色づく景色に君がいた

松丹子

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 暖かいウーロン茶が運ばれてきて、僕と橘くんは黙ってそれをすすった。
 温もりが、喉から胃に落ちていく。ふわふわと漂っていた意識が、内側に柔らかく集まってくる。
 ふぅ、とときどき湯飲みに息を吹きかける橘くんの唇を見ながら、僕は不意にこみ上げた気恥ずかしさに目を逸らした。

 橘くんは、覚えているだろうか。
 卒業式のときのあのキスを。

 今、こうして見ていても、彼は魅力的だと思う。僕にとっても、きっと他の誰かにとっても。それこそ、男だって女だって、彼に惹かれるはずだ。
 僕の動揺に気づいたのだろう、橘くんがちらりと目を上げ僕を見る。
 本当に、彼は人の機微に聡すぎて困る。僕は笑ってごまかそうとした。

「あ、いや。なんか、不思議だなって思って」

 明るい声で言うと、橘くんは首を傾げた。「何がです?」と問われて口ごもる。
 いや、あの……と言葉を探して、ごまかしきれない自分に呆れた。
 どうせ、何をつくろっても橘くん相手には意味がない。諦めてひとつ、小さく息を吐き出す。

「その……ファーストキスの相手と……十年後にこうして会って、普通に話してるっていうのが……」
「ぶは」

 言葉の途中で、橘くんが噴き出した。
 気恥ずかしさで顔が熱くなる。馬鹿にされる前にと、慌てて口を開いた。

「そ、そりゃ、橘くんにとっては何でもなかったんだろうけどさ。俺にとっては結構、びっくりしたっていうか……衝撃っていうか……拒否されなくてほっとしたけど、苦しくもあったっていうか……」

 言い訳のつもりが、妙なことを口走っている。
 ああ、もう。情けないにもほどがある。もうすぐ三十にもなろうというのに。結婚を控えた男だっていうのに。キスの話ひとつでうろたえるだなんて。

「それから、そのまま、会えなくなるし……いったいあれは何だったんだろうって、しばらく思ってたりして、それで俺……」

 言葉を続ければ続けるほど、墓穴を掘っているような気がする。橘くんの笑いはまだ引かず、むしろ恥を上塗りしていると気づいて口を閉ざした。
 僕が黙った後も、橘くんはしばらく笑っていた。そしてたっぷり笑いを堪能した後、ふっと意地の悪そうな、でも妙に色気たっぷりな、半ば挑発するような笑顔で僕を見た。

「ねぇ、先輩」
「……なんだよ」
「俺、言ったでしょ。気をつけてるんだって」

 僕はまばたきをした。橘くんはじっと僕を見つめている。

「性別に関係なく、俺は人の目を引くから。勘違いさせないように。気をつけてた。当時だって、俺なりに」

 橘くんが何を言おうとしているのか、僕には分からない。分からないまま、その目に射すくめられて、じっとその顔を見返している。
 吐息がかかるほど目前に、劣化していない――それどころか、ますます精悍になった顔が近づいた。

「――俺だって、嫌いじゃなかったよ」

 静かな声が鼓膜を震わせた瞬間、僕の身体に痺れが走った。目の前にある目は優しいけれど切ない色を孕んでいて、身動きが取れない。
 ふっと、橘くんは笑った。

「……相変わらず可愛いなぁ」

 ぽんと肩を叩かれ、顔が離れる。射抜くような視線が、誰にでも隔たりなく向けられる友好的な視線に変わる。
 ほっとした半面、鼻につんとくるほど切なくなった。心臓の高鳴りに気づいて胸を押さえると、橘くんは笑う。

「もしも本当に縁があれば、また機会もあるだろうと思ってたから。――無駄に悩まずに済むなら、それが一番でしょ」

 僕は口を開いて、閉じた。笑っている橘くんが、どこか泣いているように見えた。
 けれど今の僕にはもう、それを指摘する権利はないのだ。その事実が胸を突いた。ひりついた痛みに変わった切なさを取り繕い、どうにか笑顔を浮かべる。

「……大人だね」
「どうかな」

 橘くんはひょいと肩をすくめて、「傷つくのが怖いだけかも」と笑った。僕は泣きそうになりながら、ゆっくり口を開いた。

「俺……今の彼女と結婚しようと思ってるんだ」

 口にしながら、目には涙が浮かんできた。分かっていたはずなのに、その言葉は、あり得たかもしれないもう一つの将来をばっさりと切り捨てた。

「それはそれは。おめでとうございます」

 橘くんは笑っていた。知っていたんだろうか。知らなかったんだろうか。どちらにしても、察していたのかもしれない。僕が彼に会いたいと連絡したときに。もしくは、僕と数時間、向き合って話している間に。
 僕には橘くんのことが、何も分からないのに。

「橘くんは……まだ、そういう予定ないの?」

 精一杯の強がりのつもりだった。ちょっとだけ、意地悪をしてみたくなったのだ。
 けれど同時に、祈っていた。彼が誰のものにもならないと言ってくれることを。そんな自分のずるさを、僕は今まで知りもしなかった。

「どうでしょうね。妹も兄も結婚したし、妹のとこなんて子どももできたんで。俺は好きにするつもりです」

 そう笑う彼の顔は、晴れ晴れとしていた。僕は思わずほっとする。

「さて、そろそろ行きましょうか」

 言って伝票を手にした橘くんに、僕は慌てた。手を伸ばしたけれど、渡されたのは僕のジャケットだ。

「お祝いですよ。それくらいは、させてください」

 やんわりとした態度だったけれど、そこには有無を言わせぬ響きがあった。僕はうなずくことしかできず、「ごちそうさまです」と小さく言う。少しだけ得意気な笑いを浮かべた橘くんの顔に、珍しく少年のようなあどけなさを見て、また胸が締め付けられた。
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