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(1)老博士との出会い
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由夫は、休日になると一人で街に出る。
けれども、決して明るくきらびやかな街を楽しもうと思って人ごみの中に分け入っていくわけではない。
自宅にいても、居場所はないように感じているからだ。
それは、彼が中学生の頃に経済的な理由から実の両親が彼を育てられなくなり、遠い親戚で子供のなかった今の両親のもとに引き取られた当初から、ずっとそのまま引きずってきている感覚だった。
しかし、家を出たとして気分は紛れる事はなかった。
心の中の、もやもやしているものを抱えたまま、アーケードの幾何学模様のカラータイルを目で追いながら歩いたり、古本屋や百円ショップで要らない買い物をしたり、まったく心は晴れないまま一日が終わるのだった。
自分では、割と無感動なのかもしれない、そう思う事がある。
例えば、買い物ひとつするにしても、ぜひともこれが欲しい! と強く感じて買った事がない。
クラスの中でも影が薄かった。
いる事もいない事も感づかれないのではないかとさえ思われた。
女の子とは付き合いたいと思っても、それはそれで面倒くさいだろうな・・・と、本心からそう割りきってしまう。
いや、彼には心の中でひそかに想っている女の子がいない訳ではなかった。
彼女の名前は琴美といった。
大柄で、ずばずばものを言う性格だけれど、時として繊細で温かい心根を見せる事もある、いい子だ。
だが、好きになるとか、恋するとか、そこまでの情熱は湧いてこなかった。
ふらふらと味のない日常を送って、成り行きで高校を卒業して、どこかの大学に進むのだな、とは漠然と思っていたが、それだけだった。
自分がいてもいなくても、世界にとってはどうでもいい事のように思われた。
そんな彼のことを「覇気がない」と言って切り捨てたのは、同じクラスの女子・・・彼女こそが彼が想っている子、琴美だったのだ。
しかし批判されたからといって反発するでもなく、いやまったくその通りなのかもしれないなと、なんとなく思った。
・・・
中間テストの終わったある秋の午後、由夫はやはり街に出たが試験の出来が悪かった事ばかり気になって、そして財布の中にはいくらかのお金もなくて、何もできないまま雑踏の中を泳いでいた。
そのうちに雑踏からも外れてしまい、雑居ビルの建ち並ぶ裏通りに入っていった。
アーケードからは通り一本違うだけだというのに、人の姿は驚くほど疎らだった。
すでに大きく傾いた秋の太陽が、紙屑や細かいゴミの散った路地を静かに照らしていた。
スナックの前をほうきで掃き清めている中年の女性が手を止めて、由夫を不審者でもあるかのように見やってから、またほうきを動かし始めた。
スナックや雀荘や居酒屋の看板を眺めながら、狭い路地を歩いていった。
歩くにつれ、ほうきの音が背後で遠ざかるのを感じた。
ふと、由夫は足を止めた。
足元には、定期入れが落ちていた。
開いてみると、バスの子ども定期だった。
名前は、楠本千代・・・小学生にしては、えらく古風な名前だなと妙なところで感心した。
定期とは別に、住所が記されたカードがあった。
市内の国立大附属小学校の児童が持つカードなのだが、見ると拾った場所からすぐ近くのビルに住んでいるらしい。
どうやら交番に届けるよりも、その住所に持って行った方が簡単そうだったので、一軒一軒のビルに示されている番地表示を確認しながら目的のビルを探した。
たどり着いたそのビルは、一階がシャッターに忌中の張り紙のあるラーメン屋、二階が会計事務所、三階がなんだかよく分からないが会社事務所で、最上階の四階が定期券の持ち主の家らしかった。
エレベーターのないビルの、ひんやりとした狭い階段を登っていき、ドアの前に立った。
どう見てもカマボコ板に筆ペンで書いたとしか思われない表札がかかり、木製というよりは貼り合わせた合板の上から灰水色のペンキを塗りたくったような粗末なドアの小さな窓にはまったガラスは、ひびがガムテープで止めてあった。
定期の持ち主の女の子が通う附属小学校に対して由夫は、いい家庭の坊ちゃんや嬢ちゃんたちが通うというイメージを持っていた。
・・・が、それとはおそろしくかけ離れた雰囲気の「玄関」だった。
ドアをノックしかけた時に少し胸がざわざわとし、どうしてだろうと思い、深呼吸してから少し強めにノックした。
中で人の気配がし、警戒するかのようにドアが少しずつゆっくりと開いた。
ドアの隙間から顔を出したのは、初老の男性だった。
苦虫を噛み潰したようなしかめっ面をし、異様に分厚い眼鏡レンズの向こうには鋭い目があった。
由夫は男性の眼光に一瞬ひるんだが、定期券を拾った事を告げた。
「千代、千代!」
男性は、中に向かって呼びかけた。
「はあい」と返事をしてドアのところまでやってきたのは、歳の頃は七、八歳くらいの、幼い少女だった。
ここで由夫が少しばかり違和感を覚えたのは、その三つ編みのおさげを肩に下ろした少女は、えんじ色を基調にした渋い赤系の色の着物を着て、まるで五、六十年も昔の写真の中から色だけまとって飛び出してきたような姿格好だった事だ。
少女は男性に促されて礼を言い、由夫は二人にドアの向こうに招かれた。
どうしようかと思ったが、立ち去ったとして行く場所はない。
それに少女が昔ふうの格好をしているからといって、ドアの向こうがタイムトンネルになっているわけもなかろうと思い、靴を脱いで上がる事にした。
打ち放しコンクリートの天井や床にもビルの古さの現れているフロアは、塗装のはげかかった鉄製のアングルで骨組を作った棚で仕切られ、いくつかの部屋に分けられているようだった。
アコーディオンカーテンが半開きになっている部屋を覗き見てみると、何か化学で使うような実験器具が机の上に並んでいた。
奥の部屋だけコンクリートの床の上に畳が敷いてあり、そこが居室らしかった。
タンス、本棚、食器棚。
部屋の真ん中にはコタツが出してあり、部屋の隅には畳まれた布団。
そして仕切り壁には少女のものらしい小学校の制服と、男性のものらしいジャケットが掛けてあった。
窓の向こうには隣のビルの灰色の壁が立ちはだかり、教室か事務室に使うような細長い蛍光灯に照らされた部屋の中は、陰気に暗かった。
少女が「お茶を入れてきます」と礼儀正しく頭を下げて部屋を出ていき、由夫は男性とコタツに向かい合った。
コタツはスイッチが入っていなくて、ひんやりとした感触に思わず首をすくめた。
しばらく沈黙があった後、男性は、ぼそぼそと自己紹介した。
あの少女の祖父で、もとは大学の教授をしていたが定年退職して現在は次の職を探しているところだ、と。
由夫も、市内の高校の生徒である事を述べたところに、少女がお茶とお菓子を持ってきた。
それから、何を話したか・・・口数少なくポツリポツリと話す教授と、どうもどこか奇妙な雰囲気に戸惑っている由夫とでは、話がかみ合わなかった。
教授は、「それじゃ、私はやりかけの仕事があるから」と引っ込みかけ、由夫も帰ろうとした。
するとそれまで黙ってぽつねんと座っていた千代が、教授に聞いた。
「ね、お兄ちゃんに遊んでもらっていい?」
「お兄ちゃんがいいと言ったらね」
背中を向けたまま、そう返事をすると、教授はスリッパを突っ掛けて部屋を出た。
由夫がますます戸惑っていると、千代は早くも部屋の隅の木箱から遊び道具を出し始めた。
それからは、おはじきしたり、ままごとしたり、由夫にとっては退屈な時間だった。
ただ、同じ退屈でも、当てもなく街歩きするよりは、こちらの方がまだましかと思われたから、子供の遊びに付き合ってやった・・・まぁそんな投げやりな気分だった。
おはじきは色の入った大粒のガラスだったり、ままごと道具も陶器の茶碗やら塗り物の椀や箸だったりと、非常に時代がかっていた。
千代はお手玉が上手だったが、童歌を歌いながら三個、四個のお手玉を放っては受け止める手つきは鮮やかだった。
千代を遊び道具と一緒にビデオにでも撮って、博物館か民俗資料館で放映したら、さぞやサマになるだろうなと、ちらりと思った。
けれども、決して明るくきらびやかな街を楽しもうと思って人ごみの中に分け入っていくわけではない。
自宅にいても、居場所はないように感じているからだ。
それは、彼が中学生の頃に経済的な理由から実の両親が彼を育てられなくなり、遠い親戚で子供のなかった今の両親のもとに引き取られた当初から、ずっとそのまま引きずってきている感覚だった。
しかし、家を出たとして気分は紛れる事はなかった。
心の中の、もやもやしているものを抱えたまま、アーケードの幾何学模様のカラータイルを目で追いながら歩いたり、古本屋や百円ショップで要らない買い物をしたり、まったく心は晴れないまま一日が終わるのだった。
自分では、割と無感動なのかもしれない、そう思う事がある。
例えば、買い物ひとつするにしても、ぜひともこれが欲しい! と強く感じて買った事がない。
クラスの中でも影が薄かった。
いる事もいない事も感づかれないのではないかとさえ思われた。
女の子とは付き合いたいと思っても、それはそれで面倒くさいだろうな・・・と、本心からそう割りきってしまう。
いや、彼には心の中でひそかに想っている女の子がいない訳ではなかった。
彼女の名前は琴美といった。
大柄で、ずばずばものを言う性格だけれど、時として繊細で温かい心根を見せる事もある、いい子だ。
だが、好きになるとか、恋するとか、そこまでの情熱は湧いてこなかった。
ふらふらと味のない日常を送って、成り行きで高校を卒業して、どこかの大学に進むのだな、とは漠然と思っていたが、それだけだった。
自分がいてもいなくても、世界にとってはどうでもいい事のように思われた。
そんな彼のことを「覇気がない」と言って切り捨てたのは、同じクラスの女子・・・彼女こそが彼が想っている子、琴美だったのだ。
しかし批判されたからといって反発するでもなく、いやまったくその通りなのかもしれないなと、なんとなく思った。
・・・
中間テストの終わったある秋の午後、由夫はやはり街に出たが試験の出来が悪かった事ばかり気になって、そして財布の中にはいくらかのお金もなくて、何もできないまま雑踏の中を泳いでいた。
そのうちに雑踏からも外れてしまい、雑居ビルの建ち並ぶ裏通りに入っていった。
アーケードからは通り一本違うだけだというのに、人の姿は驚くほど疎らだった。
すでに大きく傾いた秋の太陽が、紙屑や細かいゴミの散った路地を静かに照らしていた。
スナックの前をほうきで掃き清めている中年の女性が手を止めて、由夫を不審者でもあるかのように見やってから、またほうきを動かし始めた。
スナックや雀荘や居酒屋の看板を眺めながら、狭い路地を歩いていった。
歩くにつれ、ほうきの音が背後で遠ざかるのを感じた。
ふと、由夫は足を止めた。
足元には、定期入れが落ちていた。
開いてみると、バスの子ども定期だった。
名前は、楠本千代・・・小学生にしては、えらく古風な名前だなと妙なところで感心した。
定期とは別に、住所が記されたカードがあった。
市内の国立大附属小学校の児童が持つカードなのだが、見ると拾った場所からすぐ近くのビルに住んでいるらしい。
どうやら交番に届けるよりも、その住所に持って行った方が簡単そうだったので、一軒一軒のビルに示されている番地表示を確認しながら目的のビルを探した。
たどり着いたそのビルは、一階がシャッターに忌中の張り紙のあるラーメン屋、二階が会計事務所、三階がなんだかよく分からないが会社事務所で、最上階の四階が定期券の持ち主の家らしかった。
エレベーターのないビルの、ひんやりとした狭い階段を登っていき、ドアの前に立った。
どう見てもカマボコ板に筆ペンで書いたとしか思われない表札がかかり、木製というよりは貼り合わせた合板の上から灰水色のペンキを塗りたくったような粗末なドアの小さな窓にはまったガラスは、ひびがガムテープで止めてあった。
定期の持ち主の女の子が通う附属小学校に対して由夫は、いい家庭の坊ちゃんや嬢ちゃんたちが通うというイメージを持っていた。
・・・が、それとはおそろしくかけ離れた雰囲気の「玄関」だった。
ドアをノックしかけた時に少し胸がざわざわとし、どうしてだろうと思い、深呼吸してから少し強めにノックした。
中で人の気配がし、警戒するかのようにドアが少しずつゆっくりと開いた。
ドアの隙間から顔を出したのは、初老の男性だった。
苦虫を噛み潰したようなしかめっ面をし、異様に分厚い眼鏡レンズの向こうには鋭い目があった。
由夫は男性の眼光に一瞬ひるんだが、定期券を拾った事を告げた。
「千代、千代!」
男性は、中に向かって呼びかけた。
「はあい」と返事をしてドアのところまでやってきたのは、歳の頃は七、八歳くらいの、幼い少女だった。
ここで由夫が少しばかり違和感を覚えたのは、その三つ編みのおさげを肩に下ろした少女は、えんじ色を基調にした渋い赤系の色の着物を着て、まるで五、六十年も昔の写真の中から色だけまとって飛び出してきたような姿格好だった事だ。
少女は男性に促されて礼を言い、由夫は二人にドアの向こうに招かれた。
どうしようかと思ったが、立ち去ったとして行く場所はない。
それに少女が昔ふうの格好をしているからといって、ドアの向こうがタイムトンネルになっているわけもなかろうと思い、靴を脱いで上がる事にした。
打ち放しコンクリートの天井や床にもビルの古さの現れているフロアは、塗装のはげかかった鉄製のアングルで骨組を作った棚で仕切られ、いくつかの部屋に分けられているようだった。
アコーディオンカーテンが半開きになっている部屋を覗き見てみると、何か化学で使うような実験器具が机の上に並んでいた。
奥の部屋だけコンクリートの床の上に畳が敷いてあり、そこが居室らしかった。
タンス、本棚、食器棚。
部屋の真ん中にはコタツが出してあり、部屋の隅には畳まれた布団。
そして仕切り壁には少女のものらしい小学校の制服と、男性のものらしいジャケットが掛けてあった。
窓の向こうには隣のビルの灰色の壁が立ちはだかり、教室か事務室に使うような細長い蛍光灯に照らされた部屋の中は、陰気に暗かった。
少女が「お茶を入れてきます」と礼儀正しく頭を下げて部屋を出ていき、由夫は男性とコタツに向かい合った。
コタツはスイッチが入っていなくて、ひんやりとした感触に思わず首をすくめた。
しばらく沈黙があった後、男性は、ぼそぼそと自己紹介した。
あの少女の祖父で、もとは大学の教授をしていたが定年退職して現在は次の職を探しているところだ、と。
由夫も、市内の高校の生徒である事を述べたところに、少女がお茶とお菓子を持ってきた。
それから、何を話したか・・・口数少なくポツリポツリと話す教授と、どうもどこか奇妙な雰囲気に戸惑っている由夫とでは、話がかみ合わなかった。
教授は、「それじゃ、私はやりかけの仕事があるから」と引っ込みかけ、由夫も帰ろうとした。
するとそれまで黙ってぽつねんと座っていた千代が、教授に聞いた。
「ね、お兄ちゃんに遊んでもらっていい?」
「お兄ちゃんがいいと言ったらね」
背中を向けたまま、そう返事をすると、教授はスリッパを突っ掛けて部屋を出た。
由夫がますます戸惑っていると、千代は早くも部屋の隅の木箱から遊び道具を出し始めた。
それからは、おはじきしたり、ままごとしたり、由夫にとっては退屈な時間だった。
ただ、同じ退屈でも、当てもなく街歩きするよりは、こちらの方がまだましかと思われたから、子供の遊びに付き合ってやった・・・まぁそんな投げやりな気分だった。
おはじきは色の入った大粒のガラスだったり、ままごと道具も陶器の茶碗やら塗り物の椀や箸だったりと、非常に時代がかっていた。
千代はお手玉が上手だったが、童歌を歌いながら三個、四個のお手玉を放っては受け止める手つきは鮮やかだった。
千代を遊び道具と一緒にビデオにでも撮って、博物館か民俗資料館で放映したら、さぞやサマになるだろうなと、ちらりと思った。
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