夢幻燈

まみはらまさゆき

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(7)星月夜と金平糖(完)

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翌朝のホームルームでも琴美の事がクラスに知らされた。

事故の状況は、飲酒運転の自動車が歩道に乗り上げ、歩いていた琴美の背後からまともに衝突したという事だった。
自動車はもともと速度が出ていなかったのと、縁石を乗り越える際にさらに速度が落ちたため、打撲で十日間の入院程度で済んだという。

やはり大事には至らなかったとの安心感もあろうが、休み時間にある男子生徒が言った、
「自動車の方のダメージはどうだったんだよ? あいつ、頑丈だからな」
「俺さ、萩原の方から車に体当たり食わしたのかと思ったよ」
などというジョークも軽い笑いを生んだ。

しかし、由夫は笑えなかった。

不謹慎だと思ったからではなく、病室で寝ている琴美の事が、気が気でなかった。
見舞いに行って、本当に無事かどうかを確認して、安心したかった。

それだけでなく、由夫の心の重荷になっている、先日の事を一刻も早く詫びたかった。
けれども、果たして由夫が見舞う事を、琴美は喜ぶだろうか、詫びを受け入れてくれるだろうか、それが問題だった。

ひょっとしたらあれ以来、由夫の事を不快に思い続けているかもしれなかった。
由夫を無視し続けた彼女の冷たい表情が思い出された。

今日行こう、今日こそ学校帰りに見舞おう、そう思っている間にも、日にちは過ぎていった。
そうしている間に、見舞いに行った女子生徒の声が聞こえてきた。

「思ったほど喜んでもらえんかったね」
「だってあたしも盲腸で入院した時、お見舞いがウザかったもん」

それでますます由夫の腰は重くなった。
その間、夢幻燈を使う事はなかった。

ただ、琴美の事を思い、案ずるだけだった。

・・・

ようやく踏ん切りをつけ、見舞いに行ったのは土曜日の夕方前だった。
そういえば琴美は甘いもの、特に和菓子が好きだと言っていたなと思い、和菓子屋でそこの名物の大福を買った。

女性店員が大福を包む間、由夫は縮緬ちりめん細工の小さな箱に入った金米糖に気が付いた。
そして、それも追加で買った。

病院に着くと、診察は終わり、ひと気もなくひっそりとした廊下に、夕食を作る匂いが漂っていた。
ナースステーションで病室を訊ね、三階の隅の部屋に向かった。

三人部屋らしかったが、名札は琴美の名前しかなかった。
入る前に深呼吸して、ノックしてから「はい」という返事を受けて、引き戸をそっと開けた。

琴美はいちばん奥の窓際のベッドで半身を起こし雑誌を読んでいたが、入ってきた由夫の姿を見ると、あわてて寝間着の襟を正し、めくれていた毛布の端を直した。
彼女は「えっ?」と戸惑ったような笑みを浮かべ、頬はみるみる赤くなった。

なにか、他に気の利いた言葉があったかもしれない。

しかし由夫の口から出た最初の一言は、
「この間はごめん。僕は言い過ぎたと思う」

琴美は、毛布の端を指でいじり、顔を俯け上目遣いに言った。

「あれは、私が悪かったと思ってる。今までも由夫君に、いろいろ失礼な事を言いすぎたと思ってるから・・・ごめんなさい」

そんな控えめな琴美の言葉を聞くのも、苗字でなく下の名前で呼ばれるのも、初めてだった。
由夫は動悸を感じながら、聞いた。

「ところで大丈夫?」
「ん~・・・まだ立って歩くにはきついかな。右の腰に、思いっきりぶち当たってきたからね、車が。コルセットぎゅうぎゅうに締め付けて、腰を固定してるんよ。歩けるように松葉杖を借りてるけど、なかなか慣れなくて、かえって腰が痛かったり。・・・倒れた時、死ぬに違いないと思った。だって、あんまり痛いし、これはきっと内臓もやられてるな、って思って。・・・そこで由夫君のことを思い出しちゃった。このままごめんなさいも言えずに死んじゃうのかなって」
「・・・」
「ところで、それ何?」

由夫は、菓子箱を抱えたまま突っ立っていた。
琴美は差し出された箱を開けると顔を輝かせ、嬉しそうな声を上げた。

「うわぁ。ちょうど食べたいと思ってたんよ。お見舞いにもらったお菓子も、お母さんがダメだと言って、他にお見舞いに来た人に出しちゃうし。ちゃんと病院の食事食べないといけないとか、食べたら太るとか、お母さんが言うのよ。でももう大丈夫かな。お母さんはもう帰ったから」

琴美は、可笑しそうに笑い、そしてそれが腰に障ったのか、「あいたた・・・」と顔を歪めながらも笑った。

琴美が、冷蔵庫にウーロン茶が二缶あると言った。
それを出し、二人で大福を食べた。

窓の外は、時間とともに暗くなっていった。
家並みの中から空に向かって伸び、色の変わった葉を風に散らしている落葉樹の大木が、夕陽を浴びて燃え上がるように輝いていた。

「由夫君、このあいだ、砂漠の夢を見たかと聞いたでしょう?」

琴美が聞いた。
由夫は、うんと答えた。

「砂漠の夢は見てないんよ。でも、昔のどこかの大名のお姫様になって、駕籠に乗って逃げている夢なら見た。・・・戦に破れて、落ち延びながら、時々金米糖を食べながら泣いている、って夢」

由夫の見た夢と共通項があった。
けれども、驚きながらもそれは口に出さなかった。

「でもそれって、ちょうどその頃に読んでいた『遠野物語』って本の一節そのまま。たぶん戊辰戦争でだろうけど、お城を追われたお姫様の話が出てくるのよ。読んで、そのお姫様はどうなったかと気になっていたら、自分がお姫様になって出てきちゃった」

それから琴美は、含み笑いを見せた。

「それよりも、由夫君が駕籠かきになって出てきたのよ。私の乗っている駕籠を担いでね」

それが琴美にとってはとても可笑しい事のようで、彼女は今度はあははと笑い、それがさらに腰に響いたらしく、顔をしかめて、歯を食いしばっていた。
両手が何かを探すように中空を泳ぎ、由夫は思わずその片方の手を取った。

「ああ・・・ちょっとは助かるわぁ」

琴美は痛みに歪んだ顔の上に微かに安堵の表情を浮かべた。
由夫は彼女の手をさすりながら、きれいな手だなと思った。

・・・

それからしばらく話し込んでいるうちに、配膳の時間になった。

「大福食べたけど、これくらいならまだ入る」

そんな事を琴美は言っていた。
由夫は帰る事にした。

病室の戸を開けた彼に、琴美は言った。

「ありがとう」
「じゃ、早く学校に出て来れるようにな」

そう言って由夫は部屋を出かけた。

その背中に、「待って!」と琴美の声が呼びかけた。
「何?」と彼は振り返ったが、彼女は「ごめん、なんでもない・・・今日はありがとう」とだけ言った。

今度こそ本当に戸を閉めようとした由夫に、また病室の中から声が聞こえた。
由夫は、中を覗きこんだ。

琴美は、言った。

「・・・私が元気になったら、由夫君、私と付き合ってくれる? 私、由夫君の事が好きだったのよ。・・・入学式の時初めて見た時から、一目で好きになったの・・・信じてくれないかもしれないけど」

彼女らしくなく照れて、そして決して目を合わさずに胸にたまった感情を吐き出すように、そんな事を言った。
由夫ははっと胸を突かれたが、一呼吸の後、答えた。

「元気になったらね」

と。

・・・

由夫は帰りのバスの中で、胸が高鳴るのをどうしようもできなかった。

琴美はイヤな娘だけど、それでもやっぱりいい娘だ。
しかし、彼女に好意を持たれてきたという事は、あまりに意外過ぎた。

彼に事ある毎に小言を言い続けた、そんな彼女の告白をあっさり受け容れて、それは正しかったのか・・・?
たぶん、間違いではないだろう、そういう思いもあった。

その夜、彼は何日かぶりに夢幻燈をセットした。
カートリッジは、「海」を選んだ。

・・・

由夫は松林の中の一本道を歩いていた。
足元は砂地で、歩くたびに足裏は砂の中にめり込んだ。

道は上り坂だったが、先の方では松林が切れ、そこで坂は終わり空が開けているようだった。
一歩一歩、白い砂地の道を歩いていった。

坂を登りきると、目の前には広大な外海が広がった。
海からは強い風が吹きつけて、風に運ばれる砂によって松の木が砂丘に埋もれかかっていた。

砂丘も、内陸側は松林が広がっていたが、海側は、ハマヒルガオが海岸に沿って群落を作っていた。
それも海に近くなるにつれて不毛の砂地となり、なだらかに砂山が裾を引く辺りには波が打ち寄せていた。

空には雲がいくつか流れ、浜辺にはひとけはなく、海にも水平線に向かってただ一面に水面が広がるばかりだった。
聞こえてくるのは絶えることなく打ち寄せる波の音、波が退く音、風の音、そして由夫が砂を踏む乾いた音。

流木や、波に揉まれて円くなった硝子の破片、漁で使っていた浮き、そんな漂着物が海と砂丘の間に帯状に連なっていた。
由夫は、渚に沿いながら、歩いていった。

海岸は弓なりに伸び、遥か彼方には海を緩やかに抱き込むように陸地が平べったく広がって見えた。
途中、海に注ぐ川を渡った。

河口は海が運んだ砂により埋もれかかり、くるぶしまでの深さしかなかった。
ぬるい水は流れをほとんど止めているようでもあった。

いくつめかの河口で、由夫は靴を脱ぎ捨てた。
それからは、裸足で歩いていった。

どれくらい歩いたか分からなかったが、日がだいぶ傾き海の上に目もくらむばかりのきらめきを落とす頃、由夫は海に背を向けて砂丘を上り、ハマヒルガオの群落の中に海を向いて腰を下ろした。
海風は真正面から、なおも吹きつけてきた。

波はいつまでも一定の自然のリズムで寄せては退いていた。
由夫は、上体をハマヒルガオの群落の上に落とし、日を浴びながら目を閉じた。

由夫が見舞って話をした時、なにかの話の流れの中で琴美は言った。
時々、病室のベッドの上で波の音のCDを聞いている、と。

波の音は心が安らぐと。

しかしそれは、琴美だけではないだろう。
かなりの人は、波の音に癒されるのではないだろうか。

琴美が誰かから聞いた話として、波の音は胎児の時の記憶に繋がるからだと教えてくれた。

波が寄せる低い音が、母親の心拍。
波が退く、サーッという音が、母親の静脈を流れる血液の音。

母親に守られて、羊水の中に浮かんでいた時・・・無から生まれようとしていた時の記憶を、人は思い出すのだと。

まどろみながら、由夫は波の音を聞いていた。
母なるものの心拍と、静脈の音を聞きながら。

どれくらいの時間が経過したのだろうか。
暗闇の中で、名前を呼ぶ声が聞こえた。

前の年に死んだはずの、父親だった。

「そんなところに寝ていると風邪ひくぞ」

父親は由夫を抱え上げると、身を屈め、そして肩車をした。

「下駄を無くしたのか、しょうがないやつだな」

父親はそのまま海に沿いながら歩いていった。

空には満天の星。
どこかで見たような、星月夜。

そうだ、あれは幼い頃の祭りの晩、下駄を無くした由夫を父親が肩車で家まで送って行ったのだった。
そばには母親が寄り添いながら家に帰ったのだった。

あの星を取って、と由夫は駄々をこねた。
母親は笑いながら、手に下げた籠からガラスの瓶を取り出した。

「よしちゃん、はい」

母親が瓶から取り出したのは、金米糖だった。

昨夜ゆうべのうちにお星様を取っといたからね」

由夫は父親の肩の上で、金米糖を一粒ごとぽりぽりと食べた。
祭りから遠ざかった暗い道の向こうに、三人で住んでいた家が見えた・・・。

・・・

由夫は翌日の午後、夢幻燈を返しに行った。
勝手に実験道具を使った事も詫び、もし千代に濡れ衣が着せられたままならば、それも晴らそうと思っていた。

ビルの一階のラーメン店は、シャッターを上げようとしているところだった。
通りがかりの近所の男性が、白い前掛けの店の大将に声をかけた。

「ようやくまた、うまいラーメンが食えるなぁ」
「いやぁ今度ばかりは、大変だったよ・・・かあちゃんが居なくなったら、どうしようもないけど、こうして店を開ける事が供養になると思うようにせんとな」

そんな話が、狭い階段を一段、一段上る由夫の耳に入ってきた。

四階まで上がり詰めて、由夫は立ち止まった。
入口にあった粗末な表札がなくなっていた。

表札の形のまま、壁の汚れていない部分があるばかりだった。

そうっとドアの前に進み、ノックした。
初めは軽く、だんだんと強く、断続的にノックしつづけた。

ノックの合間に、中に向かって呼びかけた。
けれども、返事はなかった。

どうしようと思っているところへ、三階の事務所のドアを開く音がして誰かが階段を上ってきた。
教授か千代か・・・と思ったら、中年の女性だった。

「あんた、山下とか言う人?」
「はい・・・」

なぜ彼の名前を知っているのかは分からなかったが、返事をした。
女性は階段の途中から、上にいる由夫に向かって封筒を突き出した。

「楠本さんねえ、ロシアの研究所に行くとかで引っ越しなさったんよね。あまりに急だったから、まるで夜逃げみたいだったわ」

由夫に封筒を手渡しながらそんな事を言い、何が可笑しいのかあっはっはと笑いながらまた下りていった。

・・・

封筒には、教授の字で由夫に宛てた手紙があった。
手紙によると、ロシアの某研究所と契約し十年くらいはそこで研究する事になった、急な決定の上に渡航の準備もあり何の連絡もできずにこの地を去る事になった、いずれ帰ってくるはずだから夢幻燈はその時に返してほしい・・・といった内容が記してあった。

階段の窓から吹きこんだ秋の冷たい風が、由夫の周りで気流を生んだ。
足もとの紙屑がひとつ、くるくると舞った。

「ロシアかあ・・・」

由夫はまた、夢幻燈を抱えたまま階段を下りた。

暗い路地から出たアーケードは雑踏で生め尽くされていた。
暮れが近づくほど、街の雑踏は幸せに彩られた空気に満ちてくるようだったが、その中に溶け込みながら、由夫は歩いていった。

途中の和菓子屋で、フルーツ大福を売っていた。
そうだ、家に帰る途中で、また琴美の見舞いに行こう。

由夫は、和菓子屋の暖簾をくぐった。

                             了
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