾かそうとしていたところだった。

「あ」
「え? 雫さま──それは……」

 梅原が目を点にして道具を見ていることに気づくと雫は苦笑いした。
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