忙しい男

菅井群青

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泣く背中

プロポーズ

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 無事に遼は現場に遅刻する事なく出勤した。いつもよりも気分が良くどんよりとした曇り空を見上げてもつい笑顔が溢れる。紗英の見送りがあるだけで重いものも軽く感じる。意外にも自分は単純な男だったのだと遼は思った。

「ん? なんだ? 菊田お前今日元気だな」

「そうですかね? はは……」

 遼の変化に気がついた先輩は木材を運ぶ遼を見てニヤリと微笑む。揶揄うように遼の太腿を叩いた。

「ふんっ、さては彼女んとこに泊まってきたか?」

「あ……あぁ、ははは」

 遼は朝の新婚のようなやり取りを思い出し笑みが出る。先輩は遼の顔を見て小さく頷く。遼の持ってきた木材の片側を持つとゆっくりと床に置いた。

「いいお嬢さんなんだな……菊田、お前にとって唯一無二なら逃すんじゃないぞ。噛み付いて離れるな」

「先輩、すっぽんじゃないんですから」

 遼は吹き出して笑った。でも先輩の言葉に妙に納得してしまった。

 落ち込むのも、幸せな気持ちになるのも紗英だからだ。俺は、紗英のそばにずっといたい……抱きしめていたい。寂しいのなら、昨日みたいに無理してでも会いに行けばいい。現に次の日のことを考えて会いに行かないよりもすっきりしているし、何より幸せだ。

 セックスをするから、愛情をもらえたり与えたりするんじゃない……あくまでそれは手段なだけだ。大事なものは、もっと他にある。

 一緒に、生活したい。一緒に、朝を迎えたい。目覚めた時に、一番に紗英を抱きしめたい。

 同棲したいと、一緒に住もうと言おう──遼はそう思った。

「よし、休憩するぞ。菊田、鼻の下伸ばしてないで茶を注げ」

「いや、真面目にやってますから!」

 先輩はとても嬉しそうだった。






「お疲れ様でした!」

 遼が今日の仕事を終え携帯電話をカバンから取り出すと紗英からメールが来ていた。

──今日、少し会えない?話があるの

 遼は立ち止まってもう一度文章を見返す。絵文字もない。いつもの感じと全く違う。説明できない胸騒ぎがした。今朝見た紗英の表情が暗かった事と何か関係があるのかもしれない。

 なんだ? 俺は何かしたか? 

 遼がすぐさま返信をする。きっと仕事中で見れないが早く送り返したかった。

──会社の近くのカフェに行こうか? 仕事があるだろう?

 携帯電話を握りしめたまま遼は歩き出した。きっと酔って押しかけてしまったからだと遼は確信していた。

 昨晩何かしたか?
 迷惑だったか?
 重荷か?
 怒っているのか?

 手に持った携帯電話が震えた。早い。返信がいつもより早すぎる。慌てて遼は受信メールを開く。

──仕事終わって色々済んでから、私の家に来てくれる? 外より家の方がいいの。晩御飯は食べないでね

 家の方がいい……その文面から遼は紗英から大切な話がある事を感じた。外では話しにくい内容らしい。

 メールでは全貌は分からない。遼は不安な気持ちを抱えながら帰宅した。いつものようにシャワーを浴び、洗濯物を干すと慌てて紗英の部屋へと向かった。真っ暗な部屋を想像していたが、なぜか部屋には明かりがついていた。こんな時間に紗英が帰宅しているなんて久しぶりだ。遼は玄関の前に立つと自分の胸を叩く。

 大丈夫だ。別れ話じゃない……俺たちはそんなヤワな関係じゃないはずだ。言うんだ。一緒に暮らしたいって、同棲しようって言わなきゃ──。

 遼はインターホンを押した。すぐに玄関のドアが開かれた。エプロン姿の紗英が優しく微笑んでいた。「いらっしゃい」と迎えてくれて正直遼は旨を撫で下ろした。促されるように部屋へと入るとテーブルの上には紗英のお手製の料理が並ぶ。それを見て胸が温かくなる。紗英のアパートまでの道が暗かったからだろうか……目に入るもの全てが遼には眩しく見えた。

「遼、ご飯食べよっか」

 紗英が俺の背中に触れる。促されるように座ると紗英が俺に山盛りの茶碗を手渡す。

「おかずでもうテーブルがいっぱいだから、茶碗を持ったまま食べてね」

 そう言って箸を握らされた。紗英と目が合うと紗英は弾けそうな笑顔で微笑んだ。遼は子供のように端を握りしめてお礼を言った。

 あぁ、嬉しい……少し涙腺が緩みそうだ。
 遼は瞬きを繰り返すと誤魔化すように煮物の厚揚げを箸で掴むと口の中に放り込んだ。

「さ、私も食べようっと」

 紗英も席に座ると箸と茶碗を持ちエビフライに手を伸ばす。穏やかな時間だ。紗英がこうして向かいに座っている。それだけでこんなにも幸せだ。

「ごちそうさま」

 食べ終わると遼は立ち上がり皿を片付け始める。袖捲りをしてスポンジを握った。

「紗英、風呂まだだろ? 片付けておくから、行っておいで」

「うん、ありがとう」

 紗英は遼の言葉に甘えて風呂場へ向かった。紗英はシャワーを浴びながら遼の言葉を思い出していた。

── お前をこうして抱きとめているのに寂しいって言っていいか?……さ、え、寂しい、寂しいんだ……

「遼……」

 シャワーを頭から浴び続けていると脱衣所から声が掛かった。いつのまにか量が風呂場の曇りガラスのそばに立っている影が見えた。紗英は慌ててシャワーの湯を止めた。

「紗英? 大丈夫?」

 随分とシャワーを浴び続けていたようだ。いつもと違い、長く風呂場から出てこないので遼が心配してくれたらしい。

「あ、今出るところ。ありがとう」

 紗英はバスタオルで体を包むと毛先から落ちる雫を見つめていた。覚悟は決まった……。


 脱衣所のドアが開くと遼が心配そうに紗英に近づく。見つめるその瞳に紗英は胸が痛くなった。

「大丈夫か? 疲れてるんだろう? もう俺帰るから……紗英、寝なよ」

 遼の顔は真剣だった。紗英は嬉しかった……。遼は本当に優しい。いや、優し過ぎた。紗英は遼の手を引き寝室へと連れて行く。遼は紗英に引っ張られる形で後ろをついて行く。

「遼、そこに座って……話があるの」

「あ、ああ……」

 遼は一気に緊張した。動揺しつつもベッドに腰掛ける。本来の目的を忘れていたわけではないが、幸せな時間を過ごして忘れたくなった。緊張をほぐすようにシャツの胸部分を引っ張り体の熱を飛ばした。紗英が遼のそばに丸椅子を持ってくるとちょこんと座った。向かい合うように座ると両手を何度も握り直した。俯いていた顔を上げると紗英は意を決したように遼を見つめた。

「遼……昨日の夜中のこと覚えてる? ここで二人寝てた時のこと」

「昨日の夜中……いや、タクシーに乗ったところまでしか──気づいたら朝だった……」

 遼は不安そうに紗英を見つめる。紗英は遼の手を強く握る……遼は紗英の顔を覗くと不安そうに口を開いた。

「紗英に、何かしたのか?」

「昨日……遼は……泣いてたの」

「──え?」

「私を抱きしめて……寂しい、寂しいって……泣いてたわ。本当に、ほんと、うに、遼は……辛そうで……見ているだけで、私まで──」

 紗英は涙が止まらない。
 自分は泣いてはいけないのに、泣きたいのは遼のはずなのに……あの爆発のことを思い出すと涙が出る。

 遼の悲しみ、切なさ、寂しさ──そして私の愚かさに、情けなさに……。

 遼は固まったまま動かない。何も言えない。記憶の彼方に夢で紗英に寂しいと言った事を思い出した。そして、それは全て夢ではなかったのだと気付く。

「寂しいって泣く遼を強く抱きしめていたの……でも、遼は、寂しいって、言えない自分を、そう思う自分を責めて、たの……私に抱きしめられながら……」

「さ、え……」

「──抱きしめているのに! 遼は、遼は……ずっと私の名前を呼んで……求めてた──う、ご、ごめ……」

 紗英は嗚咽を抑えきれない。しゃくりあげるように泣き出した。遼はそのまま紗英の体を抱きしめる。何も言えない遼の目が大きく開かれ、その瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。遼は一瞬自分が泣いていることに気付かなかった。頬に何かが当たった気がして触れてみて自分が泣いていることに気がついた。

 どうすればいいんだ──紗英が、泣いている。俺のせいで、泣いている。違うんだ、違う。紗英が悪いんじゃないんだ。そんなに思い詰めなくていいんだ。

 遼は瞳を閉じて体を震わせる紗英を引き寄せると強く抱いた。どれぐらいそうしていただろうか。紗英が泣き止んだのがわかった。

「紗英……ごめん。俺、寂しかったんだ。でも、言えなかったんだ。我慢すればいいと思ってたんだと思う……無理していたことにも気付けなかったんだ。夢で紗英に会うぐらい、求めていたのに……」

「遼……」

「だから、その……紗英……お願いがあるんだけど……俺と、俺と……同棲してくれないか? 紗英を待ちたいんだ……紗英と少しでも一緒にいたい」

 遼の申し出に紗英は表情が固まる。何も言わない紗英に遼はどうすべきか悩んでいると紗英が首を横に振った。

「それは、違う──だめ」

 紗英の言葉に遼は胸が痛くなる。なんて言えばいいのか分からない。徐ろに紗英は遼の頰を両手で包んだ。その手は温かった……。どうして、ダメなんだ。俺を見つめる瞳はこんなにも愛で溢れているのに──。

 見つめ合ったまま紗英は動かなかった……紗英は「違うの、そうじゃなくて……」と呟くとそっと遼に口付けた。柔らかい唇の感触に遼は瞳を閉じる。触れ合うだけのキスは甘くて背筋に何かが走った。

「遼、私と、結婚して……」

「──け、っこん?」

 紗英は瞳に涙を溜めている……今にも零れ落ちそうだ。

「お願い……遼、私と結婚して──遼を、幸せにしたいの。遼をもう……寂しい思いをさせたくない」

 紗英の言葉の意味を理解すると遼は紗英にキスをした。物足りなくて恋しくて遼は顔を傾け深く紗英の唇を包み込む。

「ん……」

「紗英……」

 遼は口付けの合間に紗英の名を呼ぶ。呼ばれる度に胸が熱くなる。紗英の目尻から涙が流れ落ちた。

「俺でいいか?」

「遼じゃなきゃ、だめよ──」

 遼が嬉しそうに頷くと再び口付けた。その日、二人は一緒に朝を迎えた。幸せだった。遼も紗英も、互いの温もりを噛み締めていた。
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