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店を出ると、外はすっかり涼しくなっていた。
日中に感じられる夏の名残は、日が落ちるともう陰を潜める。
橘くんと連れ立って駅へ向かいながら、僕はわずかに、もの足りなさを感じていた。
改札をくぐると、橘くんは自分の路線を指し示した。
「じゃあ、俺、こっちなんで」
「そっか。都内に住んでるんだっけ」
「はい。いつでも遊びに来てください」
橘くんはそう言ったけれど、それが冗談だとは表情から分かった。
きっともう、彼と会うことはないだろう。
お互いどこかでそう思っているのに、いつかまた、と別れる。
そんな嘘なら、悪くない。
僕も笑ってうなずいた。
それじゃあ、と足を踏み出したとき、橘くんが立ち止まっていることに気づいた。
大人になった橘くんの微笑みが、穏やかに僕を見下ろしている。
「お幸せに」
一言。
はっきりと聞こえる、優しい声。
スマートに挙げられた手。
絵に描いたような立ち姿。
まばたきをシャッター代わりに、僕はその姿を、まぶたの裏に焼き付ける。
「うん。ありがと」
笑って、答える。
彼の記憶にも、僕の笑顔が残ることを祈って。
もう、そこには強がりも後悔もない。
でも。
「橘くん」
呼びかけると、橘くんは不思議そうに僕を見つめた。
素になった彼に、僕は笑って続ける。
甘酸っぱい何かが、喉元にこみ上げていた。
「――君に、出会えてよかった」
すっと出てきた言葉は、彼に一番、言いたいことだった。
そうだ。僕はこれを言うために、今日彼と会ったんだ――そう思った
橘くんは一瞬、目を見開いた後、くしゃりと破顔した。
高校時代も見たような、耐えかねたような笑顔。
「……先輩も、結構な人たらしですね」
言い残すと、ひらりと身を翻す。
スーツをまとった長身が、人込みの中へと入って行った。
それでも、その背中が雑踏に溶け込むことはない。
周りの人がときどき、彼を振り向く。何も知らない人は誰もが、羨望の眼差しで彼を見る。
彼も、それに気づいている。そして、受け止めている。彼らが彼を、別世界の存在として扱うことを。
それが孤独を受け入れた背中なのだと、今の僕は知っている。
「……ありがと」
着実に僕から離れていく姿に、小さく呟く。
彼は彼だった。あのときも、今も、変わらずに彼でいてくれた。
彼は僕の青春だった。そして再会した今でもそのまま、僕の中で輝き続けてくれる。
そのことが嬉しくて、同時にどこか、酸っぱい。
お幸せに。
橘くんの声が、言葉が、耳の奥でリフレインしている。
橘くんも、幸せにね。
口にしたかったけれど、ためらった言葉を、心の中で祈るように呟いた。
橘くんは自分の路線のホームへと姿を消した。
僕も、自分の乗る電車のホームへと歩き出す。
一瞬だけ重なり合った彼と僕の道は、きっとこの先も重なることはないだろう。
それでもいい。それでも、彼の存在は、きっと僕の中に生き続けている。――もしかしたら、たぶん、彼の中にも、僕が。
そこには少しだけ、願望が混ざっているけれど。
気恥ずかしさに苦笑が浮かんだ。荷物を持ち直して、大股で階段を昇り始める。
黒い革靴が、堅い音を立てる。見ると、つま先が少し擦れていた。そろそろ、買い換え時かもしれない。
『まもなく……○番線に……』
階段の上から、電車の訪れを知らせるアナウンスが降ってきた。
顔を上げれば、ホームはもうすぐそこだ。
天井近くに下がった電光掲示板が、都心の外れにある駅名を表示している。
その電車の行く先が、今の僕が帰る先だ。
ホームに走ってきた電車が、僕の髪を柔らかく撫で上げる。
口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
Fin.
日中に感じられる夏の名残は、日が落ちるともう陰を潜める。
橘くんと連れ立って駅へ向かいながら、僕はわずかに、もの足りなさを感じていた。
改札をくぐると、橘くんは自分の路線を指し示した。
「じゃあ、俺、こっちなんで」
「そっか。都内に住んでるんだっけ」
「はい。いつでも遊びに来てください」
橘くんはそう言ったけれど、それが冗談だとは表情から分かった。
きっともう、彼と会うことはないだろう。
お互いどこかでそう思っているのに、いつかまた、と別れる。
そんな嘘なら、悪くない。
僕も笑ってうなずいた。
それじゃあ、と足を踏み出したとき、橘くんが立ち止まっていることに気づいた。
大人になった橘くんの微笑みが、穏やかに僕を見下ろしている。
「お幸せに」
一言。
はっきりと聞こえる、優しい声。
スマートに挙げられた手。
絵に描いたような立ち姿。
まばたきをシャッター代わりに、僕はその姿を、まぶたの裏に焼き付ける。
「うん。ありがと」
笑って、答える。
彼の記憶にも、僕の笑顔が残ることを祈って。
もう、そこには強がりも後悔もない。
でも。
「橘くん」
呼びかけると、橘くんは不思議そうに僕を見つめた。
素になった彼に、僕は笑って続ける。
甘酸っぱい何かが、喉元にこみ上げていた。
「――君に、出会えてよかった」
すっと出てきた言葉は、彼に一番、言いたいことだった。
そうだ。僕はこれを言うために、今日彼と会ったんだ――そう思った
橘くんは一瞬、目を見開いた後、くしゃりと破顔した。
高校時代も見たような、耐えかねたような笑顔。
「……先輩も、結構な人たらしですね」
言い残すと、ひらりと身を翻す。
スーツをまとった長身が、人込みの中へと入って行った。
それでも、その背中が雑踏に溶け込むことはない。
周りの人がときどき、彼を振り向く。何も知らない人は誰もが、羨望の眼差しで彼を見る。
彼も、それに気づいている。そして、受け止めている。彼らが彼を、別世界の存在として扱うことを。
それが孤独を受け入れた背中なのだと、今の僕は知っている。
「……ありがと」
着実に僕から離れていく姿に、小さく呟く。
彼は彼だった。あのときも、今も、変わらずに彼でいてくれた。
彼は僕の青春だった。そして再会した今でもそのまま、僕の中で輝き続けてくれる。
そのことが嬉しくて、同時にどこか、酸っぱい。
お幸せに。
橘くんの声が、言葉が、耳の奥でリフレインしている。
橘くんも、幸せにね。
口にしたかったけれど、ためらった言葉を、心の中で祈るように呟いた。
橘くんは自分の路線のホームへと姿を消した。
僕も、自分の乗る電車のホームへと歩き出す。
一瞬だけ重なり合った彼と僕の道は、きっとこの先も重なることはないだろう。
それでもいい。それでも、彼の存在は、きっと僕の中に生き続けている。――もしかしたら、たぶん、彼の中にも、僕が。
そこには少しだけ、願望が混ざっているけれど。
気恥ずかしさに苦笑が浮かんだ。荷物を持ち直して、大股で階段を昇り始める。
黒い革靴が、堅い音を立てる。見ると、つま先が少し擦れていた。そろそろ、買い換え時かもしれない。
『まもなく……○番線に……』
階段の上から、電車の訪れを知らせるアナウンスが降ってきた。
顔を上げれば、ホームはもうすぐそこだ。
天井近くに下がった電光掲示板が、都心の外れにある駅名を表示している。
その電車の行く先が、今の僕が帰る先だ。
ホームに走ってきた電車が、僕の髪を柔らかく撫で上げる。
口元には、自然と笑みが浮かんでいた。
Fin.
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