10 / 32
2章 神崎くんは残念なイケメン
10 大学2年、10月
しおりを挟む
10月に入ったとはいえ、上旬の日中は半袖で過ごせるほどの陽気だ。活動のある金曜、まだ全体練習には早い時間だが、私たちは講義もないのでサークル棟に集まって過ごしていた。
「あっ、早紀、それ新発売のやつ?」
早紀が持っていたペットボトルを見て、私はウキウキと声をかける。新発売のノンシュガーミルクティ。早紀はうん、と微笑んだ。
「美味しい?気になってたんだ」
「うん。一口いる?」
「いいの?ありがとー」
私は差し出されたペットボトルを受け取ると、一口含んだ。ごくりと飲み込み、首をかしげる。
「あれ。でもやっぱり甘いんだね」
早紀が笑った。
「香子ちゃん、甘くないお茶好きだもんね。やっぱり少し甘味料入ってるみたい」
「そっかー。砂糖が入ってないだけか」
そんな会話をしている横で、神崎くんが机に突っ伏した。
「……俺、早紀ちゃんになりたい」
「お前それ変態の発言だぞ」
相ちゃんが呆れて言っているが、私は気にしないことにする。早紀の隣に座ったサリーが、嬉しそうに私にスプーンを差し出しながら言った。
「香子、これ期間限定のやつ。美味しいよー」
その手には、ちょっとお高いカップアイス。サリーのお気に入りで、冬でもかかさず食べるくらいだ。期間限定フレバーも毎年制覇している。
「わーい」
私は素直に喜んで、差し出されたスプーンを咥えた。乗っていたアイスが口の中で溶ける。
「ほんと、美味しい。今日暑いからアイスいいね」
「でしょでしょー」
サリーが嬉しそうに言って、自分も一口食べる。神崎くんの方から、ゴン、と硬いものが机にぶつかる音がした。
「……サリーちゃんでもいい」
「落ち着け、ざっきー」
机に頭をぶつけたままの神崎くんを、サリーがニヤリとしながら見やった。
合宿以後、少し距離が縮んだかと思われた神崎くんと私の関係は、こんな調子でなんだかおかしなものになってしまったのだった。いくら私を絶滅危惧種、もとい、希少動物扱いしているからって、言動がおかしすぎてやっぱり理解できない。結局神崎くんは私の理解の範疇を超えた存在なのかもしれないーーなんて、ちょっと諦め始めている。
講義がない部員は早めに集まって来るのだが、多くの1年生は必修科目の枠に当たっているらしく、今集まっているのはわれわれ2年の一部だけだ。
「俺、この前の合宿でようやく気づいたんだけどさ」
神崎くんが急に話し出して、男子の目がそちらに向いた。
「バスパートって、テノール以外のパートと一緒に練習するのって、ほとんどないよね」
「まあそうだな」
相ちゃんが頷く。
「というか、ソプラノと合わせることってないよね」
「……まあそうだな」
「ほとんど無意味だからな」
相ちゃんは苦り切った顔をして、ケイケイがあっさり言い放った。
ソプラノとテノールは主旋律の関係で曲によっては一緒に練習することもあるが、バスはそういうこともない。
「そうだよねー」
神崎くんは表情の伺えない顔のまま、静かに自分をバスパートに引き込んだイオンを見つめた。
「えっ、何、何その目は」
「いや、別に」
神崎くんは口元だけで笑って見せる。ずいぶん器用なことをするもんだと私は内心で感心した。
「長身なイケメンに見つめられると、小心な俺は身動きできないんだけど!」
「おぉ、なかなかうまい。座布団一枚」
イオンの言葉に幸弘がぽんと手を叩いた。
「ソプラノに仲良くなりたい子がいるの?」
早紀のことだろうか。1年のゆかりちゃんのことだろうか。
「だったら、練習に関係なく話しかければいいのに。誰も嫌がる子いないよ」
私が言うと、その場に複数の深いため息が満ちた。私を含めた半数ほどはえっ、何?という反応だが、その中でサリーが声を抑えて震えている。何あの爆笑っぷり。
「香子ちゃん」
早紀が困ったような顔で私に呼びかけ、神崎くんを見て、やっぱり困ったような顔のままうつむくと、小さく、何でもない、と言った。え、何、早紀も何か知ってるの?どちらかというとそういうのに疎いはずの早紀が?
早紀に聞こうと口を開きかけたとき、
「こんにちはぁ」
1年の柏原ゆかりちゃんと鈴木香奈子ちゃんが現れた。
「あれ、ざっきー先輩、なんか表情暗いですよ。大丈夫ですか?」
「いや、何でもない。たっちゃん、確認したいとこあるからパート練しよう」
神崎くんがそう言って立ち上がり、私たちも話を切り上げて練習に取り組むことにした。
「私、大学入って、この名前でよかったーって思いました」
パート練習の休憩時間、私と早紀、サリーで話しているところに、香奈ちゃんが笑って話しかけてきた。
「ナニナニ子、って、なんか古めかしくてダサいなーって思ってたんですけど、香子先輩いたから得しちゃった」
「ダサいって思うの、分かる。でもどういうこと?」
私が問うと、香奈ちゃんは声を潜め、他の1年に聞こえないトーンで言う。
「だって、私だけなんですよ。ざっきー先輩から苗字呼びされてない1年女子って」
そう言って、あっけらかんと笑う。
「香奈ちゃん、神崎くんのこと気になってるの?」
「えー、違いますよー。ざっきー先輩は鑑賞用っていうか。でも、カッコイイから呼ばれるとテンション上がるじゃないですか。声もいいし」
確かに、神崎くんの声は、少し低めで女性好みだ。
「それに、完全負け決定ですもん。コッコ先輩には」
……は?何でそこで私?
負け……って、拳で戦うとかそういう話だろうか。確かに私は普通の女の子より腕っ節が強い自信はある。
あ、でも多分サリーには負ける。あの子は空手の有段者だ。
首を傾げる私を見て取って、香奈ちゃんも首を傾げた。
「え、だって、ざっきー先輩に苗字呼びされてる2年生って、コッコ先輩だけじゃないですか」
「そうだけど……それが何か?」
それはあれだよ、ニワトリになっちゃうからだよ。心中で思って笑いをこらえる。
「大事に想いすぎてて近づけない、って感じかなって」
少女マンガの読みすぎですかねー、と香奈ちゃんが笑う横で、どこからか聞いていたらしい同じく1年のゆかりちゃんが笑って言った。
「そうだよー、大学生にもなってそんなのないって」
ね、コッコ先輩。と私を見る目が、なんだか妙に冷たく感じて、
「うん。そう思うよ」
と、無理に笑顔を作ったものの、なんだか嫌な気分が胸に残ったのだった。
「ね、コッコ。大丈夫?」
休憩後はアルトと合同の女声パート練習だった。
えみりんに言われて、私は首を傾げる。
「なんかぼんやりしてたから。宣戦布告でもされた?」
「宣戦布告?」
ずいぶん不穏な言葉を言うものだと思っていたら、ちらっとゆかりちゃんの方を見たので、ああ、と思う。
そういえば、この前の合宿で言っていたっけ。ゆかりんがそろそろ動き出しそうとか何とか。
「なんで?私には関係ないことでしょ」
そうーー誰が誰に近づこうとしたって、私には関係のないことだ。
幸弘に想いを伝えることもせず、むしろ恋路を応援しているような私には。
歯に衣着せず、男子に恐れられるような私には。
「そうかなぁ」
えみりんはひょいと肩をすくめて見せた。小柄な肩がもっと小さく華奢に見えて、女の私でも、ああかわいいなぁと思ってしまう。
こういう華奢さや、早紀みたいな柔らかさ、女の子らしさが羨ましい。
ーー少しでもこういう要素があったら、私ももっと自信が持てたのかなぁ。
ふと思った。目を上げると、ゆかりちゃんと目が合う。にこっと微笑んだ顔はとてもかわいかったけれど、やっぱり目が笑っていないように見える。負けませんよーー確かに、そういう風に言っているようだと思えば頷ける目だけれど、私には何のことだかさっぱりだ。私が彼女に勝てるような要素はーー口うるささと腕力?うん、それなら勝てそう。
そんなことしか思えない自分が情けなくも感じて、私は思わず苦笑した。
「コッコ、ちょっとだけお茶つきあってよ」
「え?--うん、いいけど」
サークルが終わる20時、えみりんから声をかけられて私は驚いた。
「二人で?」
「うん。嫌?」
「別にいいけど」
今までえみりんと二人で過ごしたことなどない。仲が悪いわけではないが、大学が違うし、性質も違うので、当たり障りのない距離感以上に近づいたことがないのだ。
あまりの意外な展開に驚いているのは私だけではなく、サリーと早紀も顔を見合わせていた。
「よし。じゃ、お疲れさまでしたー」
ぐいっと腕を引っ張られて連行されるように部室を去る。コッコ先輩いいなー変わりてー、と1年男子がぼやく声を背に聞きながら、私は大人しく従ったのだった。
連行されたのは大学を最寄り駅から少し離れる方向に行った通りにあるカフェだった。えみりんはカフェオレを、私はアイスコーヒーを頼み、外が見える窓越しのカウンターに並んで腰かける。
「……どうかしたの?」
一応、副部長でもあるんだし、もしかしたら何か相談事かもしれないと思った私は、躊躇いながら切り出した。
えみりんは私の目をじっと見返してきて、静かに嘆息する。
「コッコって、化粧っけないよね」
ぐさり。女子力の低さを指摘されたように感じてちょっと傷つく。
「……うん、まあね」
笑顔がひきつるのを感じた。
「服装のセンスは悪くないと思うけど、ほとんどコンタクトもつけないし」
普段眼鏡をしている私がコンタクトをつけるのは、照明が反射して見えにくくなる舞台に上がるときや、眼鏡が邪魔になる作業があるとき。あとは、サングラスをかけたいほど日差しが強いときーーつまり、他者からの好印象を期待したものではない。ちなみに、黒いサングラスをかけたときにみんなに言われたのは、某SF映画みたい、というコメントで、似合わないと言われたわけではないのでよしとしようと思ったことを覚えている。
「あのぅ……」
一体どういったお話でしょう、と言いかけたところで、店員さんが飲み物を運んできてくれた。
二人とも黙って店員さんの手つきを見守り、お礼を言って立ち去るのを待つ。
「眼鏡外した方がかわいいのに」
かわいい?
「何微妙な顔してるの?」
えみりんが眉を寄せて私の顔をうかがい見た。
「いや……そういう、褒められるのに慣れてなくて」
「ああ、そういうこと」
えみりんは納得したようだった。
「かわいい、って、あんまり言われたことないんだ」
「うーん、そうだね」
私は記憶を探っていく。
「褒められるとしてもーーかっこいいとか、頼りになるとか、しっかりしてるとか。逆に、かわいげがないとか、怖いとか、女のくせにとか、そういう方が多いかな。男らしいとか言われたこともあるし」
なかなかに散々な記憶がよみがえって、思わず苦笑いする。なんて残念な思春期。
「自信、ない?」
えみりんは外を歩く人を見ている。さすがに日が暮れてくると、軽いコートを身に着けた人ばかりだった。
「自信、かぁ。かわいいって思われる自信はないかなぁ」
自分で自分を守れる自信はある。自分ひとりならどこでも生き抜けると思う。でも、人に守ってもらえるような存在になることについては、考えたこともなかった。
「えみりんみたいに、かわいいのは、憧れるよ。--私みたいに努力してない人に言われても苛立たしいかもしれないけど」
えみりんが、自分の魅力を引き出すために努力をしているのであろうことは、私にも分かっている。それをある意味女子力というのかもしれない。私が通う女子大はほとんどの生徒が飾り気ないので、そういうところで手を抜いてもあまり悪目立ちしないのだ。
男子から大人気の早紀だって、ほとんど化粧していない。多分あんまり興味もないだろう。彼女は中高一貫校出身で10年間女子校なのだが、雰囲気や顔つきからお嬢様然としたオーラが漂っていて、化粧よりもそういう雰囲気の方が彼女を引き立たせている。
「利用できるもんは、利用すればいいのよ」
嘆息まじりに、えみりんは言った。
「電車に乗れば、痴漢に遭う。痴漢に遭わないためには、男子と仲良く話してればいい。そうやって少しずつ知恵をつけていくの。私にとっては身を守る手段の一つだよ」
電車で痴漢に遭ったことなどないのでわからない私は、ふうん、とあいまいにうなずく。痴漢に遭うってことは、やっぱりかわいいからなんじゃないのか、と思ったりもするが、
「言っとくけどね。かわいいから痴漢に遭うんじゃないのよ。こいつなら俺より弱そうだ、泣き寝入りしそうな女だって目をつけられてるだけなんだから。まったく、腹が立っちゃう」
思考を読まれたようで私は思わず黙り込む。
「時には女を武器にしてもいいと思うの。ていうか、そうしなくちゃ乗り越えられないところだってあるんだもん。コッコはそういうとこ、あまりになさすぎる。っていうか、女だって自覚、ちゃんとある?」
時々ないかもしれない。とは言わずに、目を反らす。
「あー、逃げた。やっぱり。あなたはちゃんと女の子なんです。自分がどう思ってたって、男子から見たらそうなの。それ、忘れない方がいいよ。忘れると、危ない目にだってあうし、チャンスだって逃しちゃうよ」
八代先輩の家での出来事が脳裏をよぎった。危ない目ーーに、あいかけてはいるんだな、一応。
「……とりあえず、えみりんが私のことを心配してくれているのは、分かった。ありがとう」
私は頭を下げて、改めてえみりんの顔を見た。
「でも、どうして急に?わざわざお茶に誘ってくれてまで」
えみりんは深々と嘆息した。ちょっと唇を尖らせて、また外を見る。そのすねた横顔が、いつも以上に幼く見えてかわいかった。
「ミーハーな気持ちもあったけど、惹かれたのはそれだけじゃなかったから」
誰に、とは言わない。けれど、たぶん神崎くんだろう、と思った。
「……だから、なんで神崎くんと私の女子力が関係するの?」
「それは自分で考えなさい!」
えみりんがカフェオレをぐいっと飲み干し、帰るよ!駅まで一緒に行こう!と鋭く言ったので、私はあわてて残ったコーヒーを飲み干した。
外に出ると、街頭で星明りが見えない中でも、月が輝いている。
吹く風は冷たく、思わず自分の身体を抱きしめた。
鼻息荒いえみりんの隣を、私はなんだかくすぐったいような気持ちになりながら歩いていた。
今までなんとなく近づきがたく感じていた彼女が、本当にただの同世代の女子らしく見えて、ちょっと嬉しかった。
「あっ、早紀、それ新発売のやつ?」
早紀が持っていたペットボトルを見て、私はウキウキと声をかける。新発売のノンシュガーミルクティ。早紀はうん、と微笑んだ。
「美味しい?気になってたんだ」
「うん。一口いる?」
「いいの?ありがとー」
私は差し出されたペットボトルを受け取ると、一口含んだ。ごくりと飲み込み、首をかしげる。
「あれ。でもやっぱり甘いんだね」
早紀が笑った。
「香子ちゃん、甘くないお茶好きだもんね。やっぱり少し甘味料入ってるみたい」
「そっかー。砂糖が入ってないだけか」
そんな会話をしている横で、神崎くんが机に突っ伏した。
「……俺、早紀ちゃんになりたい」
「お前それ変態の発言だぞ」
相ちゃんが呆れて言っているが、私は気にしないことにする。早紀の隣に座ったサリーが、嬉しそうに私にスプーンを差し出しながら言った。
「香子、これ期間限定のやつ。美味しいよー」
その手には、ちょっとお高いカップアイス。サリーのお気に入りで、冬でもかかさず食べるくらいだ。期間限定フレバーも毎年制覇している。
「わーい」
私は素直に喜んで、差し出されたスプーンを咥えた。乗っていたアイスが口の中で溶ける。
「ほんと、美味しい。今日暑いからアイスいいね」
「でしょでしょー」
サリーが嬉しそうに言って、自分も一口食べる。神崎くんの方から、ゴン、と硬いものが机にぶつかる音がした。
「……サリーちゃんでもいい」
「落ち着け、ざっきー」
机に頭をぶつけたままの神崎くんを、サリーがニヤリとしながら見やった。
合宿以後、少し距離が縮んだかと思われた神崎くんと私の関係は、こんな調子でなんだかおかしなものになってしまったのだった。いくら私を絶滅危惧種、もとい、希少動物扱いしているからって、言動がおかしすぎてやっぱり理解できない。結局神崎くんは私の理解の範疇を超えた存在なのかもしれないーーなんて、ちょっと諦め始めている。
講義がない部員は早めに集まって来るのだが、多くの1年生は必修科目の枠に当たっているらしく、今集まっているのはわれわれ2年の一部だけだ。
「俺、この前の合宿でようやく気づいたんだけどさ」
神崎くんが急に話し出して、男子の目がそちらに向いた。
「バスパートって、テノール以外のパートと一緒に練習するのって、ほとんどないよね」
「まあそうだな」
相ちゃんが頷く。
「というか、ソプラノと合わせることってないよね」
「……まあそうだな」
「ほとんど無意味だからな」
相ちゃんは苦り切った顔をして、ケイケイがあっさり言い放った。
ソプラノとテノールは主旋律の関係で曲によっては一緒に練習することもあるが、バスはそういうこともない。
「そうだよねー」
神崎くんは表情の伺えない顔のまま、静かに自分をバスパートに引き込んだイオンを見つめた。
「えっ、何、何その目は」
「いや、別に」
神崎くんは口元だけで笑って見せる。ずいぶん器用なことをするもんだと私は内心で感心した。
「長身なイケメンに見つめられると、小心な俺は身動きできないんだけど!」
「おぉ、なかなかうまい。座布団一枚」
イオンの言葉に幸弘がぽんと手を叩いた。
「ソプラノに仲良くなりたい子がいるの?」
早紀のことだろうか。1年のゆかりちゃんのことだろうか。
「だったら、練習に関係なく話しかければいいのに。誰も嫌がる子いないよ」
私が言うと、その場に複数の深いため息が満ちた。私を含めた半数ほどはえっ、何?という反応だが、その中でサリーが声を抑えて震えている。何あの爆笑っぷり。
「香子ちゃん」
早紀が困ったような顔で私に呼びかけ、神崎くんを見て、やっぱり困ったような顔のままうつむくと、小さく、何でもない、と言った。え、何、早紀も何か知ってるの?どちらかというとそういうのに疎いはずの早紀が?
早紀に聞こうと口を開きかけたとき、
「こんにちはぁ」
1年の柏原ゆかりちゃんと鈴木香奈子ちゃんが現れた。
「あれ、ざっきー先輩、なんか表情暗いですよ。大丈夫ですか?」
「いや、何でもない。たっちゃん、確認したいとこあるからパート練しよう」
神崎くんがそう言って立ち上がり、私たちも話を切り上げて練習に取り組むことにした。
「私、大学入って、この名前でよかったーって思いました」
パート練習の休憩時間、私と早紀、サリーで話しているところに、香奈ちゃんが笑って話しかけてきた。
「ナニナニ子、って、なんか古めかしくてダサいなーって思ってたんですけど、香子先輩いたから得しちゃった」
「ダサいって思うの、分かる。でもどういうこと?」
私が問うと、香奈ちゃんは声を潜め、他の1年に聞こえないトーンで言う。
「だって、私だけなんですよ。ざっきー先輩から苗字呼びされてない1年女子って」
そう言って、あっけらかんと笑う。
「香奈ちゃん、神崎くんのこと気になってるの?」
「えー、違いますよー。ざっきー先輩は鑑賞用っていうか。でも、カッコイイから呼ばれるとテンション上がるじゃないですか。声もいいし」
確かに、神崎くんの声は、少し低めで女性好みだ。
「それに、完全負け決定ですもん。コッコ先輩には」
……は?何でそこで私?
負け……って、拳で戦うとかそういう話だろうか。確かに私は普通の女の子より腕っ節が強い自信はある。
あ、でも多分サリーには負ける。あの子は空手の有段者だ。
首を傾げる私を見て取って、香奈ちゃんも首を傾げた。
「え、だって、ざっきー先輩に苗字呼びされてる2年生って、コッコ先輩だけじゃないですか」
「そうだけど……それが何か?」
それはあれだよ、ニワトリになっちゃうからだよ。心中で思って笑いをこらえる。
「大事に想いすぎてて近づけない、って感じかなって」
少女マンガの読みすぎですかねー、と香奈ちゃんが笑う横で、どこからか聞いていたらしい同じく1年のゆかりちゃんが笑って言った。
「そうだよー、大学生にもなってそんなのないって」
ね、コッコ先輩。と私を見る目が、なんだか妙に冷たく感じて、
「うん。そう思うよ」
と、無理に笑顔を作ったものの、なんだか嫌な気分が胸に残ったのだった。
「ね、コッコ。大丈夫?」
休憩後はアルトと合同の女声パート練習だった。
えみりんに言われて、私は首を傾げる。
「なんかぼんやりしてたから。宣戦布告でもされた?」
「宣戦布告?」
ずいぶん不穏な言葉を言うものだと思っていたら、ちらっとゆかりちゃんの方を見たので、ああ、と思う。
そういえば、この前の合宿で言っていたっけ。ゆかりんがそろそろ動き出しそうとか何とか。
「なんで?私には関係ないことでしょ」
そうーー誰が誰に近づこうとしたって、私には関係のないことだ。
幸弘に想いを伝えることもせず、むしろ恋路を応援しているような私には。
歯に衣着せず、男子に恐れられるような私には。
「そうかなぁ」
えみりんはひょいと肩をすくめて見せた。小柄な肩がもっと小さく華奢に見えて、女の私でも、ああかわいいなぁと思ってしまう。
こういう華奢さや、早紀みたいな柔らかさ、女の子らしさが羨ましい。
ーー少しでもこういう要素があったら、私ももっと自信が持てたのかなぁ。
ふと思った。目を上げると、ゆかりちゃんと目が合う。にこっと微笑んだ顔はとてもかわいかったけれど、やっぱり目が笑っていないように見える。負けませんよーー確かに、そういう風に言っているようだと思えば頷ける目だけれど、私には何のことだかさっぱりだ。私が彼女に勝てるような要素はーー口うるささと腕力?うん、それなら勝てそう。
そんなことしか思えない自分が情けなくも感じて、私は思わず苦笑した。
「コッコ、ちょっとだけお茶つきあってよ」
「え?--うん、いいけど」
サークルが終わる20時、えみりんから声をかけられて私は驚いた。
「二人で?」
「うん。嫌?」
「別にいいけど」
今までえみりんと二人で過ごしたことなどない。仲が悪いわけではないが、大学が違うし、性質も違うので、当たり障りのない距離感以上に近づいたことがないのだ。
あまりの意外な展開に驚いているのは私だけではなく、サリーと早紀も顔を見合わせていた。
「よし。じゃ、お疲れさまでしたー」
ぐいっと腕を引っ張られて連行されるように部室を去る。コッコ先輩いいなー変わりてー、と1年男子がぼやく声を背に聞きながら、私は大人しく従ったのだった。
連行されたのは大学を最寄り駅から少し離れる方向に行った通りにあるカフェだった。えみりんはカフェオレを、私はアイスコーヒーを頼み、外が見える窓越しのカウンターに並んで腰かける。
「……どうかしたの?」
一応、副部長でもあるんだし、もしかしたら何か相談事かもしれないと思った私は、躊躇いながら切り出した。
えみりんは私の目をじっと見返してきて、静かに嘆息する。
「コッコって、化粧っけないよね」
ぐさり。女子力の低さを指摘されたように感じてちょっと傷つく。
「……うん、まあね」
笑顔がひきつるのを感じた。
「服装のセンスは悪くないと思うけど、ほとんどコンタクトもつけないし」
普段眼鏡をしている私がコンタクトをつけるのは、照明が反射して見えにくくなる舞台に上がるときや、眼鏡が邪魔になる作業があるとき。あとは、サングラスをかけたいほど日差しが強いときーーつまり、他者からの好印象を期待したものではない。ちなみに、黒いサングラスをかけたときにみんなに言われたのは、某SF映画みたい、というコメントで、似合わないと言われたわけではないのでよしとしようと思ったことを覚えている。
「あのぅ……」
一体どういったお話でしょう、と言いかけたところで、店員さんが飲み物を運んできてくれた。
二人とも黙って店員さんの手つきを見守り、お礼を言って立ち去るのを待つ。
「眼鏡外した方がかわいいのに」
かわいい?
「何微妙な顔してるの?」
えみりんが眉を寄せて私の顔をうかがい見た。
「いや……そういう、褒められるのに慣れてなくて」
「ああ、そういうこと」
えみりんは納得したようだった。
「かわいい、って、あんまり言われたことないんだ」
「うーん、そうだね」
私は記憶を探っていく。
「褒められるとしてもーーかっこいいとか、頼りになるとか、しっかりしてるとか。逆に、かわいげがないとか、怖いとか、女のくせにとか、そういう方が多いかな。男らしいとか言われたこともあるし」
なかなかに散々な記憶がよみがえって、思わず苦笑いする。なんて残念な思春期。
「自信、ない?」
えみりんは外を歩く人を見ている。さすがに日が暮れてくると、軽いコートを身に着けた人ばかりだった。
「自信、かぁ。かわいいって思われる自信はないかなぁ」
自分で自分を守れる自信はある。自分ひとりならどこでも生き抜けると思う。でも、人に守ってもらえるような存在になることについては、考えたこともなかった。
「えみりんみたいに、かわいいのは、憧れるよ。--私みたいに努力してない人に言われても苛立たしいかもしれないけど」
えみりんが、自分の魅力を引き出すために努力をしているのであろうことは、私にも分かっている。それをある意味女子力というのかもしれない。私が通う女子大はほとんどの生徒が飾り気ないので、そういうところで手を抜いてもあまり悪目立ちしないのだ。
男子から大人気の早紀だって、ほとんど化粧していない。多分あんまり興味もないだろう。彼女は中高一貫校出身で10年間女子校なのだが、雰囲気や顔つきからお嬢様然としたオーラが漂っていて、化粧よりもそういう雰囲気の方が彼女を引き立たせている。
「利用できるもんは、利用すればいいのよ」
嘆息まじりに、えみりんは言った。
「電車に乗れば、痴漢に遭う。痴漢に遭わないためには、男子と仲良く話してればいい。そうやって少しずつ知恵をつけていくの。私にとっては身を守る手段の一つだよ」
電車で痴漢に遭ったことなどないのでわからない私は、ふうん、とあいまいにうなずく。痴漢に遭うってことは、やっぱりかわいいからなんじゃないのか、と思ったりもするが、
「言っとくけどね。かわいいから痴漢に遭うんじゃないのよ。こいつなら俺より弱そうだ、泣き寝入りしそうな女だって目をつけられてるだけなんだから。まったく、腹が立っちゃう」
思考を読まれたようで私は思わず黙り込む。
「時には女を武器にしてもいいと思うの。ていうか、そうしなくちゃ乗り越えられないところだってあるんだもん。コッコはそういうとこ、あまりになさすぎる。っていうか、女だって自覚、ちゃんとある?」
時々ないかもしれない。とは言わずに、目を反らす。
「あー、逃げた。やっぱり。あなたはちゃんと女の子なんです。自分がどう思ってたって、男子から見たらそうなの。それ、忘れない方がいいよ。忘れると、危ない目にだってあうし、チャンスだって逃しちゃうよ」
八代先輩の家での出来事が脳裏をよぎった。危ない目ーーに、あいかけてはいるんだな、一応。
「……とりあえず、えみりんが私のことを心配してくれているのは、分かった。ありがとう」
私は頭を下げて、改めてえみりんの顔を見た。
「でも、どうして急に?わざわざお茶に誘ってくれてまで」
えみりんは深々と嘆息した。ちょっと唇を尖らせて、また外を見る。そのすねた横顔が、いつも以上に幼く見えてかわいかった。
「ミーハーな気持ちもあったけど、惹かれたのはそれだけじゃなかったから」
誰に、とは言わない。けれど、たぶん神崎くんだろう、と思った。
「……だから、なんで神崎くんと私の女子力が関係するの?」
「それは自分で考えなさい!」
えみりんがカフェオレをぐいっと飲み干し、帰るよ!駅まで一緒に行こう!と鋭く言ったので、私はあわてて残ったコーヒーを飲み干した。
外に出ると、街頭で星明りが見えない中でも、月が輝いている。
吹く風は冷たく、思わず自分の身体を抱きしめた。
鼻息荒いえみりんの隣を、私はなんだかくすぐったいような気持ちになりながら歩いていた。
今までなんとなく近づきがたく感じていた彼女が、本当にただの同世代の女子らしく見えて、ちょっと嬉しかった。
0
お気に入りに追加
219
あなたにおすすめの小説

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

【完結済】姿を偽った黒髪令嬢は、女嫌いな公爵様のお世話係をしているうちに溺愛されていたみたいです
鳴宮野々花@軍神騎士団長1月15日発売
恋愛
王国の片田舎にある小さな町から、八歳の時に母方の縁戚であるエヴェリー伯爵家に引き取られたミシェル。彼女は伯爵一家に疎まれ、美しい髪を黒く染めて使用人として生活するよう強いられた。以来エヴェリー一家に虐げられて育つ。
十年後。ミシェルは同い年でエヴェリー伯爵家の一人娘であるパドマの婚約者に嵌められ、伯爵家を身一つで追い出されることに。ボロボロの格好で人気のない場所を彷徨っていたミシェルは、空腹のあまりふらつき倒れそうになる。
そこへ馬で通りがかった男性と、危うくぶつかりそうになり──────
※いつもの独自の世界のゆる設定なお話です。何もかもファンタジーです。よろしくお願いします。
※この作品はカクヨム、小説家になろう、ベリーズカフェにも投稿しています。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
踏み台令嬢はへこたれない
IchikoMiyagi
恋愛
「婚約破棄してくれ!」
公爵令嬢のメルティアーラは婚約者からの何度目かの申し出を受けていたーー。
春、学院に入学しいつしかついたあだ名は踏み台令嬢。……幸せを運んでいますのに、その名付けはあんまりでは……。
そう思いつつも学院生活を満喫していたら、噂を聞きつけた第三王子がチラチラこっちを見ている。しかもうっかり婚約者になってしまったわ……?!?
これは無自覚に他人の踏み台になって引っ張り上げる主人公が、たまにしょげては踏ん張りながらやっぱり周りを幸せにしたりやっと自分も幸せになったりするかもしれない物語。
「わたくし、甘い砂を吐くのには慣れておりますの」
ーー踏み台令嬢は今日も誰かを幸せにする。
なろうでも投稿しています。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる