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(6)奈美との別れ
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それ以来、雄次と奈美は毎日のように仕事上がりの時間を過ごした。
食事したり、時には洋画の字幕版を観に行ったり。
しかしいちばん多くの時間を共有したのは、雄次のアパートの部屋で一緒に「雑談」する事だった。
雑談と言っても手話や筆談具を通してだったが、しかしそれはそれで楽しかった。
雄次は奈美と雑談するうちに手話が上達し、手話ニュースも難なく理解できるようになっていた。
あるいは、繁華街で聴覚障害を持つ男性が急に気分を悪くしたのを、手話で手助けした事もあった。
雄次の部屋に奈美が来た場合、そのまま一夜を共にする事が普通になった。
奈美の方から求める事も多かったが、大抵の場合は雄次の方から求めた。
しかし決して、「奈美の体」が目的ではなかった。
正確に言えば、奈美の体「だけ」が目的でなかった。
もちろん雄次は健康な成人男性であり、しかも女性と緊密に接する機会がない時期が長かった分、それまでの埋め合わせをするかのように貪欲に奈美を求めた。
けれども体の関係を重ねるほどに心の絆は深まるような思いがしたし、心の絆が深まるほどに体の関係も大きな意味を持つようになった。
言ってみれば、心の関係と体の関係は車の両輪のようなものだった。
そのような関係を続けていくうちに、雄次は奈美との「幸せな家庭」を夢見るようになった。
その「家庭」にはもちろん、ふたりが授かった子供の姿もあった。
だが、彼の「夢」を実現するには、あまりに高い障壁が立ちはだかるのを実感せざるを得ないのだった。
ひとつは、聴覚障害を持つ奈美を彼が一生支えきれるのだろうかと、現実問題としての悩みがあった。
彼女は障害を持つがために、他人の何倍もの苦労を重ねてきた。
結婚したら、彼もそれを一緒に担がねばならないし、子供が生まれたらさらに苦労は増えるだろう。
果たして、その覚悟が彼自身にできているかという自信のなさからくるものだった。
もうひとつが、経済的な問題だった。
なおも変わらず給与の上昇ペースは緩やかで、奈美と共働きするにしても果たして家庭を支えきれるだろうかという不安があった。
そしてみっつめが、彼の実家との関わりだった。
正式に交際を始めて1年ほど経ったある日、雄次は奈美を彼の家族に紹介した。
そこで彼が犯した失敗が、奈美の障がいを隠したまま家族と引き合わせた事だった。
初めて彼女が障がいを持つことを知った雄次の母親と兄姉は、まず戸惑い、そして口や態度には出さないが拒絶反応を示した。
特に母親が、奈美が障がい者である事に猛烈に反発した。
障がい者への偏見そのものの言葉まで使って、彼に奈美を諦めさせようとした。
それまで、ブラック企業の中で彼がどんなにもがき苦しんでいても無関心で、それどころか援助しようという素振りすら見せなかった母親だった。
それが雄次が奈美との結婚も有り得るという段になると、途端にラジカルな反応を示した。
その矛先が雄次だけに向くだけならまだ耐えきれたが、奈美の事まで汚い言葉を使って罵った。
「24時間テレビ」に出てくる障がい者の姿を見ては涙していた母親の、隠されていた本性を知った気がして、それはそれで幻滅した。
奈美が聴覚障害を持っている事で、どれだけ彼女自身が救われたか・・・雄次は浅はかにも、そう考えた。
しかし、彼女は雄次の家族の表情や口の動きから、自分が歓迎されていない事はすでに見抜いていた。
結局その日の事は、雄次と奈美にとって「無かった事」として互いに蓋をしてしまった。
そして互いにそれを心のうちに隠しながら、それまで通りの交際を続けた。
雄次はそれ以後も、家族と顔を合わせる機会はいくらでもあった。
しかし、奈美との事は適当に誤魔化してやり過ごした。
奈美の事を大事に思うなら、あんな家族など縁を切るくらいの事をしても良かったはずだ。
しかし、彼には家族も大事な存在で、それができなかった。
そうして、さらに2年が経過したのだ。
雄次は40歳の大台を過ぎ、奈美ももう少しで35歳というある意味で節目の歳を迎える時期だった。
ある日曜のこと、奈美と一緒に朝を迎えた雄次に、彼女は唐突に切り出した。
いや、唐突に感じたのは雄次の思い込みで、奈美はずっと心のなかで燻らせていた思いをようやく吐き出したのだろう。
(結局、私たちどうなるの? 結婚しないの?)
奈美の手話を、雄次は見えないふりをした。
視線を彼女に向けずに、台所に立った。
そんな彼の肩を、奈美は追いすがるように掴んだ。
振り向くと、彼女は目に涙を浮かべていた。
(あなたにとって、私は「都合のいい女」だったの?)
(そんなことはない!)
雄次は思わず、否定した。
それは彼の本心であったが、奈美には通じなかった。
(私が障がい者だから? そこに付け込んで、あなたは・・・)
「ちがう!」
明らかな誤解にカッとなって声に出し、思わず手を振り上げた。
ただ、身構える奈美にその手を振り下ろす事など、そもそも彼にはできなかった。
けれども、彼女に手を上げようとした・・・その事実だけはふたりの心にそれぞれの痛みを持って刻み込まれた。
そしてその日以来、ふたりがふたりだけの時間を過ごす事は無くなってしまった。
職場でも、事務的な報告連絡相談を交わすだけ。
一緒に仕事をする有馬さんも山下さんも、そして高良社長も、事情など知らないから余計にオドオドしながらふたりに接した。
ただみんな、なにかケンカして一時的に仲が悪くなっただけだろう・・・そう思っていた節もある。
しかしその一方で、奈美に合わせる顔の無くなってしまった雄次は、密かに転職活動を始めていた。
そして奈美の方も、婚活アプリで新しい出会いを探し始めていた。
客観的に見てみれば、それまでと変わらない日常を惰性で続ける事しか考えずに、重要な問題に向き合わなかった雄次自身の未熟さが最大の原因だっただろう。
とにかく、ふたりの関係は終わりを迎えた。
食事したり、時には洋画の字幕版を観に行ったり。
しかしいちばん多くの時間を共有したのは、雄次のアパートの部屋で一緒に「雑談」する事だった。
雑談と言っても手話や筆談具を通してだったが、しかしそれはそれで楽しかった。
雄次は奈美と雑談するうちに手話が上達し、手話ニュースも難なく理解できるようになっていた。
あるいは、繁華街で聴覚障害を持つ男性が急に気分を悪くしたのを、手話で手助けした事もあった。
雄次の部屋に奈美が来た場合、そのまま一夜を共にする事が普通になった。
奈美の方から求める事も多かったが、大抵の場合は雄次の方から求めた。
しかし決して、「奈美の体」が目的ではなかった。
正確に言えば、奈美の体「だけ」が目的でなかった。
もちろん雄次は健康な成人男性であり、しかも女性と緊密に接する機会がない時期が長かった分、それまでの埋め合わせをするかのように貪欲に奈美を求めた。
けれども体の関係を重ねるほどに心の絆は深まるような思いがしたし、心の絆が深まるほどに体の関係も大きな意味を持つようになった。
言ってみれば、心の関係と体の関係は車の両輪のようなものだった。
そのような関係を続けていくうちに、雄次は奈美との「幸せな家庭」を夢見るようになった。
その「家庭」にはもちろん、ふたりが授かった子供の姿もあった。
だが、彼の「夢」を実現するには、あまりに高い障壁が立ちはだかるのを実感せざるを得ないのだった。
ひとつは、聴覚障害を持つ奈美を彼が一生支えきれるのだろうかと、現実問題としての悩みがあった。
彼女は障害を持つがために、他人の何倍もの苦労を重ねてきた。
結婚したら、彼もそれを一緒に担がねばならないし、子供が生まれたらさらに苦労は増えるだろう。
果たして、その覚悟が彼自身にできているかという自信のなさからくるものだった。
もうひとつが、経済的な問題だった。
なおも変わらず給与の上昇ペースは緩やかで、奈美と共働きするにしても果たして家庭を支えきれるだろうかという不安があった。
そしてみっつめが、彼の実家との関わりだった。
正式に交際を始めて1年ほど経ったある日、雄次は奈美を彼の家族に紹介した。
そこで彼が犯した失敗が、奈美の障がいを隠したまま家族と引き合わせた事だった。
初めて彼女が障がいを持つことを知った雄次の母親と兄姉は、まず戸惑い、そして口や態度には出さないが拒絶反応を示した。
特に母親が、奈美が障がい者である事に猛烈に反発した。
障がい者への偏見そのものの言葉まで使って、彼に奈美を諦めさせようとした。
それまで、ブラック企業の中で彼がどんなにもがき苦しんでいても無関心で、それどころか援助しようという素振りすら見せなかった母親だった。
それが雄次が奈美との結婚も有り得るという段になると、途端にラジカルな反応を示した。
その矛先が雄次だけに向くだけならまだ耐えきれたが、奈美の事まで汚い言葉を使って罵った。
「24時間テレビ」に出てくる障がい者の姿を見ては涙していた母親の、隠されていた本性を知った気がして、それはそれで幻滅した。
奈美が聴覚障害を持っている事で、どれだけ彼女自身が救われたか・・・雄次は浅はかにも、そう考えた。
しかし、彼女は雄次の家族の表情や口の動きから、自分が歓迎されていない事はすでに見抜いていた。
結局その日の事は、雄次と奈美にとって「無かった事」として互いに蓋をしてしまった。
そして互いにそれを心のうちに隠しながら、それまで通りの交際を続けた。
雄次はそれ以後も、家族と顔を合わせる機会はいくらでもあった。
しかし、奈美との事は適当に誤魔化してやり過ごした。
奈美の事を大事に思うなら、あんな家族など縁を切るくらいの事をしても良かったはずだ。
しかし、彼には家族も大事な存在で、それができなかった。
そうして、さらに2年が経過したのだ。
雄次は40歳の大台を過ぎ、奈美ももう少しで35歳というある意味で節目の歳を迎える時期だった。
ある日曜のこと、奈美と一緒に朝を迎えた雄次に、彼女は唐突に切り出した。
いや、唐突に感じたのは雄次の思い込みで、奈美はずっと心のなかで燻らせていた思いをようやく吐き出したのだろう。
(結局、私たちどうなるの? 結婚しないの?)
奈美の手話を、雄次は見えないふりをした。
視線を彼女に向けずに、台所に立った。
そんな彼の肩を、奈美は追いすがるように掴んだ。
振り向くと、彼女は目に涙を浮かべていた。
(あなたにとって、私は「都合のいい女」だったの?)
(そんなことはない!)
雄次は思わず、否定した。
それは彼の本心であったが、奈美には通じなかった。
(私が障がい者だから? そこに付け込んで、あなたは・・・)
「ちがう!」
明らかな誤解にカッとなって声に出し、思わず手を振り上げた。
ただ、身構える奈美にその手を振り下ろす事など、そもそも彼にはできなかった。
けれども、彼女に手を上げようとした・・・その事実だけはふたりの心にそれぞれの痛みを持って刻み込まれた。
そしてその日以来、ふたりがふたりだけの時間を過ごす事は無くなってしまった。
職場でも、事務的な報告連絡相談を交わすだけ。
一緒に仕事をする有馬さんも山下さんも、そして高良社長も、事情など知らないから余計にオドオドしながらふたりに接した。
ただみんな、なにかケンカして一時的に仲が悪くなっただけだろう・・・そう思っていた節もある。
しかしその一方で、奈美に合わせる顔の無くなってしまった雄次は、密かに転職活動を始めていた。
そして奈美の方も、婚活アプリで新しい出会いを探し始めていた。
客観的に見てみれば、それまでと変わらない日常を惰性で続ける事しか考えずに、重要な問題に向き合わなかった雄次自身の未熟さが最大の原因だっただろう。
とにかく、ふたりの関係は終わりを迎えた。
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