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幸福のトラムはカナリーイエロー

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 勇治は高校進学に合わせて、路面電車トラムでの通学を始めた。学校前の停留所から自宅最寄りの停留所まで、15分くらいだろうか。
 本当に「ちょっとそこまで」の距離だし、小さい頃からトラムは身近な足だったから、1週間で慣れてしまった。しかも、学校帰りのささやかな楽しみも見つけたのだ。
 それは、学校帰りにカナリーイエローの車両に乗れると彼にとってすこぶるラッキーだと思えるようになったからだ。
 この街で何十台も走っているトラムの中で、カナリーイエローの車両は1台だけだったが。

 その車両は色ばかり鮮やかで、実は最古参の1台だそうだ。ステップは高いし、客室の中は暗いし、床も板張り。
 走る時の揺れは激しいしモーターの音はうるさいし、空調の効きも悪い。乗客たちの多くはこの車両がやってくると、だいたいハズレを引いたような気持ちになるらしい。
 中学までの勇治も、そうだったけど。それなのに、高校に入った途端にラッキーな車両に思えるようになった。
 理由は単純で、下校時にこのカナリーイエローの車両に乗ると、いつも必ず彼が想いを寄せる少女と乗り合わせるからだ。彼とは違う高校のセーラー服で、そしてたぶん、彼と同じ新入生。

 初めて彼女を見たのは、入学して最初の金曜日だった。その時勇治は、同じ中学出身の友人2人とトラムに乗って下校した。たまたまやってきたのは、「ハズレ」のカナリーイエローの車両だった。

「なんか、ついてないな」

 誰ともなく声に出してそんな事を言ったが、やり過ごして次の便を待つほどの事でもない。他の下校生たちとともに、乗り込んだ。
 車内は他校の生徒たちも混じって、混雑していた。勇治は吊革にぶら下がりながら、友人たちと談笑した。

 その時、何か視線を感じた。

 ハッとして見回すと、他の乗客の肩越しに彼を見つめる少女がいた。
 とびきりの美少女でもないのに、むしろどこにでもいそうな子なのに、その瞬間に彼は胸を射抜かれてしまった。しかし少女は彼と視線が合うとひどく慌てたように目を逸らし、俯いてしまった。
 一方で勇治は、なおも目が釘付けにされたように少女を見た。彼女は同じ高校の生徒たちの誰とも話さず、いやはっきり言えばひとりぼっちに見えた。
 なんだか、好きで一人でいるのではないようで、寂しそうにも見えた。勇治は彼女のことが非常に気になった。
 しかし程なくトラムは、彼が降りるべき停留所に到着した。彼は後ろ髪引かれる思いで、友人たちとともに下車した。

・・・

 その翌週の火曜日、さらに翌週の木曜日、あの少女と同じトラムに乗り合わせた。いずれも、カナリーイエローの車両だった。
 彼女は彼よりも遠くの高校からトラムに乗ってきて、彼の降りる電停よりも先に乗っていく。3度めに少女を見た時はトラムは程よく空いていて、彼女は一番後ろの席に座って俯き加減に居眠りをしていた。
 その時は、勇治も一人だった。ちょうど彼女の真向かいの席だけが「予約席」のように空いていて、そこに腰を下ろした。
 トラムは緩やかに揺れながら走り、短い間隔で停留所に停まる。新しい学校生活に疲れたのだろうか、少女はトラムの揺れに身を任せながら眠り続けた。
 勇治が降りるべき停留所に到着したが、彼は降りなかった。幸いにも彼が持っている定期券はトラムの全線で有効で、その気になれば終点にまでだって行ける。
 ひとりぼっちで眠り続ける彼女のことが、勇治はとても心配だった。同時に彼女と同じ時間、同じ空間を過ごしたいという淡い恋心に似た思いもあった。

 ……いや、これはまさしく恋心そのものではないのか?

 停留所ごとに、トラムは乗る客よりも多くの客を下ろしていく。車内はどんどん空いてきた。
 それでも、少女は目を覚さない。彼女の降りるべき停留所はどこなのだろうかと、勇治は不安になった。
 肩をそっと揺すって起こしてやりたい気もしたが、それこそ余計なお世話だろうと思い止まる。そして座席半分くらいの空き具合になる頃、終点に到着した。
 それでも、少女は起きない。さすがに勇治は焦り、彼女を起こそうとした。
 しかし、どう声をかけたら良いのだろうか。「終点に着きましたよ」ではかしこまりすぎて恥ずかしいし、「終点だよ!」では馴れ馴れしい上に乱暴すぎる。
 トラムは完全に停車し、他の乗客たちは立ち上がって出口を目指す。極めて短時間だったかもしれないが勇治は悩みに悩み、ついにおそらく一番の悪手を取った。

「終点! 終点!」

 そう彼女の耳もとで、大きめに2度繰り返したのだった。少女はピクンと体全体で震え、はっと驚いた顔を勇治に向けた。
 彼は恥ずかしさでいっぱいになり、他の降車客に紛れてトラムから降りた。少女がどうなったのか、後ろを振り返ることもなく。
 停留所の目の前の商店街の入り口に、コンビニがあった。とりあえずそこに駆け込み、雑誌のコーナーでコミックを手に取って立ち読みするふりをしながら外を伺う。
 すぐに、少女は店の前を通り過ぎた。おそらくはここが彼女の住む街なのだろう、そのまま商店街の雑踏の中を何事もなかったように歩いていった。

・・・

 初めての高校生活は目まぐるしい毎日で、あっという間にゴールデンウィーク。立夏を過ぎると、季節は初夏。
 大通りの並木の緑は日増しに濃くなっていき、日ごとに長くなっていく昼の光を浴びて眩しく輝く。街路樹ばかりでなく、街も、行き交う人や車も輝き、その上には気持ちがそこへぐんぐん伸びていきそうな空。
 立夏と呼ぶにふさわしく、その前後から学校の制服も夏服になった。やがて来る梅雨は鬱陶しいけど、立夏から真夏まで通して窓が大きく開いているような気にもなる。

 もう何度、あの少女と同じトラムに乗り合わせただろう。
 不思議なことに登校時には会わないし、下校時もカナリーイエローの車両の時だけ一緒になるのだ。
 終点で起こした時以来、彼は少女の事を余計に気にしていた。彼女も、彼の方を気にするように視線を向けてくる頻度が増えたような気もする。
 少女も衣替えをして、紺色のスカーフの純白のセーラー服に、スカートも鮮やかな紺色。こんなところにも初夏の風情が現れているようで、心を吹き抜ける風のような清々しさを勇治は感じる。
 しかし、言葉を交わす事などなかった。話しかけたいが、どうしたら良いのかも分からなかった。
 あの時の事で、彼女は機嫌を損ねていないか、いや逆に感謝したりしていないか。それも知りたいが、話しかけられない……話しかける糸口すら掴めない。
 悶々としながら、日ばかり過ぎていく。焦る気持ちを抑えながら、夏服に変わった彼女を少し離れたところから眺める。
 そしていつの間にか勇治は、下校時にカナリーイエローのトラムを選んで乗るようになった。と言っても、停留所でカナリーイエローのトラムでなければ3便か4便を限度にやり過ごす程度だったが。
 それでも来なければ、諦めて普通のトラムに乗る。けれども運良く来れば、それにはあの少女が乗っているのが常だった。
 そんな時、勇治は彼女に感知されるかどうかの微妙な距離を測って、立つか座るかする。近すぎて彼女にはっきりと気づかれても恥ずかしいし、遠すぎて彼女に気づかれないのはイヤだった。
 そしてさらに、彼女と同じトラムに乗り合わせた時は終点まで乗り通した。あの少女と目的地を共有したい、そんな想いから。
 そのくせ、終点に着くと彼女と動線が重ならないように、真っ先にトラムを下りるのだった。トラムを降りたら、まっすぐ商店街入口のコンビニに入り、雑誌コーナーから彼女を見送る。

 そんなバカらしいことは止めようと、何度思ったか。立夏を過ぎる頃から同級生の中には、彼氏ができた、彼女ができた、そんな話題が飛び交っていたのに。
 付き合う異性を気軽に作れる同級生たちに対して、自分がやっている事がいかに低次元か。彼はそれについて、ひどく悩んだりもした。
 「好きです、付き合ってください」なんて言わなくてもいい、せめてLINEか何かのアカウントさえ交換できれば。せっかく高校入学とともにスマホを買ってもらったのに、そんな「簡単な事」すらできない自分が情けなく惨めに思える事もあった。

・・・

 その日も、勇治は電車を1本、やり過ごした。新しく入ったばかりのノンステップ車両は、音も静かに遠ざかっていった。

「今日も、あのカナリーイエローの電車を待ってるんか?」

 中学からの友人である木村が、勇治に声をかけた。彼は鉄道マニアで、勇治とは別の意味でカナリーイエローの車両を推している。
 声に出さずに頷く勇治に、彼はある事を伝えた。それは鉄道マニアであれば知っている既定事項であり、地元マスコミで報道もされた事らしいのだが、勇治にとっては衝撃的な初耳だった。

「あのカナリーイエロー、今日が最終の運用なんだぜ。さっき行った、新型車両との置き換わりでね」
「なんだって?」

 彼にとって、それは重大なこと。すわなち、カナリーイエローのトラムが無くなってしまえば、もうあの少女と会えなくなるのではないかというとてつもない不安に襲われた。色めき立つ勇治に対して木村は至って冷静に、バッグから一眼レフのデジカメを出した。

「予定通りなら、次の便が例の車両なんだ。俺はその最後の勇姿をカメラに収める」

 なんて呑気で能天気なヤツなんだろうかと、勇治は殺意にも似た苛立ちを覚えた。そんな彼の気持ちなど知るわけもなく、木村は電停の端まで行って構図を検討し始めたようだ。
 そして5分と待たずに、次の便がやってきた。木村の予告通り、カナリーイエローのトラムだった。

・・・

 果たして、あの少女も乗っていた。けれども結局、彼はいつもの通り、終点まで声を掛ける事はできなかった。
 重苦しい敗北感を抱いたまま、商店街入口のコンビニに入った。もう二度とあの少女と会えなくなるはずはないのに、どうしても今日が最後のお別れのような気がしてならなかった。
 そしてそれを暗示するように、いつまで経ってもあの少女は店の前を通り過ぎなかった。普通だったら別の用事か何かで帰り道を違えたと考えるのが自然なのだが、勇治にはそれすらも意味のない気休めにしか思えなかった。

 数分が経ち、コンビニの前を次の便の降車客がぞろぞろと歩いていった。勇治は絶望のため息を吐きながら、カモフラージュで手に取ったコミック誌を棚に戻した。
 そして店を出ようとした彼と、彼の横からの、レジを済ませて出入り口に向かう別の客の動線が交錯した。
 ハッとして相手を見ると、あの少女だった。

「す、すみません!」

 それだけ言って、全く意に反して彼はまたもや逃げるように出入り口から店外に出ようとした。いったい自分は何をやっているんだと、自分で自分を罵り嘲りながら。

「あの、待ってください!」

 しかし商店街入口に出た彼を呼び止めたのは、あの少女だった。逃げ出そうとする足を必死に止めて、振り返る。

「あの……こないだは……起こしてくれて、ありがとうございました」

 彼女はいかにも緊張した面持ちで、焦りからかぶっきらぼうに彼に頭を下げた。勇治はしかし、なにか気の利いた返事をすべきだとは頭で理解しつつ、何も答えられなかった。
 いやひとつだけ、とんでもない事を口走った。その一言で、全てが本当におじゃんになりかねない事を。

「……LINEの交換、してみない? 僕は、君のことがずっと好きだったから……」

 しかし彼女は見る見る顔を赤らめ、こっくりと頷いた。そして、続けて言った。

「……私で、よければ。……私も、気になってました」

 ちょうど、歩行者用信号が青になったタイミングだった。大勢の人がふたりをかすめて通り過ぎたが、そのふたりの間で何が起こっているのか、誰も気に留めることはなかった。
 ただ初夏の夕方の爽やかな風だけは、ふたりを見守るように静かに吹き抜けた。

(了)
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