神崎くんは残念なイケメン

松丹子

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2章 神崎くんは残念なイケメン

11 大学2年、11月

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 文化祭は多くの大学と同じく土日連続で行われる。私たちのサークルは、1日目と2日目の午前は野外ステージで1曲、1日目の午後だけは講堂で2曲を披露し、サークルで一番大きなイベントになるクリスマスコンサートの宣伝を兼ねることになっている。
 この文化祭で披露する曲は、難易度のあまり高くない曲や、親しまれた曲を選ぶことが多い。特に野外ステージはインパクトのある曲をとミュージカル曲を選んだ。
「……ほんとにこれ着るの」
 衣装を手に、うんざりした表情の神崎くん。期待に満ち満ちた表情の部員一同。
 今回の曲目は、オペラ座の怪人より「マスカレード」。合唱用に編曲してもらったものだ。仮面舞踏会を意味し、オペラでは、怪人が醜い顔を隠して参加する、序章ともいえるシーンで用いられる。部員も全員それぞれ黒っぽい服装に、思い思いに作ったお手製の仮面を持って歌うことになっていたが、主役である怪人として簡単な寸劇をあてられたのが神崎くんだった。
 ちなみにヒロインたるクリスティーヌ役はいない。早紀が推されたのだが本人が泣きそうになりながら辞退したためだ。神崎くんも嫌がっていたのだが、会議中一度相ちゃんと幸弘の3人で席を外したと思ったら、戻ってきて素直に引き受けてくれた。実は 裏で何を言われたのか気になっているのだが、聞くタイミングを逸したまま今日に至る。
 他の部員は黒で統一しているが、神崎くんは一人だけ赤の衣装だ。それを黒いマントで隠し、合唱が終わったところでひと口上、ということになっている。その衣装は、1年女子のニコちゃんこと河田笑美ちゃんが、高校時代の演劇部の衣装を借りてくれたものだった。任せてください!と言ったときの目の輝きは今でも鮮明に覚えている。
「時間ないよ、ほらほら。みんなも着替えて着替えてー」
 バタバタと男女に分かれて着替えを始めたが、着替え終わるや否や、女子部員の黄色い悲鳴が聞こえた。
「ぎゃー。ざっきー先輩。後で写真撮ってくださいー」
「やばい死ねる」
「おいこら群れんな!落ち着け!」
「写真撮影はマネージャーを通してお願いしますねー」
 まさにマネージャーのように神崎くんを囲むのは幸弘と相ちゃん。その脇からちらりと姿が見えた神崎くんのマントはひざ下まであるが、今は後ろに流していて、貴公子のような服に身を包んでいるのが見える。臙脂に近い落ち着いた赤。長い脚には黒いミドルブーツ。
「うーん。衣装でかっこよさが5割増、もはや公害レベルだね」
 サリーが腕を組んで感心したように言う。そんな彼女も、ところどころにレースがあしらわれた黒いワンピースがとてもよく似合っている。
「神崎くん、赤似合うねー」
 私が褒めると、横でイオンが呆れたように言った。
「安定のコッコだな。あの悲鳴の横で」
「私が騒いでどうすんの」
 私は苦笑して、腕時計を見ると言った。
「そろそろ行くよ。みんな、貴重品先輩に預けてねー」
 3年生以上は基本的にクリスマスコンサートの練習に専念してもらうため、この文化祭には出ない。代わりに、いつも下っ端がやる仕事であるチラシ配りや貴重品の管理、案内役などをやることになっている。
 それぞれから思い思いの返事が返ってきて、みんなで神崎くんを隠すようにーーと言っても長身なのでやや無理があり、幸弘やたっちゃんなど、長身の男子がSPのように囲むことになったがーー極力人通りを避けて、野外ステージへ向かった。

『次は合唱サークルの発表です』
 マイクを通した司会の声を合図に、黒い衣装を身にまとい、シルクハットを頭に乗せた相ちゃんとイオンが舞台へ歩き出す。
「いやー、今日は天気に恵まれましたな」
 二人はオペラ座の怪人の座団長や支配人をモチーフにした役どころだ。この台詞の間に、部員は後ろで並び、歌う準備をする。
「今日は来月の講演の宣伝を兼ねて、仮面舞踏会を開催するのだ」
「みなさんも共にお楽しみあれ!」
 言うやいなや最前列に入り込み、曲が流れ始めた。
 午前なのでさして多くなかった人が、歌っている間に増え始める。マスカレードは華やかな歌だし、耳によく届くのだろう。集まった観客に、先輩たちがチラシをまいているのが仮面の下から見える。ゆいゆいの想い人?白井先輩も、一眼レフを構えて生き生きとシャッターを押していた。
 歌が終わるのと重なるように、オペラ座の怪人特有の、不穏さを感じるメロディが流れた。
 周りにいる人たちがハッと舞台を注視する。
 舞台の後方に極力隠れて歌っていた神崎くんが、マントを翻して舞台の前方に躍り出た。
 180センチの長身。身にまとった赤い衣装と翻ったマント。フルフェイスだったお手製の仮面はその場に捨て、片目の周りを白い仮面が覆った、ファントム特有のスタイルである。
 黄色い歓声が上がるのを気にもせず、神崎くんが台詞を口にする。
『ーーああ、もうすぐ会える』
 少し低い、だがお腹の底から出ている声。いい声だ。女性たちが聞きほれているのが分かる。……って、先輩たちが聞きほれてどうすんの、ちゃんとチラシまいて!仕事仕事!
『クリスティーヌ……わたしの歌姫』
 言い終わるや、黒いマントを翻し、舞台裏へと降りていく。
 わっと歓声が挙がった。
「今のファントム誰!?超かっこよかった!」
「誰か写真撮った!?」
「わ、見惚れてて忘れた!誰も撮ってないの!?マジで!?」
「あれ2年の神崎くんだよね、サークル入ってたんだ」
「噂の神崎先輩!?超かっこよかったですね!」
 混乱状態のお客さんに先輩たちが慌ててチラシを配る。相ちゃんが司会のマイクを借りて一言。
『チラシにも記載がありますが、今日の午後、講堂でも発表を行います。また、来月、クリスマスコンサートがありますので、ぜひお誘いあわせの上お立ち寄りください』
 ぺこりとお辞儀し、ざわめきと拍手に見送られて、部員一同舞台を降りた。
 舞台裏には、うんざりした表情の神崎くん。ソッコーでマントを外して私物のトレンチコートに着替えている。いや、トレンチコードでも十分かっこいいよ。残念ながら。
「早く着替えよう。午後に備えて。ソッコーで着替えよう」
 まだお客が騒いでいる。外に出て宣伝しようと提案しかけた相ちゃんに口を開かせもせず、神崎くんは幸弘を引っ張った。
 確かに、午後には講堂での発表。こちらは普通の発表同様、スーツとフォーマルワンピースで行うので、また着替えることになる。みんなは残念そうな目線を交わしながら、それに従った。

 午後の講堂での発表は、その評判を聞きつけたからか、なかなかの人だった。
 発表後の簡単なアンケートは「ファントムがいなくて残念」「明日の野外ステージもオペラ座やりますか?」とその関連の記載が8割を占めており、話題をかっさらったのがよく分かる。
「っていうかねー、明日の野外ステージ、もちょっとファントムの出番長くしてくれない、って頼まれちゃって」
 カジュアルウェアに着替えてからの反省会。相ちゃんが頬をかきながら言った。
「……引き受けてきたの?」
 白い目で言ったのは私。相ちゃんがてへと首を傾げる。だからかわいくないって。
「だってさ、実行委員知り合いなんだよー。宣伝にもなるしウィンウィンでしょって言われたら断れないじゃない」
「断りなさい、部長なら」
 深々と嘆息する。その横で、香奈ちゃんが、何でですかーと首を傾げる。女の子のその動作はかわいく見えるのがまた不思議。
「だって、お客さん喜んでくれたなら、いいじゃないですか」
 他の半数もそういう目で私を見ている。また厳しいとかって思われてるかな。
 私は苦笑しながら言った。
「もともと、神崎くんが乗り気じゃなかったのを、誰かさんたちが説得したんでしょ」
 何を餌にしたのかは知らないけど。とは、心中で付け足す。
「ただでさえ一人だけ負担が大きくなってるのに、本人の承諾も無しに引き受けるのはまずいと思うんだけど」
 私を正義感の塊と揶揄する人がいるけれど、きっとこういうところなんだろうと思う。
 でも気になるものは仕方ない。
「じゃあ、本人が乗り気になるようにすればいいんじゃない」
 幸弘が手を挙げた。目が輝いている。ていうか何だその発想の転換。相変わらず無自覚に機転が利くな。
「コッコ、ヒロイン役やれよ」
「はあ?」
 あまりに意外すぎる提案に、私の声も間の抜けたものになった。私がクリスティーヌ?どう考えても、声がヒキガエルみたいになる女優か、せいぜいクリスティーヌのお友達の役だと思うんだけど。
「それと神崎くんのやる気の関連性が分からない」
「ちょっと幸弘。あんたオペラ座のストーリー知らないんじゃないの」
 呆れたように言ったのはサリー。横から幸弘をつつき、小声で言う。
「ファントムとクリスティーヌは悲恋で終わるのよ」
「あれ、そうだっけ」
 幸弘が頬をかき、じゃあやめた、と手を下げる。いやだから、何なのそれ。
「いいよ。やるよ」
 苦笑しながら言ったのは神崎くんだった。
「え、でもーー」
「ありがとう、庇ってくれて。で、演出は決まってるの?」
 私に丁寧に言うと、相ちゃんへ目を移した。
 相ちゃんは首を振る。
「まだ。どうしようかなーって。今日から明日で一曲増やすわけにもいかないし」
 言って、私の方をちらりと伺い見る。嫌な予感がする。そもそも今回の演出を考えたのも私を中心とした女子大の文学部メンバーだ。
「コッコ、なんかいい案ないかなぁ」
「しかも丸投げかい」
 私は額に手を置き、深々と嘆息した。
「まあちょっと……考えてみるよ。早紀、香奈ちゃんたち、少し残れる?」
「うん」
「大丈夫でーす」
 早紀、香奈ちゃん、ニコちゃん。演出を一緒に考えたメンバーに声をかけて承諾を得ると、神崎くんに目を移す。
「神崎くん、今日少し残れる?」
「うん。ごめんね」
「いや、どうかんがえても神崎くんは悪くない」
 眉尻を下げる神崎くんに首を振って言うと、まずは女子だけで演出を考えようと集まった。

「ファントム名台詞集から取ってくる?そんなのがあればだけど」
「名台詞って言っても、ファントムのセリフって根暗ですよ、基本」
「うんまあそうなんだけど」
 顔を焼かれた醜い容姿。人と関わることを避け、ただ音楽のみを愛してオペラ座に住まった怪人。孤独の中で、理想の女性であるクリスティーヌと出会い、音楽を教えながら自らの愛情を伝えていく……
 しかし、結局は人と共に在ることのできないファントム。クリスティーヌはファントムの孤独に共鳴し、憐憫を感じながらも、普通の男と恋に落ち、普通の人間として外の世界で生きていくことを選ぶのだ。ファントムも、自分には幸せにすることができないと察して、最後はクリスティーヌのために、その身を引く。
「今から原作を読破する訳にも……」
「探すだけ探してみましょう。近くの図書館、まだやってますよ」
 大学図書館にいわゆる小説はほとんどない。ホームページで検索をかけてから、置いていそうな近隣図書館に行くことにした。
「神崎くん、どうする?私たち一度図書館行くけど」
「一緒に行こうかな。どうせこの辺ウロウロしてたら落ち着かないし」
 キャンパスを歩いていると、ファントムだ!と目ざとい女性陣から声をかけられるのだ。おちおち文化祭の模擬店散策もできない、と苦笑して、私たちについて来ることになった。

 図書館でオペラ座の怪人に関する本を広げながら、あれこれ協議していた私たちは、演出を考え終わると、神崎くんを探し始めた。
 土曜日は19時まで開館していて、もう18時半を回っている。広くないとはいえ3階建ての図書館なので、各階分担を決めて探すことになった。分担のところを確認して、いなければまた戻ってくることにする。
 そうして神崎くんを見つけたのは私だった。国際交流、留学関連の棚で、本の背表紙を眺め、一つの本に手にかけている。--アメリカの大学で過ごす1年。
「……アメリカ?」
 私が小さく呟くと、神崎くんがはっとしたように振り返った。
「あ、終わった?」
「うん、おかげさまで。待たせてごめんね」
 神崎くんは本にかけた手をさっと引っ込めて、私の方へ歩いてくる。私も女子にしては背が高いのだが、彼はそれより頭一つ分大きい。不思議と自分が小さくなったように感じる。
「よかったの?本」
「うん、別に。みんなどこにいるの?」
 神崎くんは何事もなかったように私の横に歩いてくる。私はこっち、と示しながら歩き始めた。
「神崎くんも散々だったね。相ちゃんや幸弘にいいようにされちゃって」
「まあ、いい思い出と思って務めることにします」
 神崎くんは苦笑しながら答えた。思い出。
 ーーアメリカ。
 ふと、本の背表紙が思い出されたが、深く聞くのもどうかと思い、忘れることにした。

 翌日の演出は、セリフと身振りを少し足すことになった。
 マントに身を隠したまま舞台へ進み出て、少し大袈裟にマントを払う。右手を胸に当て、やや俯いて最初のセリフ。
『ーーああ、もうすぐ会える。クリスティーヌ……わたしの歌姫』
 胸に当てた手を横に広げ、顔を上げて次のセリフ。
『ようやく伝えるときがやってきたーーこの想いを、わたしの歌とともに』
 言い終わると、やはり大袈裟にマントを翻しつつ、周りを見渡して舞台を駆け降りる。
 完全に気障な演出になってしまったが、神崎くんも仕方ないねと苦笑していた。
 マントの扱い方を何度か試してから、みんなで帰路に着く。
「でも、こんだけ好評となると、クリコンも全くファントム無しってわけには行かないんじゃないですか?」
 香奈ちゃんの素直な疑問は、正直誰もが内心思っていたことだった。私は苦笑する。
「うーん、正直、そう思わなくもないけど。とりあえず、明日をしのぐことを考えたい」
 それを聞いていた神崎くんも、苦笑しながら同意した。
「2日間だけと思ったから引き受けたけど……まあ、それはそうなったときに考えよう」
 そうしよう、とりあえず明日がんばろう、と互いの顔を確認したのだった。

 翌日、拍手喝采の下で舞台を駆け降りた神崎くんの肩を、幸弘が威勢良くたたいた。
「ざっきーお疲れ!」
「お疲れさまでした!かっこよかったです!」
 次いで、真っ先に褒めたたえたのはさがちゃん。他の男子もそれに倣って神崎くんに声をかける。先を越されて女子は順番待ちになっている。
 私はそれを背に聞きながら、女子に着替えに行くよう指示を出した。
「えー、ざっきー先輩と写真撮っちゃだめですかー」
「それは本人に聞いてください。とりあえず着替える人、部室戻るよー」
 私は率先して前を歩いていく。女子用の更衣室にした部室で着替えていると、後から戻って来た1年のニコちゃんが私に声をかけてきた。
「コッコ先輩、着替えたら荷物持って廊下に出てきてくれって、こばやん先輩が」
「私?何だろう」
 もう着替え終わって服をたたんでいるところだったので、私は了解して服をしまい込むと、指示された通り荷物を持って廊下へと向かった。
 幸弘はまだ着替えずにそこに立っていた。
「どうしたの?」
「うん、それが」
 苦笑して、幸弘は言う。何故か目を合わせようとしない。
「ざっきーが、ちょっと気分悪いとかで、人の少ないところに行くって……弓道部の部室に」
 後半は小さな声だ。
「お前、場所分かる?俺、着替えてから行こうと思ったんだけど、お前なら分かるかと思って。これ、ざっきーの荷物と着替えなんだけど」
 きちんと荷造りされた鞄を差し出しながら言う。
「……何か隠してる?」
「え、いや、そんなことは」
 目が泳ぐ。明らかに怪しい。
 とはいえ、神崎くんが悪知恵を働かせるとも思えず、私は嘆息して荷物を受け取った。
「多分、分かると思う。図書館の裏手の方、ずっと行ったところだよね」
 初夏に幸弘に案内されたときのことを思い出しながら、私は言った。
「立入禁止にはなってないと思うんだ。模擬店は途切れてるから、人通りは少ないはずだけど」
「了解。じゃ、行ってくる。女子の方よろしくって、サリーに一声かけてくるね」
「あ、大丈夫。それ俺が言っておくから」
 早く行け、ということか。本当に一体何を考えているんだか。
 私は嘆息すると、足早にサークル棟を後にした。

「--神崎くん」
 弓道部の練習場前までやってきた私は、練習着に着替えた神崎くんを見つけた。弓道部は休みのようで、他の部員はいない。
「大丈夫?気分悪くなったって聞いたけど」
 神崎くんは苦笑を返す。
「--うん、大丈夫。着慣れない服着たからかな。とりあえず着慣れたものに着替えたら、楽になった」
 彼にとっては着慣れた服だが、私にとっては見慣れた服ではない。思わず観察してしまった。
 弓道の練習着は、白い半そで状の併せに紺色の袴だ。袖が短いのは、弓を引くとき邪魔にならないようにだろう。今はもちろん革の胸当てなどはしていない。
「はい、着替えと荷物」
「ああ、うん、ありがとう」
 神崎くんは荷物を受けとって、黙り込んだ。言葉を待って黙りながら、私はふと、神崎くんの頭越しに空を見る。
 秋晴れの空を、薄い雲が流れていく。空の上は風が強いらしいが、地上は木が揺れることもなかった。
「弓、引いて行くの?」
「うーん、どうしようかな。着替えながら、それもいいか、って思ったんだけど」
 神崎くんは私の視線を追うように空を見ながら言った。
「文化祭回ろうと思ってたんだけど、昨日の感じじゃ騒がしいだけだし」
「何か、買って来ようか?お礼ーーにはならないかもしれないけど。文化祭の気分だけでも」
 歩いてくるとき目にした模擬店の食べ物を思い浮かべながら言う。定番の焼きそば、たこ焼き、豚汁の他、水餃子やチュロス、ワッフルなどなど。ああいう模擬店を見ると、お祭り気分で何となくウキウキする。
 神崎くんは少しだけ考えてから、じゃあお願いしようかな、と言った。
「何が食べたい?」
「ええと」
 神崎くんは一瞬、視線をさまよわせてから、呟くように言った。
「……鈴木さんが食べたいもの」
 思考回路、一時停止。
 私は息を吸い直して、確認のため聞き直した。
「私が食べたいもの、が食べたいの?」
「……うん」
 私が渡した手元の荷物に目を落としながら、神崎くんが頷く。思わず首を傾げたくなる。どういうこっちゃ。
「よくわからないけど、わかった。じゃあ、適当に買ってくる。着替えて待ってて」
 まあそういうことでいいんだよね、と、私は大きい荷物だけ神崎くんに任せ、模擬店のある方へ歩いて行った。

 とりあえず、両手に持てるだけ模擬店の食べ物を買って、弓道場に戻ると、神崎くんはもう普段着に着替え終わっていた。赤いラインの入ったV襟のベージュニットに少しだけ艶のある紺色のジャケット。足元はダークブルーのジーパン、靴は先ほどと同じミドルブーツ。さすがに足元は自前だったらしい。どおりで履き慣らしている感じがしたわけだ、と納得した。それにしても恵まれた体躯。何を着ても似合う。
「色々買ってきたけど、足りるかな」
 足りなければまた買いに行くから、と言うと、神崎くんは目を見開いて驚いたようだった。
「鈴木さん、そんなにあれこれ食べたかったの?」
 まるで食いしん坊のように言われて、思わず頬が赤くなった。
「ち、違、神崎くんお腹空いてそうだったから、二人分買うと結構な量になっただけで」
 なんだか言い訳じみていてしどろもどろになる。確かに空腹で歩いていたらあれもこれもと思ったのは確かだ。
「そっか、ありがとう」
 丁寧なお礼。なんだか、何度もお礼を言われている気がして、不思議な感じがした。
「でも、文化祭の模擬店って、あんまり袋置いてないんだよね。みんなその場で食べること前提にしてるから」
「まあ、いちいち袋用意してたらコストもかかるしね」
 焼きそばの模擬店ではたまたま袋があったので、できるだけそれに入れて、後はどうにかこうにか手に持って来たのだ。焼きそば、たこ焼き、焼き鳥、水餃子にチュロス。
「あ、しまった」
 私は手を温めるように持っていた水餃子を見て言った。
「器もう一つ貰えばよかったね。一緒に食べるのはさすがに嫌だよね」
 お箸はもらったんだけどなぁ。代用できるものあるかなぁ。
 ぶつぶつ言いながらガサゴソと袋の中を見るが、ちょうどいいものがない。
「神崎くん、食べてもいいよ。私また後で買えばいいから」
 顔を上げた時、神崎くんが何故かむこう向きに小さく拳を握っているのが見えた気がしたーーが、すぐにそれを戻してこちらを振り返る。今の何?ガッツポーズ?
「いや、気にしないよ。せっかくだから一緒に食べようよ。気にしないから。全然気にしないから。あったかいうちがおいしいでしょ。先にどうぞ」
 爽やかに言うが、一息の間に3回も気にしないというフレーズを聞くと、逆に気にしているんじゃないかという気になる。でも……と言ったが、ほんと大丈夫だから。うまそー、いただきまーす、と焼きそばに手を伸ばした神崎くんを見て、気にしないことにした。
 ずずず、と口に含んだ水餃子のスープが、温かく口の中に広がった。
「中国からの留学生たちで作ったんだって。みんな上手な日本語しゃべってたよ」
「ああ、母国の味みたいなやつか。皮から作ったのかな」
「そうみたい。こだわり色々ありそうだよね」
 さすがに汗と革の匂いのする弓道部の部室で食べる気にはならず、弓道場の前の階段に座りながら、私たちは模擬店の食べものを食べていた。
「もう、すっかり夏も終わっちゃったね。11月だから当然だけど」
 考えてみたら、神崎くんとこうして二人で話すのは、合宿でケガの手当をしたとき以来だ。
 そのときは、こんなに長い間ではなかった。
「そうだね」
 はた目から見ていると華やかな神崎くんだけど、隣り合って話していると、不思議と静かだ。弓道場で弓を引く神崎くんが纏っていた空気を思い出す。隣にいると、その空気に包まれているような気になる。
 幸弘の纏う空気が、春先の太陽の日差しのように、汗ばむほど陽気でぽかぽかしているのと比べると、神崎くんのそれは、秋晴れの日に吹く微風のような、静かに凛とした空気だった。背筋が知らず知らず、気持ち良く伸びる。
 嫌いじゃない。むしろーー
「どうかした?」
 私ははっと顔を上げて、ついついスープを飲みすぎたことに気づき、神崎くんに差し出した。
「ううん、なんでも。ごめん、おいしかったから飲みすぎちゃった。いる?」
「うん、ありがとう」
 神崎くんは笑顔で私の手から水餃子の器を受け取って、口元に運んだ。
 私は何故か見ていられない気分になり、袋の中に目を反らす。たこ焼きが目に入ってもそもそと開け、一つを口に含んだ。
「あつっ」
「わ、大丈夫?」
 焼きたてのたこ焼きは中がトロリとしていて、びっくりするくらいの熱さだった。
「あっつーい。猫舌にはつらい」
「え、猫舌なの?」
 神崎くんは笑う。その笑顔がまぶしい。
「どおりで、水餃子にじっくり取り掛かっていたわけだ」
 私ははっとした。
「あ、ごめん。私がふうふうしてる間にすっかり冷めてたよね。やっぱりもう一つ買ってくる」
「いい、いいって」
 腰を上げかけた私を制して、神崎くんは、今まで見たことがないくらい楽しそうだった。
「これくらいの温度が好きなんでしょ、鈴木さんは」
「好きというか……適温?」
 言うと、神崎くんが言う。
「ラーメン屋とか、行けないね」
「あ、うん。苦手」
 家族と一緒に行っても、ずっとふうふうしていて、食べ始める頃には他のメンバーは食べ終わっているのがオチなのだ。
 そう言うと、神崎くんは喉の奥でくつくつ笑った。耳ざわりのいい笑い声が隣で聞こえて、気分がいい。
 ーーと思っていたら、
「かわいい」
「どわっ」
 不意打ちすぎて、私は箸でつかみ上げていたたこ焼きを取り落とした。ああ!もったいない。もったいなさすぎるが、パックに入った方は死守したのでよしとしよう。被害は最小限に食い止めた。
 にらみつけてやろうと思って神崎くんの方をうかがったが、穏やかな目がそこにあるのに気づくとそちらを向くこともできなかった。顔が赤くなってる自覚はあるが、隠れようもない。目を反らしたまま、冷ますためにたこ焼きの一つをお箸で割る。
「どうせお子ちゃまですよ」
「そうじゃなくて」
 神崎くんがずいぶんご機嫌なのは、よくわかった。わかったから余計に、混乱してしまう。かわいい、なんて、同世代の男の子から言われたことあったっけ。ない。ないと断言できる。じゃあ今のは空耳?いやーーていうか、中学生過ぎてから、親からもかわいいなんて言われてないぞ。
「なんか」
 私はしばらく息を吹きかけて冷ましたたこ焼きをようやく一つ口に含み。咀嚼してから言った。
「神崎くん、今日テンション高い」
 神崎くんは一度目を見開いてから、そのアーモンド型の目を弓型に細めた。
「うん、そうかも」
「そんなに、ファントム終わってホッとしてるんだ」
 私が言うと、神崎くんは笑った。
「--うん、そうかもね」

 そうして、とりあえず無事、文化祭は幕を閉じたのだった。
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