KNOCK

菅井群青

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14.想い

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「悪い、コーヒー頼む。大量にな」
「斉藤さん、私も……めちゃくちゃ濃いやつ」

 昼過ぎにアンティーク部に帰ってきた武田と坂上は見るからに疲労困憊だった。武田のネクタイは既になく、坂上は黒のピンヒールを早々と脱ぎ椅子に足を投げ出す。

 ボードの付箋貼りをしていた結衣は慌てて腕にカラフルな付箋をつけながらカップいっぱいのコーヒーとエスプレッソ並みに濃いコーヒーを二人に差し出した。二人は凄い勢いで飲み干すとイライラが止まらないようで舌打ちが出る。
 タイミング良くDJのような出で立ちの木下が部屋から出てくると「あっちゃあ……」と言い、耳につけていたヘッドホンを外す。

「白川のやつ、また俺の仕事奪いやがって……」

「まさかプレゼンの場に本人自らお出ましとは……やられたわ。あれじゃあ突然文化祭に現れた歌手よ」

 二人は腕を組み口々に怒りを口にする。
 白川龍樹とは数年前までアンティーク部にいたデザイナーだ。坂上が入社する直前に独立した。今日は武田と坂上が担当していたビルのエントランスの来客スペースのプレゼンだった。本来ならばうちの会社のプロダクト部がやりそうな案件だったが、手がいっぱいだったのでアンティーク部で引き受けた。しかし、どうやら白川に横槍を入れられたようだ。引退したビルの前社長、今の会長が白川と交流があるらしく、水面下でデザインを作りわざわざ《Design.mochi》のプレゼン日に合わせてくるなんて悪趣味な話だ。

「昔はあんなやつじゃなかったんだが、どこで踏み間違えたかねぇ……まったく、ごめん斉藤おかわりくれる?──」

 武田が飲み干したコップを結衣に渡そうとするが結衣の目にはコップどころか何も映っていないようだ。瞬きすらしないその姿に他の二人も異変に気付く。

「斉藤、さん……」

 坂上が慌てて立ち上がり結衣の顔の前で手を振ると結衣が覚醒したように照れ笑いを浮かべる。

「すぐにお持ちしますね」

 貼り付けた笑顔で立ち去る結衣の背中を三人は心配そうに見つめていた。



 その日は昼頃から雲が厚くなり夕方にはあっというまに街は暗闇に包まれてしまった。

 牧田は部屋の窓から流れる雨の筋に溜息をつく。自転車で通う自分にとって雨は憂鬱になるものだ、そして大事なデザイン画を扱うこの社員にとっても雨は最大の敵だ。牧田は濡れて困るものを全てデスクに置き、部屋を出た。

「お疲れ様、でした」

 牧田は一瞬動揺するがさすがに慣れてきたのか最後まで言い切れた。坂上と武田はレインコートに身を包み完全防備で現れた。武田は完全に逃走犯だ。坂上に至っては黒い魔女のようだ。《Design.mochi》の最大の弱点は駅から遠い事だ。徒歩で十五分は掛かるだろう。坂道も多いため大雨の時は道が川に見えるほどだ。

「うむ。お疲れ諸君」
「坂上、いっきまーす」

「……健闘を祈ります」

 二人は戦場に向かうかのような重々しい歩みで帰って行った。木下の部屋が明かりがついたままになっていたので声をかけると仕事のキリがいいところまでやるらしい。部屋を後にして帰ろうとすると屋久杉のテーブルに鍵の束が置かれたままになっていた。牧田がそれを手にすると通り掛かった木下が声を掛けた。

「それ、斉藤のじゃん。あいつだいぶ前に帰ったけど、家に入れないんじゃない?」

 窓の外を見ると雨はまだまだ激しく降り続いている。木下は何かを思い立ちニヤリと笑った。

「届けてやってくれる? あ、住所は確か引き出しの中の黒ファイルに──あった。この下から三番目のやつね。社用車使ってくれていいから」

「ちょっと──」

 全てを俺に押し付け木下先輩は部屋へと戻って行ってしまう。どうせ自転車で帰るには雨が激しく降り過ぎている。俺はキーボックスから車の鍵を持ち出すと会社をあとにした。





 結衣はアパートの前で溜息しか出ない。打ち付ける雨は傘をさしているのに結衣の全身を濡らした。水分を吸ったスーツはゴワゴワして重たくて冷たい。いつもなら雨が止むのを待つが、どうしても今日は早く家に帰りたかった。

(名前が出ただけなのに……バカね)

 ドアを背にしてしゃがむと膝小僧のくぼみに顔を埋める。自分の顔がやたらと熱いのは考えすぎた知恵熱か、それとも本物の風邪をひいてしまったのか分からない。

(雨が止めばまた電車に乗って取りに帰ろう。とりあえず今は……こうしていたい──)

「先輩……?」

 雨音に混じって声がする。誰かがすぐ近くまで来たようだ。声が聞こえたが体が重たくて今は頭も上げられそうにない。そっと包むように私の顔を上げさせて額に手をやるとその人は小さく舌打ちをした。「ごめんなさい」と言った言葉はその人に届いたのだろうか──。



 気が付くと──体が動かなかった。

 手足が伸ばされたまま動かせない。ぼうっとした意識の中で何かがおかしいことに気付く。深いプールの底から少しずつ水面に向かって泳ぐようにゆっくりと意識が戻る。目の前にはいつもの天井の木目が見える。

(あれ?──なんで?)

 目が覚めたはずなのにまだ手足が動かせない。台所で物音がするとドアが開き牧田が現れた。一瞬五年後の牧田がガラスを越えて来てくれたのかと思ってドキッとした。結衣と目が合うと眉間にしわを寄せ枕元に座った。首の後ろに手をやると口元に何かが当てられる。それが水だと気づくと夢中で飲んだ。喉が乾いて声も出ない。

「……ありがとうございます」

 結衣がやっと声を出すと牧田が溜息をつく。
 忘れた鍵を届けに来たらドアの前で高熱でうなされていたらしい……。いい年して何しているんだかと恥ずかしくなる。
 ふと全身の圧迫に気付くと牧田が頭を掻く。どうやら部屋に運んだはいいが、濡れた服を脱がすこともできないのでバスタオルでぐるぐる巻きにして保温したらしい。

「俺は断固として何もしていないです!」

 真っ赤な顔で説明する牧田が意外で呆然と聞いていると結衣が疑っていると思い何度も強く言い張った。結衣は慌てて頷いた。

 牧田は台所に向かうと着替えるように促す。もう帰るのかと思っていたらお粥を持ち再び部屋へと戻ってきた。牧田の意外な一面を見た気がして結衣は思わず苦笑いをした。

「だから、こんな大雨なのね……」

 素早く着替えて布団に入るとホカホカのお粥が出てきた。なぜかえのき茸の瓶まで添えられている。確かにお粥にはえのき茸がマストだが、なぜこれを持ってきたのだろうか。結衣がえのき茸を手に固まっていると、牧田くんが「えのき茸は風邪にいいので、ちょうどあって良かったです」と言った。牧田くんのお粥は美味しかった。この家に人が入る日がまた来るなんて思わなかった。よりによって犬猿の仲の牧田くんだなんて、未来は分からないものだ。
 その後いつのまにか寝てしまい、気付くと牧田くんは帰っていた。
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