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ボタンの掛け違い
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あれからずっと泣き続けた里美を抱きしめていた。どれぐらいそうしていただろう……感情をぶつけ続けた里美は俺の胸の中で眠ってしまった。そのまま横抱きにしてベッドへと移動させた。そっと濡れた頰にくっついた髪を指で払う。
「ごめん、な」
随分と辛い思いをさせていた。謝ることしかできない。どうしたら伝わるんだろうか……。
もう、間に合わないのか?
もう、俺たちはダメなのか……?
嫌な考えを振り払おうと目を強く瞑る。諦めればそれまでだ。出来ることをしよう……里美の気持ちが変わるまで。それでも無理なら、どうしても無理なら……その時は──。
◇
部屋の中が明るい……奥の台所の照明も付けたままだ。エプロン姿の誰かが台所に立ち何かを作っている。母親がご飯を作りにきたのか? ぼんやりとした目を擦りながら体を起こすと台所の人物が声をかけてきた。振り返ったその人は憲司だった。
「起きた? もうご飯できるよ」
「……え? なんで……」
ようやく今日の昼間、憲司に思いの丈をぶつけたことを思い出した。人間泣いて寝るとスッキリするというが、スッキリしすぎて記憶が曖昧だ。もしかしてとんでもない顔をしているかもしれない。顔を両手で覆うと憲司が側に来てその手を外す。目が合うと憲司は優しく微笑んだ。
「大丈夫だ、ちゃんと可愛いから。さ、食べよう」
さらっと恥ずかしいことを言う憲司にどんな反応をしたらいいか迷っているとそのままテーブルの前に座らさせた。和食の晩御飯が並んでいた。憲司の手料理なんて久しぶりだ。
「いただきます……」
「はい、どうぞ。召し上がれ」
味噌汁を啜ると温かい汁が胃袋までを流れていくのがわかる。なんでだろう、ホッとする。数日の疲労が溜まっていた事に気付く。
「……塩分が染みるだろう?」
「……誰のせいだと……」
「俺。全部俺、ほんと、最低……」
消え入りそうな声に黙っていると憲司が箸を置いた。
「悪かった、本当に……でも、もう一度考えてくれ、俺とやり直すこと……」
憲司の瞳は真剣だった。本当に真剣で正直揺らいだ。だけど……。
「ごめん、今は──憲司のことを受け止める自信がない。きっとこの先も同じ事が起こる。憲司が今まで必死で頑張ってきた事もちゃんとわかってる。私は憲司を支える人間じゃない……と思う。もっと他にいい人が──」
その言葉の続きを言い切ることができなかった。憲司は俯きじっと話を聞いていた。
「税理士としての俺にふさわしい彼女を求めてるんじゃないんだ。忍耐強く支えてほしいんじゃない。俺が、俺が里美にいてほしい……。今まで仕事ばっかで何言ってんだって言われるかもしれないけど、俺里美と一緒になりたいってがむしゃらに──あ、これは里美を傷つけた言い訳って意味じゃない! ちがうんだ……俺が言いたいのは──」
憲司の言葉に驚いた。こんなにも不器用な人間だったのか。もっと理路整然としていて、自信と情熱の塊のような男だと思っていた。決して落胆しているわけではない。人間臭くてびっくりしただけだ。こんなにも多くの感情を持っていたのだと驚いた。
いつのまにか憲司は完璧を求めてその理想に向かって走り抜ける人間で……その隣で一緒に寄り添うために応えなければと思い込んでいた。出会った頃の私はメガネケース一つで悩むそんな憲司を素敵だと思っていたのにいつから思考が切り替わってしまったのか。
私も……頑張り過ぎていたのかな……。憲司のそばにいるにはそうしなきゃって思い込んでいた。我慢せずにちゃんと話せていればこんな事にはならなかったのかもしれない。
「我慢することが当たり前になってた。それが憲司のためになるって……それは間違ってた……」
「里美は何も間違っちゃいない──俺が……」
憲司は俯いた。続きは、言ってはいけない。言う権利など、持ち合わせていない。
俺は里美の顔が見れなかった。がむしゃらだったなんて言い訳にならない。大切に思っていたなんて口が裂けても言ってはいけない。捨てられて当然なのに、責められて、殴られても当然だ。なのに目の前の里美はそれでも自分の悪い所を探す。胸が痛い……目頭が熱い、涙が溢れ出そうになる……でもそれは里美が許される行為であって俺はだめだ。
決して、許されない──。
憲司がそっと里美の手を握る。里美はこんな風に壊れ物に触れるように手を握ってくれる事が嬉しかった。憲司と話をして冷めきった心に何かが燻り出す。
「やり直すとは今は言えない。自分でも分かんないの……」
ほんの数日前まで記念日を待ち遠しにしていた。あの時の自分がまだどこかにいて私を止めようとする。
待って、憲司を見て、自分の気持ちを確かめてって。この感情は間違っているのかもしれない。でも、まだ……信じたい、自分も、憲司も。
「それでいい。俺の気持ちは変わらない。頼むから……チャンスをくれ──」
憲司が辿々しく里美を抱きしめる。里美はそっと憲司の背中に手を回した。
触れ合っている体はこんなにも温かいのに、心臓の鼓動はこんなにも感じるのに……こんなに近くにいて、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう……。
憲司も、里美も、同じ事を考えながら互いの温もりを感じていた。一度掛け違えたボタンを戻すのは難しい。外して、そこからゆっくりでもボタンを一つ一つ掛けていけば、いつかまたあるべき姿に戻れるのか。
こじれた想いは複雑で絡み合っている。
「ごめん、な」
随分と辛い思いをさせていた。謝ることしかできない。どうしたら伝わるんだろうか……。
もう、間に合わないのか?
もう、俺たちはダメなのか……?
嫌な考えを振り払おうと目を強く瞑る。諦めればそれまでだ。出来ることをしよう……里美の気持ちが変わるまで。それでも無理なら、どうしても無理なら……その時は──。
◇
部屋の中が明るい……奥の台所の照明も付けたままだ。エプロン姿の誰かが台所に立ち何かを作っている。母親がご飯を作りにきたのか? ぼんやりとした目を擦りながら体を起こすと台所の人物が声をかけてきた。振り返ったその人は憲司だった。
「起きた? もうご飯できるよ」
「……え? なんで……」
ようやく今日の昼間、憲司に思いの丈をぶつけたことを思い出した。人間泣いて寝るとスッキリするというが、スッキリしすぎて記憶が曖昧だ。もしかしてとんでもない顔をしているかもしれない。顔を両手で覆うと憲司が側に来てその手を外す。目が合うと憲司は優しく微笑んだ。
「大丈夫だ、ちゃんと可愛いから。さ、食べよう」
さらっと恥ずかしいことを言う憲司にどんな反応をしたらいいか迷っているとそのままテーブルの前に座らさせた。和食の晩御飯が並んでいた。憲司の手料理なんて久しぶりだ。
「いただきます……」
「はい、どうぞ。召し上がれ」
味噌汁を啜ると温かい汁が胃袋までを流れていくのがわかる。なんでだろう、ホッとする。数日の疲労が溜まっていた事に気付く。
「……塩分が染みるだろう?」
「……誰のせいだと……」
「俺。全部俺、ほんと、最低……」
消え入りそうな声に黙っていると憲司が箸を置いた。
「悪かった、本当に……でも、もう一度考えてくれ、俺とやり直すこと……」
憲司の瞳は真剣だった。本当に真剣で正直揺らいだ。だけど……。
「ごめん、今は──憲司のことを受け止める自信がない。きっとこの先も同じ事が起こる。憲司が今まで必死で頑張ってきた事もちゃんとわかってる。私は憲司を支える人間じゃない……と思う。もっと他にいい人が──」
その言葉の続きを言い切ることができなかった。憲司は俯きじっと話を聞いていた。
「税理士としての俺にふさわしい彼女を求めてるんじゃないんだ。忍耐強く支えてほしいんじゃない。俺が、俺が里美にいてほしい……。今まで仕事ばっかで何言ってんだって言われるかもしれないけど、俺里美と一緒になりたいってがむしゃらに──あ、これは里美を傷つけた言い訳って意味じゃない! ちがうんだ……俺が言いたいのは──」
憲司の言葉に驚いた。こんなにも不器用な人間だったのか。もっと理路整然としていて、自信と情熱の塊のような男だと思っていた。決して落胆しているわけではない。人間臭くてびっくりしただけだ。こんなにも多くの感情を持っていたのだと驚いた。
いつのまにか憲司は完璧を求めてその理想に向かって走り抜ける人間で……その隣で一緒に寄り添うために応えなければと思い込んでいた。出会った頃の私はメガネケース一つで悩むそんな憲司を素敵だと思っていたのにいつから思考が切り替わってしまったのか。
私も……頑張り過ぎていたのかな……。憲司のそばにいるにはそうしなきゃって思い込んでいた。我慢せずにちゃんと話せていればこんな事にはならなかったのかもしれない。
「我慢することが当たり前になってた。それが憲司のためになるって……それは間違ってた……」
「里美は何も間違っちゃいない──俺が……」
憲司は俯いた。続きは、言ってはいけない。言う権利など、持ち合わせていない。
俺は里美の顔が見れなかった。がむしゃらだったなんて言い訳にならない。大切に思っていたなんて口が裂けても言ってはいけない。捨てられて当然なのに、責められて、殴られても当然だ。なのに目の前の里美はそれでも自分の悪い所を探す。胸が痛い……目頭が熱い、涙が溢れ出そうになる……でもそれは里美が許される行為であって俺はだめだ。
決して、許されない──。
憲司がそっと里美の手を握る。里美はこんな風に壊れ物に触れるように手を握ってくれる事が嬉しかった。憲司と話をして冷めきった心に何かが燻り出す。
「やり直すとは今は言えない。自分でも分かんないの……」
ほんの数日前まで記念日を待ち遠しにしていた。あの時の自分がまだどこかにいて私を止めようとする。
待って、憲司を見て、自分の気持ちを確かめてって。この感情は間違っているのかもしれない。でも、まだ……信じたい、自分も、憲司も。
「それでいい。俺の気持ちは変わらない。頼むから……チャンスをくれ──」
憲司が辿々しく里美を抱きしめる。里美はそっと憲司の背中に手を回した。
触れ合っている体はこんなにも温かいのに、心臓の鼓動はこんなにも感じるのに……こんなに近くにいて、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう……。
憲司も、里美も、同じ事を考えながら互いの温もりを感じていた。一度掛け違えたボタンを戻すのは難しい。外して、そこからゆっくりでもボタンを一つ一つ掛けていけば、いつかまたあるべき姿に戻れるのか。
こじれた想いは複雑で絡み合っている。
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