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(2)お姉さん部長から誘われた夜のこと
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ゴールデンウィーク直前の土曜日、遠乗りの練習をした。
朝早くに大学を出て、交通量の多いバイパス道ではなく旧道を15キロほど走って山際の湧水公園まで。
香織と友之の他に、柳田さんという大学院生の男子OBが同行した。
先頭が香織、次に友之、そして殿が柳田さん。
柳田さんは、大学院の理学研究科数学専攻の1年生。
細身の長身で長髪にタレ目のメガネで、グレーのバンダナを巻いていた。
香織と柳田さんはそれぞれ自前のバイク、そして友之は2台の備品のうち実際の乗り心地が良かった黄色のバイク。
あくまでトレーニングの一環だから、香織と友之のバイクの後ろには荷物の他に負荷として20kgの砂袋がくくりつけてある。
他にも、目的地の公園で行なう講習のためにテントや火器などもザックに入れて背負っているから結構な負担だ。
しんどいことはしんどいが、基礎体力が上がっているからか少々の坂道でも結構速度を落とさずに上っていける。
まだひんやりとした春の朝の風を切って、一列になった自転車が疾風のように駆け抜ける。
朝日に照らされた郊外の風景が、神々しくさえ見えた。
そして到着した湧水公園はまだ行楽客が少ない時間帯で、芝生広場の片隅で早速テント張りの練習。
もともとゴールデンウィークのサイクリングは「新人合宿」の名で、テントでの宿泊込みで行なっていたものらしい。
それが、部員数の減少で柳田さんの代から日帰りになったという。
その代わり、新人合宿で新入部員に叩き込んできたテクニックを伝授しようというのが、今回の遠乗りの目的らしい。
スマホのストップウォッチで時間を計る柳田さんの前で、目標の5分でテントを展開できるようになるまで3回もふたりで繰り返した。
テントが設営できると、今度は携帯コンロでの火起こし・・・これは難なくできた。
コンロで湯を沸かし、紅茶で一服。
その頃には広場も人が増えてきたので、切りの良いところでテントを撤収して大学に戻る。
大学近くの昔ながらの喫茶店で少し早い昼食を取ってから、午後は自転車のメンテナンスについての講習。
この頃には、太田さんという工学部化学科4年のOBも加わった。
太田さんは柳田さんとは対象的に、熊みたいにズングリした体型。
前の日まで東京に就活に行っていて最終の飛行機で戻ってきたということで、何度もあくびをしていた。
「コラ、太田! いくら最終便で帰ってきても、睡眠取るくらいのインターバルはあっただろ! どうせエロ動画でも見てたんだろ!」
柳田さんは苦笑しながら、太田さんに注意する。
香織さんという女子部員もいるのに「エロ動画」とは・・・友之の「不適切センサー」が作動しかかったとき、彼女も笑いながら太田さんをいじる。
「やっぱり、熟女モノですかぁ? 太田さん!」
「ちがわい! 次の面接で聞かれそうなところを復習してたんだ!」
ムキになって反論する太田さんに、爆笑する香織と柳田さん。
笑っていいものかどうか、困惑するだけの友之。
そんな雰囲気の中で、柳田さんの監督のもと自転車をバラしたり組み立てたり、油を差したり、部室に転がっていた穴の空いたチューブを修復して空気を入れたり。
一通りは覚えているはずの香織も、真剣になって教えを受けていた。
夕方になる頃には、智之と香織の両手は軍手をしていてもすっかり油が染み付いていた。
鼻をこすったときにでも付いたのだろうか・・・香織の鼻の頭に付いた油を、友之は思わず指先で取った。
「うふふ・・・」
何が可笑しいのか分からないが、香織は笑った。
彼に向けたその笑顔が、たまらなく色っぽく見えて友之は慌てて目をそらした。
・・・・
講習が一通り終わった後、4人は大学裏の定食屋へ。
そこはそれまでも部活が終わった後に、香織と一緒に夕食を取ってきた店だった。
古くて汚いけれども量と味と安さの三拍子そろった、学生向けの店。
半分くらいの回数は香織に奢ってもらったが、そういう時には生ビールのジョッキ1杯も付けてもらった。
まだ外は明るい時間帯で、店は空いていた。
と言っても、狭い座敷に一つだけ残ったテーブルに辛うじて着けたけれども。
その店は回転の早いカウンター席と、長っ尻の客向けの座敷がある。
そこに陣取ったということは、腰を据えて飲むということだろう・・・友之は言われなくても察した。
柳田さんと太田さんは、生ジョッキ3つにウーロン茶、ポテトフライに唐揚げ盛りに山芋ステーキ、焼き鳥盛り合わせに揚げだし豆腐を一気に注文。
柳田さんは香織に指示して、ボトルキープの棚から一升瓶を持ってこさせた。
7割ほど入った麦焼酎の一升瓶には白マジックで「疾風」と大書され、その下に「2013」という数字。
太田さんが、自慢気に説明する。
「この数字はな、けっして西暦なんかじゃないぞ・・・この『疾風』が設立されてから今日まで43年間の、ボトルキープの累計本数なんだ」
「ええ・・・ということは、1年間に50本くらい一升瓶を開けてきたってことですか?」
友之は驚いて聞き返した。
今度は柳田さんが説明する。
「つまらん計算するなぁ・・・でも、『疾風』の最盛期には、年に150本くらい開けてたそうだ。それが今は月に1本開くかどうか・・・時代の流れだろうけどな」
そこへ厨房から声がかかり、友之は香織に促されて一緒にそちらへ向かう。
真っ先にできたポテトフライと生ジョッキ、ウーロン茶、そしてグラス4つとアイスペール。
一度には運べないので、ふたりとも2往復する。
全部揃ったところで乾杯となったが、ウーロン茶は香織ではなく友之のためのものだった。
「昔だったら新入生は飲んでナンボ、って事もあったらしい・・・が、こういうご時世だからな、未成年にナンタラで『疾風』がお取り潰しになっても、この店に迷惑がかかってもいけないからな」
言い訳するようにずり落ちた眼鏡を指先で直しながら、柳田さんは言った。
香織に何度もビールをご馳走になってます、などとは言えず友之は神妙にウーロン茶のグラスを持つ。
それからは柳田さんと太田さんの武勇伝・・・サイクリング中にピンチに遭遇し、それをいかに切り抜けてきたかを延々と語られた。
しかしいずれの話も盛りに盛ってあるのが明らかだったし、香織からの絶妙なツッコミもあったりで、面白かった。
中には古いOBから聞いた話として、男ばかりのサイクリング中にひとりがどうしようもなくバテてしまい、やむなく沿道のラブホに全員で緊急避難した・・・という際どいエピソードもあった。
酒が入った香織は、そんな下ネタにも「あははははは・・・!」と高笑いしていた。
そのうちに時間はかなり過ぎた。
柳田さんと太田さんは二人で別の店に行くとか言って、それまでの勘定を済ませて席を立った。
二人が店を出て、ドアがパタンと閉まるのを見届けて、香織は深いため息を吐いてテーブルに突っ伏すように顔を落とした。
慌てて友之が側に寄ると、彼女は顔を上げながら言った。
「ああ疲れた・・・あの二人、やたら先輩風吹かすわ、下ネタ全開で話すわで・・・」
二人の話にウケていた自分にいささかの後ろめたさを感じながら、友之は元の席に戻った。
・・・ということは、香織が二人の話に笑っていたのは演技だったということか?
「私もね、下ネタは決して嫌いじゃないしむしろ好きな方なんだけど、限度ってもんもあるよね! ・・・それより、水割り一杯作って。飲み直したい気分」
「・・・いや、先輩、それくらいで止めときましょう。結構飲んでますよ」
「一杯だけ、お願い。それを飲んだら、私たちも帰ろう」
友之は仕方なしに、ごくごく薄めに1杯作って香織に渡した。
彼女はそれを、気だるそうな薄笑いをしながらチビリ、チビリと飲んだ。
・・・
結局、友之は香織をアパートまで送っていった。
部屋の入口で、香織は彼を部屋の中に招いた。
一瞬、躊躇し実際に遠慮したが、彼女が「お願い」と懇願するように言うので、部屋に入った。
彼女の部屋の中はきれいに整頓されていて、そしてなんだかいい香りがした。
香織は冷蔵庫を開けて2Lボトルのカルピスウォーターをラッパ飲みし、部屋の隅に座り込んだ。
どうしようかと迷っている友之に、彼女はトロンとした目で言った。
「ごめん・・・お布団、敷いてくれる?」
「あ、はい!」
押し入れを開けると、上段に寝具が畳まれていた。
それを下ろすとき、香織の心地よい体の匂いが彼を包み込み心にまで溶け込んでくるような気がして、むやみに心臓が跳ねる。
香織は膝を抱えたまま、布団を丁寧にきちんと敷く友之をぼうっと眺めた。
そして掛け布団まできっちりと四隅を整えて敷き終わった彼に、つぶやくように言った。
「私ね、1月まで柳田先輩と付き合ってたんだ・・・些細な行き違いから取り返しのつかないことになっちゃったけど」
「ええっ・・・でも、今日は一日、普通に接していたじゃないですか」
「私だって、プライベートとオフィシャルの使い分けくらい、できるから。・・・今日は、オフィシャルだったってだけ!」
語尾の口調を強めて吐き出すように言うと、香織は立ち上がって着ているものを脱ぎ始めた。
慌てて後ろを向く友之。
その状況は、彼自身「こんなことあったらいいな」と妄想していたもの。
しかし実際に直面すると、なんだかとんでもないことになりそうだと多少の混乱を抑えきれない。
香織は布団の中に入ってしまったようだ。
その中から、彼に呼びかける。
「ね・・・今夜、一緒にいてほしい」
「・・・」
「あの人が置いてったコンドーム、あるから」
「先輩、酔ってます・・・僕は、帰ります」
それだけ言うと、友之は飛び出すように部屋を出た。
深夜の街路に出ると、何の花かわからないがむせ返るような甘い香りがした。
点々と灯る街灯の下を、彼はぐちゃぐちゃになった心のまま自分の家に向かって歩いていった。
途中、香織からLINEの着信があった。
「ごめん 怒ってる?」
ひょっとしたら、まだ引き返せるかもしれないと思った。
しかし彼は、返信した。
「別に 怒ってなんかいません」
「月曜日 またよろしくお願いします」
そしてスマホを尻ポケットに押し込み、歩みを早めて花の香の薫る暗い街路を歩いていった。
朝早くに大学を出て、交通量の多いバイパス道ではなく旧道を15キロほど走って山際の湧水公園まで。
香織と友之の他に、柳田さんという大学院生の男子OBが同行した。
先頭が香織、次に友之、そして殿が柳田さん。
柳田さんは、大学院の理学研究科数学専攻の1年生。
細身の長身で長髪にタレ目のメガネで、グレーのバンダナを巻いていた。
香織と柳田さんはそれぞれ自前のバイク、そして友之は2台の備品のうち実際の乗り心地が良かった黄色のバイク。
あくまでトレーニングの一環だから、香織と友之のバイクの後ろには荷物の他に負荷として20kgの砂袋がくくりつけてある。
他にも、目的地の公園で行なう講習のためにテントや火器などもザックに入れて背負っているから結構な負担だ。
しんどいことはしんどいが、基礎体力が上がっているからか少々の坂道でも結構速度を落とさずに上っていける。
まだひんやりとした春の朝の風を切って、一列になった自転車が疾風のように駆け抜ける。
朝日に照らされた郊外の風景が、神々しくさえ見えた。
そして到着した湧水公園はまだ行楽客が少ない時間帯で、芝生広場の片隅で早速テント張りの練習。
もともとゴールデンウィークのサイクリングは「新人合宿」の名で、テントでの宿泊込みで行なっていたものらしい。
それが、部員数の減少で柳田さんの代から日帰りになったという。
その代わり、新人合宿で新入部員に叩き込んできたテクニックを伝授しようというのが、今回の遠乗りの目的らしい。
スマホのストップウォッチで時間を計る柳田さんの前で、目標の5分でテントを展開できるようになるまで3回もふたりで繰り返した。
テントが設営できると、今度は携帯コンロでの火起こし・・・これは難なくできた。
コンロで湯を沸かし、紅茶で一服。
その頃には広場も人が増えてきたので、切りの良いところでテントを撤収して大学に戻る。
大学近くの昔ながらの喫茶店で少し早い昼食を取ってから、午後は自転車のメンテナンスについての講習。
この頃には、太田さんという工学部化学科4年のOBも加わった。
太田さんは柳田さんとは対象的に、熊みたいにズングリした体型。
前の日まで東京に就活に行っていて最終の飛行機で戻ってきたということで、何度もあくびをしていた。
「コラ、太田! いくら最終便で帰ってきても、睡眠取るくらいのインターバルはあっただろ! どうせエロ動画でも見てたんだろ!」
柳田さんは苦笑しながら、太田さんに注意する。
香織さんという女子部員もいるのに「エロ動画」とは・・・友之の「不適切センサー」が作動しかかったとき、彼女も笑いながら太田さんをいじる。
「やっぱり、熟女モノですかぁ? 太田さん!」
「ちがわい! 次の面接で聞かれそうなところを復習してたんだ!」
ムキになって反論する太田さんに、爆笑する香織と柳田さん。
笑っていいものかどうか、困惑するだけの友之。
そんな雰囲気の中で、柳田さんの監督のもと自転車をバラしたり組み立てたり、油を差したり、部室に転がっていた穴の空いたチューブを修復して空気を入れたり。
一通りは覚えているはずの香織も、真剣になって教えを受けていた。
夕方になる頃には、智之と香織の両手は軍手をしていてもすっかり油が染み付いていた。
鼻をこすったときにでも付いたのだろうか・・・香織の鼻の頭に付いた油を、友之は思わず指先で取った。
「うふふ・・・」
何が可笑しいのか分からないが、香織は笑った。
彼に向けたその笑顔が、たまらなく色っぽく見えて友之は慌てて目をそらした。
・・・・
講習が一通り終わった後、4人は大学裏の定食屋へ。
そこはそれまでも部活が終わった後に、香織と一緒に夕食を取ってきた店だった。
古くて汚いけれども量と味と安さの三拍子そろった、学生向けの店。
半分くらいの回数は香織に奢ってもらったが、そういう時には生ビールのジョッキ1杯も付けてもらった。
まだ外は明るい時間帯で、店は空いていた。
と言っても、狭い座敷に一つだけ残ったテーブルに辛うじて着けたけれども。
その店は回転の早いカウンター席と、長っ尻の客向けの座敷がある。
そこに陣取ったということは、腰を据えて飲むということだろう・・・友之は言われなくても察した。
柳田さんと太田さんは、生ジョッキ3つにウーロン茶、ポテトフライに唐揚げ盛りに山芋ステーキ、焼き鳥盛り合わせに揚げだし豆腐を一気に注文。
柳田さんは香織に指示して、ボトルキープの棚から一升瓶を持ってこさせた。
7割ほど入った麦焼酎の一升瓶には白マジックで「疾風」と大書され、その下に「2013」という数字。
太田さんが、自慢気に説明する。
「この数字はな、けっして西暦なんかじゃないぞ・・・この『疾風』が設立されてから今日まで43年間の、ボトルキープの累計本数なんだ」
「ええ・・・ということは、1年間に50本くらい一升瓶を開けてきたってことですか?」
友之は驚いて聞き返した。
今度は柳田さんが説明する。
「つまらん計算するなぁ・・・でも、『疾風』の最盛期には、年に150本くらい開けてたそうだ。それが今は月に1本開くかどうか・・・時代の流れだろうけどな」
そこへ厨房から声がかかり、友之は香織に促されて一緒にそちらへ向かう。
真っ先にできたポテトフライと生ジョッキ、ウーロン茶、そしてグラス4つとアイスペール。
一度には運べないので、ふたりとも2往復する。
全部揃ったところで乾杯となったが、ウーロン茶は香織ではなく友之のためのものだった。
「昔だったら新入生は飲んでナンボ、って事もあったらしい・・・が、こういうご時世だからな、未成年にナンタラで『疾風』がお取り潰しになっても、この店に迷惑がかかってもいけないからな」
言い訳するようにずり落ちた眼鏡を指先で直しながら、柳田さんは言った。
香織に何度もビールをご馳走になってます、などとは言えず友之は神妙にウーロン茶のグラスを持つ。
それからは柳田さんと太田さんの武勇伝・・・サイクリング中にピンチに遭遇し、それをいかに切り抜けてきたかを延々と語られた。
しかしいずれの話も盛りに盛ってあるのが明らかだったし、香織からの絶妙なツッコミもあったりで、面白かった。
中には古いOBから聞いた話として、男ばかりのサイクリング中にひとりがどうしようもなくバテてしまい、やむなく沿道のラブホに全員で緊急避難した・・・という際どいエピソードもあった。
酒が入った香織は、そんな下ネタにも「あははははは・・・!」と高笑いしていた。
そのうちに時間はかなり過ぎた。
柳田さんと太田さんは二人で別の店に行くとか言って、それまでの勘定を済ませて席を立った。
二人が店を出て、ドアがパタンと閉まるのを見届けて、香織は深いため息を吐いてテーブルに突っ伏すように顔を落とした。
慌てて友之が側に寄ると、彼女は顔を上げながら言った。
「ああ疲れた・・・あの二人、やたら先輩風吹かすわ、下ネタ全開で話すわで・・・」
二人の話にウケていた自分にいささかの後ろめたさを感じながら、友之は元の席に戻った。
・・・ということは、香織が二人の話に笑っていたのは演技だったということか?
「私もね、下ネタは決して嫌いじゃないしむしろ好きな方なんだけど、限度ってもんもあるよね! ・・・それより、水割り一杯作って。飲み直したい気分」
「・・・いや、先輩、それくらいで止めときましょう。結構飲んでますよ」
「一杯だけ、お願い。それを飲んだら、私たちも帰ろう」
友之は仕方なしに、ごくごく薄めに1杯作って香織に渡した。
彼女はそれを、気だるそうな薄笑いをしながらチビリ、チビリと飲んだ。
・・・
結局、友之は香織をアパートまで送っていった。
部屋の入口で、香織は彼を部屋の中に招いた。
一瞬、躊躇し実際に遠慮したが、彼女が「お願い」と懇願するように言うので、部屋に入った。
彼女の部屋の中はきれいに整頓されていて、そしてなんだかいい香りがした。
香織は冷蔵庫を開けて2Lボトルのカルピスウォーターをラッパ飲みし、部屋の隅に座り込んだ。
どうしようかと迷っている友之に、彼女はトロンとした目で言った。
「ごめん・・・お布団、敷いてくれる?」
「あ、はい!」
押し入れを開けると、上段に寝具が畳まれていた。
それを下ろすとき、香織の心地よい体の匂いが彼を包み込み心にまで溶け込んでくるような気がして、むやみに心臓が跳ねる。
香織は膝を抱えたまま、布団を丁寧にきちんと敷く友之をぼうっと眺めた。
そして掛け布団まできっちりと四隅を整えて敷き終わった彼に、つぶやくように言った。
「私ね、1月まで柳田先輩と付き合ってたんだ・・・些細な行き違いから取り返しのつかないことになっちゃったけど」
「ええっ・・・でも、今日は一日、普通に接していたじゃないですか」
「私だって、プライベートとオフィシャルの使い分けくらい、できるから。・・・今日は、オフィシャルだったってだけ!」
語尾の口調を強めて吐き出すように言うと、香織は立ち上がって着ているものを脱ぎ始めた。
慌てて後ろを向く友之。
その状況は、彼自身「こんなことあったらいいな」と妄想していたもの。
しかし実際に直面すると、なんだかとんでもないことになりそうだと多少の混乱を抑えきれない。
香織は布団の中に入ってしまったようだ。
その中から、彼に呼びかける。
「ね・・・今夜、一緒にいてほしい」
「・・・」
「あの人が置いてったコンドーム、あるから」
「先輩、酔ってます・・・僕は、帰ります」
それだけ言うと、友之は飛び出すように部屋を出た。
深夜の街路に出ると、何の花かわからないがむせ返るような甘い香りがした。
点々と灯る街灯の下を、彼はぐちゃぐちゃになった心のまま自分の家に向かって歩いていった。
途中、香織からLINEの着信があった。
「ごめん 怒ってる?」
ひょっとしたら、まだ引き返せるかもしれないと思った。
しかし彼は、返信した。
「別に 怒ってなんかいません」
「月曜日 またよろしくお願いします」
そしてスマホを尻ポケットに押し込み、歩みを早めて花の香の薫る暗い街路を歩いていった。
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