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(7)断ち切れぬ思いを抱えて、クリスマス炊き出しの日
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奈美に誤解を抱かせたまま、転職先が決まった雄次は静かに消え去るように「たからばこ」を後にした。
彼自身に対する誤解を解かない事はすなわち、奈美を傷つけたまま放置する事だという可能性すらその当時は思いもせずに。
退社と同時に記憶の奥底に押し込めて忘れようとしていた奈美の事を、しかし思い出させられたのはお盆で家族が顔を合わせた時だった。
母親はその場で、彼に縁談がある事を写真とともに披露した。
「なかなか雄次には良さそうな人じゃないか」
兄は感心したように前のめりになりながら、言った。
しかし、どちらかと言えばタヌキのような親しみやすさのある奈美とは正反対の、目付きの鋭いキツネのような女性だと、雄次の目には映った。
「こんど35歳になる人でね、今はお家の事を手伝いながら、県庁でパートタイムみたいな事してるって。そしてバツなしで、もちろん、耳も聞こえるわね」
とうの昔にそこにはいなくなった奈美への明らかな当てつけに、雄次は突発的な苛立ちが喉元まで上がってくるのを感じた。
もう、彼自身は奈美の事など過去に追いやったはずなのに、何をいまだに根に持ってそんな事を言うのだ・・・。
「奈美さんだって、もちろんバツなしで、きちんと働いて独り立ちしてて・・・ただ耳が聞こえないだけじゃないか!」
「ユウちゃん・・・耳が聞こえない『だけ』って、何よそれ! 大問題じゃない! だいたいね、そんな人がお嫁さんに来たとしてね、ちょっとあれな話になるけど、将来私のシモの世話を見てもらうのに言葉じゃなくてどうやって気持ちを伝えられるの? 一事が万事でね・・・」
「もういい! 不愉快だ、帰る!」
不愉快というより、ただただひたすらに不快だった。
あんな人間の胎内からこの世に生まれてきたことが、汚らわしく思えてならなかった。
アパートの部屋にこもり、その日は時折涙を流しながら夜更けまで怒りを持て余した。
そして奈美が置き忘れていった筆談具をふと取り出してそれを眺めながら、彼女を傷つけたままである事の罪深さにおののいた。
本当は、あんな醜い家族など縁を切って、奈美と一緒になったほうがよほど将来幸せだったはずだ。
彼が奈美に頭を下げて、彼女の元へ飛び込むという選択肢が最も合理的だったと、今更ながら思う。
彼が去った後の「たからばこ」では、奈美の口から彼が犯した罪が語られているかもしれない・・・ひょっとしたら、彼が解かずにいたままの誤解も盛って。
やはり彼が身を置くべき「世界」は「たからばこ」だったのではないかと、深く後悔した。
けれども、もはや取り戻せなくなってしまった日々への渇望にも似た思いに苛まれながらも、彼はそれからの日々を送るしかなかった。
新しい職場は「たからばこ」にも引けを取らないようなやりがいのある仕事が多かったし、給与も格段に上がった。
今いる会社の社長は、自身が常に問題意識を持って未来の社会を創っていこうとしており、その意味では「たからばこ」の高良社長との共通項が見いだせた。
特に社長主催の月に1度の「勉強会」は、雄次は幹事役として同席するだけだったが、そこでの情報交換、意見交換、議論、それらは見ているだけで面白く、刺激的で、勉強にもなった。
「勉強会」と言えば、直接それに関連しているわけではないが、「再会」という形での「縁」もあった。
「勉強会」のために9月から仕出しを取り始めた弁当屋の担当が、「たからばこ」の就労支援施設の利用者だったハジメちゃんだったのだ。
ハジメちゃんは、知的障害寄りの発達障害を持っていた。
それでもいろんな事にチャレンジするのが好きで、「たからばこ」に通う間には苦労しながらも運転免許を取った。
パン屋で主にレジ担当だったが、「東京に遊びに行った時にスカウトされた(逃げて断ったけど)」と言うくらい長身のイケメンな上にいつもニコニコ笑顔を絶やさないから、お客さんの間でも絶大な人気を誇っていた。
高良社長は雇用契約を結ばせたうえで「たからばこ」に彼を残そうとしたが、しかしハローワークで見つけた弁当屋に「障害者枠」でなく就職して行ってしまった。
雄次がいろいろ弁当屋を試すうちにようやく見つけたその店にハジメちゃんがいたのも、ひょっとしたら運命だったのかもしれない。
それ以来、10月、11月と「勉強会」ごとに仕出しを注文し、そして12月も。
クリスマス直前の土曜日、休日出勤した雄次はデスクで軽めの仕事をしながら弁当の到着を待った。
そういえば・・・今日は「たからばこ」の「クリスマス炊き出し」の日だったな・・・ふと窓の外に目をやったところに、LINEの着信があった。
ハジメちゃんからだった。
「いつもありがとうございます! 今日は数が多いから、最初に配達しますね!」
そうか、今日は配達の数が多いんだな・・・雄次は深く考えずに椅子に座ったまま両手を上げて伸びをした。
そして、今頃は「たからばこ」近くの公園でそろそろ夕方の炊き出しに向けて準備をしている頃だな・・・そんな事を思っていた。
「たからばこ」では定期的に事務所の前で炊き出しを続けてきたが、毎年クリスマス前の土曜の夜に近くの公園で大規模な炊き出しを行なう。
困窮する人々に対するせめてものクリスマスプレゼント的な、節目の行事だった。
雄次と奈美が仲が良いというので、ふたりはいつしかペアを組んで豚汁づくりの係となった。
大鍋にぐらぐらと煮える豚汁の美味しそうな匂いを嗅ぎながら、ふたりで大きなしゃもじをかき回していたっけな・・・。
そこに、またハジメちゃんからのLINE。
「着きました! どこに下ろせばいいですか?」
たかだか11個の弁当だ、「どこに下ろせばいいか」も何も無いだろう、いつも通り袋ごと手渡してくれればいいのに。
雄次は「すぐ行く」と返信し、駐車場まで降りていった。
彼自身に対する誤解を解かない事はすなわち、奈美を傷つけたまま放置する事だという可能性すらその当時は思いもせずに。
退社と同時に記憶の奥底に押し込めて忘れようとしていた奈美の事を、しかし思い出させられたのはお盆で家族が顔を合わせた時だった。
母親はその場で、彼に縁談がある事を写真とともに披露した。
「なかなか雄次には良さそうな人じゃないか」
兄は感心したように前のめりになりながら、言った。
しかし、どちらかと言えばタヌキのような親しみやすさのある奈美とは正反対の、目付きの鋭いキツネのような女性だと、雄次の目には映った。
「こんど35歳になる人でね、今はお家の事を手伝いながら、県庁でパートタイムみたいな事してるって。そしてバツなしで、もちろん、耳も聞こえるわね」
とうの昔にそこにはいなくなった奈美への明らかな当てつけに、雄次は突発的な苛立ちが喉元まで上がってくるのを感じた。
もう、彼自身は奈美の事など過去に追いやったはずなのに、何をいまだに根に持ってそんな事を言うのだ・・・。
「奈美さんだって、もちろんバツなしで、きちんと働いて独り立ちしてて・・・ただ耳が聞こえないだけじゃないか!」
「ユウちゃん・・・耳が聞こえない『だけ』って、何よそれ! 大問題じゃない! だいたいね、そんな人がお嫁さんに来たとしてね、ちょっとあれな話になるけど、将来私のシモの世話を見てもらうのに言葉じゃなくてどうやって気持ちを伝えられるの? 一事が万事でね・・・」
「もういい! 不愉快だ、帰る!」
不愉快というより、ただただひたすらに不快だった。
あんな人間の胎内からこの世に生まれてきたことが、汚らわしく思えてならなかった。
アパートの部屋にこもり、その日は時折涙を流しながら夜更けまで怒りを持て余した。
そして奈美が置き忘れていった筆談具をふと取り出してそれを眺めながら、彼女を傷つけたままである事の罪深さにおののいた。
本当は、あんな醜い家族など縁を切って、奈美と一緒になったほうがよほど将来幸せだったはずだ。
彼が奈美に頭を下げて、彼女の元へ飛び込むという選択肢が最も合理的だったと、今更ながら思う。
彼が去った後の「たからばこ」では、奈美の口から彼が犯した罪が語られているかもしれない・・・ひょっとしたら、彼が解かずにいたままの誤解も盛って。
やはり彼が身を置くべき「世界」は「たからばこ」だったのではないかと、深く後悔した。
けれども、もはや取り戻せなくなってしまった日々への渇望にも似た思いに苛まれながらも、彼はそれからの日々を送るしかなかった。
新しい職場は「たからばこ」にも引けを取らないようなやりがいのある仕事が多かったし、給与も格段に上がった。
今いる会社の社長は、自身が常に問題意識を持って未来の社会を創っていこうとしており、その意味では「たからばこ」の高良社長との共通項が見いだせた。
特に社長主催の月に1度の「勉強会」は、雄次は幹事役として同席するだけだったが、そこでの情報交換、意見交換、議論、それらは見ているだけで面白く、刺激的で、勉強にもなった。
「勉強会」と言えば、直接それに関連しているわけではないが、「再会」という形での「縁」もあった。
「勉強会」のために9月から仕出しを取り始めた弁当屋の担当が、「たからばこ」の就労支援施設の利用者だったハジメちゃんだったのだ。
ハジメちゃんは、知的障害寄りの発達障害を持っていた。
それでもいろんな事にチャレンジするのが好きで、「たからばこ」に通う間には苦労しながらも運転免許を取った。
パン屋で主にレジ担当だったが、「東京に遊びに行った時にスカウトされた(逃げて断ったけど)」と言うくらい長身のイケメンな上にいつもニコニコ笑顔を絶やさないから、お客さんの間でも絶大な人気を誇っていた。
高良社長は雇用契約を結ばせたうえで「たからばこ」に彼を残そうとしたが、しかしハローワークで見つけた弁当屋に「障害者枠」でなく就職して行ってしまった。
雄次がいろいろ弁当屋を試すうちにようやく見つけたその店にハジメちゃんがいたのも、ひょっとしたら運命だったのかもしれない。
それ以来、10月、11月と「勉強会」ごとに仕出しを注文し、そして12月も。
クリスマス直前の土曜日、休日出勤した雄次はデスクで軽めの仕事をしながら弁当の到着を待った。
そういえば・・・今日は「たからばこ」の「クリスマス炊き出し」の日だったな・・・ふと窓の外に目をやったところに、LINEの着信があった。
ハジメちゃんからだった。
「いつもありがとうございます! 今日は数が多いから、最初に配達しますね!」
そうか、今日は配達の数が多いんだな・・・雄次は深く考えずに椅子に座ったまま両手を上げて伸びをした。
そして、今頃は「たからばこ」近くの公園でそろそろ夕方の炊き出しに向けて準備をしている頃だな・・・そんな事を思っていた。
「たからばこ」では定期的に事務所の前で炊き出しを続けてきたが、毎年クリスマス前の土曜の夜に近くの公園で大規模な炊き出しを行なう。
困窮する人々に対するせめてものクリスマスプレゼント的な、節目の行事だった。
雄次と奈美が仲が良いというので、ふたりはいつしかペアを組んで豚汁づくりの係となった。
大鍋にぐらぐらと煮える豚汁の美味しそうな匂いを嗅ぎながら、ふたりで大きなしゃもじをかき回していたっけな・・・。
そこに、またハジメちゃんからのLINE。
「着きました! どこに下ろせばいいですか?」
たかだか11個の弁当だ、「どこに下ろせばいいか」も何も無いだろう、いつも通り袋ごと手渡してくれればいいのに。
雄次は「すぐ行く」と返信し、駐車場まで降りていった。
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