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第1章
(7)遠い春(第1章 了)
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翌朝、彰子を深く愛していた祖父は彰子を残して遥かな世界へと旅立って行った。
牧雄の家では朝食の準備中だった。
牧雄はまだベッドの中で半分、うつらうつらしていた。
玄関のほうが騒がしいのも初めは夢うつつに聞いていたが、彰子のただならぬ声にはっと飛び起きた。
泣き顔の彰子が玄関先で、すっかり気が動転して、言葉にならぬ声を発していた。
「落ちつけ! こら、落ちつけって!」
牧雄の父親は叱るように彰子をなだめ、母親は心配そうにおろおろしながら台所から玄関を覗っていた。
彰子は深呼吸し、ごくりと生唾を飲み込んでから、一言だけ言った。
「おじいさんが起きない」
こんどは牧雄たちの一家が大騒ぎになった。
父親は母親に「電話だ、電話!」と叫んで彰子の家へと走り、彰子、そして牧雄が後に続いた。
彰子の祖父は、布団の中で冷たくなっていた。
救急車が来るまでの間、牧雄と父親は心臓マッサージと人工呼吸を代わる代わる施した。
彰子は枕元で力をなくして座り込んでそれを見ていた。
結局、祖父は二度と息を吹き返すことはなかった。
運ばれた病院で死亡が確認され、急性心不全と診断された。
その日の夕方、学校から帰った牧雄は公団住宅の集会所で葬儀の準備が進められているのを見た。
彰子は祖父のそばに座り、経帷子の胸の中に手を入れてさすり続けていた。
牧雄に気付いた彰子は、悲しみを込めて言った。
「ここに帰って来た時はまだ温かかったのに、もう冷たくなっちゃった」
ずっと、祖父のそばに付きっきりだったらしい。
彰子の祖父は公社住宅の中では荒っぽくて粗野な人物として知られていたが、それでも「あの彰子ちゃんの祖父」ということもあってか通夜には大勢の人が集まった。
それが終わった後も、彰子は寝ようともせずに線香を絶やさなかった。
牧雄や彼の母親が「代わろう、その間に眠りなさい」と言っても、深い悲しみを瞳にたたえたまま、首を横に振って、線香の番を続けた。
翌日、牧雄が学校から帰るとすでに葬儀も火葬も終わったあとで、祖父は白木の箱に納まって彰子の家のなかにしつらえられた祭壇の上に在った。
彰子は、肩を落として、祭壇に向かい合っていた。
牧雄は、どう慰めたら良いのか分からず、線香だけ上げて戻った。
けれども、心の内では、天涯孤独の身となった彰子のことばかり考え、そして彼女の悲しみを思うと胸がはりさけんばかりに一杯になるのだった。
・・・
しかし、彰子を想う彼の気持ちを嘲笑うかのように、彼女は手の届かない世界へ連れ去られてしまった。
その日、牧雄が学校から戻るとパトカーが公社住宅を去るところだった。
幾人かの住人が窓から、あるいは物陰から、植え込みの陰から、不安げな眼をしてある一点に視線を集中させていた。
そこには、牧雄の母親がぽつりと佇んでいた。
牧雄は胸騒ぎを感じ、足早に母親の側へと向かった。
母親は牧雄を認めると、悲しみと怒りと諦めをない交ぜにしたような目で彼を見、そして首を振った。
牧雄は、彰子の身に何かが起こった事を察した。
彼が聞いた話では、彰子は両親によって連れ去られたという。
この世の闇のような世界で生きている、そして彼女が心から憎んでいる両親に。
・・・
昼前、何か騒々しい物音や人の声で牧雄の母親は様子を見に部屋の外に出た。
そして、彰子の助けを求める声を聞いた。
急ぎ階下に降りると、彰子の部屋の前に身なりは良いが柄の悪い男が二人、ドアを開けて部屋の中を覗き見ていた。
部屋の中からは彰子の声と、怒鳴りつけるような男女の声が外に聞こえていた。
牧雄の母親の気配に気付いて二人の男はドアを閉め、守りを固めるように立ちはだかった。
「何をしているのです。あなたたちは誰です」
母親は生唾を飲み込み、足の震えるのを押し隠して尋ねた。
「いや、我々は、あの人達の娘さんを引き取る手伝いに来ただけですよ。法的にも正当な親権のある人ですし、じきに話し合いも済んで静かになりますよ。それまで、やかましいでしょうが、なにとぞご辛抱ください」
慇懃な口調にも関わらず、その裏には有無を言わせぬ力が潜んでいた。
「でも、彰子ちゃんは嫌がっているんじゃないですか」
「それはお宅さんには関係のない事です。娘さんは他に身寄りがないわけですし、となると実の親が責任を持って保護するのが道理でしょうし、何より義務でしょう」
牧雄の母親は、言葉を返せなかった。
しかし、部屋に戻り、警察を呼んだ。
パトカーが急行した時には、彰子は部屋の外に引きずり出されようとするところだった。
しかし、彰子の両親に同行してきた男のうちひとりは、弁護士だった。
彼が警官にいろいろと、もっともらしく説明し、警官もなす術もなく突っ立っているばかりだった。
彰子は住宅の前に横付けられた車に押し込まれた。
牧雄の母親は、警官に何とかするよう懇願した。
けれども、実の親子の間の問題であり、弁護士も付いており、介入はできない、そのような答えを繰り返すばかりだった。
そうして、彰子は連れ去られてしまった。
・・・
春先、彰子を失って魂が抜けたようになった牧雄のもとに一通の葉書が届いた。
東京都内の郵便局の消印のあるその葉書には、差出人とその住所は書かれていなかったが、文字は懐かしい彰子のものだった。
牧雄さん、お元気にしていますか。
今年からいよいよ3年生ですね。
大学入試の準備も始まるんじゃないでしょうか。
私は元気に毎日を過ごしています。
けれども、牧雄さんと会えなくて、それは
ほんとに寂しいです。
私は牧雄さんのことをいつも思っていますし、
いつまでも忘れないでしょう。
またお便りします。お元気で。
彰子は手紙の中では、彼女自身の身の上について辛いとか悲しいとか、そんな事は書いていなかった。
しかし寂しい思いをしているという事は、ひしひしと伝わってきた。
そして、彼女が自分の名前と居所を明かせないという事も含めて、籠の中の鳥のように自由を奪われているのも分かった。
さらに、二度と彼女に会えないのだろうかと不吉な思いも感じた。
牧雄は、たまらなく辛かった。
彼女の事を想うと悲しみがあふれ、どうする事もできなかった。
ただ、彰子はこの世界のどこかで確かに生きているという確信が、彼を慰めてくれた。
正月にも、彰子からと思われる年賀状が届いた。
変わらぬ彰子の文字を見る度に、彼女はまだ生きている、そして牧雄の事を忘れないでいてくれているという事を改めて認識したのだった。
その一方で、時間が経つ毎に彰子の影が牧雄の心の中から徐々に薄らいでいったのもまた事実である。
しかし、それは全く消えてしまった訳ではなかった。
やはり、彰子のことを完全に忘れ去ってしまうことはできなかったのだ。
薄らぎながらも彰子の影は牧雄の心の中で大きな位置を占めつづけ、彰子との別れのことも事あるごとに思い出され、彼の悲しみはさらに深まるのだった。
いっそのこと、彰子から、きっぱりと別れの意思を伝えられたらよほど楽だろうかと思ったこともあった。
しかし、やはり牧雄にとって彰子は唯一の存在であることは、絶対に変わらないものであり、動かすこともできないことであるというのもまた感じていた。
そして、彼は彰子の身の上に想いを馳せ、どこか遠い空の下にいる彼女が健やかであるように祈るのだった。
そうして1年が過ぎた。
その間に牧雄の心の中に積もり積もった様々な感情が、この夜、昴の青い炎に誘われるように燃え上がり、爆発し、そして彰子との思い出や彼女の面影は涙とともにあふれ、寒気で凍えた首筋に熱く流れたのだった。
牧雄がこうしている間に彰子はどうしているのだろうか、辛く寂しい思いをしていなければ良いがと、彼女の身の上を案じるのだった。
あるいは、そのうちに彰子は黒い風と白いみぞれと暗い海とが逆巻く北の世界のさらに果て、永遠に月と星の光しか届かぬ青い世界に行ってしまうのではないかと思い、心は張り裂けるように痛むのだった。
けれどもどうしようもなく、氷の塊のように冷たいベンチに座ったまま、とめどなく涙を流す牧雄は再び、あの不思議な音を聞いた。
からん、からからん。からーん・・・。
その音は、羽子板に羽根が当たる音にも似ていた。
ふと羽子板星を見ると、西の山の端の上にうすぼんやりとかかった霞の中に消えかかろうとしているところだった。
そして、涙を拭って羽子板星を見た牧雄は、思わず息を飲んだ。
その音とともに、小さい星の澄んだ炎は弾けるように激しく燃え上がっていたのだ。
「昴は、春が近い事を教えてくれる星・・・」
あの夜の、彰子の言葉が耳の奥に蘇ってきた。
西の空の羽子板星は冬の終わりを告げ、そしてその炎は彰子に対する牧雄の心そのもののように純粋だった。
しかし風はいよいよ冷たく吹きすさみ、本当の春はまだ遠い先のことに思われた。
(第1章 了)
牧雄の家では朝食の準備中だった。
牧雄はまだベッドの中で半分、うつらうつらしていた。
玄関のほうが騒がしいのも初めは夢うつつに聞いていたが、彰子のただならぬ声にはっと飛び起きた。
泣き顔の彰子が玄関先で、すっかり気が動転して、言葉にならぬ声を発していた。
「落ちつけ! こら、落ちつけって!」
牧雄の父親は叱るように彰子をなだめ、母親は心配そうにおろおろしながら台所から玄関を覗っていた。
彰子は深呼吸し、ごくりと生唾を飲み込んでから、一言だけ言った。
「おじいさんが起きない」
こんどは牧雄たちの一家が大騒ぎになった。
父親は母親に「電話だ、電話!」と叫んで彰子の家へと走り、彰子、そして牧雄が後に続いた。
彰子の祖父は、布団の中で冷たくなっていた。
救急車が来るまでの間、牧雄と父親は心臓マッサージと人工呼吸を代わる代わる施した。
彰子は枕元で力をなくして座り込んでそれを見ていた。
結局、祖父は二度と息を吹き返すことはなかった。
運ばれた病院で死亡が確認され、急性心不全と診断された。
その日の夕方、学校から帰った牧雄は公団住宅の集会所で葬儀の準備が進められているのを見た。
彰子は祖父のそばに座り、経帷子の胸の中に手を入れてさすり続けていた。
牧雄に気付いた彰子は、悲しみを込めて言った。
「ここに帰って来た時はまだ温かかったのに、もう冷たくなっちゃった」
ずっと、祖父のそばに付きっきりだったらしい。
彰子の祖父は公社住宅の中では荒っぽくて粗野な人物として知られていたが、それでも「あの彰子ちゃんの祖父」ということもあってか通夜には大勢の人が集まった。
それが終わった後も、彰子は寝ようともせずに線香を絶やさなかった。
牧雄や彼の母親が「代わろう、その間に眠りなさい」と言っても、深い悲しみを瞳にたたえたまま、首を横に振って、線香の番を続けた。
翌日、牧雄が学校から帰るとすでに葬儀も火葬も終わったあとで、祖父は白木の箱に納まって彰子の家のなかにしつらえられた祭壇の上に在った。
彰子は、肩を落として、祭壇に向かい合っていた。
牧雄は、どう慰めたら良いのか分からず、線香だけ上げて戻った。
けれども、心の内では、天涯孤独の身となった彰子のことばかり考え、そして彼女の悲しみを思うと胸がはりさけんばかりに一杯になるのだった。
・・・
しかし、彰子を想う彼の気持ちを嘲笑うかのように、彼女は手の届かない世界へ連れ去られてしまった。
その日、牧雄が学校から戻るとパトカーが公社住宅を去るところだった。
幾人かの住人が窓から、あるいは物陰から、植え込みの陰から、不安げな眼をしてある一点に視線を集中させていた。
そこには、牧雄の母親がぽつりと佇んでいた。
牧雄は胸騒ぎを感じ、足早に母親の側へと向かった。
母親は牧雄を認めると、悲しみと怒りと諦めをない交ぜにしたような目で彼を見、そして首を振った。
牧雄は、彰子の身に何かが起こった事を察した。
彼が聞いた話では、彰子は両親によって連れ去られたという。
この世の闇のような世界で生きている、そして彼女が心から憎んでいる両親に。
・・・
昼前、何か騒々しい物音や人の声で牧雄の母親は様子を見に部屋の外に出た。
そして、彰子の助けを求める声を聞いた。
急ぎ階下に降りると、彰子の部屋の前に身なりは良いが柄の悪い男が二人、ドアを開けて部屋の中を覗き見ていた。
部屋の中からは彰子の声と、怒鳴りつけるような男女の声が外に聞こえていた。
牧雄の母親の気配に気付いて二人の男はドアを閉め、守りを固めるように立ちはだかった。
「何をしているのです。あなたたちは誰です」
母親は生唾を飲み込み、足の震えるのを押し隠して尋ねた。
「いや、我々は、あの人達の娘さんを引き取る手伝いに来ただけですよ。法的にも正当な親権のある人ですし、じきに話し合いも済んで静かになりますよ。それまで、やかましいでしょうが、なにとぞご辛抱ください」
慇懃な口調にも関わらず、その裏には有無を言わせぬ力が潜んでいた。
「でも、彰子ちゃんは嫌がっているんじゃないですか」
「それはお宅さんには関係のない事です。娘さんは他に身寄りがないわけですし、となると実の親が責任を持って保護するのが道理でしょうし、何より義務でしょう」
牧雄の母親は、言葉を返せなかった。
しかし、部屋に戻り、警察を呼んだ。
パトカーが急行した時には、彰子は部屋の外に引きずり出されようとするところだった。
しかし、彰子の両親に同行してきた男のうちひとりは、弁護士だった。
彼が警官にいろいろと、もっともらしく説明し、警官もなす術もなく突っ立っているばかりだった。
彰子は住宅の前に横付けられた車に押し込まれた。
牧雄の母親は、警官に何とかするよう懇願した。
けれども、実の親子の間の問題であり、弁護士も付いており、介入はできない、そのような答えを繰り返すばかりだった。
そうして、彰子は連れ去られてしまった。
・・・
春先、彰子を失って魂が抜けたようになった牧雄のもとに一通の葉書が届いた。
東京都内の郵便局の消印のあるその葉書には、差出人とその住所は書かれていなかったが、文字は懐かしい彰子のものだった。
牧雄さん、お元気にしていますか。
今年からいよいよ3年生ですね。
大学入試の準備も始まるんじゃないでしょうか。
私は元気に毎日を過ごしています。
けれども、牧雄さんと会えなくて、それは
ほんとに寂しいです。
私は牧雄さんのことをいつも思っていますし、
いつまでも忘れないでしょう。
またお便りします。お元気で。
彰子は手紙の中では、彼女自身の身の上について辛いとか悲しいとか、そんな事は書いていなかった。
しかし寂しい思いをしているという事は、ひしひしと伝わってきた。
そして、彼女が自分の名前と居所を明かせないという事も含めて、籠の中の鳥のように自由を奪われているのも分かった。
さらに、二度と彼女に会えないのだろうかと不吉な思いも感じた。
牧雄は、たまらなく辛かった。
彼女の事を想うと悲しみがあふれ、どうする事もできなかった。
ただ、彰子はこの世界のどこかで確かに生きているという確信が、彼を慰めてくれた。
正月にも、彰子からと思われる年賀状が届いた。
変わらぬ彰子の文字を見る度に、彼女はまだ生きている、そして牧雄の事を忘れないでいてくれているという事を改めて認識したのだった。
その一方で、時間が経つ毎に彰子の影が牧雄の心の中から徐々に薄らいでいったのもまた事実である。
しかし、それは全く消えてしまった訳ではなかった。
やはり、彰子のことを完全に忘れ去ってしまうことはできなかったのだ。
薄らぎながらも彰子の影は牧雄の心の中で大きな位置を占めつづけ、彰子との別れのことも事あるごとに思い出され、彼の悲しみはさらに深まるのだった。
いっそのこと、彰子から、きっぱりと別れの意思を伝えられたらよほど楽だろうかと思ったこともあった。
しかし、やはり牧雄にとって彰子は唯一の存在であることは、絶対に変わらないものであり、動かすこともできないことであるというのもまた感じていた。
そして、彼は彰子の身の上に想いを馳せ、どこか遠い空の下にいる彼女が健やかであるように祈るのだった。
そうして1年が過ぎた。
その間に牧雄の心の中に積もり積もった様々な感情が、この夜、昴の青い炎に誘われるように燃え上がり、爆発し、そして彰子との思い出や彼女の面影は涙とともにあふれ、寒気で凍えた首筋に熱く流れたのだった。
牧雄がこうしている間に彰子はどうしているのだろうか、辛く寂しい思いをしていなければ良いがと、彼女の身の上を案じるのだった。
あるいは、そのうちに彰子は黒い風と白いみぞれと暗い海とが逆巻く北の世界のさらに果て、永遠に月と星の光しか届かぬ青い世界に行ってしまうのではないかと思い、心は張り裂けるように痛むのだった。
けれどもどうしようもなく、氷の塊のように冷たいベンチに座ったまま、とめどなく涙を流す牧雄は再び、あの不思議な音を聞いた。
からん、からからん。からーん・・・。
その音は、羽子板に羽根が当たる音にも似ていた。
ふと羽子板星を見ると、西の山の端の上にうすぼんやりとかかった霞の中に消えかかろうとしているところだった。
そして、涙を拭って羽子板星を見た牧雄は、思わず息を飲んだ。
その音とともに、小さい星の澄んだ炎は弾けるように激しく燃え上がっていたのだ。
「昴は、春が近い事を教えてくれる星・・・」
あの夜の、彰子の言葉が耳の奥に蘇ってきた。
西の空の羽子板星は冬の終わりを告げ、そしてその炎は彰子に対する牧雄の心そのもののように純粋だった。
しかし風はいよいよ冷たく吹きすさみ、本当の春はまだ遠い先のことに思われた。
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