羽子板星

まみはらまさゆき

文字の大きさ
1 / 26
第1章

(1)吹きすさぶ風の夜に

しおりを挟む
平成4年、1月。

冬至を過ぎ、さらに新しい年が明けてから昼の長さは日一日と伸びてきた。
しかし風はいよいよ冷たく吹きすさみ、本当の春はまだ遠い先のことに思われた。

折しもその日は午前中に低気圧が通過していた。
その名残のちぎれ雲が残照に赤く染まりながら、季節風とともに南へと流れていった。

牧雄は高校からの帰りだった。
街道沿いの住宅地から、だらだら続く緩い坂を上っていた。

10分ほど上ると、なだらかな丘の上に5階建ての鉄筋アパートが16棟並ぶだけの団地に至る。
牧雄の家は、その中にあった。

市の住宅公社が造ったその団地は、少し前までは四方を雑木林に囲まれていた。
街道からの唯一の道も団地で行き止まりとなっていたので、住人とは関係ない車は侵入してこなかった。

隠れ里にも似て、そのような団地のある事さえ忘れ去られているのではないだろうかとさえ思われた。
市街地とも程よい距離で隔てられていたので空気が澄んでいて、夜には星がきれいに見えた。

それが最近になって土地区画整理組合の主導で雑木林を伐り払い、土地をらして大規模な団地の建設が始まった。
ところが昨年の秋に資金面での問題が発生したとかで、もとからある団地の手前に工事中の荒涼とした造成地が広がったまま放置されている。

牧雄は両側を有刺鉄線や鉄柵に挟まれた吹きさらしの坂道を一人、首をすくめながら上って行った。
造成工事の始まる以前は、昼でも暗い雑木林の中の細道だった。

防犯燈の間隔が長く、見通しも悪く、夜には大人でも気味の悪い道。
それが今では舗装工事の途中ではあるが道幅が広がり、明りも増えた。

そして造成地の中に続く道の向うには公社住宅が、あたかも上着を剥ぎ取られたかのように寒々と並んで見えるようになった。

上り坂の途中で時折彼は立ち止まり、深く息をついた。
いつもならばそのような事はなく、団地まで休まず歩くのだが。

しかしその時は、妙に苦しかった。
彼はその日に限って、朝から胸の重苦しさをどうしようもできないでいた。

彼は胸の重苦しさのさらに奥底に、熱くふつふつと煮えたぎった何かがあるのを感じていた。
それは出口を求めて胸を内側から圧迫している、そのような感じだった。

そしてそれを、強い意思の力で封じ込めるのに精いっぱいだった。
・・・その重苦しさはどこから来るのか。

牧雄は大学受験生。
第一志望の大学の試験まで一月ひとつきほどとなっていた。

しかし、受験を控えた事によるストレスといったものとは違った苦しさだった。
もっと深く、心の根源的なところからくる辛い苦しみ、心臓と肺が圧迫されて絞られるような苦しさだった。

黙々と歩いていた牧雄は、ふと顔を上げる。
明かりの灯り始めた公社住宅を見やり、そこで足を止めた。

その時だった。
一人の少女の影が牧雄の胸の内に甦ってきた。

同時に胸の痛みと息苦しさが、刺し込むように、それまでになく烈しく襲ってきた。
そのまま放っておくと、胸の奥底に押し込められているものが爆発し噴出するように思われた。

その少女は牧雄にとっては、思い出してはならない忘れ去ってしまわなければならない存在だった。
本当は彼にとってかけがえのない大切な少女だったのだが、思い出したら彼の心は収拾のつかないまで乱れてしまう事を彼は自覚している。

だからこそ、思い出さないように努めてきたのだ。
それが、不意に、突拍子もなく現れてきた。

牧雄はうろたえた・・・足が停まりそうになった。
脂汗が額に浮かび、息ができなくなった。

目の前が真っ暗になろうとした時、牧雄は突っ走りだした。
全てを振り切ろうと、走った。

無我夢中で走った。
烈しく冷たい一陣の風が真正面からぶつかってきたが、彼は風に抗いながら走っていった。

・・・ 

風は夜更けになっても強く吹いていた。
牧雄は、眠れないままベッドに横になっていた。

普段ならば、まだ勉強しているはずの時間だった。
勉強しようとしたが、無駄だった。

胸の奥底のものが暴れ、騒ぎ、それに紛れてある少女の影が忍び寄ろうとするのを感じ、全く手に付かなかった。
無理に勉強しても意味がない・・・と自分に言い聞かせ、仕方なく寝ることにしたのだ。

しかし、ベッドに入っても胸の苦しさは収まらず、かえって落着かなくなるばかりだ。
これほどまでに彼を苦しめる、胸の奥底に押し込められたもの・・・それをどうにかしてしまわなければならない。

だが、どうすれば良いのか、全く分からなかった。

外を吹き抜ける風の音は途切れながらもアルミサッシの窓を通して聞こえてきた。
それもひどく神経に障った。

牧雄は耳をふさぎ、体を海老のように丸め、布団を頭からかぶっていた。
そうして眠りを待っていたが、眼は一層冴えてくるのだった。

そんな時だった。

風の音にかき消されながら、ある音がどこか遠くから耳に微かに響いてくるのに気が付き、手を耳から放した。
それは、何か堅いものどうしがぶつかり合うような音だった。

そして、からーん、からからーん、と間隔をおいて聞こえてきた。
乾いた無機的な響きだったが、温かさと懐かしさとがその度に呼び起こされる・・・そんな音。

牧雄の胸の奥底のものは、音に呼応して脈打つ。
心臓の高鳴るのを感じ、彼は布団から跳び起き、窓辺に立った。

カーテンをわずかにめくり、ガラスにびっしりと付いた結露を拭い、外を覗う。
アパートとアパートとの間の、駐車場とわずかばかりの空き地とが水銀灯の白い明りに照らされているのが見えた。

しかし音の出どころについての手がかりとなるようなものは、視野に入らない。
牧雄は窓から離れると急いで着替え、厚い上着を羽織った。

突き動かされるように、気持ちがはやるのを感じた。
朝が早い仕事のためにすでに寝入っている母親を起こさないよう、忍び足で玄関に向かい、気を付けて外に出る。

外は思っていた以上の寒さだった。
身を切るような冷たい風が間断的に襲ってきて、電線が悲鳴にも似た音をたてていた。

両側に建つアパートの窓窓が牧雄を見下ろしていたが、そのほとんどは明りを消して寝静まっている。
水銀灯の明りも、ただただ冷たく、ひと気の全くない駐車場を照らすだけだった。

水銀灯の下に立って、牧雄は耳を澄ませ、気になるその音を聞こうとした。
音は、確かに聞こえてきた。

だが、初めに聞いた時よりは、ほんのわずかの風にもかき消されるほどに小さくなっている。

(待ってくれ)

牧雄は、いまにも消えそうな音の聞こえてくる方角を確かめようと、耳をそばだてながら辺りを見回した。
しかし、程なく音は聞こえなくなってしまった。

牧雄は迷った。
迷った末、当てずっぽうで、ある方角をめざし歩きはじめた。

その先には、団地の西のはずれに造られた小さな公園がある。
公園にたどり着き、塗装も剥げたコンクリートのベンチの前で歩みを止めた。

やはり音は聞こえてこなかった。
どうしたものか、また迷った。

迷いながら、空を仰ぐ。
無数の星が瞬いていた。

西の空、はるかな山の端の上に、六つの星の粒・・・すばるも見えた。
牧雄は思わず昴を凝視する。

「あの夜と、同じだ」

胸の奥底で、何かがまた激しく騒いだ。
無意識のうちに、ある名前を呼んだ。

「彰子・・・アキコ」

その途端、胸の奥底のものを堰きとめていた意志の塊が烈しい衝撃とともに砕け、間を置かず、身を爛れさせんばかりの熱を伴った感情が渦を巻き、堰を切ったように迸り出た。
牧雄は、わななき、眼は昴に釘付けにされたまま、どうしようもなくベンチに腰を落とした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

熟女愛好家ユウスケの青春(熟女漁り)

MisakiNonagase
恋愛
高校まで勉強一筋で大学デビューをしたユウスケは家庭教師の教え子の母親と不倫交際するが、彼にとって彼女とが初の男女交際。そこでユウスケは自分が熟女好きだと自覚する。それからユウスケは戦略と実戦を重ねて、清潔感と聞き上手を武器にたくさんの熟女と付き合うことになるストーリーです。

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

『続・聖パラダイス病院』

菊池昭仁
現代文学
『聖パラダイス病院』の続編です。こんな病院なら入院生活も悪くはありません。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

処理中です...